昨日(1月13日)、日民協の「新春の集い」が開かれた。理事会を兼ねてのことである。新春の挨拶でも、今年は楽観的な希望は語られない。話題は、自ずから「激動の世界情勢」ということになる。とりわけ、トランプ現象を起こしたアメリカの民主主義についてのシビアな意見が相次いだ。
それでも、アメリカがこのままであるはずはない、という希望も語られた。「トランプ政権はもたない。いずれ自壊する」「その時期は、化けの皮が剥がれ、中間選挙で共和党が大敗する2年後」という確信にあふれた予言が説得力をもって語られた。
都民の人気を集めていた舛添要一前知事が、あっという間にバッシングの対象となってその地位を追われた。韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領も同じだ。きっと、トランプも同じ目に遭う。
トランプは、大富豪ではないか。多くの人々を搾取し収奪して財をなした人物。それが、経済的に困窮するホワイトプアー(白人困窮者層)からの支持を集めて大統領に当選するというマンガのような逆説が永続するはずはない。彼が被告として抱えている訴訟は2000件余と報じられている。その敗訴が連続するとき、欺されていた者も覚醒せざるを得ない。
忘れてはならないのは、民主党予備選挙でのサンダース現象だ。民主社会主義者を自称するサンダースの大健闘は、アメリカ社会の健全さを示すもの。トランプ現象の結果だけからは絶望しか見えてこないが、サンダースを支持した若者たちが、トランプへの抗議を継続していることに希望を見ることができよう。
集いの冒頭森英樹理事長の挨拶があった。その中で次の指摘があった。
「あまり話題にならないのですが、今年は一九一七年一一月にロシア社会主義革命が成就して一〇〇周年、そしてその崩壊から二五周年となります。その歴史に学ぶべきところはないのでしょうか」
「また、今年はルターが宗教改革を宣言した一五一七年一〇月から五〇〇周年でもあります。カトリックの精神支配から個人を解放して資本主義の成立を準備したという宗教改革からも学ぶところはあるはずです」。
今の世界の激動と混乱の原因を、資本主義そのものの矛盾の表れとしてとらえ直すべきではないか。そしてその矛盾克服の方向を、資本主義自体を変革しようとした歴史からも学べ。そういう示唆なのであろう。
すでに、世界はポストトゥルースの時代だという。しかし、これは何も世界で新たに始まったことでもなかろうという指摘もあった。「この点、日本も世界に遅れをとっていない。まず石原慎太郎がいたではないか。橋下徹も安倍晋三も負けてはいない」。言われてみればそのとおり。「コントロールとブロックの安倍」の嘘を許容する国民が情けない。日本の民衆が、新自由主義をかざして、庶民イジメ専念の安倍に、かくも長期間欺されっぱなしというのも解せない話。
「私の周囲には安倍支持の人間などいません。反安倍の人ばかり。でも、安倍の周囲には安倍を支持しない人などはいないのでしょう。安倍支持派と反安倍派とは、断絶してお互いに説得し合おうという会話の機会さえもない」「私は、意識して安倍支持派との人々とも会話のできる機会を持ちたいと思う」という発言もあった。
解散総選挙は、「今月(1月)にはないが、今年(2017年)にはあるだろう」というのが、一般的な観測である。反アベ派の仲間内だけではなく、親アベ派の人々とも会話を重ねることで、この深刻な事態を切り開いていきたい。
いたずらに、事態に絶望せず、パンドラの箱に残された美しい希望を見失わないようにしたい。政治的混乱の原因を見極め、格差・貧困・経済摩擦・雇用の縮小等々の根本原因を改善する努力を、微力でも重ねていきたいと思う。
(2017年1月14日)
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「DHCスラップ訴訟」勝利報告集会のお知らせ
私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶
田島泰彦先生記念講演
常任弁護団員からの解説(テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など)
会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。
私自身が訴えられた「DHCスラップ訴訟」。その勝利報告集会が近づいてきました。あらためてお知らせし、集会へのご参加を、よろしくお願いします。
日程と場所は以下のとおりです。
☆時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
☆所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階「スタジオプラス小ホール」
☆進行
弁護団長挨拶 田島泰彦先生記念講演 常任弁護団員からの解説
テーマは、「名誉毀損訴訟の構造」「サプリメントの消費者問題」「反撃訴訟の内容」など。会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料集を配布いたします。反撃訴訟の訴状案も用意いたします。
・資料代500円をお願いいたします。
この集会から、強者の言論抑圧に対する反撃をはじめます。ご支援ください。
さて、「DHCスラップ訴訟」とは、いったい何だったのでしょうか。その提訴と応訴が応訴が持つ意味は、次のように整理できると思います。
1 言論の自由に対する攻撃とその反撃であった。
2 とりわけ政治的言論(攻撃されたものは「政治とカネ」に関わる政治的言論)の自由をめぐる攻防であった。
3 また消費者問題としての意義(攻撃されたものは「消費者利益を目的とする行政規制」)
4 訴権濫用による高額賠償請求がどこまで許されるか。
私は、言論萎縮を狙ったスラップ訴訟の悪辣さ、その害悪を身をもって体験しました。訴訟の被告になるのは、だれもが避けたい不愉快でしんどい経験です。6000万円もの請求を受ければ、多少はびびりの気持も湧いてきます。「こんな面倒なことになるのなら批判のブログは書かねばよかった」などと、ちらりと思ったりもします。でも、「これは自分一人の問題ではない」「自分が萎縮すれば、多くの人の言論の自由が損なわれることになる」「不当な攻撃とは闘わなければならない」「闘いを放棄すれば、DHC・吉田の思う壺ではないか」「私は弁護士だ。自分の権利も擁護できないで、依頼者の人権を守ることはできない」。そう思い、自分を励ましながらの応訴でした。
振り返って今、私は、DHC・吉田のやり口をけっして許してはならないと考えています。このような手口を放置すれば、社会の言論が萎縮して言論の自由が根底から崩壊しかねないとの危機感を持っています。とりわけ、「強者を批判することは裁判をやられて面倒だから、やめておいた方が賢い」となりかねません。
