(2022年12月8日)
81年前の本日早朝、当時臣民とされていた日本国民はNHKの放送によって、日本が新たな大戦争に突入したことを知らされた。同時に、パールハーバー奇襲の戦果の報に喝采した。こうして、国民の大半が、侵略者・侵略軍の共犯者となった。実は、本年2月24日のロシア国民も同様ではなかったか。
1941年12月8日付官報号外に、「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」、通称「開戰の詔勅」が掲載されている。何とも大仰で白々しい「美文」に見えるが、実は典型的な「駄文」である。句点も読点もなく難読字の羅列でもある原文の掲載は無意味なので、「訳文」を掲出しておきたい。
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天の助けるところとして代々受け継がれてきた皇位の継承者である大日本帝国天皇は、忠実で武勇に優れた、我が家来である全国民に告げる。
私・天皇は、米国と英国とに宣戦を布告する。陸海軍将兵は全力を奮って闘え。官僚はその職務に励め。その他の国民も各々その本分を尽くし、一億の心をひとつにして、国家の総力を挙げてこの戦争の目的達成のために努力せよ。
そもそもアジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、代々の願いであって、私も常に心がけてきた。各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。ところが、今や不幸にして、米英両国と争いを開始せざるを得ない事態に至った。誠にやむをえないところであるが、けっして私の本意ではない。
中華民国は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせるに至らしめ、以来4年余を経過している。幸いに国民政府は南京政府に変わった。帝国はこの新政府と誼を結び提携するようになったが、重慶に残存する政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府と、未だ相互にせめぎ合う姿勢を改めない。
米英両国は残存する蒋介石政権を支援して、アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。しかも、味方する国々を誘い、帝国の周辺において軍備を増強して我が国に挑戦し、更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与え、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私・天皇は政府に事態を平和のうちに解決させようと、長い間忍耐してきたが、米英は少しも互譲の精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が続けば、アジアの安定に関する我が帝国の積年の努力はことごとく水の泡となり、帝国の存立もまさに危機に瀕している。ことここに至っては、帝国は今や自存と自衛のため、決然と立ち上がって一切の障害を破砕する以外にない。
祖先神のご加護をいただいた天皇は、その家来たる国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、速やかに禍根をとり除いてアジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の栄光を実現しようとするものである。
裕 仁 印
1941年12月8日
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こんな言い回し。最近、どこかで聞いた憶えはないだろうか。そう、プーチンのウクライナ侵攻の日の演説。あれとそっくりなのだ。ただし、プーチンの演説は長い。そして、さすがに裕仁の「詔書」よりは格段の説得力がある。
どちらも、まずは国民に呼びかける。そして自国の正義と、相手国の非道を延々と訴える。自国は、忍耐に忍耐を重ねてきた。しかし、もうその限界を越えざるを得ない。このままでは、自国の生存が危殆に瀕するからだ。すべての責任は敵側にある。このやむを得ない事情を理解して、国民よともに闘に立ち上がろう。
この言い回し、裕仁とプーチンだけではない。いま大軍拡を進めようとしている、改憲勢力の想定レトリックであるのだ。権力者がこんな言い回しを始めたら、危機は深刻だと思わねばならない。
長文のプーチン演説を抜粋してみる。訳文の出典はNHKである。
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親愛なるロシア国民の皆さん、親愛なる友人の皆さん。
この30年間、私たちが粘り強く忍耐強く、ヨーロッパにおける対等かつ不可分の安全保障の原則について、NATO主要諸国と合意を形成しようと試みてきたことは、広く知られている。私たちからの提案に対して、私たちが常に直面してきたのは、冷笑的な欺まんと嘘、もしくは圧力や恐喝の試みだった。
その間、NATOは、私たちのあらゆる抗議や懸念にもかかわらず、絶えず拡大している。それはロシアの国境のすぐ近くまで迫っている。
なぜ、このようなことが起きているのか。私たちの国益や至極当然な要求に対する、無配慮かつ軽蔑的な態度はどこから来ているのか。
答えは明白。すべては簡単で明瞭だ。
1980年代末、ソビエト連邦は弱体化し、その後、完全に崩壊した。当時、私たちはしばらく自信を喪失し、あっという間に世界のパワーバランスが崩れたのだ。
これにより、従来の条約や協定には、事実上、効力がないという事態になった。
ソビエト連邦の崩壊後、事実上の世界の再分割が始まり、これまで培われてきた国際法の規範が、第二次世界大戦の結果採択され、その結果を定着させてきたものが、みずからを冷戦の勝者であると宣言した者たちにとって邪魔になるようになってきた。
事態は違う方向へと展開し始めた。NATOが1インチも東に拡大しないと我が国に約束したこともそうだ。
繰り返すが、だまされたのだ。
正義と真実はどこにあるのだ?あるのはうそと偽善だけだ。
色々あったものの、2021年12月、私たちは、改めて、アメリカやその同盟諸国と、ヨーロッパの安全保障の原則とNATO不拡大について合意を成立させようと試みた。
すべては無駄だった。
世界覇権を求める者たちは、公然と、平然と、そしてここを強調したいのだが、何の根拠もなく、私たちロシアを敵国と呼ぶ。
確かに彼らは現在、金融、科学技術、軍事において大きな力を有している。
しかし、軍事分野に関しては、現代のロシアは、ソビエトが崩壊し、その国力の大半を失った後の今でも、世界で最大の核保有国の1つだ。
そしてさらに、最新鋭兵器においても一定の優位性を有している。
この点で、我が国への直接攻撃は、どんな潜在的な侵略者に対しても、壊滅と悲惨な結果をもたらすであろうことに、疑いの余地はない。
NATOによるウクライナ領土の軍事開発は受け入れがたい
