澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

DHC・吉田嘉明の驚くべき沖縄ヘイト?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第94弾

今日もまた、複数の友人からのメールで教えられたテーマ。「DHCのテレビ番組が、おどろくべき沖縄ヘイトを垂れ流しています」というのだ。

正確に言えば、今「沖縄ヘイト・在日ヘイト」で悪評この上ないMXテレビ『ニュース女子』はDHC・吉田制作の番組とのことなのだ。

舌鋒鋭く好調のリテラが、この点を詳しく報道している。これは、出色の記事であり、必見というべきだろう。長文だが、長さを感じさせない。

タイトルが、「ヘイトデマ垂れ流しで大問題のMX『ニュース女子』も… 化粧品会社のDHCはなぜ極右ヘイト番組をつくるのか」。DHCの名をバッチリ出しているところが、素晴らしい。

そのURLが下記のとおり。
http://lite-ra.com/2017/01/post-2838.html

こちらのURLでも見ることができる。
http://www.excite.co.jp/News/column_g/20170109/Litera_2838.html?_p=4

記事の内容の前半は、MXテレビ(地上波・東京メトロポリタンテレビジョン)『ニュース女子』の内容の酷さだ。多くの検証記事が、この番組のデタラメぶりと、沖縄ヘイト・在日ヘイトの非常識を報道しているが、まさしく目を覆わんばかり。そして後半は、この「ヘイト」・「デマ」番組を作っているのが、DHCだという指摘。しかも、これまでのDHCの問題の数々をきちんと書き連ねて、遠慮も萎縮もない。この後半部分が「出色」という所以なのだ。

本日(1月18日)の朝日の夕刊も、MX『ニュース女子』の内容を検証している。「MXテレビに『沖縄ヘイト』批判 米軍への抗議活動巡り」というタイトルの記事。
「沖縄県東村高江の米軍ヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)建設への抗議活動について報じた東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)の番組に、反発の声が上がっている。取り上げられた団体は『意図的な歪曲』『人種差別的な発言」と指摘し、沖縄の地元紙も『沖縄ヘイト』などと批判。局側は16日、『議論の一環として放送した』との見解を番組で流した。」

この朝日の記事は、MXテレビ番組のデタラメぶりを検証し、沖縄ヘイト・在日ヘイトにも触れている。しかし、DHCの社名を出さない。なんと、「化粧品大手」としか言わないのだ。「化粧品大手」といえば、まず思い浮かべるのは資生堂・花王、あるいはポーラのことではないか。イメージ重視企業が、こんなヘイト番組を作っているものと誤解されてはたいへんなダメージ。はた迷惑と同情せざるを得ない。朝日にとって、DHCは広告料スポンサーとしてのお得意様。DHCの社名は出せないということなのだろうか。

さて、リテラの記事である。
1月2日にTOKYO MXで放送された『ニュース女子』の内容のデタラメと、それ故の沖縄の基地反対運動への差別意識、のりこえねっと辛淑玉氏を名指しの誹謗中傷については、もう周知の事実となった。この前半部分は割愛して、後半部分から引用する。

「この『ニュース女子』という番組はCS放送局「DHCシアター」が制作・放送を行っているものだということだ。つまり、TOKYO-MXTVの番組枠をDHCシアターが買い上げ、地上波でも放送しているのである。

DHCシアターとは、その名の通り、化粧品やサプリメントの販売などで知られるDHCが株主でありDHCグループのひとつ。

このDHCシアターの前身は、舞台を専門に放送していたCSチャンネル「シアター・テレビジョン」なのだが、…14年にDHC会長の吉田嘉明が代表取締役会長となり、15年よりDHCシアターと改称し、『ニュース女子』や『虎ノ門ニュース8時入り!』などの番組を放送スタートするようになった。

両番組とも、井上和彦や百田尚樹のほか、圧力団体『放送法遵守を求める視聴者の会』の小川榮太郎、上念司、ケント・ギルバートなどが出演者するなど、顔ぶれを見るとCS版『そこまで言って委員会NP』(読売テレビ)といった赴き…。

つまり、もともと保守思想の持ち主である濱田がその人脈で極右番組放送局として進めてきたところにDHCという大資本が入り、さらにはネトウヨ製造番組と呼ばれる『委員会』のノウハウが流入され、現在のDHCシアターがある、というわけだ。

ご存じの通り、吉田会長といえば、2014年にみんなの党・渡辺喜美氏に8億円もの供与を「週刊新潮」(新潮社)で暴露、大問題へと発展したことが記憶に新しいが、このとき、「渡辺氏を通じて安倍晋三首相にも接近しようとしていた」(「FACTA」14年5月号)とも報じられている。いずれにしても、政界への影響力行使に色気を出す吉田会長にとって、DHCシアターの安倍政権をアシストする露骨な極右的姿勢は、当然の流れだったのかもしれない。

しかし、8億円供与問題でもわかるように、吉田会長のやり方にはこれまでさまざまな批判が起こってきた。…数々のスキャンダルや不祥事も起こってきた。1992年には六本木に元社長秘書をママに据えた会員制クラブを開店したことが「週刊新潮」で取り上げられたが、2001年にはさらに「週刊文春」(文藝春秋)が「仰天内部告発 化粧品会社DHC社長『女子社員満喫生活』」と題した記事を掲載。記事によれば〈気に入った女子社員と豪遊し、豪華な自宅には高給で女子社員からお手伝いさんを雇ったが身長、体重を書かせた〉というが、この報道に対し吉田氏は前代未聞の10億円という超高額損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こした。結果として『文春』が敗訴したが、この高額訴訟と判決には『メディアが萎縮する』『言論の自由を脅かす』として批判が巻き起こった。

そのほかにも、吉田氏が自社株を買い戻したときの金額を国税局が低すぎるとし約6億円の追徴課税を行った際には、処分取り消しの訴訟を起こしただけでなく、国税庁職員の調査によって精神的な苦痛を受けたとして国を相手に約1億4000万円の損害賠償訴訟を起こすなど、『けんかっ早いフィクサー』『ワンマン経営者』などと呼ばれてきた吉田会長。それでもDHCがいまだ好調なのは、マスコミに広告を大量出稿していることで、前述したようなさまざまな問題を新聞やテレビが大きく報じてこなかった影響もある。」

リテラの「マスコミに広告を大量出稿していることで、前述したようなさまざまな問題を新聞やテレビが大きく報じてこなかった影響もある。」という指摘を重く受けとめねばならない。マスメディアが腰砕けなら、消費者自身が立ち上がるしかなかろう。リテラ記事の結論部分はこうなっている。