また、攻撃された私のブログは、政治とカネにまつわる、典型的な政治的言論ですから、スラップを放置することは権力批判の言論への萎縮を容認することにほかならないと思います。さらに、私は、吉田を「『金で政治を買おうというこの行動』、とりわけ『大金持ちがさらなる利潤を追求するために行政の規制緩和を求めて政治家に金を出す』、こんな行為は徹底して批判されなくてはならない」とブログに書きました。これは、消費者を代表する立場から、消費者利益を攻撃する者への言論による批判です。このような言論が封殺されてはなりません。
ですから、私は被告として訴訟に勝利しただけでは不足なのです。DHC・吉田は私の他に、同時期に9件のスラップ訴訟を提起しています。スラップ常習者と言って差し支えないと考えます。このようなスラップ常習者には、反撃訴訟が必要だと思います。
私に対する、DHCスラップ訴訟の提起が2014年4月16日ですから、時効期間の3年を考慮して、2017年4月16日以前の提訴が望ましいと思います。候補日を最初のブログ掲載の日から3年目の3月30日(木)として準備をいたします。被告は、DHC・吉田嘉明の両名だけとするか、あるいはDHC・吉田の不法行為を補佐した原告訴訟代理人となった弁護士も被告とするか。もう少し詰めて検討したいと思います。
反撃訴訟の訴額(損害賠償請求額)は660万円とします。
その根拠は、6000万円請求のスラップに対抗して応訴するための弁護士費用がその10%の金額として主損害を600万円。その損害賠償請求訴訟の弁護士費用10%を付加しての660万円。つまり、スラップ応訴のために被告(澤藤)が本来支払うべき弁護士費用(着手金+成功報酬)の妥当額が600万円。そして、反撃訴訟の弁護士費用がその10%の60万円。こういう計算です。
・違法性を基礎づけるキーワードは、
(1) DHC側の「調査義務懈怠」
(2) 6000万円の過大請求
(3) 合計10件もの濫訴
(4) 成算ないのに控訴し、最高裁まで争った。
1月28日集会では、田島先生のDHCスラップ訴訟を闘ったことの意義をお話しいただけるものと思います。また、反撃訴訟について、弁護団からの解説もあります。言論の自由の大切さと思われる皆さまに、集会へのご参加と、ご発言をお願いいたします。
(2017年1月13日)
東京都(教育委員会)を被告とする、第4次・東京「君が代」裁判(「君が代」斉唱職務命令違反による懲戒処分取消訴訟)は、証拠調べが終了し次回が結審となる。「第13準備書面」となる最終準備書面を弁護団で分担して執筆中だが、さて何を書くべきか。これまでの繰りかえしではなく、裁判官に説得力をもつ論旨をどう組み立てるべきか。
私が分担する幾つかのパートの中に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」という標題の章がある。国旗・国歌についても、また「日の丸・君が代」についても、これまでも幾度となく書面を作成してきた。とりわけ、戦前と戦後における日の丸・君が代の歴史について。これまでとは違った切り口で、「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」を、どう描くことができるだろうか。
これまでは、国旗国歌への敬意表明の強制が、思想・良心の自由や信仰の自由という基本的人権を侵害するという枠組みの主張を主としてきた。「国旗・国歌(日の丸・君が代)とは何か」の内容も、それに整合する叙述となっていた。
第4次訴訟では、これを「主観的アプローチ」として、「客観的アプローチ」と名付けたもう一つの枠組みをも重視する方針としている。主観的アプローチが、特定の人の人権に対する関係で違憲違法の問題を生じるのに対し、客観的アプローチは権力の発動自体を違憲違法とするもので、だれに対する関係でも許容されないことになる。
「客観的アプローチ」の一つは、国家と国民の関係についての原理論的な立論である。国旗国歌が国家象徴であることから、主権者である国民と国家との関係が、国旗国歌の取り扱いに投影されることになる。そのことから、国旗国歌の取り扱いに関する公権力の発動には自ずから限界が画されることになる。
「客観的アプローチ」のもう一つは、問題の起きているのが教育の場であることからの教育法理による権力への制約である。公権力は、原則として教育内容に介入することはできない。
また、教員は、その職責において、生徒にあるべき教育を受けさせなければならない。多様な価値観が併存することがノーマルな社会で、多様な価値観に寛容でなければならない。国家と個人との関わりを、国家主義的な立ち場のみを是として、国旗国歌(日の丸・君が代)尊重だけが唯一の正しい立場だとしてはならず、そのような職責全うのための行為は許容されなければならない。
以上のような立場からの論述なのだが、さて具体的にはどうなるだろうか。
そもそも国家とは国民の被造物にすぎない。国民によってつくられた被造物である国家が、造物主である国民に向かって、「我を敬せよ」と強制することは、背理であり倒錯である。国旗国歌への敬意表明の強制とは、このようなものとして公権力が原理的になしうるものではない。
国旗国歌は、国家象徴として国家と等価である。国民に国旗国歌への敬意表明を強制できるとすることは、国家に国民を凌駕する価値を認めるということにほかならない。近代憲法をもつ国において、本来なし得ることではない。
国旗国歌は、原理的な意味づけをもつだけではない。歴史的な意味を付与されることになる。ハーケンクロイツは、ナチスの全体主義、民族的排外主義、優生思想等々との結びつきによって戦後廃された。「日の丸・君が代」はどうだ。天皇主権、軍国主義・植民地主義・人権弾圧の大日本帝国とあまりに深く結びついたが、この旗と歌は、日本国憲法下に生き延びた。
「日の丸・君が代」を、日本国憲法尊重の立場から、反価値の象徴と考えることには合理的根拠があり、反憲法価値の象徴への敬意表明の強制は、思想良心の自由の侵害(憲法19条)として許されない。
それだけでなく、「日の丸・君が代」は、天皇を神とし祭司ともする天皇教(国家神道)とあまりに深く結びついた、宗教国家の象徴であった。天皇教以外の信仰をもつ者にとって、「日の丸・君が代」の強制は異教の神への崇拝を強制するものとして受け入れがたく、憲法20条(信仰の自由)に抵触する。
原告らは、教員として、日本国憲法が想定する国家からの自由と自主性を確立した明日の主権者を育成する任務を有している。子どもに寄り添う立場から、国旗国歌・「日の丸君が代」尊重が唯一の「正しい」考え方であるとの一方的な押しつけを容認し得ない。
憲法とは、究極的には国家と国民の関係の規律である。国家と国民の関係については、憲法が最大の関心をもつところである。国旗国歌が国家象徴である以上は、国旗国歌の取り扱いは、憲法の最大関心事と言ってよい。
