澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

大相撲千秋楽の国歌斉唱に異議あり。自衛隊の伴奏にさらに異議あり。

大阪府立体育館での大相撲春場所が終わった。荒れる春場所とはならなかった。予定調和のごとく白鵬(モンゴル)が優勝。これを追う逸材として照ノ富士(モンゴル)が名乗りを上げた。大関候補というよりは、逸ノ城(モンゴル)とともに近い将来の横綱候補といってよい。さらに、栃の心(グルジア)、大砂嵐(エジプト)、臥牙丸(グルジア)など、やがて上位を外国勢が独占する勢い。

2006年初場所の大関栃東を最後に、連続55場所日本人力士の優勝が途絶えている。公平に見て、さらにしばらくは日本人力士の優勝はなかろう。しかし、大相撲の心地よさは、よい相撲を見せる力士には人種や国籍を問わず声援が飛ぶことだ。

日本相撲協会の公式サイトでは来場者アンケートによる「敢闘精神あふれる力士」を毎日掲載している。千秋楽は、トップが照ノ富士、2位日馬富士、3位白鵬とモンゴル勢の独占。場所を通じてのトップは断然照ノ富士だった。
http://www.sumo.or.jp/honbasho/main/kanto_seishin

かつて実力ナンバーワンだった小錦の横綱昇進が見送られたとき、差別の臭いを感じさせられた。が、今そんなことをしていては、興行としてなりたたない。協会の姿勢をここまで糺した、日本の相撲ファンはけっこう質が高いのではないか。

で、目出度く千秋楽かといえば、実はちっとも目出度くはない。千秋楽の君が代斉唱には以前から大きな違和感あって異議を唱えてきた。外国人力士の活躍はその違和感をいっそう大きくしている。くわえて今場所は、別の問題が生じている。君が代斉唱の伴奏が、「陸自第3音楽隊」になったというのだ。

私は産経は読まないし、絶対に買わない。ささやかな経済制裁を続けている。その産経の関西版に、こんな記事があることを教えてもらった。

「国技の国歌斉唱、ぜひ国の守り手で」春場所千秋楽、陸自第3音楽隊が初の伴奏(産経・関西)
http://www.sankei.com/west/news/150321/wst1503210024-n1.html

「22日の千秋楽での表彰式前に行われる国歌斉唱の伴奏を、陸上自衛隊第3音楽隊(兵庫県伊丹市)が今場所初めて担当する。春場所以外の本場所(東京・名古屋・福岡)ではすでに各地の自衛隊音楽隊が伴奏を担当。大阪での第3音楽隊の初登場で、全ての本場所で自衛隊音楽隊が“そろい踏み”となる。
 『国技の本場所での国歌斉唱はぜひ、国の守り手の自衛隊にお願いしたい』
 春場所の表彰式での伴奏について、日本相撲協会から自衛隊大阪地方協力本部を通じて、第3音楽隊に要請があった。
 昨春までは約30年間、大阪市音楽団(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラに名称変更)が担当。昨年4月に同市直営から一般社団法人化したことで、相撲協会との交渉で演奏料などの折り合いがつかず、降板することに。そこで、第3音楽隊に白羽の矢が立った。
 第3音楽隊の阿部亮隊長=1等陸尉=は『たくさんの観客の前での演奏なので、立ち居振る舞いから緊張感をもって行いたい』と練習に余念がない。22日は表彰式での賜杯授与時の『得賞歌』と優勝パレード出発時『国民の象徴』の各演奏も担当する。
 第3音楽隊は昭和35年に発足した陸自第3師団の直轄。現在40人の編成で音楽を主任務とする専門部隊だ。」

恥ずかしながら、「大相撲の年6回の本場所では、東京では陸自東部方面音楽隊などが、名古屋では陸自第10音楽隊が、福岡では陸自第4音楽隊などが、それぞれ国歌斉唱などの伴奏を担当している」ことは知らなかった。何よりも、「国技の国歌斉唱は国の守り手の自衛隊に」という協会の姿勢は、到底許容しがたい。

ところで、公益財団法人日本相撲協会は、その定款(今は「寄付行為」という言葉は使わない)における設立目的に「太古より五穀豊穣を祈り執り行われた神事(祭事)を起源とし、我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序を維持し継承発展させる」とある。協会は、「我が国固有の国技である相撲道の伝統と秩序」とは、日本の軍事とともにあるという認識なのだ。だから、「国技」(相撲)と「国歌斉唱」(君が代)と「国の守り手」(自衛隊)とは、よく似合うというわけだ。

こうして、「日の丸・君が代」と自衛隊とが、一緒になって市民生活に入り込んでくる。そして、君が代斉唱に唱和するよう社会的同調圧力が強まることになる。大相撲だけではない。オリンピックも、国民体育大会も、プロ野球開幕式も同じように警戒しなければならない。