「SNS上では今回の『ニュース女子』問題を皮切りに『DHC不買』運動が起こっているが、それも当然の話だろう。DHC商品の購入がヘイト番組に加担することになるということを、消費者はよく覚えておく必要がある。」

『DHC不買』運動に関連しては、こんなサイトの記事もある。

「『右寄りTV番組』スポンサーでDHCに不買運動」(オルタナ)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170109-00010000-alterna-soci

「SNSでは、『DHC不買』というハッシュタグをつけて、同番組やDHCへの批判的な投稿が増えている。同番組は、DHCシアターの主要株主であるDHC(東京・港)の持ち込み番組として、2015年4月から始まった。持ち込み番組では、放送するTV局が企画に関わることは少なく、基本的に外部の制作プロダクションが映像をつくり、TV局はその映像を流すことだけを行う。制作費が掛からないので、収益率が良い。同番組を制作しているのは、DHCシアターとボーイズ(東京・港)の2社。」

「DHC商品の購入がヘイト番組に加担することになる」というリテラの指摘のとおりではないか。消費者のDHC商品の購入がDHCを太らせ、デマとヘイトの番組作りの資金となる。

消費者諸君に呼びかけたい。とりわけDHCの顧客層に。

あなたがDHC商品を一つ買えば、デマとヘイトの番組作りを後押しして、日本の民主主義が一歩後退することになる。

反対に、あなたがDHC商品の購入を控えれば、デマとヘイトの番組作りは一歩後退し、日本の民主主義が一歩前進することになる。『DHC不買』運動は、デマとヘイトを抑制する民主主義運動なのだ。
(2017年1月18日)
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「DHCスラップ」勝利報告集会にご参加を
弁護士 澤藤統一郎
私自身が訴えられ、6000万円を請求された「DHCスラップ訴訟」。
その勝訴確定報告集会のお知らせです。
この問題と勝訴の意義を確認するとともに、攻守ところを変えた反撃訴訟の出発点ともいたします。ぜひ、集会にご参加ください。

日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
「スタジオプラス小ホール」
☆進行

弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演(「言論の自由」の今日的意義)
常任弁護団員からの解説
テーマは、
「名誉毀損訴訟の構造」
「サプリメントの消費者問題」
「反撃訴訟の内容」
☆会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
☆澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。

「DHCスラップ訴訟」とは
私は、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を毎日連載しています。既に、連続1400日になろうとしています。
そのブログに、DHC・吉田嘉明を批判する記事を3本載せました。「カネで政治を操ろうとした」ことに対する政治的批判の記事です。
DHC・吉田はこれを「名誉毀損」として、私を被告とする2000万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。2014年4月のことです。
私は、この提訴をスラップ訴訟として違法だとブログに掲載しました。「DHCスラップ訴訟を許さない」とするテーマでの掲載は既に、90回を超します。そうしたら、私に対する損害賠償請求額が6000万円に跳ね上がりました。
この訴訟は、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 またすぐれて消費者問題であった。(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 さらに、民事訴訟の訴権濫用の問題であった。

私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。
スラップ常習者と言って差し支えないDHC・吉田には、反撃訴訟が必要だと思います。引き続いてのご支援をお願いいたします。

DHC会長吉田嘉明の驚くべきヘイトスピーチ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第93弾

友人からのメールで教えられた。「DHCの会長吉田嘉明が、おどろくべきヘイトスピーチを自社のホームページに掲載しています」というのだ。

そのURLが下記のとおり。

http://top.dhc.co.jp/company/image/cp/message1.pdf

是非、多くの人にこの全文をお読みいただきたい。まさしく、「おどろくべきヘイトスピーチ」なのである。吉田嘉明とはいかなる人物であるか、自らが雄弁に語って余すところがない。

昨年(2016年)2月12日付の記事で、「会長メッセージ」と標題があり、「株式会社ディーエイチシー 代表取締役 吉田嘉明」との肩書記名がある。今どき、このような差別的文章を人目にさらす人物の存在自体が信じがたいが、まさか「なりすまし」ではないだろう。

この人物、このような差別的文章を書くこと自体が、いかに道義的非難に当たることであるか、自らの品位を貶める恥ずべき行為であるのかの自覚に欠けている。一面滑稽ではあるが、他面このような人物が大手を振ってまかり通っているこの社会を恐ろしいものと感じざるを得ない。

主要な部分を抜き書きしてみよう。
「時々とんでもない悪(わる)がいたりしますので、この点は注意が必要です。純粋な日本人でない人も結構います」
「本物、偽物、似非ものを語るとき在日の問題は避けて通れません。この場合の在日は広義の意味の在日です。いわゆる三、四代前までに先祖が日本にやってきた帰化人のことです。そうい意味では、いま日本に驚くほどの在日が住んでいます。」
「問題なのは日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩」
「政界(特に民主党)、マスコミ(特に朝日新聞、NHK、TBS)、法曹界(裁判官、弁護士、特に東大出身)、官僚(ほとんど東大出身)、芸能界、スポーツ界には特に多いようです」
「問題は、政界、官僚、マスコミ、法曹界です。国民の生活に深刻な影響を与えます。」
「私どもの会社も…法廷闘争になるときが多々ありますが、裁判官が在日、被告側も在日の時は、提訴したこちら側が100%の敗訴になります。裁判を始める前から結果がわかっているのです。似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。」

この文章には、論理も論証もない。「法曹界には、日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩が特に多い」「私どもの会社(DHC)が裁判に負けるのは、裁判官がそのような在日だから」という、無茶苦茶な没論理。

論理的にものを考える能力に欠け支離滅裂な文章を綴る輩がいることには少しの不思議もない。しかし、解せないのはこのような公然たる民族差別、あるいは排外主義の情念が、何ゆえにどこから来るものなのかということである。

かつての日本にとっては、中国も朝鮮も、学ぶべき先進の文化大国であった。ところが、明治維新後の日本が近隣諸国への膨張政策をとるようになると、根拠のない優越民族意識の醸成が国策となる。国策に操られた国民の選民意識と差別感情が、植民地支配や侵略戦争への積極的加担に大きな役割を果たした。この差別意識は、敗戦とともに表向きは消滅する。国民が国家による意識的な精神動員に乗せられたことを反省したのだ。民衆の意識の底流に、差別感情の残滓が払拭しきれずにあるとしても、社会の良識は、この吉田嘉明の文章の如き表現を許さないはずであった。いつの間に、私たちの社会は劣化してしまったのだろう。

私は、天皇制のあり方には辛口だが、天皇(明仁)の発言に、少数ながらも評価すべきものがあることは否定しない。たとえば、2001年12月の天皇誕生日に際してのコメントである。「天皇家には朝鮮の血が流れている」発言として知られているもの。