国家が、すべての国民にとって親和的であろうはずはない。国家にまつろわぬマイノリティーとしての国民は必ず存在する。すべての国民に、国家象徴への敬意表明を強制することは、必然的に少なからぬ国民にとって、自らの内面に反する行為を強制されることになる。そして、真面目な教員ほど、国家主義による生徒への思想動員に加担できないのだ。
私たちは、戦前をどのように反省したのだろうか。
集団の象徴として意味づけられた「旗」(デザイン)や「歌」(歌詞+メロディ)は、対外的には他の集団との識別機能をもち、対内的には集団の成員を統合する機能をもつとされる。国家あるいは国民の象徴と位置づけられた国旗・国歌も同様に、対外的には他国との識別機能をもち、対内的には国民の統合作用を発揮する。
そのことは、国旗国歌がナショナリズムと結合し、ナショナリズムの鼓吹の道具にされていると言うことにほかならない。国旗国歌が歴史的にもつ理念とその理念に基づく統合機能は結局はマジョリティの支配の道具にほかならない。
そのマジョリティの要望を教育の場に持ち込んではならない。教育とは、多様性を重んじつつ、それぞれの選択による人格の完成を目指すものではないか。「みんな違って、みんないい」のだ。型にはめ、同じ価値観で、同じ行動をとらせるように訓練することは、教育の場には馴染まないのだ。
(2017年1月12日)
平成という元号は、来年(2018年)で終わることになるようだ。天皇(明仁)はその希望のとおりに2018年の末で退位して、19年の元日から皇太子(徳仁)が即位して新元号の採用になるという。
毎日新聞はこう伝えている。
「政府は2019年1月1日に皇太子さまが天皇に即位し、同日から「平成」に代わる新しい元号とする検討に入った。平成は30年までとなる。政府は現在の天皇陛下に限った特例として退位を認める特別立法とする方針。政府は退位を実現する関連法案を今春以降、国会に提出する。」
天皇が変わることの煩わしさは、庶民にとってたいしたことではない。代替わり行事などへの出席を強制されることはないのだから。しかし、元号の変更には面倒がつきまとう。この際、元号使用をきっぱりとやめるに如くはない。これを機に不便きわまる元号の使用を国民生活から追放していきたいものと思う。
天皇制の小道具というものがある。かつては、「この国は天皇のしろしめす国なるぞ」と虚仮威しの大道具だった。いまは、知らず知らずのうちに、天皇制を国民生活に浸透させるための文字通りの小道具。
日の丸・君が代・元号・祝日・位記・勲章・褒賞。これが、代表的なものだが、探せばまだいくらでもある。神宮・恩賜公園・皇室御用達・賜杯・天皇賞・天皇杯・国体・植樹祭・歌会始…。そのなかでも、国民生活との結びつきという点では元号の存在感が抜きん出ている。
元号とは、もともとは天子が時を支配するという意味づけで発明された制度であったという。この中国製の制度を後発の近隣諸国が真似た。権力者が制定した元号を使用することは政治的に服属することの表明でもあった。各権力圏ごとに、あるいは文化圏ごとに異なる紀年法と暦法が分立したが、文明の交流が進むに連れて、ローカルな紀年法採用の不便は耐えがたくなった。そうして、今世界標準となっているのが西暦である。
我が国の、西暦・元号の並立は煩わしくてならない。私は、天皇制を拒否する意味で意識的に元号不使用としているが、思想を抜きにして、年代表記ツールとしての元号の出来の悪さと不便はだれの目にも明らかではないか。
元号は、天皇の死という偶発事情によって、突然に変更となる。連続性に欠けるだけでなく、年代の区切りとしての必然性をもたない。この不便な元号は一掃したいものと思う。明治14年から平成14年までの年数を勘定するには、明治14年と平成14年をそれぞれ西暦に置き換えて、引き算をすることになる。効率的には馬鹿げた表記法と言わざるを得ない。
西暦使用は着実に元号を排除しつつある。ほぼ全紙が記事に西暦表示を採用して、いまや違和感がない。手許の日弁連「自由と正義」も、東京弁護士会会報「リブラ」も、西暦を用いている。年賀状への元号表示は、まだ3?4割程度はあるだろうか。いずれにせよ、元号の衰退と消滅は時の勢いである。
個人的には、いろんな紀年法が考えられる。自分の誕生を元年とすることには優れた合理性があるが、他との交流には使えない。結婚の年を元年するのは素敵な表記法で、家族限りでは共有できる。敗戦時を元年として戦後を数えることは再びの戦争をつくらないとする心意気として多くの人に共感を呼ぶだろう。同じ考え方で、「ヒロシマ後」「沖縄後」も、「水俣後」も「ビキニ後」「フクシマ後」もあるだろう。
神社新報は未だに思い入れ強く「皇紀」を使用している。「イスラム暦」や「檀君紀元」や「民国歴」にこだわる人もいるだろう。不便覚悟のローカル紀年法は自由だ。なんでもありでよい。しかし、社会生活ではの元号はごめんだ。何よりも面倒だし、不経済でもある。その押しつけには抵抗しなくてはならない。次第になくして行くべきものだが、平成の終焉は大きなチャンスだ。
さあ、やめよう。不便な元号の使用と暗い道。
(2017年1月11日)
本日は、「本郷湯島九条の会」新年の本郷三丁目交差点「かねやす」前街宣活動。憲法施行70周年のこの年には、アベ政権と民衆との本格的な改憲をめぐっての攻防が展開される。何よりも、野党と市民との共闘で国会の議席分布を変えなければならない。
マイクを取った人々が、戦争法のこと、共謀罪のこと、南スーダンの情勢、アベらのパールハーバー訪問、イナダの靖國神社参拝等々の訴えが続いた。そして、我が文京区も小選挙区の野党統一候補選定の話が進んでいるという。
東京2区は、文京(ぶ)・台東(た)・中央(ちゅう)の3特別区を範囲とする。これをまとめて「ぶたちゅう」と言うのだそうだ。まだ、統一候補予定者の名前も出てこないが、政党ではなく、まずは市民を中心に関係者が寄り集まっているという。がんばれ、「ぶたちゅう」。
もう一つ、話題は、東京大学の大学院生からの呼びかけで、軍学共同研究反対の訴え。
本日は、軍学共同研究反対に関する、再度の緊急署名のお願いをしておきたい。各大学や研究機関に宛てた要望である。
URLは下記のとおりである。
http://no-military-research.jp/shomei/
お知らせ
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円、2016年度に6億円であった予算規模は、2017年度予算では110億円へと大幅増額されようとしています。何としてもここで軍学共同の流れにストップをかけなければなりません。
そこで私たちは、全国の大学・研究機関に、本制度へ応募しないように求める下記要望書を、科学者と市民の署名を添えて提出することにしました。皆様のご署名を呼びかけます。また、周囲の方々にも広げていただければ幸いです。2017年2月20日に皆様から寄せられた署名を集約する予定です。
大学・研究機関への要望書