とりあえずは、産経だけにではなく、大相撲も個人的経済制裁の対象としよう。金輪際大相撲などは観に行かない。関連グッズも買わない。まことにささやかだが、宣言的効果くらいはあるのではないか。
(2015年3月23日)

国旗国歌への敬意表明強制はなぜ許されないかー放送大学解説への反論

ときたまFMラジオ「放送大学」の講座に耳を傾ける。ときに、質が高く内容の濃い講義にあたって、ハッピーな気分になる。もちろん、いつものことではなく、不愉快になることもしばしば。

きっかけは、大学で同級だった佐藤康邦君が放送大学の教授になったこと。プラトンやカント、ヘーゲル、マルクスなどの講義をしている。哲学、倫理だけでなく、文学や絵画にまで及ぶ彼の話がとても面白い。とはいうものの、たいていは朝6時からの45分間。寝床の中での受講は、殆どうつらうつらとしているうちにおわる。それでも叱責されることはない。ぜいたくな時間だ。

ここしばらく、6時から6時45分までが、「近代哲学の人間像」「西洋哲学の誕生」という佐藤君が中心の講義。昨日(3月21日)寝床のなかて夢うつつで聞いている内に、プログラムは終了した。いつの間にか、番組は移って、教育公務員に対する懲戒問題という、恐ろしく非哲学的なテーマの講義に切り替わっていた。

教育公務員に対する懲戒における裁量権の逸脱濫用論が語られ、「日の丸・君が代」強制問題にもかなり詳細に触れられていた。累積的に処分内容が加重される東京都教育委員会のシステムを、比例原則に反するものとして原則違法とし、減給以上の処分を取り消した最高裁の立場に好意的な内容。そして、明日(3月22日)は憲法論という予告。

本日(3月22日)、睡魔と闘いながら、寝床の中で坂田仰日本女子大学教授の「学校と法」第14回の講義を聴いた。中身は、「日の丸・君が代」強制事件の最高裁判決についての無批判な容認論。真面目に、この講座を聴いている人への影響も大きいことだろう。批判が必要と思って、この稿を起こしている。うつらうつらの聞き書きだから、正確な引用はできないことをお断りしなければならないが、大筋は外れていないはず。

坂田教授は最高裁の判断に賛成する理由をこのように説明する。
「このような例を考えてみると分かりやいのではないでしょうか。ギャンブルは犯罪には当たらず処罰すべきではないという信念をもった警察官がいるとしましょう。『憲法29条の財産権規定によれば、自分の財産をどう処分しようと自由なはずなのだから、ギャンブルを犯罪として取り締まることは違憲である』というのが彼の信念であり思想です。この信念に基づいて、『自分の思想・良心の侵害に当たるから、ギャンブル犯への逮捕状の執行は拒否する』と言えるでしょうか。おそらく、圧倒的多数の方が『そんなことができるはずはない』とお考えになるはずです。自らの思想良心に反するとして国旗国歌強制を違憲とする教員の論理は、この警察官の考えと基本的には同じものと考えられるのではないでしょうか」

正直のところ驚いた。あまりに、稚拙な議論の組み立てではないか。さすがにこれだけで説明は終わらない。「この立論に対しては、二つの方向からの反論が想定されます」として、次のように続く。

「一つは、警察官がおこなう職務執行行為と、教員がおこなう教育という行為の質的な差異を無視するものだということです。前者は権力作用であり、後者は非権力作用であって、この両者を同じように取り扱うのは間違っているという批判が考えられます。しかし、この批判は、教育には権力作用が伴うものであることを無視したものであることにおいて、妥当ではありません。子どもを学校に呼び出し、教室での授業を強制することにおいて、教員のおこなう教育も権力作用なのです。

もう一つは、ギャンブルを容認する思想と、国旗国歌強制を排斥する思想との価値序列の差異を理由とする批判です。しかし、これも納得できる批判ではありません。そもそも憲法19条を生みだした近代の自由主義思想は、一切の思想良心を等しく尊重する立場にたつもので、思想良心の内容による価値序列を認めないものであったはずだからです」

どちらの説明も、放送大学を受講しようとするほどの人にもっともと思わせるほどの説得力はない。この議論は、「自己の主観的な思想良心が侵害されているというだけの理由でいかなる職務命令も拒否できる」という乱暴な主張に対する反論としては成立する。しかし、さすがに最高裁はそんな前提での理由付けをしていないし、教員側もそのような単純な主張はしていない。

また、坂田教授流の立論は、公務員の職務内容を捨象し、すべての公務員を同等に見なしたうえで、思想・良心による職務命令拒否の余地を一般的になくしてしまうこととなる。今や旧時代の遺物として妥当性を否定されている特別権力関係論の蒸し返しに過ぎない。結局のところ、これでは職務命令絶対有効論にほかならないではないか。