すでに今、NATOが東に拡大するにつれ、我が国にとって状況は年を追うごとにどんどん悪化し、危険になってきている。
しかも、ここ数日、NATOの指導部は、みずからの軍備のロシア国境への接近を加速させ促進する必要があると明言している。
問題なのは、私たちと隣接する土地に、言っておくが、それは私たちの歴史的領土だ、そこに、私たちに敵対的な「反ロシア」が作られようとしていることだ。
それは、完全に外からのコントロール下に置かれ、NATO諸国の軍によって強化され、最新の武器が次々と供給されている。
私たちの国益に対してだけでなく、我が国家の存在、主権そのものに対する現実の脅威だ。
それこそ、何度も言ってきた、レッドラインなのだ。彼らはそれを超えた。
さらに強調しておくべきことがある。
NATO主要諸国は、みずからの目的を達成するために、ウクライナの極右民族主義者やネオナチをあらゆる面で支援している。
当然、彼らはクリミアに潜り込むだろう。
それこそドンバスと同じように。
戦争を仕掛け、殺すために。
私たちの政治の根底にあるのは、自由、つまり、誰もが自分と自分の子どもたちの未来を自分で決めることのできる選択の自由だ。
そして、今のウクライナの領土に住むすべての人々、希望するすべての人々が、この権利、つまり、選択の権利を行使できるようにすることが重要であると私たちは考えている。
繰り返すが、そのほかに道はなかった。
目的はウクライナの“占領”ではなく、ロシアを守るため
現在起きていることは、ウクライナ国家やウクライナ人の利益を侵害したいという思いによるものではない。
それは、ウクライナを人質にとり、我が国と我が国民に対し利用しようとしている者たちから、ロシア自身を守るためなのだ。
起こりうる流血のすべての責任は、全面的に、完全に、ウクライナの領土を統治する政権の良心にかかっている。
親愛なるロシア国民の皆さん。
力は常に必要だ。どんな時も。
私たちは皆、真の力とは、私たちの側にある正義と真実にこそあるのだということを知っている。
まさに力および戦う意欲こそが独立と主権の基礎であり、その上にこそ私たちの未来、私たちの家、家族、祖国をしっかりと作り上げていくことができる。
親愛なる同胞の皆さん。
自国に献身的なロシア軍の兵士および士官は、プロフェッショナルに勇敢にみずからの義務を果たすだろうと確信している。
あらゆるレベルの政府、経済や金融システムや社会分野の安定に携わる専門家、企業のトップ、ロシア財界全体が、足並みをそろえ効果的に動くであろうことに疑いの念はない。
すべての議会政党、社会勢力が団結し愛国的な立場をとることを期待する。
歴史上常にそうであったように、ロシアの運命は、多民族からなる我が国民の信頼できる手に委ねられている。
あなたたちからの支持と、祖国愛がもたらす無敵の力を信じている。
(2022年12月7日)
11月30日、江沢民が亡くなった。私の心象の中で《尊敬すべき中国》から《野蛮な中国》へ変容したあの時期の、歴史の転換を象徴する人物の一人。この人に対する敬意のもちあわせはないし、弔意もさらさらにない。その点では、安倍晋三と似たり寄ったり。
この人、89年6月4日の天安門事件の後、当時の最高実力者である鄧小平によって党幹部に抜てきされた。その後、国家主席にして中国共産党総書記となり、党中央軍事委員会主席にもなった。昨日(12月6日)、その過去の肩書にふさわしい追悼大会が、天安門広場に接する人民大会堂の大ホールで挙行された。
葬儀委員長となった習近平以下、党や政府、軍など各界の関係者が参列し、《中国の経済発展の礎を築いた偉大な指導者》に最後の別れを告げた。党と政府は「全党、全軍、全国各民族人民に告げる書」を発表し、「崇高な威信を持つ卓越した指導者」と最上級の表現で追悼した。人民日報も「永遠に消えることのない功績を打ち立てた」と称えている。
追悼大会では3分間の黙とうが捧げられた。同時刻、中国全土に警笛や防空警報などのサイレンが鳴らされ、哀悼の意が示された。葬儀委員会は娯楽活動の自粛などを要請。全国の政府組織は半旗を掲げ黙祷した。証券取引所も外国為替市場も3分間取引を停止、ユニバーサルスタジオ北京は臨時休業した。江氏の死去後、新聞の紙面や政府機関のホームページ、スマートフォンの買い物や出前サービスのアプリは画面を白黒にして喪に服している。
習近平の弔辞は、故人の数々の業績を称賛して50分にも及んだという。こんな長広舌を聞かされる方は、さぞかし辛かったろう。習は「江氏の名、功績、そして思想は何代にもわたって人々の心に刻まれるだろう」と持ち上げたが、けっしてそうはならないだろう。スターリンのごとく、突然評価が逆転する日が到来するに違いない。その日の早からんことを切望する。
また、その弔辞は天安門事件にも触れたという。当時上海市トップだった故人について「動乱に反対する旗幟を鮮明にし、社会主義国家政権を守り抜いた」「上海の安定を維持した」「改革・開放を堅持した」「社会主義国家守り抜いた」「崇高な威信を持つ卓越した指導者」と改めて礼賛して、一党独裁への異論を許さない姿勢を重ねて強調した。
結局のところ、習の弔辞における江への評価は、「民主化を求める市民・学生を徹底して弾圧したこと」。そのことによって「人権と民主主義を制圧して強権による秩序維持に貢献したこと」「人民に銃口を向ける人民解放軍を作りあげることに大きな貢献をしたこと」なのだ。式の参列者は、習の見まもるなか、江の遺影に3度頭を下げたという。
最後に革命歌「インターナショナル」が演奏された。江沢民は、共産党独裁による体制を維持しながら、それまで労働者階級を代表してきた共産党に、企業家などの入党を認めて党を質的に変化させた人物。貧富の差を広げ、社会のひずみを拡大した人物。その追悼に革命歌「インターナショナル」は似合わない。
(2022年12月6日)
岸田文雄改造内閣は、今年8月10日に発足している。7月8日安倍晋三銃撃事件直後の統一教会との癒着批判の嵐のさなかのこと。統一教会との公然たる接触者を避けての人選。枯渇した人材の割当に苦労しての組閣が、適材適所であろうはずもない。既に3大臣の首がすげ替えられて、4人目も風前の灯だが、国会閉幕に逃げ込めるかどうか。
4大臣だけではない。これ以上はない非適材の不適格者と指摘すべきは、杉田水脈の総務政務官任命である。杉田こそは、女性でありながらの性差別・ヘイト発言の第一人者である。その杉田が、総務省の政務官に起用された。
予想されたとおり、その杉田が過去の厖大な差別発言を問題にされ、攻撃にさらされているが、これもまだ罷免に至っていない。岸田政権、いったい何を考えているのやら。
11月26日以来、杉田は過去の差別言動をめぐり、連日、野党の追及を受けている。12月2日の参議院予算委員会では、「過去の配慮を欠いた表現、そういったことを反省するとともに、松本総務大臣から、そうした表現を取り消すよう指示がありました。内閣の一員としてそれ(方針)に従い、傷つかれた方々に謝罪し、そうした表現を取り消します」と答弁するに至っている。飽くまで、「大臣からの指示による、差別表現の取消しと謝罪」である。自分の考えは別なのだ。
