上野公園に見る靖國思想の源流
明日は大晦日という年の瀬。風は冷たいが、この上ない晴天に恵まれた絶好の散歩日和。幸いに、今日の上野公園は、動物園も博物館も美術館も休園・休館で人の出は少なく、申し分のないすがすがしさ。満開のジュウガツ桜や、ふくらみ始めた梅の蕾などが目を楽しませる。
上野精養軒に隣接のパゴタのある丘を「大仏山」というようだ。かつては、ここに像高6メートルの大仏(釈迦如来坐像)があった。しかし、度重なる罹災によって損壊し、現在では顔面部のみがレリーフとして保存・展示されている。その胴体は国家総動員法に基づく金属類回収令によって供出対象となり、永久に失われた。「顔だけの大仏」にも戦争の歴史が残されている。
何とはなしに、上野大仏の尊顔をしげしげと眺め、案内の掲示をよく読んでみた。
寛永8年(1621)、越後の国村上城主堀丹後守藤原直寄公がかつて自分の屋敷地としていたこの高台に土をもって釈迦如来の大仏像を創建し、戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈った。その後尊像は政保4年(1647)の地震で破損したが、明暦、万治の頃、木食僧浄雲師が江戸市中を勧進し浄財と古い刀剣や古鏡を集め青銅の大仏を造立した。(略)天保14年4月、堀丹波守藤原直央公が大仏を新鋳し、また仏殿も再建された。慶応4年(1868)彰義隊の事変にも大仏は安泰であったが、公園の設置により仏殿が撤去されて露仏となった。大正12年、関東大震災のとき仏頭が落ちたので寛永寺に移され、仏体は再建計画のために解体して保管中、昭和15年秋、第二次世界大戦に献納を余儀なくされた。
この大仏は一名「合格大仏」という。「これ以上落ちない」として合格祈願に訪れる受験生が多いからだ。たびたび落ちて縁起が悪いとするのでなく、「これ以上落ちようがない」とされているのが面白い。たくさんの合格祈願の絵馬が掛けられていた。
注目すべきは、「戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈った」とされていること。堀直寄は、秀吉に臣従し、後家康に仕えた武将で、大坂夏の陣の武功で名高い。その武将が、「戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈る」ために大仏を建立しているのだ。これが、当時の日本人の戦死観であった。死者を鞭打つ思想も、死んだ者までを差別する感情もなかった。「怨親平等」として、死しての後は敵味方の別はないとしたのだ。
ところが、同じ上野公園敷地に、まったく別の思想の遺物がある。上野戦争における彰義隊士の「墓碑」と「彰義隊墓表之来由」の石碑。この石碑の文字を読んでみたがあまりの長文で、正確には読み切れない。分からないながらも、明治政府への怨念だけは読み取れる。その怨念は、敗戦によるものではなく、戦死者に対する冒涜によるものである。官軍側が死者の埋葬を許さなかったとする恥辱に対する怨みである。
維新政府軍の死者は100余名。直ちに手厚く埋葬された。これに対して、彰義隊士の遺骸266体は上野の山に放置されたという。これを見かねた芝増上寺(徳川家の菩提寺)や、縁故者等が遺骸の引き取りを申し出たが、官軍側はこれを許さなかったと明記されている。この石碑を建てた小川興郷という彰義隊生き残りの人物は、明治政府に対する怨みを後世に残したのだ。
上野戦争についての古老の伝承として、戦争後の上野の山には彰義隊側戦死者の死骸が放置されて悲惨な状態だったとされる。小塚原(南千住)の円通寺23世仏麿和尚と、寛永寺の御用商人であった三河屋幸三郎なるものがこれを見兼ね、戦死者を上野で荼毘に付したうえ、ようやく官許を得て遺骨を円通寺に埋葬したというが、遺体の放置がどのくらいの期間続いたかはよく分からない。
矢田挿雲「江戸から東京へ」第1巻に、「彰義隊戦死者の墓のあるところは、上野戦争の折、賊の死骸を山とつんで焼いた跡、それから久しい間、ただ一本の卒塔婆が建っているばかりだったが、明治8年、山岡鉄舟が有志と謀って、現在の如き墓標を建て、これまた悲しき脱線組の霊を弔った」とある。「これまた悲しき脱線組」とは、「賊軍としての脱線」の彰義隊と西郷隆盛を指している。
現在残されている、山岡建立の「墓碑」は、明治8年ではなく15年(1882年)が正しい。明治8年まで死体が放置されたわけはなかろうが、「賊の死骸を山とつんで焼いた跡、それから久しい間、ただ一本の卒塔婆が建っているばかり」で、長く墓も建てられなかったのだ。なお、山岡鉄舟の筆になる碑銘は「戦死之墓」とされ、彰義隊の文字はない。「賊」軍を、彰「義」隊とは書けない時代だったことが見てとれる。
この、「死者の差別」が靖國の原理的思想である。靖國神社は改称前は東京招魂社と言った。戊辰戦争の官軍は、賊軍の死者の埋葬を禁じて、官軍の死者だけを祀った。これが招魂祭。友軍の死者の霊前に復讐を誓う血なまぐさい儀式であった。招魂祭では、西南諸藩の官軍を「皇御軍」(すめらみいくさ)と美称し、敵となった奥羽越列藩同盟軍を「荒振寇等」(あらぶるあたども)」と蔑称した。天皇への忠死者は未来永劫称えられる神であり、天皇への反逆軍の死者は未来永劫貶められる賊軍の死者としての烙印が押される。
招魂祭を行う場が招魂社となり、靖國神社となった。靖國神社とは、その出自において国家の宗教施設ではなく、天皇軍の宗教施設である。そして、怨親平等とは相容れない死者を徹底して差別する思想を今も持っている。その軍事的宗教施設が今も生き残って、アベやイナダと親しくしているのだ。
すがすがしいはずの散歩が、おどろおどろしいものになってしまった。しかし、民衆は官に弓引くからこそ、彰義隊や西郷隆盛、あるいは白虎隊、将門びいきである。一揆も謀反も叛乱もである。「勝てば官軍」は、嫌われ者と相場が決まっている。そう考えて、気持を持ち直そう。
(2016年12月30日)