下記URLの宮内庁ホームページから引用する。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html
問 …歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。

天皇(明仁) 日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

天皇(明仁)もいうとおり、日本人も朝鮮・韓国人も、純粋・純血ということはありえない。明らかに血は混じりあっており、優越も劣等もあり得ない。吉田の言う「純粋な日本人」などは存在しないのだ。天皇もその例外ではない。にもかかわらず、空虚な差別感情を誇示する者の絶えないことが、「残念なこと」であり、同胞として恥ずかしい限りというほかはない。

差別には、もう一つの政治的な側面がある。
霍見芳浩ニューヨーク市立大学名誉教授が、「法と民主主義」1月号に寄稿している。トランプを「欠陥人間」大統領と表現して、トランプ現象をヒットラー現象になぞらえている。

「その昔、ナチス独逸を創り上げたアドルフ・ヒットラーは、第一次世界大戦に敗れて過大な賠償金の重圧にあえぐドイツ国民に『すべてがユダヤ人のせいだ』と叫ぶ、これにドイツ国民の大半が「そうだ」と飛びついた」。今、アメリカでよく似た事態がおきているのだ。

日本では、吉田嘉明の如き人物が、「すべてが在日のせいだ」と叫んでいる。「政界も、マスコミも、法曹界も、官僚も、芸能界も、スポーツ界も在日だらけ」「とりわけ、政界、官僚、マスコミ、法曹界の在日が、国民の生活に深刻な影響を与えている」「国民生活の不都合は在日に由来する」というのだ。

これに、「そうだ」と飛びついてはならない。こんな支離滅裂の煽動に乗せられてはならない。このようなレイシストを、徹底して批判し孤立させなければならない。DHCスラップ訴訟とその反撃訴訟は、新たな意味づけを獲得したようである。
(2017年1月17日)
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     「DHCスラップ」勝利報告集会にご参加を
                  弁護士 澤藤統一郎
私自身が訴えられ、6000万円を請求された「DHCスラップ訴訟」。
その勝訴確定報告集会のお知らせです。
この問題と勝訴の意義を確認するとともに、攻守ところを変えた反撃訴訟の出発点ともいたします。ぜひ、集会にご参加ください。

日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
「スタジオプラス小ホール」

☆進行
弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演(「言論の自由」の今日的意義)
常任弁護団員からの解説
テーマは、
「名誉毀損訴訟の構造」
「サプリメントの消費者問題」
「反撃訴訟の内容」
☆会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
☆澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。

      「DHCスラップ訴訟」とは
私は、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を毎日連載しています。既に、連続1400日になろうとしています。
そのブログに、DHC・吉田嘉明を批判する記事を3本載せました。「カネで政治を操ろうとした」ことに対する政治的批判の記事です。
DHC・吉田はこれを「名誉毀損」として、私を被告とする2000万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。2014年4月のことです。
私は、この提訴をスラップ訴訟として違法だとブログに掲載しました。「DHCスラップ訴訟を許さない」とするテーマでの掲載は既に、90回を超します。そうしたら、私に対する損害賠償請求額が6000万円に跳ね上がりました。
この訴訟は、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 またすぐれて消費者問題であった。(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 さらに、民事訴訟の訴権濫用の問題であった。

私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。
スラップ常習者と言って差し支えないDHC・吉田には、反撃訴訟が必要だと思います。引き続いてのご支援をお願いいたします。

共謀罪は、どう名前を変えても権力の凶暴化罪だ

政府は懲りもせずに、1月20日召集の第193通常国会に、4度目の「共謀罪」法案を提出しようとしている。その名称(略称)を「テロ等組織犯罪準備罪」、あるいは、「テロ等準備罪」とするという。

評判の悪い人物は、名前を変えて出てくる。売れない商品は、名前を変えてみる。飽きられた政党は党名を変更しようとする。それと同じ。3度も廃案となった共謀罪を通すために、「テロ等準備罪」と目先を変えてみようというもくろみ。

しかし、名称をどう変えようと、姑息な手直しを施そうと、共謀罪の危険な本質は変えようがない。伝えられる政府の新法案も、構成要件を曖昧にすることで、刑法のもつ人権保障機能を脆弱化することに変わりはない。人権保障機能の脆弱化とは、政権にとっては、抵抗勢力を弾圧するために調法この上ない武器を手にすることになる。共謀罪とは、権力の凶暴性を助長する「凶暴罪」法案なのだ。アベ暴走政権を共謀罪で武装させ、このうえ凶暴政権化させてはならない。改憲阻止闘争や、沖縄の平和運動に弾圧の手段を与えてはならない。

共謀罪は構成要件の曖昧さの危険ゆえに、「現代の治安維持法法」といわれる。いかにも、そっくりなのだ。昨日(1月15日)の赤旗が、「戦前の治安維持法」と「現代の新『共謀罪』」とについて、「説明そっくり」と政府説明の類似を指摘している。これは、背筋が寒くなる。

見出しに出ているのは、
「戦前の治安維持法⇒世間の人が心配するほどのものでない」
「現代の新『共謀罪』⇒一般人が対象になることはあり得ない」
戦前の政府説明は、1925年の警視庁当局のもの。現代の説明は、今年(2017年)1月6日の菅官房長官のもの。

治安維持法も共謀罪も、はたまた国防保安法も特定秘密保護法も、「善良な一般人が対象になることはあり得ないのだから、世間の人が心配するほどのものでない」として、制定されるのだ。

治安維持法は、「國體を変革し、私有財産を否定する」目的の結社と思想をあからさまに犯罪とした。当時、天皇制を否定し共産主義を鼓吹するなどは、皇国の臣民にあるまじき非国民の振る舞いだったのだから、「善良な一般人が対象になることはあり得ず、世間の人が心配するほどのものでない」ことになるだろう。

しかし、治安維持法は共産党だけを対象にせず、猛威を振るった。下記の如く、赤旗が報道するとおりである。

「治安維持法による逮捕者は数十万人を超え(28?45年)、送検された人は7万5000人(同)となっています。同法の弾圧が原因で命を落とした人は、わかっているだけで1682人となっています。

 国民をだまして施行すると、日本共産党や労働運動や農民運動、文化活動や宗教者の集まり、つづり方教育といった教育実践など、国民生活のあらゆる分野に弾圧の手を伸ばしました。」

以上の点は、忘れてはならない苦い記憶として、何度でも思い起こさなければならない。

「菅官房長官は6日の会見で『従前の共謀罪とは別物だ。一般の方々が対象になることはあり得ない』と説明しました。治安維持法が施行されたのは1925年5月。当時の新聞報道でも、政府が国民の不安払拭に力を入れていたことがわかります。」