社民党・福島みずほ議員から「杉田さん、謝罪と撤回ですが、どこの部分の発言を撤回・謝罪する?」と聞かれて、「私自身、表現が拙かったことを重く受け止め反省しております。今後はこうしたことがないように誠心誠意努めてまいりたい」としか答えられない。撤回と謝罪は「表現が拙かった」だけのことだというのだ。
そして、杉田政務官を更迭するよう求められた岸田首相は、「職責を果たすだけの能力を持った人物だということで判断した。内閣の方針に従って言動してもらわなければならない」と、杉田擁護を重ねている。
杉田は過去の月刊誌の論文で性的少数者(LGBTなど)について「生産性がない」と記した。同日の予算委では自身のブログで国連女性差別撤廃委員会の会合の出席者をやゆしたことも指摘された。「チマ・チョゴリやアイヌの民族衣装のコスプレおばさんまで登場。完全に品格に問題があります」と記載してもいた。2018年6?7月、ツイッター上で「枕営業の失敗」「ハニートラップ」「売名行為」などと伊藤氏を中傷した第三者の投稿計25件に「いいね」を押して、損害賠償書を命じられてもいる。誰が見ても、「人権感覚が疑わしい」と批判せざるを得ない。
その杉田が、インターネット上の誹謗中傷対策の担当政務官だという。この人物の登用はなにかの冗談ではないかと思わせる。何しろ、舛添要一が「インターネット上の誹謗中傷対策を担当する総務相の政務官に、ヘイトスピーチ・オンパレードの杉田水脈議員を任命するというのは、ブラックジョークである。副大臣や政務官の人事は、政策や適材適所ということではなく、派閥間の帳尻合わせの道具である。しかも、大臣に比べて「身体検査」も緩い。」と投稿しているのだから。
その上に、杉田は2016年8月5日、ツイッターに「幸福の科学や統一教会の信者の方にご支援、ご協力いただくのは何の問題もない」と投稿している。19年4月28日、旧統一協会の別動隊「国際勝共連合」と関係が深い団体主催の会合で講演し、「会場はお客様で満杯。懇親会までじっくりとお話しさせていただき、本当にありがとうございました」と投稿。
「男女平等は絶対に実現しえない、反道徳の妄想だ」「女性差別というのは存在していない」等々の発言もある。昨年は、政治家の性差別発言ネット投票で、ダントツのワースト賞に輝いている。例の「女性はいくらでもウソをつける」発言である。党本部の会合で性暴力被害者支援に関して述べたもので、「やっとの思いで性被害を申告した人に対して、あまりにも心無い言葉だ」などの批判の声が多く集まった。
この杉田水脈という女性、酷い差別主義者ではあるが、ウソつきではないようだ。「女性はいくらでもウソをつける」と自分のことを言っているのだから。
(2022年12月5日)
中国国歌「義勇軍行進曲」は、抗日戦争のさなかに作られ、侵略者である皇軍との闘いの中で唱われたものである。それが、中華人民共和国成立後に国歌となった。刑事罰をもって国民に国歌の尊重を強制する国歌法の制定は2017年になってのことである。
もともとは、侵略軍と闘った人民解放軍が、広く中国の人民に、立ち上がれ、侵略軍と勇敢に闘おうと呼び掛ける抗日抵抗歌であった。敵を恐れず臆することなく、心を一つにして闘おうと呼び掛ける勇ましい歌詞となっている。
この歌が中国の人民を鼓舞し、愛国心の発揚に寄与したのは、日中戦争と国共内戦の終結までであったろう。憲法上国歌と制定され、国歌法による強制が必要になったのは、人々が以前のようには、愛する国の歌として歌わなくなったからであろう。
そして今、その歌が別の意味を込めて若者たちに歌われているという。「闘いに立ち上がれ、ともに闘おう」と友に呼び掛ける闘いの相手を、侵略者日本ではなく、習近平・共産党とする思いを込めて歌うのだという。何という世の移ろい、そして何という若者たちの知恵であろうか。
この歌の歌詞は次のとおりである。
《義勇軍行進曲》
起来!起来!起来!
(立ち上がれ! 立ち上がれ! 立ち上がれ!)
我們万衆一心,
(我々万民が心を一つにして)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
冒着敵人的炮火,前進!
(敵の砲火を冒し、前進!)
前進!前進、進!
(前進! 前進! 進め!)
起来!不願做奴隷的人們!
(立ち上がれ! 奴隷になるのを望まぬ人々よ)
把我們的血肉築成我們新的長城!
(我らの血と肉で我らの新たな長城を築こう)
中華民族到了最危険的時候,
(中華民族が最大の危機に到る時)
毎個人被迫着発出最后的吼声。
(誰もが最後の雄叫びを余儀なくされる)
冒頭の「起来! 不愿做奴隶的人?!」は、「起て! 奴隷となるな人民!」「立ち上がれ! 奴隷となりたくない人々よ!」「隷従を拒否する人民よ!」などと訳することもできる。中国人民に、日本の奴隷となるな、そのために立ち上がれ、と呼び掛けているのだ。しかし、今若者たちは、「習近平・共産党の奴隷になるな」「立ち上がれ! 中国共産党の奴隷となりたくない人々よ!」との思いを込めて、この歌を歌って呼び掛け、声を合わせているのだ。
2番の「我?万众一心,冒着?人的炮火,前?!」(敵の砲火を冒し、前進!)の、「?(敵)」とは、「習近平・共産党」を指すものとして歌われる。「みんなが心を一つにし、中国共産党の激しい攻撃を覚悟して立ち向かうのだ!」となる。現に、「習近平は退陣せよ!共産党支配はごめんだ!」というデモのスローガンも現れている。
中国で、「国歌法」が制定されたのは、2017年9月1日、中国の「第12期全人大・常務委員会」においてのことだという。その施行は、同年10月1日の国慶節からのこととなった。
中国では1990年に『国旗法』が、1991年には『“国徽法(国章法)”』が制定された。しかし、『国歌法』の制定は遅れた。2004年憲法で国歌は「義勇軍行進曲」と規定されたものの、拘束力ある立法は避けられていた。2017年の『国歌法』制定は、香港や少数民族の状況を睨んでのものであったろうか。
この国歌法、虫酸が走るような、愛国主義の押し付け、押し売りである。まるで天皇制下の締めつけ。心から思う。中国に生まれなくて良かった。この国には、愛国があって個人の尊厳がない。国家と党の支配への忠誠の証しとしての国旗国歌尊重が義務化されている。皇国並みの愚劣。
国歌法は全16条で構成されるが、重要と思われる条項を示すと以下の通り。
【第1条】国歌の尊厳を擁護し、国歌の演奏・歌唱、放送、使用を基準化し、国民の国家概念を増強し、愛国主義の精神を発揚させ、社会主義の核心的価値観を育成・実践するため、憲法に基づき本法を制定する。
【第2条】中華人民共和国の国歌は「義勇軍行進曲」である。
【第3条】中華人民共和国の国歌は、中華人民共和国の象徴と標識である。全ての国民と組織はすべからく国歌を尊重し、国歌の尊厳を擁護しなければならない。
【第4条】下記の場合は国歌を演奏・歌唱しなければならない。
(1)全国人民代表大会会議と地方各級人民代表大会会議の開幕、閉幕。中国人民政治協商会議全国委員会会議と地方各級委員会会議の開幕と閉幕、(2)国旗掲揚式、(3)重要な外交活動、(4)重要な体育競技会、(5)その他、国歌を演奏・歌唱することが必要な場合、など
【第7条】国歌を演奏・歌唱する時は、その場にいる者は起立しなければならず、国歌を尊重しない行為をしてはならない。