教員の側から多くの訴訟が提起されているが、単純に「自分の思想にそぐわないから」「日の丸・君が代の強制には従えない」というだけの原告側の立論ではない。たとえば、敬虔なクリスチャンの教師が、信仰の上では天地創造説を信じていたとしても、物理、地学、生物、歴史の授業では天地創造説を真理として教えてはいけない。ビッグバンも、大陸移動も、進化論も、考古学も、自分の信念に反するとして授業を拒否することは許されない。もちろん、天孫降臨や神武東征の天皇制神話の奉戴者も、現代の定説としての歴史の教授を拒否することは許されない。こんなことは、当然のことだ。そんなことは現実に問題になっていないし、なり得ることでもない。

実は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、進化論を教えることの強制とはまったく違う問題なのだ。だから違憲の主張となり訴訟の提起に至っている。もちろん、警察官のギャンブル摘発とも違う。これを一緒くたにすることはあまりに乱暴な議論。

どこが違うのか。まずは、何よりも国家を個人の価値に優越するものとする取扱いは、いかなる場面においても許されることではない。ましてや、主権者たる国民に対して、その意に反して国家への敬意を表明せよという強制は許されない。これは、教育条理や公務員秩序に無関係に、いかなる場においても貫徹されなければならない大原則である。

個人と国家との関係をどう把握すべきか。このことは憲法の最大関心事である。自由主義憲法の基本原則は、まさしく個人の尊厳を最高の価値序列に位置づけるもので、国家はその僕に過ぎない。人権を侵害することのないように公権力の発動が抑制的でなければならないことは常識に属する。

主権者であり人権主体でもある国民個人に対して、公権力が国家の象徴である国旗国歌に敬意を表するよう強制することは、憲法的には背理であり、価値倒錯として許されることではないのだ。この場合当然に、精神的自由権の権利主体である教員は、憲法19条を根拠とした権利主張をなし得ることになる。

以上のとおり、個人と国家との直接的な対抗関係ないしは価値序列の優劣を問題にする点で、国旗国歌への敬意表明強制は、他と異なる特殊な問題局面なのである。ギャンブル肯定の例を比較に持ち出せようはずもない。

さらに、「日の丸・君が代」に敬意を表することは、公教育本来の内容ではない。ましてや、強制などが許されるはずはない。特定の教育理念を標榜する私立学校であればともかく、公教育において国旗国歌に敬意を表明するよう強制することは、国家主義的イデオロギーの受容を教育内容とするものとして憲法の許す教育ではあり得ない。そもそも国家は特定のイデオロギーをもってはならない。国家への敬意表明に抵抗感のない国民を育成しようというのは、明らかに憲法が想定する教育から逸脱するものとして、これを許容し得ない教員の思想良心を侵害するものである。

教育には、知育・徳育・体育の3分野があるとされる。知育が、真理を伝達する教育、あるいは真理を獲得すべき主体の能力開発する教育が、教員の職責に属することに異論はなかろう。体育も、基本的にこれに準ずる。問題は徳育である。人としての道徳や倫理の教育の名目によって、特定の価値観の注入をすることには、厳格な警戒を要する。国旗国歌に対する日本人、国際人としてのマナーを学ぶ機会を名目としての国旗国歌強制は、まさしくこれに当たるもので、あってはならないことなのだ。

問題を、生身の教員個人その人が具体的に有する思想・良心の侵害としてとらえるだけでなく、憲法が想定し期待する教員としての職責にあるべき思想・良心の侵害を考慮した方が分かり易いかも知れない。公権力が国家主義的イデオロギーを子どもに注入しようとするとき、教師はその防波堤となってこれを防ぐべき思想・良心を持つことが、期待され想定されているというべきであろう。

なお、坂田説による説明は、標準的な学界の通説からは、権力の側に偏っていると指摘せざるを得ない。普通の考え方なら、精神的自由に関する人権侵害があった場合には、公権力による当該の人権侵害を正当化するに足りる厳格な憲法適合性審査基準の要件をクリヤーしなければならない。

このことについては、宮川光治最高裁裁判官(当時)が、貴重な少数意見において明確に述べ曖昧さを残さない違憲判断をしたところである。通説的な学説からはこれが常識的な判断方法であろうが、坂田説はこれに触れるところがない。最終的に権力追随の結論に至ることまで非難はしないが、講義では公正・公平に目配りして、重要な論点の解説を落としてはならない。学問とはそういうものではないか。

そういう講義でなければ聴いていてハッピーな気分にはなれない。
(2015年3月22日)

憲法の暗殺を許すなー与党合意の立法を成立させてはならない

70年前に、未曾有の敗戦の惨禍から日本を再生させた国民は、平和を誓ってこの理念を憲法に刻み込んだ。今度は負けない強い軍事国家をつくろうとしたのではない。誰もが平和のうちに生きる権利のあることを確認し、戦争を放棄し戦力の不保持を宣言したのだ。国の方針の選択肢として戦争を除外する、非軍事国家として再出発した。そのことが、日本を平和愛好国家として権威ある存在としてきた。

