本日(12月29日)午前、イナダ防衛相は靖国神社を参拝した。防衛省によると、2007年1月の省昇格後、防衛相の靖国参拝は初めてだという。防衛庁時代からだと、2002年8月15日の中谷元・防衛庁長官の参拝以来のこと。言うまでもなく靖國神社は戦前の国家神道における軍国主義の側面を代表する軍事的宗教施設である。その宗教施設への防衛相の参拝が、近隣諸国の国民の神経を刺激することになるのは当然のことだ。
多くのメディアが、「中国、韓国両政府は稲田氏の対応を批判。北朝鮮の核・ミサイル開発をにらんだ韓国との防衛協力や、中国との防衛交流にも影響」と報道している。共同通信に至っては、「稲田朋美防衛相による靖国神社参拝について、オバマ米政権は公式な反応を示していないが、日米首脳が連れ立って真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する歴史的なハワイ・真珠湾訪問の直後に、中韓などが軍国主義礼賛の象徴と見なす靖国を重要閣僚が訪問したことに、強い不快感を抱いているとみられる」「稲田氏の参拝は米国側には、両首脳の真珠湾訪問に冷や水を浴びせる行為と映りかねない」と配信している。
参拝後、イナダは記者団に「今の平和な日本は祖国のために命をささげられた方々の尊い命の積み重ねの上にある。未来志向に立ってしっかりと日本と世界の平和を築いていきたいという思いで参拝した」「家族とふるさとと国を守るために出撃した人々の命の積み重ねのうえに今の平和な日本があるということを忘れてはならないし、忘恩の徒にはなりたくないと思っています」などと語っている。
自衛隊員からも公然と、「少々頼りない」と言われるイナダである。国会で野党議員からの追及にべそをかく醜態も演じている。「少々頼りない」の批判に過剰に反応して、「強い防衛大臣」という姿勢を見せようと、結局暴走してしまったようだ。記者団へのコメントも、ナショナリズムの感情だけは語られているが、そのことがなぜ靖国参拝に結びつくかの論理に欠け、説得力も迫力もない。
それより問題は、違憲・違法の点にこそある。イナダは弁護士だというではないか。自分の行為が違憲でも違法でもないことをきちんと説明すべきだろうが、情緒的な語り口に終始して、違憲を回避する法的根拠を語りえていない。
イナダが玉串料を私費で支払ったと言っていることからすると、参拝は私的なもので、閣僚としての公的な資格に基づくものではない、と主張したい如くである。
しかし、記者団が確認したところでは、「防衛大臣 稲田朋美」と記帳がなされているというではないか。これは、イナダが「防衛大臣」という公的資格をもって靖國神社に参拝したことにほかならない。肩書記帳とは、そのようなものだ。
人は、私人であるだけでなく、幾つもの立場をもっている。肩書の記帳とは、参拝を受け入れる側である宗教法人靖國神社に対して、参拝者の立場を明示するものだ。私人としての参拝であれば、氏名だけでよい。私人としてでなく、特定の団体のメンバーとしての立場であれば、その団体名を書くことなる。公的な資格での参拝であれば、その資格を明記する。靖國神社はその肩書きにしたがった参拝として遇することになる。宗教的な意味合いからは、靖國神社の祭神にどのような立場、資格でまみえるかは、肩書き記帳以外にはないのだ。
イナダは、「防衛大臣」の肩書を記帳することで、「防衛大臣」の公的資格をもって参拝することを靖國神社に伝えたのだ。私的な参拝であれば、肩書は不要である。この一事で、私的参拝でないことは明らかと言ってよい。
イナダは、「防衛大臣である稲田朋美が一国民として参拝したということだ」と弁明したそうだが、姑息千万。「防衛大臣である稲田朋美」は私人でない。「一国民としての私的な」立場であるためには、「防衛大臣」という肩書を外すことが必要条件である。もちろん、肩書を外せば私的参拝になるわけではないが、「防衛大臣」の肩書を記帳して、「実は私人としての参拝」とは、見苦しいにもほどがある。通用する言い訳になっていないではないか。自分を支援する右翼団体に向けて、涙を浮かべた今夏の醜態を挽回のつもりだろうが、かえって恥の上塗りだ。「頼りない」レベルではない。「到底信用のおけない卑怯な振る舞い」と言わねばならない。
かつて、自民党内閣は、「私的参拝4条件」を明確にしていた。政教分離に違反した違憲の公的参拝であるとの批判を避けるためには、「公用車不使用」「玉串料を私費で支出」「一切の肩書きを付けない」「職員を随行させない」の全部が必要というものであった。不十分ではあれ、それなりに真面目に違憲を避けようとの配慮が感じられる。今の政権には、このような真面目さがない。とりわけ、今回のイナダの参拝はひどい。
総理や閣僚の靖國神社公式参拝について、その合違憲判断の基準に関する最高裁判決はまだない。高裁レベルでは、1991年1月10日の岩手靖国違憲訴訟控訴審判決が詳細な検討の結果、違憲と断じている。長大な判決理由の、結論部分だけを引用する。
靖國神社の宗教性
「靖国神社は明らかに宗教法人法における宗教団体であり、また、憲法上の宗教団体である。そして、神社は神祇(神霊あるいは祭神)を奉祀し、祭典を執行して、公衆の参拝に供するものである。また、祭神は神社の主体、根本をなす中心的要素であって、祭神に対する拝礼は、神の存在を認め、神に対する畏敬崇拝の念を表す行為であるというべきである。靖国神社の祭神は、多数にのぼること前記のとおりであるが、それは、靖国神社が戦時事変の殉難戦死者を祭神としているからであって、そのことによって、靖国神社の宗教団体性が他の神社と区別されるいわれはない」
参拝行為の宗教性
「参拝の宗教的意義ないし宗教性について考えてみるに、神社参拝という行為は、祭神を奉斎した神社に赴いて、祭神に対して拝礼することを意味する行為であるから、まさに、宗教的行為そのものというべきである。」
私的参拝は自由だが、公的参拝は許されない
「参拝は、祭神に対する拝礼であるから、もともと参拝者の内心に属する宗教的行為というべきであり、したがって、それが私的なものとして行われる限り、何人もこれに容喙することは許されないが、右参拝が公的資格において行われる場合には、右参拝によって招来されるであろう国家社会への波及的効果を考慮しなければならないから、憲法20条3項の規定する宗教的活動の該当性が吟味されるべきものと考える。」
追悼又は慰霊を目的とする公式参拝も許されない
「追悼又は慰霊を目的とする公式参拝は非宗教的行為といえるかどうかについて検討することとする。内閣総理大臣等が公的資格において参拝することは、その主観的意図ないし目的が戦没者に対する追悼(それ自体は非宗教的なものとして世俗的なものと評価されよう。)であっても、これを客観的に観察するならば、右追悼の面とともに、特定の宗教法人である靖国神社の祭神に対する拝礼という面をも有していると考えざるをえない。(略)公式参拝については、その主観的意図が追悼の目的であっても、参拝のもつ宗教性を排除ないし希薄化するものということはできないといわざるをえない。」
結論
「天皇、内閣総理大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、右公式参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