【第8条】国歌の商標や商業公告への使用、個人の葬儀活動など不適切な使用、公共の場所のバックグラウンドミュージックなどへの使用をしてはならない。
【第15条】公共の場で故意に国歌の歌詞や曲を改ざんして国歌の演奏・歌唱を歪曲、毀損した、あるいはその他の形で国歌を侮辱した場合は、公安機関による警告あるいは15日以下の拘留とし、犯罪を構成する者は法に基づき刑事責任を追及する。
対日戦争では、法的強制がなくても、人々は愛情と誇りを込めてこの歌を唱った。今若者たちは、がんじがらめの国歌強制の法のしがらみの中で、この歌「義勇軍行進曲」を、習近平体制に対する「抵抗歌」として歌っている。国旗や国歌とは、所詮強制に馴染まないものなのだ。
(2022年12月4日)
私はSNSというものとは無縁である。そのうえ、サッカーにもワールドカップにも何の興味もない。どこの国が勝とうが負けようがどうでもよいこと。だから、日本共産党の中野区議・羽鳥大輔のツィッターが「炎上」したことに、さしたる関心をもたなかった。共産党議員の発言が、ナショナリズム信奉の右派から攻撃を受けて何の臆するところあろうかと思い込んでいた。
が、不明にして同議員が謝罪したことを知らなかった。「炎上」に屈したとなれば、これは「事件」である。ナショナリズムがいびつな同調圧力となって、真っ当な言論を圧殺する事件。スポーツナショナリズムが容易に反共と結びつくことを見せつけた事件。自由であるべき言論空間が非寛容なヘイト体質の発言者に占拠されているという事件…。とうてい看過できない。
最初に私自身の立場を明確にしておきたい。ドイツと日本のサッカー試合、いつもであれば、どちらが勝とうと負けようともどうでもよい些事に過ぎない。しかし、22年ワールドカップ・カタール大会での日独戦は、背景事情があって事情が異なる。この大会は準備段階から腐敗と差別、人権問題で大きく揺れていた。この問題に、ドイツの協会も選手も問題意識が高かった。日本は問題意識が低いというのではなく、見事なまでに何もなかったといってよい。だから、私はドイツに勝ってもらいたかった。そのドイツが負け、日本が勝ってしまったことを、まことに残念に思う。
昔、小学生だったころ、私のあこがれは白井義男であり、古橋広之進であり、石井昭八であり、山田敬三であり、力道山であった。世界に劣等感を持っていた戦後日本人の一人として、世界で対等に闘える「日本人代表」に拍手を送ったのだ。日本が幅広い分野で世界に対等に伍した存在感を示すにつれて、劣等感の同義であったナショナリズムも希薄になった。今回のワールドカップのごとき、国民がこぞって熱狂することには辟易である。
もしかしたら、最近の日本の、知的・文化的・政治的・経済的な衰退傾向が、再び劣等感に支えられたナショナリズムを刺激しているのかも知れない。メディアのナショナリズム煽動にも大きな違和感を禁じえない。おそらくは、私の感覚は羽鳥大輔に近似している。ただ、それが日本共産党とも近似しているかどうかはよく分からない。何しろ、自党の宣伝ポスターに富士山の写真をあしらう国民意識を重視した政党なのだから。
問題の羽鳥大輔ツィッターは3件ある。うち2件は極めて真っ当な内容である。過激でもなければ人を貶めるものでもない。ただ、日本のサッカーファンやナショナリストには、耳に心地よくないかも知れないが、特に目くじら立てるほどのものではない。これに過剰な批判のツィートが寄せられて「炎上」したのは、社会の多数派の不寛容を表すものにほかならない。ナショナリズムに馴染まぬ者への、一人ひとりの「小さな敵意の表明」の集積が、民主主義も表現の自由も圧殺する事態を生じかねない。
そして、3件目は、残念ながら「炎上」に屈した形での羽鳥の謝罪となった。おそらくは、党からの「指示」ないし「指導」があったと推察される。この事件、いくつもの問題を露呈している。
羽鳥の最初のツィートは、毎日新聞の「ドイツ代表、試合前の写真撮影で口塞ぐ 腕章禁止に抗議」の記事を引用して、以下をリツイートするもの。
「日本とドイツのサッカー協会の差を見せつけられちゃうし、日本代表は勝っちゃうしで、残念というほかない。」
「腕章」は多様性を訴えるメッセージ。ドイツは、その腕章の着用を禁じた国際サッカー連盟(FIFA)に抗議をしたのだ。これに対して、日本は何もしなかった。日本サッカー協会会長の田嶋幸三は、わざわざ練習場を訪れて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」と述べたという。だれ一人、これに異議を唱えた選手はいない。
日本のスポーツ界の実状をよく表している。「昔軍隊、今運動部」である。ドイツと日本とは、その人権意識の高さにおいて、月とスッポン、雲と泥との差なのだ。偏狭なナショナリズムよりも普遍的な人権が重要だとする立場からは、「ドイツが負けて日本勝った。まことに残念」となってなんの不思議もない。
羽鳥は、第1ツィートへの批判に反論する形で、以下の第2ツィートを投稿した。
「この意見も前の意見も私個人の意見ですが、日本代表の戦いはすごいと思いますし、ものすごい努力をされたと思います。しかし、『日本代表を応援し、その勝利を喜んでいなければ日本人に非ず。そう考えてないなら黙っていろ』という空気の中で、『日本が勝ってよかった』とはとても思えません。」
私もまったくの同意見だ。どんな理由でどこの国のチームを応援してもしなくても、他人からとやかく干渉される筋合いはない。「オマエも日本人なら当然に日本を応援しろ」「日本の勝利を喜べない者は日本人ではない」という非寛容な社会的同調圧力が、戦前は「非国民」攻撃となり、最近は「反日」攻撃に言葉を変えている。
この羽鳥ツィートに対する批判を拾ってみた。悲しいかな、これが今日の日本の主権者多数派の民度のレベルなのだ。この人たちが、安倍長期政権を支えたと言えよう。
「さっさと日本から出て行きやがれ」「日本を嫌い、日本を蔑んで溜飲を下げていながら一方で日本に依存し続ける。真正の恥知らずだな」「なんだこいつ」「素直に日本嫌いって言えよ笑」「多分、ルーツが日本にないんや」「仕方ないわ。媚中とか親中どころやなくて、中国そのものなんやろな」「中国や北朝鮮を応援してる人でしょ?」「ばかだし、日本から出て行って欲しい」「共産党って本当に日本の事キライだよね」「共産党ってそういう党なんだ」「そうなんよ そういう党なんよ」「僕、サッカー興味ないのですが、狂産党の凄さは、伝わりました。」「どうせ、コメントで馬脚を表しているけど反日議員でしょ。税金泥棒議員は消えなよ」「さすが日本共産党と言うのやら…」「日本代表が勝って残念って何を考えているのですかね?こんなのが日本の国政政党ですから。日本国民はしっかりと考えなければならないのです」「『日本が勝って残念』と思う感性の人が区議というのがやべぇと思うんだが」「天皇制問題や自衛隊問題で同調圧力に屈し続けてきた日本共産党の上層部から圧力があったのではないかなと思えてしまいます」「日本人の台詞じゃないですね」「普段サッカーを観ない人間でも、日本代表が勝てば嬉しいのにね」「ドイツが勝った方が嬉しいはまだ分かるが(死ぬほど大好きな選手がいる等)、日本が勝って嬉しくないはおかしいでしょ」「共産党が『日本』と付けるな。日本が穢れる。立憲君主制すらまともに知らん無能議員の無知極まりない」「日本共産党はこんな、礼儀の無い党派で相手にするべきではない」「日本から消滅すべき党派」「人が喜んでるところに水をさしておいて捻くれた理屈でゴネてよく言うよ!左翼共産党ほど自分達の意見以外まったく認めないくせに」