それが、今大きく揺るぎかねない事態を迎えている。安倍内閣と、自公両党によってである。憲法に刻み込んだはずの誓いが、憲法改正の手続ないままにないがしろにされようとしている。

人に上下はないが、法形式には厳然たる上下の階層秩序がある。上位の法が下位の法を生み、その妥当性の根拠を提供するのだから、法の下克上は許されようはずもない。

法の階層秩序の最高位に憲法がある。憲法を根拠に、憲法が定める手続で、法律が生まれる。法律が憲法に反することはできない。このできないことをやってのけようというのが、「安全保障法制整備に関する与党合意」にほかならない。しかも、法律ですらない閣議決定を引用し、これに基づいて違憲の立法をしようというのだ。

憲法を改正するには、憲法自身が定める第96条の手続によらなければならない。内閣や国会が憲法の内容に不満でも、主権者が憲法を改正するまではこれに従わなければならない。むしろ、立憲主義は、憲法の内容をこころよしとしない為政者に対峙する局面でその存在意義が発揮されるというべきである。

改憲手続きを経ることなく、閣議決定で許容される範囲を超えて憲法解釈を変更することは、憲法に従わねばならない立場にある内閣が憲法をないがしろにする行為であって、言わば反逆の罪に当たる。憲法の範囲内で行使されるべき立法権が、敢えて違憲の立法をすることは、主権者の関与を抜きにした立法による改憲にほかならない。

解釈改憲や立法改憲が憲法の核心部分を破壊するものであるときは、違法に憲法に致命傷を与えるものとして、憲法の暗殺と言わねばならい。

閣議決定による集団的自衛権行使容認と、その違憲の閣議決定にもとづく安保法制の立法化のたくらみは、まさしく平和憲法の暗殺計画ではないか。立憲主義、平和主義、そして民主主義を擁護する立場からは、この憲法の暗殺を許してはならない。

昨日公表された与党合意、正確には「安全保障法制整備の具体的な方向性について」に関して、本日の各紙が問題の重要性に相応しく大きく取り上げている。報道、解説、社説がいずれも充実している。なかでも、東京新聞の全力投球ぶりが目を惹く。朝日も、さすがと思わせる。

朝日の社説は「安保法制の与党合意―際限なき拡大に反対する」という見出しで、「米軍の負担を自衛隊が肩代わりする際限のない拡大志向」に懸念を表明している。また、「抑止力の強化」の限界を指摘して、「抑止力への傾斜が過ぎれば反作用も出る。脅威自体を減らし紛争を回避する努力が先になされなければならない。」とも主張している。結論は、「戦後日本が培ってきた平和国家のブランドを失いかねない道に踏み込むことが、ほんとうに日本の平和を守ることになるのか。考え直すべきだ。」というもの。異論のあろうはずはない。

しかし、気になる一節がある。
「肝要なのは、憲法と日米安保条約を両立させながら、近隣諸国との安定した関係構築をはかることだ。」という。日米安保条約を「憲法と両立させるべきもの」と位置づけている点。かつて、好戦的なアメリカとの軍事同盟は、我が国を戦争に巻き込む恐れの強いものとして、「アンポ、ハンタイ」の声は津々浦々に満ちた。いま、安倍政権と自公両党がやってのけようという乱暴な企図に較べると日米安保などはおとなしいものということなのだ。

本日の東京新聞の見出しを拾えば、「戦争参加の懸念増す」「事実上の海外武力行使法」「国民不在の『密室安保』」「戦える国作り 加速」「海外派遣 どこへでも」「政府判断でいつでも」などというもの。東京新聞の姿勢が歴然である。

その東京新聞の社説の標題は、「『専守』変質を憂う」となっている。与党合意の内容が、これまでの政府の方針であった「専守防衛路線」から大きく逸脱するものと考えざるをえないと批判するトーンである。「『専守防衛』は、日本国民だけで310万人の犠牲を出した先の大戦の反省に基づく国際的な宣言であり、戦後日本の生き方そのものでもある」とまで言っている。

米の軍事力で我が国の安全を守ろうというコンセプトの日米安保条約も、自衛権の発動以上の戦力を持つことのない専守防衛の自衛隊も、かつては違憲とする有力な論陣があって、政府が専守防衛は違憲にあらずとする防戦に務めていた。ところがいま、安倍政権と自公の与党は、自衛隊を専守防衛のくびきから解放して、世界のどこででも戦うことができる軍事組織に衣替えしようというのだ。