イナダは、謙虚に、心してこの判決を熟読せねばならない。この判決は、天皇と内閣総理大臣の公式参拝について触れているが、閣僚についてもまったく同様である。以下のとおりに読み替えができるのだ。
「防衛大臣の靖国神社公式参拝は、その目的が宗教的意義をもち、その行為の態様からみて国の機関として、特定の宗教への関心を呼び起こす行為というべきであり、しかも、公的資格においてなされる右公式参拝がもたらす直接的、顕在的な影響及び将来予想される間接的、潜在的な動向を総合考慮すれば、右公式参拝における国と宗教法人靖国神社との宗教上のかかわり合いは、我が国の憲法の拠って立つ政教分離原則に照らし、相当とされる限度を超えるものと断定せざるをえない。したがって、イナダ防衛大臣の防衛大臣として肩書を付した靖國神社参拝は、憲法20条3項が禁止する宗教的活動に該当する違憲な行為といわなければならない。」
(2016年12月29日)
パールハーバーでのアベ晋三の、なんとも面妖な17分間の演説。朝、ラジオで聞いていて、神経に障った。不愉快極まりない。
なるほど、詐欺師と総理大臣とは、平気で嘘をつかねば務まらない。「アンダーコントロールでブロック」のときも呆れたが、今度は戦争と平和についての問題として、さらに深刻だ。
演説の内容は、3つの部分からなる印象。
(1) どうでもよい、情緒的で無内容なつまらぬ部分。
(2) それ自体間違ってはいないが、「そんな演説をする資格があるのか」と突っ込まねばならない部分。
(3) そして、本音の問題発言部分。
(1) 「耳を澄ますと、寄せては返す、波の音が聞こえてきます。降り注ぐ陽の、やわらかな光に照らされた、青い、静かな入江。」「耳を澄まして心を研ぎ澄ますと、風と、波の音とともに、兵士たちの声が聞こえてきます。」「あの日、爆撃が戦艦アリゾナを二つに切り裂いたとき、紅蓮の炎の中で、死んでいった…」
誰が書いた文章なのかは知らないが、こんな浮わついた駄文の朗読を聞かされる身にもなって見よ。耳が痒くなる。尻が落ち着かない。それが、「日本国民を代表して」と繰り返されての発言なのだから、目から火が出るほどに恥ずかしい。日本とは、この程度の首相しか出せない国なのだ。
それはともかく、驚いたのは次のくだりだ。
(2) 戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない。私たちは、そう誓いました。そして戦後、自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました。戦後70年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たち日本人は、静かな誇りを感じながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。この場で、戦艦アリゾナに眠る兵士たちに、アメリカ国民の皆さまに、世界の人々に、固い、その決意を、日本国総理大臣として、表明いたします。
「日本国総理大臣として」の部分を除けば、このように演説のできる人、このような演説を口にして違和感のない人物は、保守革新の立場を問わず、日本に少なからずいる。しかし、そのような人は、アベ政権とその周囲にはいない。「不戦の誓いを貫いてまいりました」と言える人は、例外なくアベ晋三の批判者である。政敵であるといってもよい。
「戦争の惨禍は、二度と、繰り返してはならない」とは日本国憲法の根幹の理念である。一貫して憲法を敵視し、とりわけ九条改憲に執着してきたアベの口から出れば、デマゴギーである。あるいはマヌーバーなのだ。教育基本法を改悪し、特定秘密保護法や戦争法の制定を強行し、日本を戦争のできる国にしたばかりか、非核三原則や武器輸出三原則をないがしろにして、防衛予算だけを聖域化してきたアベではないか。どの口からどの舌をもって「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ、この不動の方針をこれからも貫いてまいります」などと言えるのか。
(3) さらに、「勇者は、勇者を敬う」の引用が愚かしくも危険極まりない。アベは、奇襲した側の皇軍の兵士も、奇襲を受けたアメリカ軍の兵士も、ともに「勇者」として称えているのだ。靖国の思想に通底する。戦争を徹底して愚かなものと見ないのだ。それぞれの祖国のために勇敢に闘った勇者と勇者。そのように美化する戦没兵士観。これは同盟国同士の戦意高揚演説ではないか。
最大の問題点は、平和を語っていたのが、いつの間にか日米の同盟の賛美を語りはじめる点だ。この演説の本音はここにある。同盟(alliance)とは、軍事に関わる用語ではないか。共通の仮想敵国を想定しての軍事同盟(military alliance)を意味しているのだ。そのような理解で読めば、文意が明瞭になる。
「歴史に残る激しい戦争を戦った日本と米国は、歴史にまれな、深く、強く結ばれた(軍事的)同盟国となりました。」「それは、いままでにもまして、世界を覆う幾多の(共通の仮想敵国がもたらす)困難に、ともに立ち向かう(軍事)同盟です。明日を拓く、『(軍事的勝利という)希望の同盟』です。」というもの。
こんな軍事同盟はやめて、どこの国とも積極的に友好関係を結ぶべきではないか。そうすれば、特定国との軍事同盟の必要は無くなる。そのような姿勢こそ、「不戦の誓いを貫く」ものとして、誇るに足りるものではないか。
ところで、この演説の中に何度も出て来る「日本国民」とは、はたして沖縄県民を含んでいるのだろうか。いや、沖縄県民に共感してアベ政権を批判する多くの全土の国民を含んでいるのだろうか。アベ政権は、「不戦の誓いを貫く」とは正反対の行動として、沖縄に新軍事基地を建設しようと狂奔している。アベのパールハーバー行の最中に、名護市辺野古大浦湾埋め立て承認の「取り消し処分」が取り消され、日米軍事同盟を強化して、戦争のための基地建設工事が再開された。
こうしてアベ政権と沖縄県民との基地建設の工事をめぐる攻防も再開された。到底、ここに「自由で民主的な国」の姿はない。「法の支配を重んじ、ひたすら、不戦の誓いを貫いてまいりました」とは、ぬけぬけとよくも言ったもの。「平和国家としての歩みに静かな誇りを感じ」る事態とはほど遠い。
翁長知事は今後も、あらゆる手段で辺野古新基地建設を阻止する考えに変わりないことを強調している。地元の理解や協力なくして、防衛も安全保障もあり得ない。
これを見れば、米軍とアベ政権のパールハーバーでの共同セレモニーは、結局のところ、国民を無視しての支配層同士・軍部同士の、日米軍事同盟強化のパフォーマンスだったと言うべきではないか。
(2016年12月28日)
ワタクシ、おなじみのアベです。いま、パールハーバーを訪問しています。
「右翼の軍国主義者と呼びたいのなら、そう呼んでいただきたい」と大見得を切ったこともあるワタクシです。歴史修正主義グループの頭目と批判され続けてきたワタクシでもあります。何ゆえ、今頃、パールハーバーへ。いったい何をしに来たのか、と不審に思われるのももっともでゴザイマス。これには深いわけがあるのでゴザイマスが、なかなか自分でも上手にお話しできません。アチラを立てればコチラが立たずなのでゴザイマス。その辺はお察しください。