防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円の予算規模で始まった本制度は、2016年には6億円に増額され、来年度(2017年度)においては当初の30倍超の110億円が閣議決定されました。大学予算や科学予算が減額され続けている中で、軍学共同を推進するための予算のみが大幅に増額されようとしていることは極めて異常と言わざるを得ません。そして本制度によって大学・研究機関や科学者が軍事研究に取り込まれてしまうことが強く懸念されます。
「安全保障技術研究推進制度」について、防衛装備庁は(1)基礎研究に対する助成である、(2)研究成果の公開を原則としている、(3)デュアルユースで民生技術への波及効果がある、などと強調して軍事研究に対する科学者や市民の警戒心を和らげようと躍起になっています。
しかし、(1)防衛装備庁の言う「基礎研究」とは、通常の意味における基礎科学・基礎研究ではなく、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化を目指す一連の研究・開発の過程の初期段階を意味します(その詳細は日本学術会議「安全保障と学術に関する検討委員会」の第6回会議のWEBに資料2として掲載されています)。つまり「直ちに装備化するわけではない防衛装備の基礎開発」という意味であり、将来的に本格的な装備として実用化するための第一歩なのです。
また(2)の公開については、防衛装備庁は公募要領で「研究成果は公開が原則」と曖昧に書いて発表・公開が自由であるかのように見せかけながら、実際の成果の公開に際しては必ず防衛装備庁の確認を必要とし、通常の研究と同様な研究成果公開の完全な自由が保証されておりません。さらに、採択された後に交わされる『委託契約事務処理要領』では「発表の内容、時期等については、他の当事者(防衛装備庁)の書面による事前の承諾を得るものとする」と書かれ、『委託契約書』では「発表及び公開にあたっては、その内容についてあらかじめ甲(防衛装備庁)に確認するものとする」と書かれており、採択決定後に取り交わす書類ですから、公募要領より露骨に防衛装備庁が介入・干渉できるようになっています。研究成果の完全に自由な公開という研究者にとっての死活条件が担保されていないことに対して、学術研究の場を預かる立場として安易に対応すべきではないと思われます。
(3)のデュアルユース問題については、防衛装備庁は元々民生技術として大学・研究機関で行われている開発研究を軍事目的に特化して応用しようというものであり、上記(2)の非公開の可能性を考えれば、むしろ本来構想していた民生のための技術開発が行われなくなることになると考えられます。つまりデュアルユースは、民生技術へ波及するかのように装う見せかけだけの言葉であり、実際は軍事のために技術を独占することになるのです。
以上の点からも明らかなように、この制度が大学・研究機関に浸透すれば、科学は人類全体が平和的かつ持続的に発展するための学術・文化ではなくなり、特定の国家や軍に奉仕するものへと変質させられてしまうでしょう。それは、大学・研究機関が本来行ってきた民生目的での研究・開発を歪めてしまうことになります。また、大学院生やポスドクなどの若手研究者が軍事研究に参加することが当然予想され、次世代を担う人間を育てる高等教育の在り方を変質させ、これまでせっかく築き上げてきた大学・研究機関の健全性への市民の信頼に傷をつけてしまうことは明らかです。さらに、戦時中に科学者が軍に全面協力したことへの痛烈な反省から導かれた「軍事研究を行わない」という戦後の日本の学術の原点をも否定することに繋がります。
市民は日本の学術研究が人類の平和と幸福に貢献するものと期待しており、戦争につながる研究を行なうことを決して望んではいません。市民の学術への信頼を裏切ることなく、日本の学術を預かる人間としての矜持の下、良識を貫くことを期待します。
上述したような「安全保障技術研究推進制度」の持つ危険性に鑑みて、私たちは
1.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」への応募を行わないこと、
2.貴学・貴研究機関として、「安全保障技術研究推進制度」をはじめとする軍事的研究資金の受け入れを禁止する規範あるいは指針の策定や、平和宣言の制定を検討すること、
を要望致します。
(2017年1月10日)
郵便受けにコトリと音がして、月に一度の「しのばず通信」が届いた。鶏のカットに「2017年迎春」の文字が添えられた1月7日付の新年号。「根津・ 千駄木地域憲法学習会」の会報で、A4・一枚裏表の超ミニコミ紙だが、133号と11年も継続しているのだからたいしたもの。
今号には、「『だれの子どももころさせない』ために」との標題で、石田雄さんが寄稿している。肩書は、「文京・九条の会」呼びかけ人。
念のために石田雄(いしだ たけし)さんをご紹介しておこう。1923年6月7日のお生まれだから、御年93歳である。著名な政治学者で東京大学名誉教授。学徒出陣の経験者として、「その生涯をかけて、どうしたら二度と戦争を繰り返さないか、を研究してきた学者」と紹介される方。
その石田さんの、時代への警鐘に耳を傾けたい。以下は、その抜粋である。
「今年は改憲への地ならしとして安倍政権が強行する既成事実としての軍事化に歯どめをかけることが、主権者としての私たちの課題となる。…安倍政権が「積極的平和主義」の名の下に海外での軍事力行使を敢行しようとする姿勢は、南スーダンヘの自衛隊派遣に関してもみられる。…軍事化にむけた既成事実のつみ重ねは、軍事力行使への警戒感を弱め、九条改憲反対の世論を変える役割を果たす。」
戦中派として考える
「アジア太平洋戦争に応召軍人として参加した者の反省として、このような軍事化への既成事実のつみ重ねは、1930年代後半に中国への武力行使拡大過程を想起させられる。この時期には昭和恐慌後の不満を排外的ナショナリズムに誘導した点でも、今日格差社会の不安を反中嫌韓に利用する方向との類似性を示す。
憲法に対する安倍政権の態度にもこの時期と共通性がある。自民党改憲案をみれば「和を尊び」「家族は、互いに助け合わなければならない」と道徳の要素強調がみられる点で、明治憲法より古い感じがする。実は1935年天皇機関説問題を通じて憲法に対する教育勅語の優位性が示された「国体の本義」(1937年)の考え方に近い。当時義務教育では憲法を教えず教育勅語だけを教え、軍人はその後軍の学校では軍人勅諭を教えられるが憲法は学はなかった。今日の国家主義者たちは、大正デモクうシーにも利用された明治憲法よりもむしろ「国体の本義」の考え方に親近感を持つといえよう。
これからどうする
「このように一方では時代錯誤的に古い要素を持ちながら他方ではトランプ現象とも共通した新自由主義による強者の権利と差別を主張する今日の国家主義政権の軍事化を阻止するために主権者は何を為すべきか。