今、自衛隊違憲論者と専守防衛合憲論者とは、力を合わせスクラムを組まねばならない。安倍政権と自公両党による、憲法暗殺計画を共通の敵とし、憲法を暗殺から救出するために。
(2015年3月21日)

「失望と侮り」の司法から脱却するために

本日(3月20日)の朝日「耕論」に、宮川光治さんの聞き書きが掲載されている。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11659534.html

一票の格差問題についての、昨日(3月19日)の東京高裁合憲判決を素材とするもの。元最高裁裁判官のものの考え方の枠組みを示すものとして興味深く読んだ。

宮川さんは、こう言っている。
「わが最高裁は、先進国の最高裁判所や憲法裁判所と比べて、国会や内閣に対し最も敬譲を示してきたと思います。ある米国の学者は、『世界で最も保守的な憲法裁判所であるとみなされている』と言っていますが、少なくとも近年まではそのような評価を受けても仕方がありませんでした。」

なるほど、ものは言いようだ。「わが最高裁は、国会や内閣に対して弱腰」とか、「過度に遠慮がある」とか、あるいは「違憲判断に臆病」などとは言わない。「敬意を表し謙譲の姿勢を示している」というわけだ。さすがに、品のよい物言い。

これに続く一文が、いかにも宮川さんらしい。
「『緩い打ちやすいボールを投げれば、的確に打ち返してくれるだろう』という信頼を最高裁が政治の側に持ち続けたからだと、私は考えています。」

わが最高裁の国会や内閣に対する礼節を尽くした接し方は、相手に対する信頼があってのことというわけだ。あからさまに違憲判決を出して立法や行政を批判せずとも、穏当なものの言い方で、最高裁の意のあるところを忖度して呉れるだろう。その上で適切な対応がなされるに違いない。そう思って違憲判断を控えてきた。

このことが「剛速球ではなく、緩い打ちやすいボールを投げてきた」、と表現されている。違憲判決という剛速球で国会や内閣をねじ伏せることは好ましくない。むしろ、結論は違憲判決になってはいなくても、その判決理由に柔らかく問題を指摘しておけば、立法も行政も司法の意を汲んで、的確な反応をしてくれるはず。これが、「最高裁の投げたボールを的確に打ち返してくれるだろう」という表現になっている。

にわかに全面的賛意を表明しがたいが、なるほど上手な説明の仕方だと思う。もちろん、説明がこれで終わっては何の意味もない。宮川さんの真骨頂は、これに続く次の言葉。

「しかし、そのボールが見送られたり、弥縫策というファウルを打たれたりすることが長く続く中で、司法への失望や侮りが生まれました。」

最高裁は、国会や内閣が打ち返しやすいような、バッティングピッチャー役を務めていたというわけだ。きちんと打ち返してもらうように期待を込めて投げた打ち返しやすい球を、打者である立法や行政は打とうともせずに見送ったり、見当違いの方向に打ち返したり、最高裁の期待に外れた対応が長く続いた。まったくそのとおりだろう。その結果、何が起こったか。

何よりも、国民の司法への「失望」である。「最高裁は憲法と人権の守り手」であるはずが、「最高裁は権力の番犬」と揶揄される事態になっている。国民は、「どうせ裁判所へ行っても、政権の言うとおりの腰の引けた判決しか期待できない」と、司法に失望しているのだ。これは裁判所が本質的な意味で国民に見捨てられたことを意味する。この事態は、人権の危機であり、民主主義の危機でもある。

そして、国会や内閣の司法に対する「侮り」である。何をやっても、最高裁が違憲判断をすることはない。立法裁量、行政裁量に歯止めなどないのだ。という、侮りである。これも人権と民主主義の危機である。

宮川さんは、以上のことを意識して、最高裁自身が変わろうとしているという。
「国民の主体意識が高まり、権利のための闘争が広がる。そして、グローバル社会の進展は、普遍的価値を基準とする社会の構築を司法に求める。そうした時代の大きな変化を背景として、明らかに最高裁は様々な課題について積極的に憲法判断をする方向にかじを切りつつあります。『一票の価値』についても、司法の役割を積極的に果たそうという方向性が揺らぐことはないと思います。」

是非、そうであって欲しい。期待したい。

フランス人権宣言第16条が、「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」と定式化して以来、人権を守るための三権分立が、自由主義憲法統治機構の基本構造となった。しかし、三権相互の関係の在り方は、各国それぞれである。我が国の最高裁が、ゆるいボールを投げ続けている間に、立法と行政の侮りとそのことによる司法の劣位が定着してしまったのではないか。ゆるいボールは、はたして的確に打ち返すことを期待してのものであったかにも疑問が残る。