このような「炎上」の結果、羽鳥議員は突然謝罪に転じる。おそらくは、不本意ながらにである。羽鳥議員には無念であったろうが、問題は個人的な無念よりは、ナショナリズム批判の言論が撤回に追い込まれたことの社会的影響である。謝罪文言は以下のとおり。問題の局面がすり替えられての謝罪であることは、自分自身がよく分かっているはず。
「多くの方からご指摘がありまして現在は以下のように思っています。
選手のみなさんは、努力を重ねフェアプレイで全力を尽くして戦ったわけで、その双方に対して敬意を払うことが政治に携わるものとして当たり前の態度でした。『日本代表が勝って残念』という言動は間違いでした。申し訳ありません。」
さて、無邪気にナショナリズムに酔っている「日本大好き」人間をどう見るべきだろうか。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」とは、史上最高の箴言である。そして、「パンとサーカス」はこれ以上のない警句。この組み合わせは、今、こう分裂するのではなかろうか。「誠実に生きようとする人は、パンのみにて生きることはできない。生きるためには自由と人権と民主主義が必要である」「愚民もパンのみでは統治に十分ではない。スポーツとナショナリズムを与えておく必要がある」
古代ローマでの、生臭い「サーカス」は、いまワールドカップやオリンピックに姿を変えている。ローマの権力者は、市民に「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」を提供することによって、市民を政治に無関心な愚民とした。いま、意識的にその政策が行われ、しかも一定の成功をおさめているのではないだろうか。
スポーツナショナリズム恐るべし、と言わねばならない事態である。
(2022年12月3日)
12月10日閉会を間近にした終盤国会。その焦点となっているのが「救済新法(案)」の取り扱いである。12月1日閣議決定され、6日に衆議院本会議で法案の趣旨説明と質疑を行い、同日委員会審議入りすることまでは決まっている。政府・与党の思惑では、衆院で7日可決、参院では9日可決の予定だという。その円滑な審議進行のためには野党の修正案を大幅に飲まざるを得ない。しかしさて、いったい何が問題か。
この法案は消費者庁提出である。同庁のホームページに、閣議決定された下記の「法案の概要」が掲載されている。全18か条の法案の全体像が、一枚のペーパーに要領よくまとめられている。
https://www.caa.go.jp/law/bills/assets/consumer_system_cms101_221201_01.pdf
その要約を掲記し、若干の解説を試みたい。
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法人等による寄附の不当な勧誘の防止等に関する法律案(概要)
(これが法案の正式名称。実態としては「統一教会による《不当な寄附勧誘の防止および被害者救済》に関する法律」案なのだが、特定の団体を狙い撃ちにする立法は避けねばならない。そのため、法案の名称にも条文にも、統一教会の関連用語は出て来ない。)
法案提出の理由 法人等による不当な寄附の勧誘を禁止するとともに、当該勧誘を行う法人等に対する行政上の措置等を定めることにより、消費者契約法とあいまって、法人等からの寄附の勧誘を受ける者の保護を図る。
(「法人等」は、当面、統一教会と読み替えてよい。実質的な立法目的は、「統一教会からの寄附の勧誘を受ける者の保護を図る」ことにある。そのために、この法は「不当な寄附の勧誘を禁止する」とともに、「不当な寄附勧誘を行った場合には、しかるべき行政上の処置をとる」とする。問題は、禁止や違反に対する対応の実効性の有無である。)
1.寄附の勧誘に関する規制等
■寄附の勧誘を行うに当たっての寄附者への配慮義務【第3条】
?自由な意思を抑圧し、適切な判断をすることが困難な状況に陥ることがないようにする
?寄附者やその配偶者・親族の生活の維持を困難にすることがないようにする
?勧誘する法人等を明らかにし、寄附される財産の使途を誤認させるおそれがないようにする
■寄附の勧誘に際し、不当勧誘行為で寄附者を困惑させることの禁止 【第4条】
?不退去、?退去妨害、?勧誘をすることを告げず退去困難な場所へ同行、?威迫する言動を交え相談の連絡を妨害、?恋愛感情等に乗じ関係の破綻を告知、?霊感等による知見を用いた告知
■借入れ等による資金調達の要求の禁止【第5条】
借入れ、又は居住用の建物等若しくは生活の維持に欠くことのできない事業用の資産で事業の継続に欠くことのできないものの処分により、寄附のための資金を調達することを要求してはならない
(寄附の勧誘に関する規制を定める、以上の《第3条?5条》が、この法律(案)の眼目であり問題点でもある。規制の態様は「配慮義務の設定」(3条)と、「禁止」(4・5条)である。禁止規定違反には、報告徴収・勧告・命令・公表という行政措置が可能となり、最終的には罰則の適用もある。しかし、配慮義務違反には行政措置も刑罰も予定されていない。それでよいのか、という問題が指摘されている)
2.禁止行為の違反に対する行政措置・罰則
■報告徴収 【第6条】
施行に特に必要な限度で、法人等に対し報告を求める
■勧告、命令・公表 【第7条】
不特定・多数の個人への違反行為が認められ、引き続きするおそれが著しい場合、必要な措置をとるよう勧告
⇒措置をとらなかったときは、命令・公表
■罰則 【第16条?18条】 ※両罰規定あり
虚偽報告等:50万円以下の罰金
命令違反:1年以下の拘禁刑・100万円以下の罰金
(以上の行政上の措置も罰則も、4条と5条の「禁止規定」違反にだけ科せられる。3条の「配慮義務」違反の効果としては、この法律には何の制裁も定められていない。民法の不法行為成立の要素にはなるだろうが、民事訴訟の提起を必要とする。はたして、それでよいのか。)
3.寄附の意思表示の取消
■不当な勧誘により困惑して寄附の意思表示をした場合の取消し【第8条】
(第4条の「不当な寄附勧誘行為で寄附者を困惑させることの禁止」に違反した場合の効果として、「困惑しての寄附の意思表示」は、取り消すことができる。民法の取消要件は、「錯誤」・「詐欺」又は「強迫」による意思表示に限られるから、「困惑」による意思表示の取り消し権は一歩前進ではある。が、多くの寄附は「困惑」してのものではなく、喜んでするものだろう。「そのような寄附を、後に取り戻せなければ、この立法の意味の大半が失われる」と被害者側が訴えてきたところ。この声に耳を傾けるべきであろう)
4.債権者代位権の行使に関する特例