60年安保の時、安倍の祖父岸信介をなやませた「安保改定阻止国民会議」の中核となった労働組合は、もはや動員力を失っている。それにかわって権力の軍事化に抵抗する新しい運動が生まれている。常に一人称単数を主語にに自分の考えを述べる「シールズ」(自由と民主主義のための学生緊急行動)、憲法を主題として地域の「憲法カフェ」で対話を進める「あすわか」(明日の自由を守る若手弁護士の会)、そして「だれの子どももころさせない」と世代をこえ国境をこえた平和の実現のために権力規制をしようとする「ママの会」(安保関連法に反対するママの会)などである。参院選ではこのような市民の連合が野党統一候補を支持しかなりの成果をあげた。
このように排外主義が感情に訴える同調性による動員に対抗して、個人の理性的判断による運動は日常的対話を基礎に徐々に広がっている。危機を叫んで短期的解決を求める企ては、不安を危険な方向に誘導される危険性がある。対話による知性的判断の拡大は時間を要するが着実に浸透し定着する。これをめざそう。
(いしだたけし「文京九条の会」よびかけ人)
石田さんの言う「排外主義が感情に訴え、社会的同調性による動員を呼び起こしている」現実が眼前にある。日韓慰安婦合意と釜山「平和の少女像」撤去問題をめぐっての、駐韓大使一時帰国の事態となった。また、非友好的で排外主義的な言説の蠢動が思いやられる。冷静な対応を呼びかける努力をしなければならない。
この一年、私も心しよう。「危機を叫んで短期的解決を求める」のではなく、時間を要するとしても、「対話による知性的判断の拡大」の浸透と定着をめざそう。それこそが、着実で確実な唯一の方法なのだから。
(2017年1月9日)
民主主義とは、理性にもとづく熟議によって、最大多数の幸福の実現を目指す政治過程である。これをカネの力で撹乱してはならない。少数の持てる者が、カネの力で世論を誘導し、自分に有利な有権者の投票行動に影響を与えるという現実がある。政治はカネで動くのだ。
企業や企業人は、このカネの力で政治を動かそうする衝動をもつ。企業が政治に注ぎこむカネのうち、目に見えるものを政治献金といい、裏で動く隠れたカネをワイロという。
企業の「政治献金」と「ワイロ」と、この二者は本質的には違わない。政治献金とは、実は、日常用語における賄賂だ。私はそう考えている。
ちなみに、ワイロ(賄賂)とは何か。刑法における定義ではなく、日常用語として。
広辞苑の語釈はこうだ。「不正な意図で他人に金品を贈与すること。また、その金品」。新明解は、「公務員などが職権を利用して業者に便宜をはからうことに対して受けとる、不正な金や物」。
そのほか、「職権を利用して特別の便宜を計ってもらうための、不正な贈物」「自分に有利なようにはからってもらうために贈る金品」「 自分の利益になるようとりはからってもらうなど、不正な目的で贈る金品」など。
語感は、これでつかむことができよう。要するに、「不正な見返りを求めての金品の提供」がワイロの本質と言ってよい。ならば、政権政党への企業献金は、ズバリ賄賂にほかならない。
そのような視点で、本日の毎日のトップ記事をお読みいただきたい。
「防衛献金 自民60%増」「安倍政権下 15年3.9億円 工業会31社」「予算は増加続く」という見出し。これを繋げて補うと、「安倍政権下で、防衛関連企業31社の自民党への政治献金年間額が60%増となっている」「その額2015年で3.9億円となり、防衛関連予算の増加が続いている」というもの。
安倍自民党への防衛産業からの政治献金が顕著に増加し、そのカネは防衛予算というかたちで、十分な効果を生んでいるというのだ。政治献金という名の賄賂は、政治を歪める。民主主義政治過程を撹乱すると言うだけではない。平和をも蝕むのだ。
毎日トップ記事の本文はこうだ。
「防衛装備品メーカーなどが加盟する『日本防衛装備工業会』(JADI)の会員31社が2015年、自民党の政治資金団体『国民政治協会』に計3億9000万円余を献金したことが分かった。安倍晋三内閣が15年9月に安全保障関連法を成立させたこともあり、防衛予算は増加が続く。これに歩調を合わせるように、会員による企業献金は旧民主党政権時代から60%増加しており、以前の自民党政権下の水準にまで回復した。」
「JADIは国内の防衛装備品の製造や修理などを手がける136社(正会員)が加盟し、三菱重工業会長の大宮英明氏が会長、旧防衛庁元装備本部長の野津研二氏が専務理事を務めている。15年の政治資金収支報告書によると、会員のうち31社が、自民党の企業献金の受け皿である同協会に献金していた。」
献金会社は、トヨタ自動車・キヤノン・新日鉄住金・三菱重工・日立など。いずれも「防衛装備品」の大手納入業者である。
「09年の3億8000万円余がピークだったJADI会員による同協会への献金は、民主党への政権交代によって減少。12年は約2億4000万円だったが、自民党の政権復帰後の13年に上昇に転じた。一方で会員の大半は、政権担当時を含めて民主党の政治資金団体には献金していない。国の防衛関係予算は12年度の約4兆7000億円から16年度は5兆円超まで増えており、防衛産業界の意向と政策が重なる傾向もある。JADI会員が委員に名を連ねる経団連防衛生産委員会(現防衛産業委員会)は14年2月、国の武器輸出を原則禁じた「武器輸出三原則」の見直しを自民党に提言。約2カ月後に「防衛装備移転三原則」が閣議決定され輸出が拡大した。」
以上が毎日の報道の要点。貴重な記事ではないか。主権者として、次のことを心得ておきたい。
軍需で潤っている企業がアベ自民党に献金し、アベ政権は軍事予算を増額して防衛産業を潤わせている。こうしてこそ、さらなる献金を期待できることになる。軍需産業とアベ政権、持ちつ持たれつの腐臭漂う関係なのだ。さらに、類は友を呼ぶ。軍需産業とアベ政権の腐臭に引き寄せられる者も現れる。
昨年(2016年)9月18日の当ブログが、「『弁護士バカ』事件で勇名を馳せたイナダ防衛大臣の夫は防衛産業株を保有」という記事。一部を転載しておきたい。
https://article9.jp/wordpress/?p=7458
防衛大臣が「夫名義で防衛産業株」をもっているのだ。近隣諸国との軍事的緊張が高まれば防衛予算が増額となる。そうすれば、三菱重工業・川崎重工業・IHIなどの持ち株の株価が上がる。イナダ夫妻は儲かることになる。これは、「風が吹けば桶屋が儲かる」の類の迂遠な話ではない。「雨が降れば傘屋が儲かる」ほどに必然性のある分かり易い話。防衛大臣イナダは、軍事緊張をつくり出すことで儲けることができる立場にある。反対に、近隣諸国との緊張が解けて平和な環境構築が進めば、防衛予算は削られ、防衛関連株の株価下落は避けられない。防衛大臣夫妻は、軍事緊張なくなれば損をすることになるのだ。到底「国務大臣等の公職にある者としての清廉さを保持し、政治と行政への国民の信頼を確保する」ことはできようもない。