悪名高い「10・23通達」にもとづいて教員に対する「日の丸・君が代」の強制が許されるか。この問題について最高裁は、確かに「緩いボール」を投げる判決を言い渡した。東京都の教育行政に敬譲を示して違憲判断は回避した。しかし、間接的には思想良心の侵害になることまでは認め、戒告を超える懲戒処分は懲戒権の濫用として違法とした。ここには、教育の場に相応しからざる都教委の強圧的姿勢に対する批判を読み取ることができる。多数の補足意見において、その批判はさらに明確である。宮川さんは、これを「的確に打ち返してくれるだろう」との信頼を前提とした判決だというのだろう。10・23通達体制派は、最高裁によって違憲判断はかろうじてまぬがれたが、褒められてはいない。見直しを求められている。

ところが、都教委はこの期待にまったく応えるところはない。そもそも信頼に足りる相手ではない。品格とかディーセントとはまったく無縁の存在。「緩いボール」を投げたところで、投手の意図を忖度できない愚かな打者には意味がない。こんな輩に対しては、剛速球でねじ伏せるしかない。それ以外に都教委のごとき行政の無頼を矯正する手段はないというべきだろう。

次のイニングには都教委にストライク・アウトの宣告をしなければならない。それこそが、国民の司法への信頼を取り戻し、行政の侮りをなくする唯一の道である。
(2015年3月20日)

愚かなり 自民党女性局長

八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。

「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」

紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。

「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。

ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。

私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。

この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。

この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。

自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。

発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。

「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」

「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。

総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」

三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』

そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。

『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』

日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。

『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。

いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。

もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)

籾井勝人NHK会長に辞職を勧めるの記

カネに汚い人間は軽蔑される。カネについてだけではなく、生き方そのものが廉潔性を欠くと推測されるからだ。もっとも、市井の人物であれば、カネに汚くても軽蔑されるだけの問題でおわる。だが、公職にあってカネにまつわる公私混同を指摘される人物は、公的な場で徹底して指弾されなければならない。カネで、職務が左右されることになっているのではないかという疑惑を払拭できないからだ。指弾を受けた上、信用できない人物として辞職してもらうに如くはない。

ことがNHK会長職の問題となれば、なおさらのことだ。NHKとは視聴者国民の信頼があって初めて存立しうる公共放送である。運営の資金は視聴者国民の懐から出ている。金銭の管理に関する綱紀にも、コンプライアンス全般に徹底した厳正さが要求されている。そのコンプライアンスに責任を持つ立場にあるトップには、いささかの瑕瑾も許されない。李下に冠を正さなければならず、瓜田に沓を踏み入れてはならないのだ。籾井勝人にはその自覚がない。

思想信条の如何と、生き方の廉潔性とは無関係である。国家主義ジャーナリストも、権力追随主義国営放送経営者も、カネには潔癖でありうる。廉潔な右翼活動家は珍しくない。しかし、籾井勝人は、その思想において権力に対する批判精神を欠いてるのみならず、高給を食んでいながらカネに汚い。天は籾井から二物とも奪った。籾井勝人ほどNHK会長職に相応しからぬ人物はない。

即刻辞めてもらいたい。できれば、明日(3月19日)を待たずに、今日中の辞職をお勧めする。せめて、散り際の潔さくらいは見せてはいかがか。高給故か、職に恋々としているみっともなさは、さらに惨めな結末をもたらすことになるだろうから。

ことは単純だ。NHKの籾井勝人会長は、今年1月2日私的なゴルフに出かけた。遊びの場所は、名門・小金井カントリークラブ。その際ハイヤーを利用したという。純粋に私用なのだから、ハイヤーの手配は自分ですべきであった。あるいは自分でタクシーを呼べばよいこと。ところが、NHKで使っているハイヤー会社の車両が利用され、ハイヤーの手配はNHKの職員にさせた。ここで既に、籾井勝人は瓜田に沓を入れている。

そのハイヤーの代金は4万9585円。なぜか、籾井はこの私用の代金を当日清算していない。当日清算できない事情があれば、「私用だから代金の請求は、NHKにではなく自分宛てにするよう」指示をすべきが当然であるのに、これもしていない。当然のごとく、業者はこれをNHKに請求し、NHKはこれを支払っている。籾井勝人は、自分では支払う意思がなかったのだとしか考えられない。少なくも、その疑惑を拭うことができない。

ハイヤー業者から籾井勝人への傭車代の直接の請求はなされていない。籾井は、「NHKから請求書が回ってきたから直ぐに支払った」と国会(16日衆院予算委員会・小川敏夫議員の質問に対する回答)で述べている。また、小川議員が「支払ったのは監査委員会の調査の後か」「NHKは立て替えたのか」と質問したのに対し、籾井は「答えは控えたい」と回答している。

籾井自身の説明でも、1月2日の私用ハイヤー代を、3月9日に支払ったというのだ。「こんなことは、民間ならあり得ない」ことではないのか。それともお得意の「よくあること」だというのだろうか。