ワタクシの歴史認識においては、中国との戦争は五族協和の大東亜を作るための聖戦であり、アメリカとの戦争は自存自衛のやむを得ざる防衛戦争だったのでゴザイマスから、パールハーバーが卑怯なだまし討ちだったとしても、その犠牲者に謝罪の必要は認めません。ワタクシは、東条内閣の商工大臣だったお祖父さまの教えのとおり、東京裁判史観全面否定を貫く覚悟なのです。靖国派と言われる人々からのご支援あればこその今のワタクシであることをよく心得て、飽くまでも靖國神社参拝にこだわらざるを得ないこともご承知のとおり。そのワタクシが、よりにもよって、なぜパールハーバーなのか。
「真珠湾の前に、まず南京だろう」「柳条湖ではないか」「平頂山にせよ」「いやタプコル公園にこそ行くべきだ」。いろいろ、ご意見のあるところでゴザイマショウ。いろんな疑問や議論の全部にお答えすることは到底できません。たまたま、日米の著名な歴史学者ら53人が、12月25日付でワタクシの歴史認識を問いただす「公開質問状」を発表しています。質問は、かなり意地の悪い3点。これにお答えすることで責めを塞ぐことといたします。
公開質問状質問事項(1)
あなたは、1994年末に、日本の侵略戦争を反省する国会決議に対抗する目的で結成された「終戦五十周年議員連盟」の事務局長代理を務めていました。その結成趣意書には、日本の200万余の戦没者が「日本の自存自衛とアジアの平和」のために命を捧げたとあります。この連盟の1995年4月13日の運動方針では、終戦50周年を記念する国会決議に謝罪や不戦の誓いを入れることを拒否しています。1995年6月8日の声明では、与党の決議案が「侵略的行為」や「植民地支配」を認めていることから賛成できないと表明しています。安倍首相、あなたは今でもこの戦争についてこのような認識をお持ちですか。
これはまた、政治家に思想・信条をお訪ねになろうという野暮なご質問。普段は、大嫌いな日本国憲法ですが、こういう場合には19条をしっかりと援用させていただきましょう。
「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」とは、内面の思想や良心の表白を強要されない権利と考えられています。ワタクシの歴史認識を問い質そうということが憲法違反の野暮というものなのです。
ワタクシは政治家ですから、自分の思想や信条のままに動くことはありません。状況次第で、右ともいい、左とも言うのです。第1次アベ内閣の時代には、ワタクシは未熟だった。ワタクシの歴史認識や信条を前面に出すことに性急で、結局失敗したわけでゴザイマス。で、今は当時と比べれば老成し柔軟になっていることはお認めいただけるものと自負しております。政治家などというものは、結局は国民次第。ワタクシが、皇国が反省すべき「侵略的行為」や「植民地支配」を行ったと認めるわけはありませんが、今そのようなことを口にして支持率を落とすがごとき愚をおかすこともいたしません。
仮にワタクシが侵略戦争や植民地支配の誤りを認めて謝罪したとしましょう。たちまちワタクシは、強固な支持層である右翼・国家主義者たちの離反によって、今の地位を危うくします。もし、ワタクシがその反対に、反省も謝罪も不必要と明言すれば、国民の過半を占めるリベラル層からの厳しい指弾を受けざるを得ません。
結局のところは、「謝罪」「反省」「責任」などの言葉を禁句とし、「未来指向の和解による平和の構築」とか、「両国の戦没者を慰霊し、その尊い犠牲を無にすることなきよう不戦を誓う」くらいの無難なことをいうしかないのです。
繰り返しますが、ワタクシの本心などは問題ではありません。飽くまで、ワタクシが何を言うか、何を言えるかだけが問題であって、それはひとえに国民の意識にかかっているのです。
質問事項(2)
2013年4月23日の国会答弁では、首相として「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と答弁しています。ということは、あなたは、連合国およびアジア太平洋諸国に対する戦争と、すでに続行していた対中戦争を侵略戦争とは認めないということでしょうか。
前問の回答とも関連しますが、この問にイエスかノーのどちらかで答える愚は避けたいと思います。風姿花伝の世阿弥の言葉を引用しましょう。「秘すれば花」ではありませんか。まさしく、「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」なのです。この分け目を知ることが、政治の要諦なのです。
同行のイナダ防衛大臣は、ワタクシに劣らぬ靖國神社参拝推進派として知られていましたが、秘することなく露骨に靖國神社参拝強行を説いていたばかりに、野党議員から「閣僚になった途端に信条を曲げて靖国参拝を見送るのは言行不一致」と追及されて泣きべそをかいたことは皆さまご存じのとおりです。ですから、勢いに任せて勇ましいことは言わぬが花なのです。
なお、この質問は、過去の戦争を侵略と認めて反省することなしには、将来の平和の構築はないというドグマを前提とするものの如くです。しかし、はたして「過去に目をつむるものは現在に盲目」でしょうか。過去は不問に付して、将来を見つめることだって、できないはずはない。それがワタクシの信念です。今回のパールハーバー行も、それでよいのだという事前の確認があつたからこそ実現したことを申しあげておきます。
このくらいで、十分なお答えになっていると思います。あとはどのように忖度していただいても結構です。
質問事項(3)
あなたは、真珠湾攻撃で亡くなった約2400人の米国人の「慰霊」のために訪問するということです。それなら、中国や、朝鮮半島、他のアジア太平洋諸国、他の連合国における数千万にも上る戦争被害者の「慰霊」にも行く予定はありますか。
これも、ワタクシではなく、主権者である国民が決めることです。ワタクシの身体は私のものであって私のものではない。国民の意思が、明確に望むことであれば、そのようにしたいと思いますが、いま、必ずしもそのような判断には躊躇せざるを得ません。国民は、何よりも日本人戦没者の英霊に尊崇の誠を捧げることを望んでいると思います。
靖國神社が軍人軍属の死者だけを祀るものとなって、民間の戦争犠牲者には何の儀礼もなく、死者の遺族にも補償もないことが著しい差別と批判されますが、これも国民が選択してきたことではありませんか。
今回の「慰霊行」が、アメリカだから国民に違和感がないという側面は否定し得ないと思います。なにしろ、ヘイトスピーチの横行を許している国民ではありませんか。中国や韓国・北朝鮮の戦争被害者の「慰霊行」を国民感情が許すかどうか。ワタクシには見極めがつきかねます。
要は、正しいか否かではなく、国民の支持を取り付けられるかどうかだけが、メルクマールなのです。それがナニカ?
なお、53氏の質問状の最後はこう締めくくられています。
首相としてあなたは、憲法9条を再解釈あるいは改定して自衛隊に海外のどこでも戦争ができるようにすることを推進してきました。これがアジア太平洋戦争において日本に被害を受けた国々にどのような合図として映るのか、考えてみてください。
考えてみましたよ。その結論は、「日本による被害を受けた国々の国民」よりは、日本国民の感情を優先しなければならないということでゴザイマス。「アジアへの侵略を認めて謝罪をする」ことは、ワタクシの拠って立つ政治基盤を自ら掘り崩すこと。到底できることではありません。これだけは明確に申しあげておきます。だいたい、アメリカに頭を下げるのは昔から慣れていることでもありますしね。えっ? それがナニカ?