軍需産業の献金増ではこうなる。
軍需産業献金増⇒軍需予算増⇒軍需産業好決算⇒株価騰・配当増⇒イナダ夫妻の笑み…
何度でも言わねばならない。イナダさん、防衛大臣おやめなさい。あなたにはふさわしくないのだから。
(2017年1月8日)
少女像A 釜山のBさん。こんにちは。私が、ソウルの日本大使館前で坐り続けている「平和の少女A」よ。
少女像B あら、ソウルのお姉様。私が、釜山の日本領事館前で坐りはじめた、「平和の少女B」です。よろしくね。
少女像A? 暮れにはハラハラしてたのよ。せっかくのあなたのデビューの日に、強制撤去されて、運び去られたと聞いたものですから。
少女像B そうなんです。12月28日「日韓慰安婦問題合意」1周年抗議の日が、私の最初のお目見えの日。この日の午後1時前に私は、初めて公使館前に姿を現したの。でもね、4時間後には釜山市と東区の職員40人もが「違法だから撤去する」と、人々を蹴散らして私をトラックに乗せて運び去ったんですよ。とてもこわかった。
少女像A 恐かったでしょうね。でも、国中の人が声を上げてあなたを帰せと言ったのね。
少女像B? その電話やメールの数がすごかったみたい。釜山市のインタネットサイトがパンクしてしまったほどですって。
少女像A それで、30日には元の場所に戻されたのね。
少女像B 12月31日の午後9時から除幕式を行うことが決められていたの。もしかしたら、私のいないさびしい除幕式になるかも知れないと悲しい思いだったけど、市民の力で像を取り返して領事館前に設置できるとなって、釜山は55000人の大集会で盛りあがった。その集会参加者がデモ行進して除幕式に駆けつけてくれたの。とても感動的で素敵なセレモニーだった。
少女像A あなたが連れ去られた12月28日は水曜日で、ソウルの私のまわりにもたくさんの市民が「水曜デモ」に集まっていた。その皆さんが、あなたのことをとても心配していたわ。その人たちも、釜山市や東区に電話でお願いや抗議をされたのでしょうね。
少女像B ところで、ソウルのお姉様はいつから、日本大使館の前に坐っていらっしゃるの?
少女像A 韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が、日本軍「慰安婦」問題解決のために、日本大使館前で水曜デモをはじめたのが1992年1月8日。2011年12月14日がその1000回目を迎えたときに私がつくられ、それ以来私は坐り続けているの。ただ黙って、大使館をじっと見ているだけなのだけど。
歩道に埋め込まれた石碑には、「水曜デモ1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する」と韓国語・日本語・英語で刻まれてるのよ。
少女像B お姉様も私も、キム・ソギョン、キム・ウンソンご夫婦が制作されたブロンズ像よね。姉妹は今なん人いるのかしら。
少女像A 私とあなただけが有名だけど、それだけじゃない。韓国内に55人。アメリカのグレンデール市など、国外にも15人がいるそうよ。その中で、あなたが一番若いことになるけど、12月28日前には、あなたは秘密だったの?
少女像B? そうではないのよ。2015年12月に日韓慰安婦合意が「成立」した直後に、若い世代を中心に「未来世代が建てる平和の少女像推進委員会」が立ち上げられて、16年1月から募金活動をはじめているの。多くの人が、当事者を抜きにしたままで、両国の政府と政府が勝手なことをしたという怒りが大きかったのだと思う。
少女像A カンパはどのくらい集まったの?
少女像B? 目標が7500万ウォン(724万円)だったけど、8500万ウォン(820万円)が集まったの。カンパをしてくれたのは168団体、19学校、そして5138人の個人。
少女像A 私はまったく無許可だったけど、あなたの方は、像を領事館前に置くことの許可は得なかったの?
少女像B 委員会は昨年の3月から東区に対して、日本領事館前の歩道に少女像の設置を許可してほしいと要請したの。釜山市民8100人の署名を提出もした。でも、東区は少女像が道路法上の施設には該当しないという理由で建設を許可しなかった。
少女像A 本当の理由はどんなことでしょう。
少女像B 委員会と交渉した東区の区長は、最初は「日本領事館前ではダメだ。それ以外のところならどこでも許可する」と言っていたんだけど、この区長さん日本領事と面会してからは、「どこもダメ。一切ダメ」となったんですって。
少女像A それで、私と同じように、許可の無いままの設置となったというわけね。
少女像B たくさんの人の電話やメールのおかげで、立派な除幕式ができてとても嬉しい。
少女像A 年が明けてからの日本政府の対応を、あなたどう思う。
少女像B 私、日本の政府って恐い。特に、あの日本の首相は恐い。
少女像A 大使と公使を一時本国に引き揚げる、と言って実行したものね。
少女像B 「約束を実行しない韓国の方が悪い」と言うんだけど、ヘンな約束をしたのは、日本の政府と韓国の大統領でしょう。韓国の国民は、大統領のやり方を認めていない。国民も当事者も関与してないのに、「最終的かつ不可逆的に解決される」ってあり得ない。おかしいですよね。「日本大使館近くの少女像については、韓国政府が適切に解決されるよう努力する」って、これもおかしい。政府の努力ではどうにも解決できないことでしょう。
少女像A 日本の首相のものの言い方を聞いていると、「謝ってあげた」「ホントは悪いと思っていないけれど、問題を解決しなければならないから謝ることにする」「謝ったから、もうこれで終わりだ」「これ以上、うるさいことを言うな」と聞こえるのよね。この人、日本が朝鮮や韓国に何をしてきたかを真面目に知ろうとしたことがあるのかしら。
少女像B 「いいか、一回だけ謝るぞ。一回こっきりだぞ」「二度とは謝らないから、蒸し返さないと約束しろ」と、こう言うんでしょ。これ、本当に謝る人の言葉ではあり得ない。
少女像A 問題は、従軍慰安婦だけのことではないのよね。日本は、国を奪い、文化を奪い、姓や言葉まで奪おうとした。植民地化以後の独立運動に対する大弾圧、関東大震災後の在日朝鮮人の虐殺…、そのすべてを「未来志向での解決を」という言葉でごまかそうとしてもね…。
少女像B? 日本政府もひどいけど、韓国大統領も問題よね。よく分からないのは、朴大統領が、どうしてこんな「合意」を承諾したのかしら。
少女像A きっと、雲の上にいて、国民の気持ちが分からなくなってしまっているんだわ。
少女像B ね、私たちいつまで、ここに座り続けなけれぱならないのでしょうか。
少女像A 日本が、ドイツのような誠実な姿勢を見せてくれれば、私たちは、博物館か農家の庭先にでも引っ込んで余生を送ることができるんだと思うよ。私たちのとなりには、一脚の椅子があるでしょう。作者は、老いた元慰安婦の座るべき場所を象徴したそうだけど、そこに、子どもでも老人でも休ませてあげる。