赤旗は、1925年当時の東京朝日や読売の記事を引用して、当時の政府の説明を伝えている。

「労働者や思想家たちはあまりにこの法案を重大視し悲観的に考えているようであるが(中略)伝家の宝刀であって余り度々抜くつもりでもない」「今の時代精神とかけ離れたような旧式の取り締まりもできませんよ。だから世間の人が心配するほどのものでなく、この法のために今の社会運動が抑圧されるなどということはないだろう」(警視庁当局)

「われわれの方でも運用については非常に注意し純真な労働運動や社会運動を傷つけないように心がけている」(内務省警保局長)

「細心の注意を払い 乱用するな」(小川平吉法相)

その後の治安維持法が改正の都度、凶暴の度を増したこと。そして、その運用が、広範な政治運動・社会運動・文化運動・思想運動・平和運動・宗教者の運動を抑圧したことを忘れてはならない。

「『一般の方々が対象になることはあり得ない』とする菅長官の説明が方便にすぎないことがわかります」と赤旗が言うとおりではないか。

赤旗を除いて、多くのメディアでは、共謀罪の3点が問題で、政府提案の新法がこれをクリアーできるかが焦点という見方が広がっている。

その第1点が、処罰範囲。
産経の報じるところによれば、「今回提出予定の新法案では、処罰範囲は限定されたものとなっている」という。だから、新法を成立させて問題はない、という文脈。むしろ、例によって、政権の言うとおりに、東京五輪にテロなどあってはならないから、早期に共謀罪処罰の新法を制定せよ、という論調。記事は以下のとおりである。

「共謀罪」対象676から50超減 政府原案修正、提出へ
 組織的な重大犯罪の計画段階で処罰対象となる「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案をめぐり、対象犯罪を676とした政府原案を修正し、過失犯や結果的加重犯など50罪以上を除外する方向で検討されていることが14日、関係者への取材で分かった。公明党内から対象犯罪を絞るよう求める声に配慮したもので、事前に犯罪を計画できない業務上過失致死罪など50罪以上を除外する方向で法務省などが調整している。

「共謀罪」対象犯罪は676と予定されている。曖昧模糊たる「犯罪」の数が一挙にこれだけ増えるのだ。ところが、産経によると、「50罪以上もの新設犯罪を除外して、わずか626以下の数に限定する方向で調整が進んでいる」「これは公明党への配慮で、これなら公明党も賛成するだろう」というニュアンス。

しかも、除外する50罪余とは、「過失犯や結果的加重犯など」事前に犯罪を計画できない、従ってよく考えれば共謀罪類型に馴染まないものだという。公明党も軽く見られたものというほかはない。特定秘密保護法でも戦争法でもそうだった。法案提出時に、与党内の摺り合わせで少しすねてみせて、結局は悪法推進勢力に回る下駄の雪政党と、自民党からばかりでなく、産経など右翼からも侮られているのだ。

第2点は、犯罪主体の適用対象。
過去の法案は、適用対象を単に「団体」としていたため、市民団体や労働組合などが捜査の対象になり得るとして、反発を招いた。しかし、今回、政府は適用対象をテロ組織や暴力団などの「組織的犯罪集団」に限定する方針と報じられている。しかし、詳細は未定である。

また、第3点として、「犯罪を行おうとする合意(計画)だけでなく、凶器の購入資金の調達など準備行為が行われることも犯罪成立の要件に加える」ものとされているが、これも要件の詳細な定義は明らかになっていない。

仮にこの3点がクリヤーされたとしても、問題は大きく残るのだ。テロ対策としてでも、刑法の基本体系を崩し、かくも構成要件曖昧な、弾圧法規として使い勝手のよい立法を許してはならないのだ。けっして、「テロ以外の犯罪にも広範に網がかけられている点が最大の論点になる」(毎日社説)というわけではない。先に引用した赤旗の、治安維持法がとめどなく適用範囲を広げて猛威を振るった事実の指摘が重要なのだ。

内田博文(九州大学名誉教授)の東京新聞への寄稿に耳を傾けたい。

 戦争に反対する人たちの取り締まりに利用された治安維持法も、同じ性格の法律だった。帝国議会で法案が審議されたとき「近代刑法の基本原則が認められていない」と批判されたが、法制定後は歯止めが利かなくなった。
 取り締まり対象は「非合法左翼だけ」から「合法左翼」に広がり、最終的に「サークル活動」「勉強会」なども対象になった。当局が法律を拡大解釈し、裁判所が容認した結果、処罰対象が雪だるま式に肥大化していった。
 共謀罪も運用次第では、「みんなで市役所に行って窓口で陳情しよう」という話し合いが、組織的威力業務妨害の共謀罪に問われる可能性もある。
 治安維持法のできた時代、不景気や将来への不安から国民が強い権力を求め、戦争で突破しようとした。遠い昔の話で自分には関係ないと考える人も多いだろう。だが、近年も人間不信や将来に希望が見いだせないことから、強い権力への期待が強まっている。テロ対策の名の下に共謀罪が創設され、取り締まりの矛先が普通の人々に向かった場合、防ぐのは極めて困難だ。
(2017年1月16日)

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     「DHCスラップ」勝利報告集会にご参加を
弁護士 澤藤統一郎
私自身が訴えられ、6000万円を請求された「DHCスラップ訴訟」。
その勝訴確定報告集会のお知らせです。
この問題と勝訴の意義を確認するとともに、攻守ところを変えた反撃訴訟の出発点ともいたします。ぜひ、集会にご参加ください。

日程と場所は以下のとおりです。
 ☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
 ☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
    「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演(「言論の自由」の今日的意義)
常任弁護団員からの解説
テーマは、
「名誉毀損訴訟の構造」
「サプリメントの消費者問題」
「反撃訴訟の内容」
☆会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
☆澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。

     「DHCスラップ訴訟」とは
 私は、ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」を毎日連載しています。既に、連続1400日になろうとしています。
そのブログに、DHC・吉田嘉明を批判する記事を3本載せました。「カネで政治を操ろうとした」ことに対する政治的批判の記事です。
 DHC・吉田はこれを「名誉毀損」として、私を被告とする2000万円の損害賠償請求訴訟を提起しました。2014年4月のことです。
私は、この提訴をスラップ訴訟として違法だとブログに掲載しました。「DHCスラップ訴訟を許さない」とするテーマでの掲載は既に、90回を超します。そうしたら、私に対する損害賠償請求額が6000万円に跳ね上がりました。
 この訴訟は、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 またすぐれて消費者問題であった。(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 さらに、民事訴訟の訴権濫用の問題であった。