(2016年12月27日)
暮れも押し詰まった本日、DHCスラップ訴訟弁護団会議が開かれた。
テーマは下記の3点。
☆ 勝利報告文集作成の件
☆ 1月28日勝利報告集会の持ち方
☆ 反撃訴訟提起の件
以下に、各テーマごとの協議の概要をご報告する。
☆報告文集の作成と内容の件
・報告文集のコンセプト
勝利を記録し世に広める。
スラップ対策実務に役立つものとする。
読者対象は、ジャーナリスト+市民+弁護士。
・発行主体はDHCスラップ訴訟弁護団(光前団長)
編集は株式会社プラスワンに依頼
1500冊を作成
B5版 横組み 本文144頁+表紙
1頁1500字の見当
・ただし、1月28日報告集会配布には間に合わない。
1月16日第1次入稿で、順次1月28日集会報告を含めて原稿を追加し、
2月末発刊のスケジュールとする。
・内容の概要(4部構成)
(1) 経過報告
(2) 論文
(3) 感想・祝意・メッセージ
(4) 資料
(1) 経過報告(30頁見当)
団長挨拶(2頁)
本人挨拶(2頁)
スラップについて
本件の経過(10頁)
(2) 論文(全40頁見当)依頼先
*弁護団論文(各4?8頁見当)
1 名誉毀損訴訟判例の推移の中にDHCスラップ訴訟を位置づける。(光前)
2 スラップ訴訟対策のノウハウ(小園)
3 名誉毀損裁判とは何か(神原)
4 政治とカネ 政治資金に対する監視と批判の重要性(阪口)
5 規制緩和と消費者問題(中川)
*研究者論文(各6?8頁見当)
1 田島泰彦さん(メディア法) 講演報告を兼ねて
2 右崎正博さん(憲法)
3 内藤光博さん(憲法訴訟)
*スラップ体験者等(各2頁見当)
1 三宅勝久さん
2 北健一さん
3 烏賀陽弘道さん
4 ネットユニオンさん
5 今瞭美さん
6 新里宏二さん
(3) 感想・祝辞・コメント・メッセージ(30頁見当)
(1頁×30)
(4) 資料(全40頁見当) 分量は適宜調整とする
ブログ抜粋
週刊新潮記事(内容の引用とする)
本件訴訟資料
判決(1審・2審・上告不受理決定)
参考判例の抜粋
弁護団長陳述書
本人陳述書等
可能であれば、反撃訴訟の訴状を掲載する。
・この報告集は、販売して売り上げを弁護団費用に充てる。
原価400円ほどになり500冊は無料配布することになるので、頒価は1000円(+消費税)とする。
・弁護団員や御世話になった方には郵送献本する。
☆報告文集のタイトルを募集
以上の報告文集のタイトルが決まらない。
副題は「DHCスラップ訴訟・勝利の記録」くらいでよい。
メインタイトルは、固すぎず、面白そうで、読んでみようと思わせるものを。
「表現の自由を求めて」「言論の自由の今」「社会の健康に」などが候補にあがったが、いずれも没。広く、衆知を集めようということになった。よいお知恵を。
☆1月28日勝利報告集会の持ち方
・日時 2017年1月28日(土)午後(1時30分?4時)
場所 日比谷公園内の「千代田区立日比谷図書文化館」4階
「スタジオプラス小ホール」にて
・進行
司会は佐藤・山本
弁護団長挨拶 15分
田島先生記念講演 30分
+質疑 15分
常任弁護団からの解説(各10?15分)
神原(名誉毀損訴訟の構造)
中川(サプリメントの消費者問題)
小園(反撃訴訟の内容)
会場発言(スラップ被害経験者+支援者)
澤藤挨拶
・資料 資料集を配布する。
報告文集の主要な原稿の抜き刷りを100部作成して配布資料とする。
資料代として500円のお支払いをお願いする。
☆ DHC・吉田に対する損害賠償訴訟(反撃訴訟)の構想について
・提訴予定日
DHCスラップ訴訟の提起が2014年4月16日
時効を考慮して2017年4月16日以前の提訴が望ましい。
候補日を最初のブログ掲載の日から3年目の3月30日(木)として準備する。
・被告は、DHC・吉田嘉明の両名だけとするか、
あるいは原告訴訟代理人となった弁護士も被告とするか。
スラップ訴訟や不当懲戒請求事件の代理人となった弁護士の責任を追及した事案についての報告があり、検討したが本日は結論に至っていない。
・訴額 請求額は660万円。
・訴額の根拠は、6000万円請求のスラップに対抗して応訴するための弁護士費用がその10%の金額として主損害を600万円とし、その請求のための弁護士費用10%を付加しての660万円。つまり、スラップ応訴のために被告(澤藤)が本来支払うべき弁護士費用(着手金+成功報酬)の妥当額が600万円、そして、反撃訴訟の弁護士費用がその10%の60万円。これなら妥当というべきではないか。
・違法性を基礎づけるキーワードは、
(1) DHC側の「調査義務懈怠」
(2) 6000万円の過大請求
(3) 合計10件もの濫訴
DHC・吉田の本件提訴は、原告の権利・利益の実現のための民事訴訟という、制度本来の提訴ではない。自分への批判の言論を封殺する目的をもった損害賠償請求訴訟である。わけても、政治的批判の対象とされた「公人」は、批判の言論に寛容を要求され、客観的に当該言論を封殺する結果となる高額損害賠償請求訴訟の提起には慎重でなくてはならない。そのため、批判の言論を萎縮せしめる違法・不当に訴訟ではないかとの検討に関して高度の調査義務が課せられる。その言論封殺の威嚇効果を狙った提訴として、違法を支える根拠たる事実が(1) ?(3) である。
・スラップ訴訟の原告が違法とした、3本の吉田嘉明批判のブログの最後の掲載が、2014年4月8日「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」というもの。これを違法とする2000万円の損害賠償請求訴訟の東京地方裁判所への提訴が同年4月16日である。到底、政治的言論の自由に配慮して提訴の可否を検討した形跡はない。しかも、DHC・吉田の提訴のしかたは、事前の交渉も通知もない、いきなり提訴の乱暴極まりないやり方。さらに、一審で敗訴しても、成算のない控訴審、そして最高裁への上告受理申立とフルコースを付き合わされたのだ。
・提訴が不法行為となるべき判断についてのリーディングケースとされている1988年(昭和63年)最高裁判決の枠組みは、表現の自由という価値に無関係の不動産取引における紛争事例である。提訴が変える意気込みが必要。
・調査義務違反の主体は、むしろ本人よりは弁護士ではないか。DHC・吉田の代理人となった弁護士こそ専門家責任を負うものとして被告にすべきではないか、という強い意見もあったが、前述のとおり本日は結論に至らなかった。
ご支援いただいた皆さまには、報告文集への寄稿をお願いします。感想・コメント・メッセージなんでも結構。できるだけ、1月16日までに。1500字程度を歓迎しますが、長短あっても極端でなければ差し支えありません。そして、1月28日集会へも、是非ご出席ください。
さて、新たな年には新たな訴訟が始まる。今度はこちらが攻める立場だ。被害回復の訴訟であるとともに、スラップを許さず言論の自由を擁護する闘いでもある。新たな弁護団員を募集し、新たな弁護団費用捻出のためのカンパ活動にも着手しなければならない。
新たな年には、新たなご支援を、どうぞよろしく。
(2016年12月26日)
12月11日の当ブログで「マイナンバー さわらぬ神に 祟りなし」を掲載した。
https://article9.jp/wordpress/?p=7814
その記事では、番号法(正確には「行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律」)やマイナンバー制度の理念的なものに関する、私なりの基本姿勢を明確にした。本日は、その再論であるが、個人のマイナンバー提供(通知)義務、事業者の収集義務の有無と強制性についてだけ整理して補充しておきたい。
結論から言えば、形式的には特定の場合にマイナンバーの提供(通知)義務があり、事業者にマイナンバーの収集義務がある。しかし、その義務を強制する制度は設けられていない。もちろん、刑事的にも行政的にも罰則はなく、その義務の不履行による不利益はまったくない。実質的には義務ありとは言いがたいのだ。むしろ、この義務を履行することによる不利益が極端に大きい。
番号法の管轄は内閣府であるが、その利用は税務分野と社会保障分野であって、税務分野の利用については国税庁が、社会保障分野では厚労省が管轄することになる。
まずは、国税関係である。
前回ブログでも触れた「税経新人会」のマイナンバー制度に関するリーフレットの「Q&A」を再度引用しておこう。マイナンバーを利用する必要はさらさらないのだ。
Q2 番号は提出しなければ不利益があるのでしょうか?
番号法では、個人に提出義務を規定していませんし、提出しないことによる不利益の記載もありません。番号を記載しなければならないというのは、国税通則法や年金法などに記載されていますが、罰則はありません。漏えいの危険があり、悪用される危険がある番号を出しませんという意思表示をしましょう(収集を求める方は、その内容を記録に残せばよいことになっています)。
Q3 事業者は、従業員の番号を収集しなければならないのでしょうか?