事件は内部告発によって発覚し、経営委員3人で構成される監査委員会が調査を始めた。この調査が始まったあとで、籾井は金を支払った。調査があったから、慌てて支払ったのだと誰もが考える。内部告発がなければ、あるいは監査委員会の調査が始まらなければ、籾井が金を支払うことはなかったのではないか。そう国民から疑惑を持たれて当然の事態の推移なのだ。

監査委員会を構成する3名が誰かは知らない。が、法律家やコンプライアンスの専門家がいるとは思えない。この道のプロとして、上村達男さんがこのメンバーに加わっていればと残念でならない。

以上が昨日までの情報。今日あらたな重要情報に接した。
まず毎日の報道。「NHKの籾井勝人会長が私用ハイヤー代の請求をNHKに回した問題で、代金を自己負担したのは、監査委員会側から支払いを促された後だったことが17日分かった」というもの。

籾井に代金支払いを督促したのはNHKではなく、監査委員会だったというのだ。内部告発があって、それに基づいて監査委員会が構成されて、一応の調査があっての後に監査委員会が籾井に支払うよう督促したのだ。籾井にこのことがわからなかったはずはない。16日予算委員会における小川敏夫議員に対する回答は、欺瞞に満ちている。

さらに、朝日の報道。
「NHKの籾井勝人会長が私用のゴルフで使ったハイヤー代がNHKに請求されていた問題で、役員が業務の際に使用する乗車伝票が作成され、会長の業務に伴う支出として経理処理されていたことが17日、分かった」
「籾井会長は今年1月2日、東京都渋谷区の自宅と小平市の小金井カントリー倶楽部をハイヤーで往復。車両は午前7時に出庫し、約12時間利用した。伝票上は業務内容として『外部対応業務』と記され、籾井会長名のサインもあった」

この報道は、決定的だ。ことの性質上ニュースソースを出せないだろう。しかし、その記事の具体性から信頼に足りるものと判断してよいだろう。立て替え払いが公私混同で道義的に問題だというレベルではない。プライベートの遊びのカネを「外部対応業務」として、NHKに支払わせたのだ。

籾井勝人は李下に冠を正しただけではなく、スモモの実をもいでいたのだ。そして、あたかも冠を正しただけと繕っていたのだ。せっかくもいだスモモだが、発覚したから返さざるをえなかったということ。「見つかったから返すよ。返したんだから問題なかろう」という例の逃げ口上の常套手段を、またまた聞かされることになったのだ。

籾井君、君はアウトだ。私用の傭車代金をNHKに支払わせたのだ。詐欺罪に当たるのか背任罪なのかはともかく、法的な問題として追求されて当然なのだ。

監査委員会は当初24日に予定していた経営委員会への報告を、19日に開かれる臨時経営委員会で行う、と報道されている。明日(19日)の監査委員会報告に注目したい。どのくらい厳正な調査をおこなったのか、厳正に不適格会長を指弾しているのか。経営委員会側も、その姿勢に関して国民の批判に曝されているのだ。

二つの感想を付け加えておきたい。
一つは、政権と籾井勝人とのつながりの深さについてである。
「菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、籾井会長のハイヤー報道について、『私が承知する限りにおいては全く問題がない』との認識を示した。」と報道されている。

政権は、NHKのコンプライアンスに口出しする立場にはない。ましてや会長の個人スキャンダルをもみ消そうとするかのごとき発言はあってはならないもの。この菅発言は政権と籾井勝人との持ちつ持たれつの関係を露わにするものとなった。おかげで、籾井勝人スキャンダルは、政権の責任を問うものともなっている。

もう一つは、内部告発者の勇気とその功績を称えたいということ。あらためて、内部告発(公益通報)が社会にもたらす有益性を確認したい。そして、この有益な情報を社会に公開するきっかけとなった内部告発者を擁護しなければならないと思う。籾井勝人とその配下の者たちは、内部告発者の犯人捜しをしたり、報復を企てるなどしてはならない。そのようなことがあれば、さらなるNHKの国民不信が深まることになるのだから。
(2015年3月18日)

核をもてあそぶプーチンに無数の抗議の声を

ロシアのプーチンが、1年前、クリミア半島併合の際に核兵器の使用準備を検討していた、と自ら明らかにした。米国を中心とする北大西洋条約機構(NATO)との対決に備えての核兵器の使用準備であったという。おぞましくも戦慄すべき発言。身の毛がよだつ。満身の怒りをもって抗議しなければならない。

人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。誰にせよ、核をもてあそぶことはけっして許されない。ましてや、威嚇の手段にすることなど、狂気の沙汰だ。

核の脅しは、その対抗措置としての核の脅しの連鎖となり、その連鎖が核兵器の実戦使用となりかねない。核兵器の実戦使用は、対抗措置としての核兵器使用の連鎖となって、人類を滅亡に導きかねない。プーチン発言は、人類が許してはならないものなのだ。