 私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。
 スラップ常習者と言って差し支えないDHC・吉田には、反撃訴訟が必要だと思います。引き続いてのご支援をお願いいたします。

歌は正直に詠み手の心根を映し出すー歌二首評釈

発表された瞬間に、歌は詠み手から離れる。詠み手から離れた歌をどのように読むかは、読み手の自由である。詠み手から独立した歌がどのように読み手の感性と響き合うか、あるいは不協和音を発するか。それは詠み手の責任ではない。ひたすら、読み手の感性の問題なのだ。それでも、歌は正直に詠み手の心根を映すものとして、読み手の感性に関わってくる。

本日は、最近発表された話題の2首について、私の感性とどう響き合うか。あるいは不協和音を発するか。評釈を試みたい。

2017年1月13日発表の一首

  邯鄲の鳴く音聞かむと那須の野に集ひし夜をなつかしみ思ふ

この一首、まずは「邯鄲の鳴く音」に注目しなければならない。
最も美しい鳴き声とされる邯鄲の語源が、邯鄲の夢・邯鄲の枕の故事に由来するとは定説ではない。しかし、漢字文化圏に育っただれもが、邯鄲という古代都市名からは盧生の一炊の夢を連想する。「邯鄲の鳴く音」からは、人生の栄華の美しさにも夢の如きはかなさが伴っていることの暗喩を読みとらねばならない。

言うまでもないことだが、「邯鄲の鳴く音聞かむと野に集ひ」などという想い出が、現代の庶民にあろうはずはない。この歌の詠み手が、現代の特権的な階級に属する人物であることは容易に推察される。

その恵まれたこの歌の詠み手が、人生の終焉に近づいたことを意識して自分の生を振り返り、来し方に栄華とともにはかなさを感じている。権力を振るった者も、財をなした者も、名声を博した者も、権威として君臨した者も、老境にいたっては人生のはかなさを感じるばかりなのだ。

リタイヤを決意した老人が、半生の総括の言葉として「邯鄲の鳴く音」を冒頭に読み込んだものと思えば、なるほど、人生とは美しくもはかないとの感慨が込められていると読み取ることができよう。

もっとも、この歌には「那須の野に集ひし夜」の時期を示唆する言葉がない。「だれとの集い」であったも示されていない。だから想像の幅は広がる。

もしや戦前における父母や兄弟姉妹との懐かしい集いであったかも知れない。とすれば、これこそ茫々たる記憶のかなたの一炊の夢であろう。権力よりも、権威よりも、虫の音を聞くための家族との集いこそが、自分の人生での懐かしむべき輝きであったと言っているのだ。

あるいは、国民が戦争の惨禍に疲弊した時期における特権階級の優雅な行事であったかも知れない。それなら、家族のだれにも戦争での犠牲者を出さなかったという安堵の想い出と解することができよう。しかし、この詠み手の家族が戦争責任といささかでも関わる立場にあるのなら、私の感性との共感は生まれない。

もしかしたら、詠み手は、那須の野に家族を集めてリタイヤ宣言をしたのかも知れない。その際の家族を集める理由を「邯鄲の鳴く音を聞くため」と説明したとも考えられる。とすれば、「なつかしみ思ふ」とは、邯鄲の音ではなく、ようやくこの重い荷を下ろして肩の凝る立場から離れることができるという安堵感を詠ったのだろう。

この歌を、庶民とは無縁の立場の人の老境での過去を振り返っての述懐。そう見ればごく平凡でありきたりだが、時事を詠みこんだ歌と解すれば、解釈に興味が湧かないこともない。

2017年1月13日発表のもう一首

  土筆摘み野蒜を引きてさながらに野にあるごとくここに住み来し

これはまた、特権階級がその特権を謳歌していることを、気恥ずかしげもなく臆面もなく無邪気に歌い上げたもの。天真爛漫とも天衣無縫とも言えるのだろうが、庶民の立場からの怨嗟の声が聞こえて来そうだ。

この歌の詠み手が「住み来し」「ここ」とは、都心の広大な土地と思われる。都市は、人を呼び寄せ人を集積するが、必然的に都市の住環境は貧弱となる。庶民の多くは、春菜摘む土地から引き剥がされ、日照の享受もままならない。もちろん、「野にあるごとく」という自然との共棲などは夢物語である。

それをこの歌は、「土筆摘み野蒜を引きて」と自然の中にある喜びを歌い、「さながらに野にあるごとく」と誇示するのだ。

ひるがえって、地震、津波、原発事故の被災者を思う。まさしく、「土筆摘み野蒜を引きて」という自然の中にある喜びを謳歌していた多くの人々が、故郷を追われて不自由な仮設に暮らしている。あるいは、慣れない都市のマンション暮らしの人々もいる。

詠み手の気持の中には、このような人々を思いやる心情がかけらもない。歌は、正直に詠み手の心根を暴き映し出す。特権階級のその場限りの慈善の言葉や態度の偽善性をも、である。
(2017年1月15日)

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「DHCスラップ訴訟」勝利報告集会のお知らせ

私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演
常任弁護団員からの解説(テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など)
会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。

この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。

「トランプは4年もたない。2年で自壊するだろう。」

昨日(1月13日)、日民協の「新春の集い」が開かれた。理事会を兼ねてのことである。新春の挨拶でも、今年は楽観的な希望は語られない。話題は、自ずから「激動の世界情勢」ということになる。とりわけ、トランプ現象を起こしたアメリカの民主主義についてのシビアな意見が相次いだ。

それでも、アメリカがこのままであるはずはない、という希望も語られた。「トランプ政権はもたない。いずれ自壊する」「その時期は、化けの皮が剥がれ、中間選挙で共和党が大敗する2年後」という確信にあふれた予言が説得力をもって語られた。

都民の人気を集めていた舛添要一前知事が、あっという間にバッシングの対象となってその地位を追われた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領も同じだ。きっと、トランプも同じ目に遭う。

トランプは、大富豪ではないか。多くの人々を搾取し収奪して財をなした人物。それが、経済的に困窮するホワイトプアー(白人困窮者層)からの支持を集めて大統領に当選するというマンガのような逆説が永続するはずはない。彼が被告として抱えている訴訟は2000件余と報じられている。その敗訴が連続するとき、欺されていた者も覚醒せざるを得ない。

忘れてはならないのは、民主党予備選挙でのサンダース現象だ。民主社会主義者を自称するサンダースの大健闘は、アメリカ社会の健全さを示すもの。トランプ現象の結果だけからは絶望しか見えてこないが、サンダースを支持した若者たちが、トランプへの抗議を継続していることに希望を見ることができよう。