番号法では、事業者に対し、収集の義務を規定していません。事業者は、番号を取集した場合は、漏えいしないように「安全管理措置」をとるために経費が増大し、神経を使うことになります。また漏えいした場合は、報告義務、刑事罰・罰金など責任は増大します。これらの負担と責任を考えると収集しないことが一番の「対策」です。
以上のとおり、番号法はマイナンバーの利用について、何の義務付けも行っていない。義務規定は税務に関する法律を根拠にする。このことを踏まえて、国税庁のホームページでは、次のように述べられている。全文をじっくりとお読みいただきたい。
番号制度概要に関するFAQ
(2)税務関係書類への番号記載
Q 2-3-1 申告書や法定調書等を税務署等に提出する場合、必ずマイナンバー(個人番号)・法人番号を記載しなければなりませんか。
(答)番号法整備法や税法の政省令の改正により、税務署等に提出する申告書や法定調書等の税務関係書類にマイナンバー(個人番号)・法人番号を記載することが義務付けられました。
したがって、申告書や法定調書等を税務署等に提出する場合には、その提出される方や、扶養親族など一定の方に係るマイナンバー(個人番号)・法人番号の記載が必要となります。
Q 2-3-2 申告書等にマイナンバー(個人番号)・法人番号を記載していない場合、税務署等で受理されないのですか。
(答)税務署等では、社会保障・税番号<マイナンバー>制度導入直後の混乱を回避する観点などを考慮し、申告書等にマイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合でも受理することとしていますが、マイナンバー(個人番号)・法人番号の記載は、法律(国税通則法、所得税法等)で定められた義務ですので、正確に記載した上で提出してください。
なお、記載がない場合、後日、税務署から連絡をさせていただく場合があります。
Q 2-3-3 税務署等が受理した申告書等にマイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合や誤りがある場合には、罰則の適用はありますか。
(答)税務署等が受理した申告書や法定調書等の税務関係書類にマイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合や誤りがある場合の罰則規定は、税法上設けられておりませんが、マイナンバー(個人番号)・法人番号の記載は、法律(国税通則法、所得税法等)で定められた義務ですので、正確に記載した上で提出をしてください。
もう一つ。同じ国税庁ホームページに、「法定調書に関するFAQ」として次の記載がある。
(1)法定調書関係(総論)
Q 1-2 従業員や講演料等の支払先等からマイナンバー(個人番号)の提供を受けられない場合、どのように対応すればよいですか。
(答)法定調書の作成などに際し、従業員等からマイナンバー(個人番号)の提供を受けられない場合でも、安易に法定調書等にマイナンバー(個人番号)を記載しないで税務署等に書類を提出せず、従業員等に対してマイナンバー(個人番号)の記載は、法律(国税通則法、所得税法等)で定められた義務であることを伝え、提供を求めてください。
それでもなお、提供を受けられない場合は、提供を求めた経過等を記録、保存するなどし、単なる義務違反でないことを明確にしておいてください。
経過等の記録がなければ、マイナンバー(個人番号)の提供を受けていないのか、あるいは提供を受けたのに紛失したのかが判別できません。特定個人情報保護の観点からも、経過等の記録をお願いします。
なお、税務署では、番号制度導入直後の混乱を回避する観点などを考慮し、マイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合でも書類を収受することとしていますが、マイナンバー(個人番号)・法人番号の記載は、法律(国税通則法、所得税法等)で定められた義務であることから、今後の法定調書の作成などのために、今回マイナンバー(個人番号)の提供を受けられなかった方に対して、引き続きマイナンバーの提供を求めていただきますようお願いします。
以上で尽きている。税務当局は番号記載は申告者の義務だと言い、事業者への番号提供(通知)も「義務」だという。しかし、義務の程度には濃淡がある。法は、その義務の履行を実現するための何の措置も用意していない。罰則もなければ、番号記載のない書類は受付けないとも言えない。
「税務署等では、社会保障・税番号<マイナンバー>制度導入直後の混乱を回避する観点などを考慮し、申告書等にマイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合でも受理することとしています」「税務署では、番号制度導入直後の混乱を回避する観点などを考慮し、マイナンバー(個人番号)・法人番号の記載がない場合でも書類を収受することとしています」と、国税庁がマイナンバー不記載でも書類は受け付けると繰り返し明言していることに意味がある。
もしかしたら、運の悪い人には、税務署から「マイナンバーの記載がございませんが、記載が義務だということをご存じでしょうか。」「何か、義務の履行ができないご事情でもございますか」と問合せあるかも知れない。その場合は、臆せず堂々と、「私は義務とされていることは知っています」「しかし、私は自分の人格がナンバーによって管理されることが不愉快なのです」「私のナンバーが漏洩して、悪用される恐れが否定し得ないのですから、ご協力はできません」といえばよいだけのことなのだ。
社会保障分野でも、仕組みはまったく同じことだ。厚労省のホームページから、下記を引用しておきたい。
サイトの標題は、「社会保障・税の手続書類へのマイナンバー(個人番号)の記載について、事業主・従業員の皆さんのご協力をお願いします。」というもの。飽くまで、「ご協力のお願い」なのだ。
1 事業主の皆さんへ
◆ 社会保障・税に関する手続書類の作成事務を処理するために必要がある場合に限って、従業員にマイナンバーの提供を求められます。
また、従業員から受け取ったマイナンバーは適切に管理する必要があります。
2 従業員の皆さんへ
社会保障・税に関する手続書類へのマイナンバーの記載は、法令で定められた事業主の義務となっており、事業主は、マイナンバー法に基づき、従業員に対してマイナンバーの提供を求めることができます。
◆ 従業員も、事業主から、法律に基づく正当なマイナンバーの提供の求めがあった場合には、これに応じていただくようお願いいたします。
《事業主に提供したマイナンバーの取扱い》
事業主は、法律で限定的に定められている場合以外の場合に、従業員のマイナンバーや、マイナンバーと結びついた情報を利用したり、第三者に提供することはできません。
また、事業主は、従業員のマイナンバーや、マイナンバーと結びついた情報の漏えい、滅失等の防止その他の適切な管理のため、必要かつ適切な「安全管理措置」を講じなければならないこととされています。
Q3 勤務先から、マイナンバーを提供しないと、解雇したり、賃金を支払わないと言われたのですが・・。
社会保障・税に関する手続書類へのマイナンバーの記載は、法令で定められた事業主の義務であり、事業主は、マイナンバー法に基づき、従業員に対してマイナンバーの提供を求めることができます。このことをご理解いただき、事業主から、法律に基づく正当なマイナンバーの提供の求めがあった場合には、これに応じていただくようお願いします。
一方で、マイナンバーを提供しないことを理由とする賃金不払い等の不利益な取扱いや解雇等は、労働関係法令に違反又は民事上無効となる可能性があります。
職場で起きた労働問題については、都道府県労働局や労働基準監督署内に設置されている総合労働相談コーナーにご相談ください。
特に解説は要らないだろう。漏洩したらたいへんなマイナンバーである。うっかり他人に知られるのは恐いことだ。また、うっかり番号を預かると、漏洩の罰則が恐い。知らないのが一番。知らせない、預からない、提供しない、提供を求めない、に徹するに如くはない。その方が安全なのだ。
あらためて、
マイナンバー さわらぬ神に 祟りなし
マイナンバー さわってしまえば 祟りあり
そして、
マイナンバー みんなで拒否すりゃ 恐くない
マイナンバー ひとりで拒否も 恐くない
(2016年12月25日)