■子や配偶者が婚姻費用・養育費等を保全するための特例 【第10条】
被保全債権が扶養義務等に係る定期金債権(婚姻費用、養育費等)である場合、本法・消費者契約法に基づく寄附(金銭の寄附のみ)の取消権、寄附した金銭の返還請求権について、履行期が到来していなくても債権者代位権を行使可能にする
(寄附者本人が、統一教会に寄附金の返還を要求しない場合に、家族が独立して幾分かの請求をできるようにする特例。その請求の範囲は、寄附者が負担する婚姻費用や養育費支払い義務の範囲内に留まる。)
5.関係機関による支援等
■不当な勧誘による寄附者等への支援【第11条】
取消権や債権者代位権の適切な行使により被害回復等を図ることができるようにするため、法テラスと関係機関・関係団体等の連携強化による利用しやすい相談体制の整備等、必要な支援に努める
《法律の運用に当たり法人等の活動に寄附が果たす役割の重要性に留意し、信教の自由等に十分配慮しなければならない》【第12条】 《施行後3年目処見直し》
1日に閣議決定された同法案だが、政府・与党は翌2日に修正の検討に入ったと報道されている。前代未聞のことではないだろうか。修正の検討対象となっているのは、「寄附を勧誘する際の配慮義務規定に何らかの実効性を持たせる方向で検討」し、「規定に従わない場合は何らかの行政処分を可能とする案などが浮上している」という。
内閣は弱いに限る。支持率は、低ければ低いほどよい。そして世論は強くなくてはならない。いま、強い世論が弱い内閣に、法案の修正を余儀なくさせているのだ。
(2022年12月2日)
本日の東京新聞に、「『前川喜平さんを次期NHK会長に』市民団体が署名提出 加計学園報道の『忖度』を批判」という望月衣塑子記者の記事。
「来年1月に任期満了を迎えるNHK会長の後任に元文部科学次官の前川喜平さんを推薦する市民団体が1日、NHKの在り方を考えるシンポジウムを東京・永田町(衆議院・議員会館)で開いた。登壇した前川さんは「加計学園問題で、入手した情報を放送できず記者が涙を流したと聞く。NHKはおかしくなっている」と改革を訴えた。」
NHKは、文字どおりのマスメディアである。メガメディアと言っても、ギガメディアと言ってもおかしくない規模。そして、商業放送でも国営放送でもない。飽くまでも国家からは独立したタテマエの、公共放送である。言わば、国民が受信料という形で直接育てている大切な財産。その報道姿勢は、国民生活にも民主主義のあり方にも、巨大な影響力をもつ。
にもかかわらず、NHKの報道はジャーナリズムの本道を踏みはずしたものと指摘せざるを得ない。とりわけ、安倍政権以来その傾向が著しい。なんとかしなければならない。そのような心ある国民の声が、「市民とともに歩み自立したNHK会長を求める会」の結成となり、「会」は前川喜平さんをNHK会長候補に推薦した。前川さんが積極的にこれを受けとめて、今この運動に弾みが付いている。
この運動を始めた市民団体の発想力に脱帽である。ルールの上では、市民が(あるいは市民代表が)NHK会長を選ぶことにはなっていない。視聴者の意見を聞く手続さえまったくない。だから、市民運動がNHK会長の選任に関わろうという発想は出てこない。しかし、NHKが放送ジャーナリズムである以上は、権力側に軸足を置く存在ではない。権力を批判する市民の側に位置するものなのだ。
だから、NHK会長を市民が選ぶべきが王道なのだ。内閣→経営委員会→NHK会長、という権力による選任ルートがそもそも邪道なのだ。市民運動の発想こそが正しく、経営委員会はこれを形式上追認すべきと言えよう。
ところで、NHKの在り方は放送法で決められている。NHK会長とは何か。どう選ばれるのか。
第51条1項 「会長は、協会を代表し、経営委員会の定めるところに従い、その業務を総理する。」
第52条1項 「会長は、経営委員会が任命する。」
同 条2項 「前項の任命に当たつては、経営委員会は、委員9人以上の多数による議決によらなければならない。」
第53条1項 「会長…の任期は3年…とする。」
同 条2項 「会長…は、再任されることができる。」
NHKの最高意思決定機関は経営委員会である。内閣から紐のついた経営委員会が、NHK会長の選任・罷免の権限をもっている。経営委員12人の選任が、NHKの在り方を決めている。
法第31条は、「(経営)委員は、公共の福祉に関し公正な判断をすることができ、広い経験と知識を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する。この場合において、その選任については、教育、文化、科学、産業その他の各分野及び全国各地方が公平に代表されることを考慮しなければならない。」とするが、現実は、安倍晋三の息のかかった「アベトモ」に占められている。
現実には「公共の福祉に関し公正な判断をすることができず、広い経験と知識を有する者のうちからの経営委員の選任はない」「教育、文化、科学、その他の各分野及び全国各地方からの選任もなく、ひたすら産業界と右翼文筆家、そして御用学者によって占拠されている」。
そのため、第一次安倍晋三政権時代の2008年1月に、菅義偉総務大臣が古森重隆(富士フィルム社長)を経営委員長に据え、古森が主導して福地茂雄(アサヒビール出身)をNHK会長に選んで以来、松本正之(JR東海出身)、籾井勝人(三井物産出身)、上田良一(三菱商事出身)、前田晃伸(みずほ銀行出身)と、5期(15年)の長きにわたって、安倍晋三と緊密な財界出身者が、経営委員長と政権幹部との密室の協議によって任命されて来ている。ジャーナリズムのあり方も、公共放送の理念も理解しているとはとうてい思えない面々。
その前田現会長の任期が、23年1月に終了する。さて、次期会長も同様であってはならない。前川喜平NHK会長推薦は、これに一石を投じようという市民運動である。この日(12月1日)、前川喜平さんを推薦する賛同署名4万4019筆がNHK経営委員会に提出された。「経営委員会が心の底から改心しさえすれば」、前川喜平NHK会長実現もあり得ないことではない。
またこの日、国会内で開催された「公共放送NHKはどうあるべきか」と題したシンポジウムでは、前川喜平さんを囲む形で、ジャーナリストや研究者、NHKの元職員、市民運動に携わる者が出席して、NHKのあり方について活発な議論を交わした。このようなオープンな議論が重要である。仮に、前川喜平会長が実現しなくても、次期会長は密室での選任過程が問題視されることになる。そして何よりも、その識見や適格性を前川喜平と比較されることにもなるだろう。
この市民運動の成り行き、興味津々である。
(2022年12月1日)
「世界日報」とは、言わずと知れた統一教会(系)メディア。その11月28日号の社説が、「『質問権』行使 解散ありきでなく公正に」という表題。
「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)を巡る問題で、永岡桂子文部科学相は、旧統一教会に対し宗教法人法に基づく「報告徴収・質問権」を行使した。」という書き出しで、「質問権行使」やその先の解散命令に、事実上当事者として異を唱えるものといってよい。