集いの冒頭森英樹理事長の挨拶があった。その中で次の指摘があった。
「あまり話題にならないのですが、今年は一九一七年一一月にロシア社会主義革命が成就して一〇〇周年、そしてその崩壊から二五周年となります。その歴史に学ぶべきところはないのでしょうか」
「また、今年はルターが宗教改革を宣言した一五一七年一〇月から五〇〇周年でもあります。カトリックの精神支配から個人を解放して資本主義の成立を準備したという宗教改革からも学ぶところはあるはずです」。

今の世界の激動と混乱の原因を、資本主義そのものの矛盾の表れとしてとらえ直すべきではないか。そしてその矛盾克服の方向を、資本主義自体を変革しようとした歴史からも学べ。そういう示唆なのであろう。

すでに、世界はポストトゥルースの時代だという。しかし、これは何も世界で新たに始まったことでもなかろうという指摘もあった。「この点、日本も世界に遅れをとっていない。まず石原慎太郎がいたではないか。橋下徹も安倍晋三も負けてはいない」。言われてみればそのとおり。「コントロールとブロックの安倍」の嘘を許容する国民が情けない。日本の民衆が、新自由主義をかざして、庶民イジメ専念の安倍に、かくも長期間欺されっぱなしというのも解せない話。

「私の周囲には安倍支持の人間などいません。反安倍の人ばかり。でも、安倍の周囲には安倍を支持しない人などはいないのでしょう。安倍支持派と反安倍派とは、断絶してお互いに説得し合おうという会話の機会さえもない」「私は、意識して安倍支持派との人々とも会話のできる機会を持ちたいと思う」という発言もあった。

解散総選挙は、「今月(1月)にはないが、今年(2017年)にはあるだろう」というのが、一般的な観測である。反アベ派の仲間内だけではなく、親アベ派の人々とも会話を重ねることで、この深刻な事態を切り開いていきたい。

いたずらに、事態に絶望せず、パンドラの箱に残された美しい希望を見失わないようにしたい。政治的混乱の原因を見極め、格差・貧困・経済摩擦・雇用の縮小等々の根本原因を改善する努力を、微力でも重ねていきたいと思う。
(2017年1月14日)
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「DHCスラップ訴訟」勝利報告集会のお知らせ

私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演
常任弁護団員からの解説(テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など)
会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。

この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。

1月28日(土)午後1時30分『DHCスラップ訴訟・勝利報告集会』にご参加を?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第92弾

私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶 田島泰彦先生記念講演 常任弁護団員からの解説
テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など。会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。

この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。

さて、「DHCスラップ訴訟」とは、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 また消費者問題としての意義(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 訴権濫用による高額賠償請求がどこまで許されるか。

私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。訴訟の被告になるのは、だれもが避けたい不愉快でしんどい経験です。6000万円もの請求を受ければ、多少はびびりの気持も湧いてきます。「こんな面倒なことになるのなら批判のブログは書かねばよかった」などと、ちらりと思ったりもします。でも、「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。

振り返って今、私は、DHC・吉田のやり口をけっして許してはならないと考えています。このような手口を放置すれば、社会の言論が萎縮して言論の自由が根底から崩壊しかねないとの危機感を持っています。とりわけ、「強者を批判することは裁判をやられて面倒だから、やめておいた方が賢い」となりかねません。

また、攻撃された私のブログは、政治とカネにまつわる、典型的な政治的言論ですから、スラップを放置することは権力批判の言論への萎縮を容認することにほかならないと思います。さらに、私は、吉田を「『金で政治を買おうというこの行動』、とりわけ『大金持ちがさらなる利潤を追求するために行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す』、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない」とブログに書きました。これは、消費者を代表する立場から、消費者利益を攻撃する者への言論による批判です。このような言論が封殺されてはなりません。

ですから、私は被告として訴訟に勝利しただけでは不足なのです。DHC・吉田は私の他に、同時期に9件のスラップ訴訟を提起しています。スラップ常習者と言って差し支えないと考えます。このようなスラップ常習者には、反撃訴訟が必要だと思います。

私に対する、DHCスラップ訴訟の提起が2014年4月16日ですから、時効期間の3年を考慮して、2017年4月16日以前の提訴が望ましいと思います。候補日を最初のブログ掲載の日から3年目の3月30日(木)として準備をいたします。被告は、DHC・吉田嘉明の両名だけとするか、あるいはDHC・吉田の不法行為を補佐した原告訴訟代理人となった弁護士も被告とするか。もう少し詰めて検討したいと思います。

反撃訴訟の訴額(損害賠償請求額)は660万円とします。
その根拠は、6000万円請求のスラップに対抗して応訴するための弁護士費用がその10%の金額として主損害を600万円。その損害賠償請求訴訟の弁護士費用10%を付加しての660万円。つまり、スラップ応訴のために被告(澤藤)が本来支払うべき弁護士費用(着手金+成功報酬)の妥当額が600万円。そして、反撃訴訟の弁護士費用がその10%の60万円。こういう計算です。

・違法性を基礎づけるキーワードは、
(1) DHC側の「調査義務懈怠」
(2) 6000万円の過大請求
(3) 合計10件もの濫訴
(4) 成算ないのに控訴し、最高裁まで争った。

1月28日集会では、田島先生のDHCスラップ訴訟を闘ったことの意義をお話しいただけるものと思います。また、反撃訴訟について、弁護団からの解説もあります。言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。
(2017年1月13日)

「国旗国歌(日の丸・君が代)とは何か」

東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。

私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。

これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。

第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。

「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。

「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。

また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。

以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。

そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。

国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。

国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。

「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。

それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。

原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。

憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。

国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。

私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。

集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。

そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。

そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)

ここがチャンスだ。やめよう、不便な元号使用。

平成という元号は、来年(2018年)で終わることになるようだ。天皇(明仁)はその希望のとおりに2018年の末で退位して、19年の元日から皇太子(徳仁)が即位して新元号の採用になるという。

毎日新聞はこう伝えている。
「政府は2019年1月1日に皇太子さまが天皇に即位し、同日から「平成」に代わる新しい元号とする検討に入った。平成は30年までとなる。政府は現在の天皇陛下に限った特例として退位を認める特別立法とする方針。政府は退位を実現する関連法案を今春以降、国会に提出する。」

天皇が変わることの煩わしさは、庶民にとってたいしたことではない。代替わり行事などへの出席を強制されることはないのだから。しかし、元号の変更には面倒がつきまとう。この際、元号使用をきっぱりとやめるに如くはない。これを機に不便きわまる元号の使用を国民生活から追放していきたいものと思う。