今宵は、クリスマスイブ。キリスト教世界だけではなく、全人類が平和というプレゼントを待ち望んでいる。しかし、いま世界は憎悪と諍いに満ちている。「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という詩人の直感のとおり、この世に平和がない限り、人々の幸福の実現はない。その平和は、いま急速に遠のいている印象が強い。とりわけ、核という絶対悪が、存在感を増している。各国為政者それぞれの愚かな言い分が、もしかしたら世界を破滅に追いやるかも知れないのだ。
☆まずは、愚かなトランプ(次期米大統領)の言い分はこんなところだ。
「世界は、あるべき核に関する良識を持ち合わせていない。核に関する良識が世界に浸透するいつの日か先の先まで、米国は核能力を大いに強化・拡大しなければならない。
世界の現状を冷静に見つめれば、核が不要な時代は遠い先のことだ。前任のオバマは、就任早々プラハ演説で『核なき世界』を掲げたが愚かなことだ。さらに任期切れ間近になって、被爆地・広島を訪問して核軍縮を訴えたが、そんなことが平和にも米国の安全にもつがりはしない。私は同じ愚を繰り返すことはしない。
何よりも優先すべきは米国の安全だ。そのためには、核能力の強化・拡大が不可欠なことは分かりきったこと。民主党政権が安閑としている内に、ロシアに比較して米国の核開発計画は後れをとっているではないか。これはよいことではない。米政府はこうしたことを許すべきではない。核軍拡でロシアに後れをとってはならない。
ロシアは、米国のミサイル防衛(MD)システムによって迎撃されない核ミサイルの開発・配備を進める考えを強調しているではないか。それなら、米国は、ミサイル防衛(MD)システムをより高度なものとし、ロシアのミサイル防衛システムによって迎撃されない核ミサイルの開発・配備を進めなければならない。
そのような発想は、止めどのない核軍拡の競争を招くという批判もあるが、軍拡競争になってもいいじゃないか。米国は、どんな国にも核能力強化競争で負けることはない。どんな局面でも必ず優位に立って見せる。以上が、一昨日(12月22日)のツィッターと昨日(23日)MSNBCニュース番組で私が語ったことのあらましだ。
もっとも、大きな声では言えないが、核軍拡の理由は実はそれだけじゃない。核開発も、核兵器運搬手段の製造も、米国の巨大重要産業だ。核軍縮は景気の後退と失業の増大をもたらす。仮想敵国との緊張はなくてはならないし、テロの脅威が持続することも大切だ。私が大統領でいる限り、国内経済を活性化するために、核軍拡はどうしても必要な政策なのだ。」
☆あの油断ならぬプーチンの言い分はこんなところだ。
「ロシアは飽くまでも平和を願う立場だ。世界最強の米軍と争う考えはない。だから、自国の資産を費やす軍拡に引き込まれるような愚かなことはしない。アメリカの次期政権と友好的な関係を築くことも大歓迎だ。
しかし、現実の米ロ関係は甘いものではない。アメリカとの軍拡競争は、何もいま始まったことではなく、MD整備のために米国がABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約から離脱した2002年からのことで、全面的にアメリカに責任がある。
そのような現実を踏まえれば、自国の防衛のためには安閑としてはおられない。一昨日(12月22日)、「戦略核の3本柱の強化」を命じたところだ。3本柱とは、ロシアの核戦力を新しいレベルに引き上げる必要性に応えるための、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、戦略爆撃機、核搭載原子力潜水艦による核攻撃手段のことだ。米国が配備を進めているミサイル防衛(MD)システムに対抗するための措置であり、このわれわれのシステムは、米国主導のMDよりはるかに効果的なのだ。
アメリカがMDを整備すれば、ロシアはこれを破る核攻撃力を構築する。アメリカのMDが進歩すれば、こちらもかならずさらに進歩して打ち負かす。アメリカは核能力の開発競争ではどこにも負けないと言っているか、ロシアも負けてはおられないのだ。だから、核軍拡競争の泥沼に陥りたくはないが、どうなるかはアメリカ次第だ。」
☆冷戦の負の遺産として、米ロ両国は今も多数(米9000余、ロ13000)の核弾頭保有を公言している。外務省のホームページには、2001年12月現在のSTART Iに基づく義務履行完了時点で、米国の戦略核弾頭保有数は5949発、ロシアは5518発であるという。そこから、核軍縮の進展が止まっている。
両国ともに、自国の安全のために、相手国に対抗せざるを得ないという「理屈」を振りかざしている。両国ともに、相手国を上回る「戦略核兵器の戦闘能力増強」なければ、自国の防衛は危ういという。これでは、永久核軍拡路線のスパイラルを抜け出すことができない。まさしく、核のボタンを握る大国の為政者が、正気を失っている事態だ。
米ロ両国に限らない。5大国(米・ロ・英・仏・中)が同じ理屈だ。イスラエルも、北朝鮮も、インド・パキスタンも同様だ。それぞれの国の為政者が、「邪悪な敵からの自国の安全を守る」として、核をもてあそんでいる。しかも、唐突な核をめぐる米ロ両大国首脳の危険な発言。
さて、クリスマスイブである。神を信じる者は、核なき世界の実現を祈るがよい。神を信じぬ者は、反核の世形成を決意するしかない。
(2016年12月24日)
1915年生まれの私の母は、現天皇(明仁)出生時に2度鳴ったサイレンを聞いたと言っていた。サイレンの2吹は男児出生の合図だったという。1933年12月23日、83年前の今日のこと。北原白秋作詞・中山晉平作曲の唱歌「皇太子さまお生れなつた」も覚えていた。
その3番だけを引用する。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン
夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生れなつた
昭和天皇(裕仁)の第1子から第4子までは女児であった。女児の誕生は「失望」と受けとめられていた。第5子にして初めての男児誕生が、「日本中が大喜び」「うれしいなありがと」と、目出度いこととされたのだ。もっとも、今退位を希望している天皇である。男児として生まれたことを自身がどう思っているかは窺い知れない。
私の母は、自分の心情として「嬉しかった」とは言わなかったが、「みんなが喜んでいた。嬉しがっていた」とは言っていた。おそらくは、お祭り同様の祝賀の雰囲気が巷に満ちていたのだろう。
天皇制は、不敬罪や治安維持法、あるいは宮城遙拝強制・徴兵制・非国民排斥・特高警察・予防拘禁・拷問などの、おどろおどろしい制度や強制装置によってのみ支えられたのではない。天皇制を内面化した民衆の心情や感性に支えられてもいたのだ。
「日本中が大喜び みんなみんな子供が うれしいなありがと 皇太子さまお生れなつた」という民衆の素朴な祝意は紛れもなく天皇制の根幹をなすものだった。北原白秋も中山晉平も大いにその演出に貢献したのだ。
本来他人事に過ぎない天皇家の慶事に「目出度さの押しつけは御免だ」とは言えなかった。天皇家の弔事の際には歌舞音曲を慎まなければならなかった。いや、多くの民衆が天皇制を内面化し、天皇家の慶事も弔事も、わがこととしたのだ。こうした民衆の心情が天皇制を支えた。
ポツダム宣言の受諾と日本国憲法の成立によって、天皇制を支えていた大逆罪も不敬罪も治安維持法も国防保安法もなくなった。軍隊も特高警察も、徴兵制もなくなり、いまや神社参拝・宮城遙拝強制もない。天皇を誹謗したとして非国民扱いを受けたり、予防拘禁や拷問をされることもない。天皇制を支えていた、おどろおどろしい制度や強制装置はなくなった。しかし、天皇制を内面化し、天皇制の根幹を支えた民衆の意識は生き残った。それが、本日の「天皇誕生日祝う一般参賀」38000人という数字に表れている。
いうまでもなく、天皇制は日本国憲法体系の例外であり夾雑物である。憲法の基本である国民主権・民主主義・人権尊重の立場からすれば、天皇制の存在を極小化することが望ましい。とりわけ、国民が自立した主権としての意識を徹底するには、内面化された天皇制の払拭が必要である。
天皇制を廃止するには改憲手続きを必要とするが、その存在を限りなく小さくし、予算も最小限に削減する運用は国民の意思でできることである。