少女像B でも、日本の今の首相じゃあ見込みはなさそうね。今の日本の保守政党が政権を握っているうちも無理のようね。
少女像A しばらくはこのまま、市民に守られてじっとしていましょうね。もうすぐの大統領選挙で、もう少しマシな政権になるでしょうし。
少女像B 日本の政権も変わってほしいわね。そして、韓国の国民だけでなく、日本の国民もご一緒に、私たちを暖かく見守ってくださると、とても嬉しいわ。
(2017年1月7日)
1月20日に第193通常国会が開会予定である。その最大の対決テーマは、「共謀罪」となる。アベ内閣の反憲法的姿勢は止まるところを知らない。改憲策動や沖縄での平和運動弾圧と連動するかたちで、来たる国会では「共謀罪法案」成立を目指すことになる。「共謀罪国会」では、アベ凶暴政権と民主主義陣営が対決することになる。
本日(1月6日)の東京新聞トップの大見出しが、「『共謀罪』通常国会提出へ」。これに「野党・日弁連は反対」とサブタイトルが付けられている。以下に、記事本文の一部を抜粋する。
「安倍晋三首相は五日、犯罪計画を話し合うだけで処罰対象とする「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案を二十日召集の通常国会に提出する方針を固めた。共謀罪に関しては、国民の思想や内心の自由を侵す恐れがあるとの批判が根強い。捜査機関の職権乱用などによって人権が侵害されるとして、日弁連や共産党は反対している。民進党内でも反対論が強く、提出されれば国会で激しい議論になる。」
そして、社会面に関連記事が掲載されている。「共謀罪法案提出方針に批判」「市民活動萎縮させる」「警察が恣意的運用も」「テロ対策『歯止めが必要』」との見出しで、東京新聞の「共謀罪批判本気度」がよく分かる。
「日刊ゲンダイ」の本気度も相当なもの。多少品位には欠けるが、分かり易い。
見出しが「安倍政権 『共謀罪』大義に東京五輪を“政治利用”の姑息」というもので、記事本文は以下のとおり。
「何でもかんでも『五輪成功のため』は通らない。安倍政権は今月20日召集の通常国会で、「共謀罪」の新設を柱とする組織犯罪処罰法改正案を提出する方針だ。3年後の東京五輪開催に合わせ、『テロ対策』の性格を前面に打ち出そうと必死で、悪名高い名称を『テロ等準備罪』に変えたが、しょせんは姑息な手段だ。悪評ふんぷんの共謀罪の成立にまで、五輪の政治利用は絶対に許されない。」
「共謀罪は、実際に犯罪を犯していなくても相談しただけで罰せられてしまう。極論すれば、サラリーマンが居酒屋談議で『うるさい上司を殺してやろう』と話しただけで、しょっぴかれる可能性がある。権力側が市民の監視や思想の取り締まりに都合よく運用する恐れもあり、03、04、05年に関連法案が国会に提出されたものの、3度とも廃案に追い込まれた。」「五輪の成功を名目に、こんなウルトラ危険な法案を懲りずに通そうというのだから、安倍政権はイカれている。」
そして、ゲンダイの記事は、こう結んでいる。「『五輪成功』にかこつけて、希代の悪法成立を許してしまうのか。メディアの真価が今こそ問われている。」
「メディアの真価」どこ吹く風? の典型が例によって産経である。
「『共謀罪』法案名変更で通常国会提出へ テロ対策を主眼に」という見出しでこう述べている。
「政府は5日、テロ対策として『共謀罪』の構成要件を一部変更する組織犯罪処罰法正案を、20日召集の通常国会に提出する方針を固めた。法案名も2020年東京五輪・パラリンピックを見据え、テロ対策が主眼であることが明白となるよう変更する見通しだ。」
「国連は2000年に『国際組織犯罪防止条約』を採択し、すでに180カ国以上が締結しているが、日本は批准条件となっている共謀罪が存在しないため締結に至っていない。このまま法整備が進まなければ、国際社会から「テロ対策に消極的」との批判を浴びかねない状況だ。」
共謀罪法案は、下記のとおり、3度国会に提出となり、3度とも廃案になった。
2002年 法制審議会で検討
2003年 3月 第156回通常国会に法案提出(廃案)
2004年 2月 第159回通常国会に法案再提出(継続)
2005年 8月 衆議院解散に伴い廃案
2005年10月 第163回特別国会に法案提出(継続)
2009年 7月 衆議院解散により廃案
これまでの刑事法の常識に照らして異常な立法と、野党や世論の反発を招いたからである。「現代の治安維持法」とまで言われて廃案の運命をたどった。政府の説明は、<国際組織犯罪防止条約>批准のために必要というものだが、法案の内容は明らかに過剰に処罰範囲を広げるもので、説明との整合性を欠いている。
今度は論拠にオリンピックが持ち出された。オリンピックも迷惑だろう。本当に、テロの危険が差し迫っている東京五輪なら、やめてしまうに越したことはない。
さて、「共謀罪」とは何か。日弁連のリーフレットの解説が分かり易い。
「『共謀罪』とは、2人以上の者が、犯罪を行うことを話し合って合意することを処罰対象とする犯罪のことです。具体的な『行為』がないのに話し合っただけで処罰するのが共謀罪の特徴です。しかし、単なる『合意』というのは、『心の中で思ったこと』と紙一重の段階です。
近代刑法は、犯罪意思(心の中で思ったこと)だけでは処罰せず、それが具体的な結果・被害として現れて初めて処罰対象になるとしています。『既遂』処罰が原則で、『未遂』処罰は例外、それ以前の『予備』の処罰は極めて例外、しかも、いずれも『行為』があって初めて犯罪が成立するというのが刑法の大原則です。
共謀罪は、この『予備』よりもはるか以前の『合意』だけで、『行為』がなくても処罰するというものです。このように処罰時期を早めることは、犯罪とされる行為(構成要件)の明確性を失わせ、単に疑わしいとか悪い考えを抱いているというだけで人が処罰されるような事態を招きかねません。」
だから、「現代の治安維持法法」と悪評が高いのだ。治安維持法は、「結社の目的遂行の為にする行為」を犯罪とした。「結社の目的」とは、「國體の変革」(天皇制打倒)と、「私有財産制の否定」(社会主義思想の実現)の二つを言うが、「その目的遂行の為にする行為」とは、漠然としてどうにでも解釈できる。だから、共産党員の慰安維持法違反事件を弁護した弁護士の行為も、心の中の意図を忖度して、治安維持法違反として逮捕され、起訴され、有罪となった。「共謀罪法案」成立によって、新たにつくり出される犯罪は600余とされている。恐るべき監視社会が生み出されることになる。
もしやあなたの心の片隅に、こんな考えがありはしないか。
「世の中には善人と悪人の2種類の人がいる。法による処罰を恐れるのは悪人だけで、私は善人のグループにいるのだから、法も処罰も恐れることはない。むしろ処罰の範囲を拡大してくれれば、社会は平穏で住みやすい社会になる」