天皇制の小道具というものがある。かつては、「この国は天皇のしろしめす国なるぞ」と虚仮威しの大道具だった。いまは、知らず知らずのうちに、天皇制を国民生活に浸透させるための文字通りの小道具。

日の丸・君が代・元号・祝日・位記・勲章・褒賞。これが、代表的なものだが、探せばまだいくらでもある。神宮・恩賜公園・皇室御用達・賜杯・天皇賞・天皇杯・国体・植樹祭・歌会始…。そのなかでも、国民生活との結びつきという点では元号の存在感が抜きん出ている。

元号とは、もともとは天子が時を支配するという意味づけで発明された制度であったという。この中国製の制度を後発の近隣諸国が真似た。権力者が制定した元号を使用することは政治的に服属することの表明でもあった。各権力圏ごとに、あるいは文化圏ごとに異なる紀年法と暦法が分立したが、文明の交流が進むに連れて、ローカルな紀年法採用の不便は耐えがたくなった。そうして、今世界標準となっているのが西暦である。

我が国の、西暦・元号の並立は煩わしくてならない。私は、天皇制を拒否する意味で意識的に元号不使用としているが、思想を抜きにして、年代表記ツールとしての元号の出来の悪さと不便はだれの目にも明らかではないか。

元号は、天皇の死という偶発事情によって、突然に変更となる。連続性に欠けるだけでなく、年代の区切りとしての必然性をもたない。この不便な元号は一掃したいものと思う。明治14年から平成14年までの年数を勘定するには、明治14年と平成14年をそれぞれ西暦に置き換えて、引き算をすることになる。効率的には馬鹿げた表記法と言わざるを得ない。

西暦使用は着実に元号を排除しつつある。ほぼ全紙が記事に西暦表示を採用して、いまや違和感がない。手許の日弁連「自由と正義」も、東京弁護士会会報「リブラ」も、西暦を用いている。年賀状への元号表示は、まだ3?4割程度はあるだろうか。いずれにせよ、元号の衰退と消滅は時の勢いである。

個人的には、いろんな紀年法が考えられる。自分の誕生を元年とすることには優れた合理性があるが、他との交流には使えない。結婚の年を元年するのは素敵な表記法で、家族限りでは共有できる。敗戦時を元年として戦後を数えることは再びの戦争をつくらないとする心意気として多くの人に共感を呼ぶだろう。同じ考え方で、「ヒロシマ後」「沖縄後」も、「水俣後」も「ビキニ後」「フクシマ後」もあるだろう。

神社新報は未だに思い入れ強く「皇紀」を使用している。「イスラム暦」や「檀君紀元」や「民国歴」にこだわる人もいるだろう。不便覚悟のローカル紀年法は自由だ。なんでもありでよい。しかし、社会生活ではの元号はごめんだ。何よりも面倒だし、不経済でもある。その押しつけには抵抗しなくてはならない。次第になくして行くべきものだが、平成の終焉は大きなチャンスだ。
さあ、やめよう。不便な元号の使用と暗い道。
(2017年1月11日)

本郷湯島九条の会は「ぶたちゅう」を応援し、「軍学共同研究」に断固反対します。

本日は、「本郷湯島九条の会」新年の本郷三丁目交差点「かねやす」前街宣活動。憲法施行70周年のこの年には、アベ政権と民衆との本格的な改憲をめぐっての攻防が展開される。何よりも、野党と市民との共闘で国会の議席分布を変えなければならない。

マイクを取った人々が、戦争法のこと、共謀罪のこと、南スーダンの情勢、アベらのパールハーバー訪問、イナダの靖國神社参拝等々の訴えが続いた。そして、我が文京区も小選挙区の野党統一候補選定の話が進んでいるという。

東京2区は、文京(ぶ)・台東(た)・中央(ちゅう)の3特別区を範囲とする。これをまとめて「ぶたちゅう」と言うのだそうだ。まだ、統一候補予定者の名前も出てこないが、政党ではなく、まずは市民を中心に関係者が寄り集まっているという。がんばれ、「ぶたちゅう」。

もう一つ、話題は、東京大学の大学院生からの呼びかけで、軍学共同研究反対の訴え。

本日は、軍学共同研究反対に関する、再度の緊急署名のお願いをしておきたい。各大学や研究機関に宛てた要望である。

URLは下記のとおりである。
http://no-military-research.jp/shomei/

 

お知らせ
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円、2016年度に6億円であった予算規模は、2017年度予算では110億円へと大幅増額されようとしています。何としてもここで軍学共同の流れにストップをかけなければなりません。

そこで私たちは、全国の大学・研究機関に、本制度へ応募しないように求める下記要望書を、科学者と市民の署名を添えて提出することにしました。皆様のご署名を呼びかけます。また、周囲の方々にも広げていただければ幸いです。2017年2月20日に皆様から寄せられた署名を集約する予定です。

大学・研究機関への要望書
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円の予算規模で始まった本制度は、2016年には6億円に増額され、来年度(2017年度)においては当初の30倍超の110億円が閣議決定されました。大学予算や科学予算が減額され続けている中で、軍学共同を推進するための予算のみが大幅に増額されようとしていることは極めて異常と言わざるを得ません。そして本制度によって大学・研究機関や科学者が軍事研究に取り込まれてしまうことが強く懸念されます。

「安全保障技術研究推進制度」について、防衛装備庁は(1)基礎研究に対する助成である、(2)研究成果の公開を原則としている、(3)デュアルユースで民生技術への波及効果がある、などと強調して軍事研究に対する科学者や市民の警戒心を和らげようと躍起になっています。

しかし、(1)防衛装備庁の言う「基礎研究」とは、通常の意味における基礎科学・基礎研究ではなく、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化を目指す一連の研究・開発の過程の初期段階を意味します(その詳細は日本学術会議「安全保障と学術に関する検討委員会」の第6回会議のWEBに資料2として掲載されています)。つまり「直ちに装備化するわけではない防衛装備の基礎開発」という意味であり、将来的に本格的な装備として実用化するための第一歩なのです。

また(2)の公開については、防衛装備庁は公募要領で「研究成果は公開が原則」と曖昧に書いて発表・公開が自由であるかのように見せかけながら、実際の成果の公開に際しては必ず防衛装備庁の確認を必要とし、通常の研究と同様な研究成果公開の完全な自由が保証されておりません。さらに、採択された後に交わされる『委託契約事務処理要領』では「発表の内容、時期等については、他の当事者(防衛装備庁)の書面による事前の承諾を得るものとする」と書かれ、『委託契約書』では「発表及び公開にあたっては、その内容についてあらかじめ甲(防衛装備庁)に確認するものとする」と書かれており、採択決定後に取り交わす書類ですから、公募要領より露骨に防衛装備庁が介入・干渉できるようになっています。研究成果の完全に自由な公開という研究者にとっての死活条件が担保されていないことに対して、学術研究の場を預かる立場として安易に対応すべきではないと思われます。