臣民に天皇制を鼓吹し、内面化させたものは、教育とマスコミであった。その教育は学校と軍隊で行われた。今軍隊はなく、天皇制鼓吹の学校教育は一応姿を消したことになっているが、日の丸・君が代強制などはこれに代わるものといって良い。
そして、いまメディアにあふれる「日本中が大喜び みんなみんな うれしいな ありがとう 天皇誕生日」のトーン。天皇や天皇制は、批判しにくい聖域として定着しつつある。これは、自立した主権者意識を育むための、大きな支障と言わねばならない。
(2016年12月23日)
本日(12月22日)、沖縄県名護市の万国津梁館で、日米両政府が主催する米軍北部訓練場の返還式・祝賀会が行われた。この返還面積(4010ヘクタール)は、1972年に沖縄が本土復帰して以降最大規模のもの。日本側からは菅義偉官房長官やイナダ防衛大臣らが、米国側からはケネディ駐日米大使やマルティネス在日米軍司令官らが出席した。
もちろん、沖縄県知事も県議会議長も出席していない。名護市長もだ。知事はこの式典には出ずに、同じ名護市で行われたオスプレイ不時着事故の抗議集会に参加した。ここで、オスプレイ配備撤回だけでなく、普天間基地の早期返還と辺野古基地建設反対を4200人の聴衆に熱く語りかけた。
翁長知事が、返還式と祝賀会に「出席見合わせ」を発表したのは12月12日夜のこと。欠席の理由は、訓練場内のヘリパッド建設の強引で拙速な進め方と、宜野座村城原区で県などの抗議にもかかわらずオスプレイつり下げ訓練が継続されていることなどにあった。「高江周辺でもこのようなことが起こり得ることが容易に予想され、県としては到底容認できない。北部訓練場の返還には私のみならず、多くの県民が理不尽な思いを抱いている」と述べている。オスプレイの墜落事故は、その翌日、12月13日のことである。
県議会議長の欠席決定は、オスプレイ墜落事故のあとのこと。自民党議員団だけが出席を主張し、各会派で意見がまとまらないため議長が欠席を判断したとのこと。
この返還の記念式典には在沖米軍トップのニコルソン四軍調整官が出席している。オスプレイの墜落事故について、「沖縄県民は住民への事故を回避したパイロットに感謝すべきだ」と発言して、物議を醸した人物。当日のスピーチは伝えられていないが、忌憚なくしゃべらせたらどんなことを言ったか。興味津々。たとえば、以下のようなものだったろう。
「この返還は、沖縄の住民にとって、とても重要なもので、沖縄の状況を改善して負担を軽減するものだ。
基地が、住民にとっていかに危険で、不安のタネとなっているかはよく知っている。もちろん騒音もひどい。とりわけオスプレイの騒音が耐えがたいのは分かりきったこと。私の家族には、基地の側には絶対に住まわせたくはない。
だから、このたびの広大な訓練場の返還に対しては、沖縄の住民は『沖縄の負担軽減』としてアメリカに感謝すべきではないか。にもかかわらず、知事は式典出席を拒否して、抗議集会に出席だとのことではないか。せっかく返してやったのに、ありがとうとも言えないのか。無礼きわまる態度ではないか」
「もっとも、大きな声では言えないが、本当のところこの返還は私たち在沖米軍にとっては、痛くも痒くもない。問題は基地の面積ではなく、基地機能の強弱にある。その点、今回の『返還』は明らかに基地機能の強化をもたらすものとして我々にとっても、ハッピーなのだ。なにしろ、『北部訓練最大で51%の使用不可能な土地を返還し、新たな施設を設け、土地の最大限の活用が可能になった』のだから。実のところ、お祝いは、米軍にとってのものなのだ」
「北部訓練場の半分の引き換えに我々は、新たな着陸帯6カ所の提供を受けた。MV22オスプレイの使用は、その6カ所の合計で年間2520回が見込まれている。また、東村高江周辺の新設ヘリパッドは、宇嘉川の河口部に設けた訓練区域と連動する形で、海からの上陸作戦や人員救助などの訓練を実施できるようになる。世界唯一のジャングル戦闘訓練施設として重用されてきた北部訓練場に、新たな上陸作戦訓練機能が加わるのだ」
「これまで、北部訓練場内では既設22カ所と2015年に米側に引き渡したN4の新設2カ所を合わせ24カ所のヘリパッドがあった。このうち、今回の返還に伴って閉鎖されるのが7カ所。新たに、N1(2カ所)とG、Hの計4カ所を新たに提供することで、ヘリパッドは21カ所になる。その21カ所の内の15カ所でオスプレイを運用。年間の使用回数は計5110回に上る。高江集落6カ所のヘリパッドの発着数2520回は確かに多いが、訓練の実施は必要不可欠なものだ。もちろん、あらゆる必要な訓練が予定されている。オスプレイの低空飛行ルートも設定され、地上15?60メートルの地形追従飛行を年25回実施する」
「だからまあ、翁長知事が祝賀式典を欠席して、抗議集会に出席する気持もわからなくもない」
菅官房長官はこう語った。
「今回の返還は沖縄の本土復帰後、最大規模のもので、アメリカ軍専用施設のおよそ2割が減少し、沖縄の基地負担軽減に大きく資するものだ。ヘリコプター発着場の移設で地元には引き続き負担をかけることになるが、両村から強い要請があった、返還後の財政措置や地域振興策は確実に実施することを約束する」
以上の発言は、「私は地元に対し、カネの問題についての約束はできるがそれ以上はできない。オスプレイの騒音の軽減もできないし、墜落の不安への対処もできない。」との含意と理解すべきなのだ。また、「もうすぐ、佐賀にも木更津にも、そして横田の上空にもオスプレイが飛ぶことになる。その場合も同様に、『騒音の軽減もできないし、墜落の不安への対処もできない』」と言っているのだ。
翁長知事は、オスプレイ墜落後わずか6日での飛行全面再開のときに、「言語道断」に続けて「政府はもう相手にできない」との姿勢を明らかにした。本日、知事の姿が返還祝賀式になく、抗議集会にあったことが、「沖縄県民は、日本政府を相手にせず」の姿勢を印象づけた。
米軍とアベ政権とは、オール沖縄との全面対決を強いられている。仮想敵国との戦争準備の前に、沖縄県民との闘いを余儀なくされているのだ。周囲を「敵」なる住民に包囲されて、基地が機能できるはずはない。防衛や安全保障政策の実行ができるはずもなかろう。
(2016年12月22日)
わが抱く思想はすべて
金なきに因するごとし
秋の風吹く
よく知られたこの啄木の歌。詩的な情緒に欠けて無味乾燥ではあるが、この世の真理を衝いている。自分の身に当て嵌めて思い当たる。私の抱く思想も、すべて金なきに因して形づくられた。金あるものは金あるにふさわしい考えを、金なきものは金なきが故の思想を抱くのが、世の常ではないか。
私は、典型的な苦学生だった。その苦学生に、法曹は魅力的な進路だった。司法試験の受験資格は誰にも開かれている。法学部の学生ではなかった私も受験に差し支えはなかった。これに合格すれば、司法修習生として採用され、給与を得ながらの修習ができる。その身分は、準公務員である。修習専念義務を課せられるが、その見返りに定額の給与を保障されて、みっちり2年間、法曹としての見習いができるのだ。
費用のハードルを意識することなく、苦学生だった私は司法修習生となり、修習終了時に弁護士への途を選択して職業生活を開始することになった。こうして、金なきに因して形づくられた思想を抱いたまま私は弁護士となることができた。今は昔の話である。
金なきに因した思想を抱いた若者を法曹にさせたくないとすれば、法曹資格の取得までに多額の金がかかるような制度設計をすればよい。そうすれば、金のない苦学生などは、費用のハードルに足をすくわれてゴールできなくなる。法曹界への「悪い思想」侵入に対する防御策となり得る。
制度設計の意図はいざ知らず、現在の法曹養成の制度は、貧乏学生を閉め出すものとなっている。そもそも苦学生は、法曹を目指す意欲をもてないだろう。私も、今の制度では弁護士を目指さなかった。仮にその意欲あっても、実現できたとは思えない。
今、法曹を志す者は、大学卒業後に法科大学院での2年ないし3年の就学を必要とする。もちろんこの間の学費の支払いが必要である。司法試験に合格さえすれば給料がもらえたのが昔の話。今は、法科大学院の入学試験に合格すれば、学費を支払わねばならない。
法科大学院を卒業すれば、司法試験の受験資格を得ることができる。首尾よく司法試験に合格して司法修習生となっても給与はない。修習専念義務だけがあって、アルバイトは禁止だが、生活費の保障はない。希望者に生活費の貸与はあるが、当然借金となり返還の義務を負うことになる。