その論調は、「信教の自由の抑圧に繋がらないよう、公正な調査、判断を求めたい」「質問権行使が教団の『解散ありき』であってはならない」「宗教活動への規制は公共の福祉とのバランスをあくまで公正・慎重に勘案し行うべきである」「信教の自由という国家の基本に関わる問題を政争の具にすることは許されない。」というもの。
同じ11月28日、「神社新報」が「宗教法人をめぐる議論 社会的影響と自律の精神」という表題の論説を掲載している。こちらは、「準当事者」という立場。宗教団体に対する法の縛りを嫌う基本的立場から、「ややもすれば宗教全体に対して批判的な注目も集まりかねない昨今の状況」を憂い、この問題のとばっちりへの警戒感が滲み出ている。おそらくは、創価学会なども同じホンネではないか。
被害の予防や救済にも言及しての慎重な言い回しだが、メインのトーンは、かつての神社本庁総長が宗教法人法改正に関して発言したという下記の言葉を全面肯定するもの。
「少なくとも私が現在長をいたしてをります組織、神社本庁の傘下にあります八万の神社は真剣にとにかくやってきた。それに対して、おまへたちの今までのやり方が悪いから、さういふ悪いことが起こらないやうに法律を変へて、負担もふやすぞといふことは言へない。ですから、その点については、改正について十分留意をされたい」
解散命令にも質問権行使にも、そして救済新法にも、当事者や準当事者の消極性は当然として、メディアも世論も、積極的に歓迎の姿勢である。政府も、できるだけの積極姿勢を見せなければならない。
では、研究者はどうか。もちろん一色ではない。「信教の自由は重要だから、解散命令には慎重でなければならない」というか、「信教の自由は重要だが、解散命令もやむを得ない」とするか、なかなかに難しい判断。
本日の朝日の『耕論』に、「解散命令請求、その前に」と題して、島薗進(宗教学)、斉藤小百合(憲法学)、河野有理(政治学)の3氏が持論を寄せている。
「政府の解散命令請求に賛成か、反対か」という問いかけをしていないのだから当然といえば当然でもあるのだが、結論は分かりにくい。島薗の積極論だけは明解だが、斉藤と河野は結局のところ、消極論なのだろう。
それぞれが提示している問題点は、それなりに考えさせられる。無意味なことを言っているとは思わないが、これだけ問題が煮詰まってくると、賛成か反対かの結論が求められる。
私は、島薗の次の指摘に賛成する。
「『信教の自由』への誤解が対応を誤らせてきた面があったのではないでしょうか。戦後、信教の自由を確立するために、国家による宗教の押し付けを許さない政教分離が憲法によって明確に定められました。…旧統一教会が行ってきた正体を隠した伝道は、教団組織による宗教の押しつけにあたります。…(むしろ、この)宗教の押しつけが制限されることが、信教の自由を守ることにつながります。」
かつて私は、宗教団体(あるいは、「宗教まがい」)による「消費者被害・救済」に取り組んだとき、「加害者」側からの、「信教の自由を認めないのか」「裁判所を使った宗教弾圧だ」という抗議に晒された経験がある。
そのときに自分なりに整理したのは、「宗教団体が国家と対峙する局面」と、「巨大宗教団体が個人と対峙する局面」とでは、規律する原理原則がまったく異なるということ。前者を垂直関係、後者を水平関係と名付けて、垂直関係では国家から権力的干渉を受けない宗教団体の信教の自由が重んじられるべきだが、水平関係では消費者保護の法理が妥当すると考えた。国家権力は宗教者に謙抑的でなければならないが、また同時に、巨大宗教団体は信徒や布教対象の個人に対して謙抑的でなければならない。
統一教会が信徒や布教対象者に対して圧倒的な強者としての支配力を行使していることは、自明というべきであろう。そのような統一教会に法人格を付与して法的に優遇すべき筋合いはない。問題は、権力がその先例を濫用する波及効果にどのようにして歯止めを掛け得るか、ということに尽きるものだと思う。
(2022年11月30日)
ある会合でのミニ講演を引き受けて、スラップについて語ることになった。その報告のために、最近話題となったスラップをまとめてみた。その進行がどうなっているのか、リアルタイムでの把握は、なかなか面倒で難しい。
?スラップとは、言論の封殺を目的とする民事訴訟を意味する。訴訟提起による威嚇が目的だから、典型例は高額の請求となる。が、最近必ずしも、高額請求ばかりではなさそうだ。それでも、スラップの効果は十分に期待できるのだ。
こうして並べてみると、維新の面々によるスラップが目立つ。そして、時節柄統一教会絡みが大きな影を落としている。
?本年提起の主要スラップ
☆統一教会スラップ(下記5件の名誉毀損訴訟)
A 被告 紀藤正樹・讀賣テレビ (請求額2200万円)9月29日提訴
B 被告 本村健太郎・讀賣テレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
C 被告 八代英輝・TBSテレビ(請求額2200万円)9月29日提訴
D 被告 紀藤正樹・TBSラジオ(請求額1100万円)10月27日提訴
E 被告 有田芳生・日本テレビ (請求額2200万円)10月27日提訴
☆猪瀬直樹 対三浦まり&朝日 (請求額1100万円)9月6日提訴
☆松井一郎対水道橋博士 スラップ(請求額550万円)3月31日提訴
☆橋下徹対大石あき子&日刊ゲンダイ(請求額300万円)3月11日第1回期日
☆山口敬之対大石あき子(請求額880万円)9月20日第1回口頭弁論
?現在進行のスラップ
☆世耕弘成対中野昌宏・青学教授(請求額150万円)提訴19年08月30日
?過去のスラップ
☆幸福の科学スラップ
☆武富士関係スラップ⇒武富士ボロ負け(武富士側弁護士に大きな責任)
☆DHCスラップ訴訟(DHC側弁護士に大きな責任)
(1)提訴日 2014年4月14日 被告 ジャーナリスト
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体はウェブサイト
(2) 提訴日 2014年4月16日 被告 経済評論家
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はインターネット上のツィッター
(3) 提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(澤藤)
請求金額 当初2000万円 後に6000万円に増額
訴えられた記事の媒体はブログ。
(4) 提訴日 2014年4月16日 被告 業界紙新聞社
請求金額 当初2000万円 後に1億円に増額
訴えられた記事の媒体はウェブサイトと業界紙
(5) 提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(折本)→(15年1月15日一審判決)
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はブログ
(6) 提訴日 2014年4月25日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(7) 提訴日 2014年5月8日 被告 出版社→(14年8月18日 訴の取下げ)