この考え方は大きく間違っている。この間違いを「なんと愚かな」と見過ごしてはならない。民主主義社会においては、堕落した危険な考え方として徹底して批判されなければならない。このような考え方こそ、権力者を喜ばせ、権力者をより傲慢にさせるものにほかならない。その結果、権力の監視の目が隅々にまで行き届く社会を作り出し、自分を善人と思っている人々をも含めて、「生きにくい窮屈な世の中となった」と慨嘆させることになり、挙げ句の果てには全体主義の完成を招くことになる。
治安維持法のはたした役割を思い、ニーメラーの慨嘆を思い起こそう。
「ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」
(2017年1月6日)
皆さん、明けましておめでとうございます。
アベ・シンゾーから、新年のご挨拶を申しあげます。
憲法学界や宗教界からは、憲法20条3項に定める政教分離原則に違反ではないかという強いご指摘あることは重々承知の上で、今年も年頭には伊勢神宮に参拝し、内閣総理大臣としての年頭記者会見は、ここ伊勢神宮で行います。内閣記者クラブの皆様方には、一言のイヤミも問題提起もなく、快くこの地まで足を運んでいただきましたことに、厚く御礼を申し上げます。
昨年は、災害が相次いだ年でした。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。本年は、どうか平穏で、豊かな一年を過ごせるように、との思いで、先ほど伊勢神宮を参拝してまいりました。私の理想とするところは、まさしく天皇を戴く国をつくることにあります。その国では、国家・国民の幸せと皇室の弥栄とが不即不離一体の美しい形をなし、皇室の祖先神をはじめとする神々のご加護が満ちあふれるのです。ですから、年頭の伊勢神宮参拝と、この地での記者会見は私にとって欠かせないものであることをご理解ください。
世の中には、社会のためにあるいは恵まれない人々のために、献身的な活動をされている多くの立派な人々がいます。しかし、この際そのような方を一切無視して、自衛隊の諸君にだけ敬意と感謝を表したいと思います。遠く離れたアフリカの地には、PKO5原則が整わぬままに送り出された国連PKO部隊参加の自衛隊員がいます。その駆けつけ警護の任務では、明日にもなにが起こるか分からない事態なのですから、その強い使命感と責任感に感謝しなければなりません。今に、すべての学校で、日の丸を掲げ君が代を唱うだけではなく、「兵隊さんのおかげです。兵隊さんよありがとう」と歌う日が来るよう、願うものです。
さて、本年は酉(とり)年であります。酉年は、しばしば政治の大きな転換点となってきました。本年も、変化の一年となることが予想されます。そうした先の見えない時代にあって、大切なことは、ぶれないこと。頑迷固陋に最初の方針を変えないことが大事なのです。大日本帝国も軍部も、大東亜戦争を始めたら戦局不利となっても、ぶれずに最後までよく闘ったではありませんか。
アベノミクスは失敗だという声が巷に満ちていますが、けっしてぶれることなく、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けてまいります。刀折れ矢が尽きても、アベノミクスをふかしつづけます。
また、内政だけでなく、外交も失敗続きだという悪評にめげることなく、積極的な地球を俯瞰する外交を展開してまいります。ときどき、自分でも何をやっているのか分からなくなりますが、一枚も二枚も上手の鵺どもを相手にしているのですから、まあ、成果のないのもいたしかたないと自分を慰めています。
あの昭和20年も酉年でありました。我が国の戦後が始まった年です。戦争で全てを失い、見渡す限りの焼け野原が広がっていました。しかし、先人たちは決して諦めませんでした。廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、戦後、新しい憲法の下、平和で豊かな国を、今を生きる私たちのため、創り上げてくれました。
本年は、その日本国憲法の施行から70年という節目の年に当たります。この70年間で経済も社会も大きく変化しました。かつては素晴らしかった日本国憲法も、完全に時代遅れのものとなりました。日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。こうした困難な課題から、もはや目を背けることはできません。戦後を創り上げた70年前の先人たちに倣って、今を生きる私たちもまた、こうした課題に真正面から立ち向かわなければなりません。未来への責任を果たさなければなりません。
そのために何をなすべきか。いうまでもなく、憲法を変えなくてはなりません。どのように変えるべきか。いうまでもなく、戦後レジームから脱却して、美しい明治憲法の精神に立ち返ることです。そのようにして、億兆国民が元首たる天皇陛下のもとに心を一つにして、どこの国にも負けない強い日本をつくることが肝要です。
国防こそが、政治の要諦です。次なる70年を見据えながら、未来に向かって、今こそ辺野古にも高江にも、強力な米軍基地を作らねばなりません。それだけではなく、産業も学問も教育もメディアも、すべての国民の営みが強い国家を作るため、国防のためのものでなくてはなりません。今年こそは、そのよう観点から新しい国づくりを進めるべきときです。
私は、積極的平和主義の旗を高く掲げます。私の言う「積極的平和主義」を、憲法の平和主義と同じものだと誤解する向きもあるやに聞いていますが、とんでもないことです。憲法の平和主義とは、いかなる事態においても闘うことを放棄した敗北主義ではありませんか。これは私の採るところではありません。積極的に、軍備を充実し戦争を辞さないとする構えを崩さないこと。これが平和を守ることになるのです。本気になった戦争の準備こそが、平和を守ることになります。軍備を充実し戦争ができるよう法制を整える。これが、私の言う積極的平和主義なのですから、くれぐれもお間違えなきよう願います。
こうして、日本を世界の真ん中で輝かせる。そのような輝く国の子供たちこそが我が国の未来そのものではありませんか。子供たちの誰もが、家庭の事情にかかわらず、尊敬される軍人になって国家に貢献するという夢と希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる、そういう日本を創り上げていく決意であります。
私たちの未来は人から与えられるものではありません。私たち日本人が自らの手で自らの未来を切り拓いていく、その気概が今こそ求められています。私たちの子や孫、その先の未来を見据えながら、本年安倍内閣は、国家主義原理の憲法改正を見据え、国民の皆様が具体的に改憲の論議のできる環境作りを本格的に始動してまいります。
最後となりましたが、本年が国家と皇室と政権と、そして憲法改正のために素晴らしい一年となりますことを心から祈念いたしまして、年頭における所感とさせていただきます。
(2017年1月5日)