貧乏学生は、「学部時代の奨学金」「法科大学院での奨学金」、そして「司法修習時代の貸与金」返済の債務を背負って職業生活を始めることになる。その額1000万円を超える者もいるという。債務弁済のために、若手の弁護士が金の儲かる割のよい仕事を漁ることにもなり得よう。
司法修習が無給になったのは、2011年からである。私はこの制度変更は、法曹の性格と修習生の意識を変えたと思う。それまで、裁判実務に携わる法曹(裁判官・検察官・弁護士)とは、公的な理念に支えられ、公費で養成されるにふさわしい使命を持った職業と位置づけられていた。司法修習生には、自ずからその自覚が求められた。
ところが、2011年以来、司法修習生の給費制度が廃止されるや、弁護士はビジネスになった。人権擁護と社会正義を擁護する使命はかたちだけのものとなり、司法修習生の意識も、「弁護士となって高給を食み、弁護士になるまでのコストを回収しなけばならない」と変わった。
だから、日弁連も、心ある市民も、司法修習の給費制復活を願った。ことは、けっして法曹志望者に酷だからというにとどまらない。国民の権利擁護に直接携わる実務法律家の質や意識に関わる問題なのだ。法曹の出身階層を、一定以上の経済的地位にある者に限定して、経済的に困窮の立場にある階層を閉め出すことの問題性は明らかではないか。
この問題に、ようやく明るさが見えてきた。一昨日(12月19日)、来年の司法試験合格者から「給費制」を事実上復活することを法務省が発表した。現在の案では、月額に一律13万5000円を支給し、アパートなどを借りる必要がある修習生に対しては、住居費として月額3万5000円を上積みするという。制度導入にあたり必要となる裁判所法改正案を、来年(2017年)の通常国会に提出予定とのこと。
これを受けた、日弁連会長談話の抜粋を引用しておきたい。
2011年に司法修習生に対する給費制が廃止され、修習資金を貸与する制度に移行してから5年が経過した。この間、司法修習生は、修習のために数百万円の貸与金を負担するほか、法科大学院や大学の奨学金の債務も合わせると多額の債務を負担する者が少なからず存在する。近年の法曹志望者の減少は著しく、このような経済的負担の重さが法曹志望者の激減の一因となっていることが指摘されてきた。
司法制度は、三権の一翼として、法の支配を社会の隅々まで行き渡らせ、市民の権利を実現するための社会に不可欠な基盤であり、法曹は、その司法を担う重要な役割を負っている。このため国は、司法試験合格者に法曹にふさわしい実務能力を習得させるための司法修習を命じ、修習専念義務をも課している。ところが、法曹養成の過程における経済的負担の重さから法曹を断念する者が生じていることは深刻な問題であり、司法を担う法曹の人材を確保し、修習に専念できる環境を整備するための経済的支援が喫緊の課題とされてきたものである。
このような状況を踏まえ、法務省が新たな経済的支援策についての制度方針を発表した意義は重要である。日弁連はこれまで、法曹人材を確保するための様々な取組を行ってきており、その一環として、修習に専念しうるための経済的支援を求めてきたものであり、今回の司法修習生に対する経済的支援策についてはこれを前進と受け止め、今後も、法曹志望者の確保に向けた諸々の取組を続けるとともに、弁護士及び弁護士会が司法の一翼を担っていることを踏まえ、今後もその社会的使命を果たしていく所存である。
修習生の側が、社会からの拠出を原資とする給付であることを自覚して、職業生活を通じて社会に還元すべき責任を果たさなければならないことは当然である。が、法曹を志す者だけの問題ではなく、国民の裁判を受ける権利をよりよく実現する制度設計の問題として、また、裁判を受ける際には接することになる実務法律家の質をどう確保するかの問題としてお考えいただきたい。金なきに因する思想を持つ法律家を閉め出すような法曹養成制度は甚だしく歪んでいるのだから。
(2016年12月21日)
「あたらしい憲法のはなし」を、ときおり読み返す。今日は、辺野古訴訟の最高裁判決を受けて、その「十一 司法」を読んでみた。
日本国憲法の施行が1947年5月。その年の8月に、新制中学校1年生用の社会科教科書として文部省が編纂したのが、この「あたらしい憲法のはなし」。当時、文字通り、できたての「あたらしい憲法」だったのだ。その後副読本に格下げされ、1952年以後は使われていない。
内容は細部を見れば不十分ではあるが、「民主的な平和憲法」の精神を国民に普及しようという、時代の空気や清新な意気込みが伝わってくる。全十五章。各章の標題は以下のとおり。
「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」
「十一 司法」は短い。全文をご紹介する。
「司法」とは、爭いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、じぶんの生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という國の仕事は、國民にとってはたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで國には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と國会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出しをすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきいたりすることができるのです。これは、國会と同じように、裁判所の仕事が國民の目の前で行われるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、國会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
みなさん、私たち國民は、國会を、じぶんの代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません。
新憲法の特徴として違憲立法審査権が解説されているほか、「公平」という裁判の理念を実現するために、「司法権の独立」(その内実としての「裁判官の独立」)の重要性が強調されている。さて、「司法権の独立」は70年後の今日、現実のものとなっているだろうか。
司法の独立とは、最高裁を頂点とする裁判官たちが、国家や公権力からの有形無形の圧力から自由であることを意味する。今の司法が、国や政権におもねることなく、法と良心のみに従った裁判ができているか。答は「ノー」というしかない。
日本の裁判官諸氏の廉潔性は信頼に足りる。裁判官の私的利益獲得の思惑で判決の内容が左右されることはない。しかし、その廉潔な裁判官が、権力からの圧力に屈せぬ気概をもち、現行の支配の秩序が求めるものから自由であるかといえば、到底肯定し得ない。
最高裁だけでなく下級審の判決も、丁寧で精緻ではある。しかし、支配の秩序の根幹に関わる事案においては、どうしても「反権力」とはなり得ない。九条・安保・基地・沖縄・天皇・日の丸・君が代・家制度などに関わるテーマとなれば、憲法の理念を貫くという姿勢が腰砕けとなってしまう。
本日(12月20日)の最高裁辺野古訴訟判決はその典型と言ってよい。さすがに、原審・福岡高裁那覇支部判決のような「安保公益論」の思い込みの説示はなかったものの、4人の裁判官の全員一致の結論で反対意見も補足意見もなかったという。
先に引用した、「あたらしい憲法のはなし」は、国民に、
國会には信頼を
裁判所には尊敬を
求めている。これは、間違いだろう。民主主義本来の理念からは、
國会には国民の猜疑を
裁判所には国民の監視を
こそ、求めねばならない。
しかし、当時の文部省は、裁判所を「じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかた」と描いたのだ。いざという時の「国の味方」としての裁判所は想定外だったのだ。国の肩をもって、戦争のための恒久的な海兵隊の揚陸艦接岸基地建設を認め、環境破壊も治安の悪化も騒音も我慢せよという、住民いじめの判決を書く裁判所が現れようとは思いもよらなかったのだ。
まことに、権力から独立した「そんけいにあたいする最高裁」が切実に求められている事態ではないか。
(2016年12月20日)