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(8) 提訴日 2014年6月16日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(9) 提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
(10) 提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 4000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
?注目される世耕スラップ判決
世耕弘成対中野昌宏(青山学院大学教授・西洋思想史)事件では、被告側が世耕の提訴を違法なスラップだとして、本訴請求と同額の損害賠償請求の反訴を提起している。今月4日、当事者双方の本人尋問を終え、おそらくは来春判決になるものと思われる。この判決は注目すべきである。
世耕が名誉毀損文言と特定した中野のツィートは、「世耕弘成は原理研究会(統一教会)出身だそうですね。日本会議とシームレスにつながる。」というもの。これが「世耕の社会的評価を低下させる事実摘示」「だから「世耕弘成は原理研究会(統一教会)出身』であったか否かだけが唯一の問題」「その事実の挙証責任はもっぱら中野側にある」とするのが世耕側の主張。中野はこれにこう反論している。
「政治家(世耕)に対する市民(中野)の言論は公的なものとして、手厚く保護されなくてはならない。この裁判で市民側が敗訴するようなことでは、市民が政治家への疑惑や政治姿勢・思想について、証拠がないと論評できなくなる」。しかも、世耕は中野の投稿へ否定や反論、削除要請をせずに提訴しており、「世耕の提訴は、政権に批判的な言論を抑圧する意図で起こした『スラップ訴訟』として断罪されねばならない」どう喝や嫌がらせを主眼にした訴訟だと主張。
本人尋問で世耕は、旧統一教会に関連する団体の出身だと事実無根のツイッターに投稿で名誉を傷つけられたとして、「メッセージを送っただけで厳しい指摘を受ける中、元会員だったと言われ、政治家としての名誉を著しく傷つけられた」と述べた。一方、中野は、訴訟が言論を抑圧する目的で起こされた「スラップ訴訟」だとした上で、ツイートの趣旨は世耕議員の思想が旧統一教会の関連団体と近いものであると指摘するためだったと説明したという。
中野はこうも述べたという。「裁判所にお願いしたいのはスラップ訴訟を政治家が一般人に対して起こす訴訟は特別なので、一般の名誉毀損とは同じように扱われると意味が違う。公益的な言論をやっている中で萎縮させてしまう。」
これは事実上、合衆国連邦最高裁が1960年代に判例として確立したと言われる「現実的悪意の法理」の主張ではないか。
これは、公人(世耕)が表現行為の対象である場合に限っては、表現者(中野)がその表現にかかる事実が真実ではなくても、「虚偽であることを知り、又は、虚偽であるか否かを無謀にも無視し」た場合、つまり日本法でなら、「故意または重過失」あったことを原告(世耕)が立証しない限り名誉毀損の成立を認めない、とするもの。公人に対する表現の自由を手厚く保護するものだが、我が国の判例の取らないところとされている。
さて裁判所が、中野の声にどこまで耳を傾けるだろうか。注目に値するのだ。
(2022年11月29日)
平和国家だったはずの日本が揺れている。急転してくずおれそうな事態。ハト派だったはずの岸田政権、とんでもない鷹派ぶりである。
富国強兵を国是とした軍国日本が崩壊し、廃墟の中で新生日本が日本国憲法を制定した当時、憲法第9条は光り輝いていた。その字義のとおりの「戦争放棄」と「戦力不保持」が新しい国是になった。
「戦争放棄」とは、けっして侵略戦争の放棄のみを意味するものではない。制憲議会で、吉田茂はこう答弁している。「古来いかなる戦争も自衛のためという名目で行われてきた。侵略のためといって始められた戦争はない」「9条2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したのであります」。
その後、戦力ではないとして「警察予備隊」が生まれ、「保安隊」に成長し、「自衛隊」となった。飽くまでも、軍隊ではないというタテマエである。さらに、安倍政権下、集団的自衛権の行使が容認された。それでも、政府は「専守防衛」の一線を守り続けてきたと言う。
それが今崩れ去ろうとしている。いったい、この国はどうなったのか、どうなろうとしているのか。敵基地攻撃能力、敵中枢反撃能力、指揮統制機能攻撃能力の保有が声高に語られる。先制攻撃なければ国を守れない、と言わんばかり。
これまで、防衛予算の対GNPは1%の枠に押さえられていた。岸田内閣は、これを一気に倍増するのだという。それも、今年末までに決めてしまおうというのが、岸田優柔不断内閣の一点性急主義。
11月22日には、「国力としての防衛力を総合的に考える有識者会議」なるものが、防衛費増額のために「幅広い税目による負担が必要」と明記した報告書を提出している。28日になって岸田首相は、NATOの基準を念頭に、5年後の2027年度時点で「防衛費とそれを補完する取り組み」を合算してGDP比2%とするよう浜田靖一防衛相と鈴木俊一財務相に指示した。「補完する取り組み」とは防衛力強化に資する研究開発、港湾などの公共インフラ、サイバー安全保障、国際的協力の4分野で、これまで他省庁の予算に計上されていたという。また、歳出・歳入両面での財源確保措置を今年末に決定する方針も示した。年末までには、安全保障3文書も公開されることになる。
政府与党と維新・国民などは、「防衛力の抜本的整備だ」「大軍拡が必要だ」「そのための軍事予算確保だ」「福祉を削っても軍事費増額だ」という軍国モードに突入し、国民生活そっちのけで軍事優先に走り出している。本当にそれでよいのか。国民が納得しているのか。
軍事拡大が国防に役立つかの議論はともかく、確実に国民生活を圧迫する。円安、エネルギー高騰、物価高、そして低賃金。庶民の生活はかつてなく苦しい。福祉も教育も、コロナ対策も、医療補助にも予算が不可欠な今である。国民生活に必要な予算を削る余裕はない。それでも、軍備拡大のための増税をやろうというのか。国民生活を削らねば軍備の拡大はできない。軍備を縮小すれば、その分だけ国民生活を豊かにできる。さあ、この矛盾をどうする。
本日午前に開かれた自民党の会合では、軍拡財源確保のための増税には「反対の大合唱」が起きたとの報道。これは、興味深い。軍拡と軍事費倍増を煽っても、増税には反対というのだ。
与党の税制調査会には「所得税、法人税を含めて白紙で検討する」(自民党の宮沢洋一税制調査会長)との声があり、基幹税の増税議論が行われる見通しだ。ただ、自民党内には増税に消極的な声も強く、調整は難航が予想されるという。一つ間違えば、国民から見離されかねない。
さあ、防衛費増額の財源をどう手当てするのか。まさか、禁じ手の「戦時国債」発行でもあるまい。とすれば、軍拡は確実に民生を圧迫することになる。