(3)のデュアルユース問題については、防衛装備庁は元々民生技術として大学・研究機関で行われている開発研究を軍事目的に特化して応用しようというものであり、上記(2)の非公開の可能性を考えれば、むしろ本来構想していた民生のための技術開発が行われなくなることになると考えられます。つまりデュアルユースは、民生技術へ波及するかのように装う見せかけだけの言葉であり、実際は軍事のために技術を独占することになるのです。

以上の点からも明らかなように、この制度が大学・研究機関に浸透すれば、科学は人類全体が平和的かつ持続的に発展するための学術・文化ではなくなり、特定の国家や軍に奉仕するものへと変質させられてしまうでしょう。それは、大学・研究機関が本来行ってきた民生目的での研究・開発を歪めてしまうことになります。また、大学院生やポスドクなどの若手研究者が軍事研究に参加することが当然予想され、次世代を担う人間を育てる高等教育の在り方を変質させ、これまでせっかく築き上げてきた大学・研究機関の健全性への市民の信頼に傷をつけてしまうことは明らかです。さらに、戦時中に科学者が軍に全面協力したことへの痛烈な反省から導かれた「軍事研究を行わない」という戦後の日本の学術の原点をも否定することに繋がります。

市民は日本の学術研究が人類の平和と幸福に貢献するものと期待しており、戦争につながる研究を行なうことを決して望んではいません。市民の学術への信頼を裏切ることなく、日本の学術を預かる人間としての矜持の下、良識を貫くことを期待します。

上述したような「安全保障技術研究推進制度」の持つ危険性に鑑みて、私たちは
1.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」への応募を行わないこと、
2.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」をはじめとする軍事的研究資金の受け入れを禁止する規範あるいは指針の策定や、平和宣言の制定を検討すること、
を要望致します。
(2017年1月10日)

石田雄「『だれの子どももころさせない』ために」紹介

郵便受けにコトリと音がして、月に一度の「しのばず通信」が届いた。鶏のカットに「2017年迎春」の文字が添えられた1月7日付の新年号。「根津・ 千駄木地域憲法学習会」の会報で、A4・一枚裏表の超ミニコミ紙だが、133号と11年も継続しているのだからたいしたもの。

今号には、「『だれの子どももころさせない』ために」との標題で、石田雄さんが寄稿している。肩書は、「文京・九条の会」呼びかけ人。

念のために石田雄(いしだ たけし)さんをご紹介しておこう。1923年6月7日のお生まれだから、御年93歳である。著名な政治学者で東京大学名誉教授。学徒出陣の経験者として、「その生涯をかけて、どうしたら二度と戦争を繰り返さないか、を研究してきた学者」と紹介される方。

その石田さんの、時代への警鐘に耳を傾けたい。以下は、その抜粋である。

「今年は改憲への地ならしとして安倍政権が強行する既成事実としての軍事化に歯どめをかけることが、主権者としての私たちの課題となる。…安倍政権が「積極的平和主義」の名の下に海外での軍事力行使を敢行しようとする姿勢は、南スーダンヘの自衛隊派遣に関してもみられる。…軍事化にむけた既成事実のつみ重ねは、軍事力行使への警戒感を弱め、九条改憲反対の世論を変える役割を果たす。」

戦中派として考える
「アジア太平洋戦争に応召軍人として参加した者の反省として、このような軍事化への既成事実のつみ重ねは、1930年代後半に中国への武力行使拡大過程を想起させられる。この時期には昭和恐慌後の不満を排外的ナショナリズムに誘導した点でも、今日格差社会の不安を反中嫌韓に利用する方向との類似性を示す。
憲法に対する安倍政権の態度にもこの時期と共通性がある。自民党改憲案をみれば「和を尊び」「家族は、互いに助け合わなければならない」と道徳の要素強調がみられる点で、明治憲法より古い感じがする。実は1935年天皇機関説問題を通じて憲法に対する教育勅語の優位性が示された「国体の本義」(1937年)の考え方に近い。当時義務教育では憲法を教えず教育勅語だけを教え、軍人はその後軍の学校では軍人勅諭を教えられるが憲法は学はなかった。今日の国家主義者たちは、大正デモクうシーにも利用された明治憲法よりもむしろ「国体の本義」の考え方に親近感を持つといえよう。

これからどうする
「このように一方では時代錯誤的に古い要素を持ちながら他方ではトランプ現象とも共通した新自由主義による強者の権利と差別を主張する今日の国家主義政権の軍事化を阻止するために主権者は何を為すべきか。
60年安保の時、安倍の祖父岸信介をなやませた「安保改定阻止国民会議」の中核となった労働組合は、もはや動員力を失っている。それにかわって権力の軍事化に抵抗する新しい運動が生まれている。常に一人称単数を主語にに自分の考えを述べる「シールズ」(自由と民主主義のための学生緊急行動)、憲法を主題として地域の「憲法カフェ」で対話を進める「あすわか」(明日の自由を守る若手弁護士の会)、そして「だれの子どももころさせない」と世代をこえ国境をこえた平和の実現のために権力規制をしようとする「ママの会」(安保関連法に反対するママの会)などである。参院選ではこのような市民の連合が野党統一候補を支持しかなりの成果をあげた。
このように排外主義が感情に訴える同調性による動員に対抗して、個人の理性的判断による運動は日常的対話を基礎に徐々に広がっている。危機を叫んで短期的解決を求める企ては、不安を危険な方向に誘導される危険性がある。対話による知性的判断の拡大は時間を要するが着実に浸透し定着する。これをめざそう。
(いしだたけし「文京九条の会」よびかけ人)

石田さんの言う「排外主義が感情に訴え、社会的同調性による動員を呼び起こしている」現実が眼前にある。日韓慰安婦合意と釜山「平和の少女像」撤去問題をめぐっての、駐韓大使一時帰国の事態となった。また、非友好的で排外主義的な言説の蠢動が思いやられる。冷静な対応を呼びかける努力をしなければならない。

この一年、私も心しよう。「危機を叫んで短期的解決を求める」のではなく、時間を要するとしても、「対話による知性的判断の拡大」の浸透と定着をめざそう。それこそが、着実で確実な唯一の方法なのだから。
(2017年1月9日)

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