「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。ましてや、核兵器による威嚇や行使があってはならない。

昨日(3月16日)の朝日川柳に、次の1句。
  戦闘に歯止めがあると人の言ふ(三重県 大西裕美子)

自衛隊による集団的自衛権行使やグレーゾーンでの戦闘を念頭においての句ではあろうが、歯止めの掛からぬ戦闘の究極の到達点が核戦争である。

私は、戦後間もないころに、広島の爆心地近くの小学校に入校した。幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。

1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」「原爆マグロ」「ガイガー計数管」などに戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器も被曝も、絶対悪として廃絶しなければならないと、骨の髄まで身に沁みている。

現行日本国憲法を採択した制憲国会において、当時の首相・幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」

プーチンが準備したという核兵器は、その破壊力において、広島・長崎に投下された原爆の比ではなかろう。その核兵器の使用の結果には勝者も敗者もない。人類を滅亡にいざなう破壊がもたらされるだけだ。

いかなる理由をこじつけようと、文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。

本日(3月17日)の朝日と毎日が、この問題を社説で取り上げている。
毎日の結びはこうなっている。
来月には核拡散防止条約(NPT)の再検討会議が開かれる。非核保有国の核保有国に対する視線は厳しい。核削減への努力が求められる中で、核の威力を誇示して自国の主張を通そうとする姿勢は国際社会への背信行為である。」

朝日はこうだ。
「力による国境の変更に加え、核による挑発。プーチン氏の行動は、前時代的な大国意識の表れではないか。これ以上、国際秩序に挑むような言動は慎むべきだ。国際社会のロシアへの警戒心は極度に深まっている。」

両紙のいうとおりだ。プーチンは「核の威力を誇示」し、「核による挑発」をおこなっているのだ。国際的に批判されるべきは当然である。くわえて、私たちも小さくても、無数の声を上げねばならない。核兵器に文明を抹殺されることなど、絶対にあってはならないのだから。
(2015年3月17日)

東京新聞の「九条の会」討論集会報道

昨日(3月15日)、「九条の会」が都内で全国討論集会を開いた。さすがに、よいタイミングでの企画。集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を法律レベルで具体化する安保法制整備の阻止が焦眉の急の課題。法案の大綱は、現在進行中の与党協議の結論として、今月末までに明らかになる。自・公が真剣に議論しているのか、それとも出来レースで議論しているふりをしているのかも。

「九条の会」のこの集会の呼びかけは、1月29日に公表された。以下のような内容。

「安倍政権は、通常国会で、憲法9条の破壊につながる戦争関連法制の改定案や自衛隊海外派兵恒久法案などを提出しようとしています。私たちは、先般の集団的自衛権の政府解釈見直しの不当な閣議決定に沿ったこれらの憲法違反の諸法制を断じて容認できません。これを許せば、日本はまさに『戦争する国』になります。安倍政権のこの危険な企てに対して、九条の会はどのように活動するべきかを語り合うため、『全国討論集会』を開催します。全国からの参加を期待します。声をかけあってご参加ください。

単位「九条の会」は、全国の地域や職域や学園に7500も結成されているという。昨日はその内の280の「九条の会」から452人が参加し、34人が発言したと報じられている。

今朝の赤旗が、この集会を一面トップと、社会面の中段で記事にしている。これは驚くに当たらない。驚いたのは、東京新聞である。1面の左肩で扱っただけでなく、社会面の半分以上の紙幅を割いての、発言内容にまで立ち入った本格的な報道。

しかも、その姿勢が真っ直ぐだ。見出しが、「改憲反対に若い力を」「『九条の会』世論盛り上げ」「いま9条守る」というもの。その報道姿勢が、まことに新鮮な印象。
これまで、大手メディアは、護憲派の運動を報じることに臆病ではなかったか。改憲派の報道と抱き合わせでなくては、護憲派の集会はなかなか記事にならなかったのではないか。今朝の東京新聞の記事は、吹っ切れたという感じがある。同紙が原発報道において脱原発派に正当な地位を認めたように、憲法をめぐるせめぎ合いにおいても護憲派の運動に同様の対応をすることを決意したように見える。

東京新聞は、1面では「憲法九条を守る活動をしている市民団体『九条の会』は15日、全国の会員による討論集会を東京都内で開き、若者へのPRや地域に根差した活動で改憲に反対する世論を盛り上げていく方針を確認した。創設時の呼び掛け人の作家沢地久枝さん(84)と、同じく作家の大江健三郎さん(80)も登壇し『歴史を繰り返さないために』と訴えた」と公式的な報道内容だが、社会面では無名の5人の発言を写真入りで報じている。暖かい報道姿勢だ。

同紙がつけたこの5人の発言のタイトルがよい。
「改憲派にも言葉届けよう」「平和へ保守とも協力を」「東アジアの草の根で連帯」「改憲阻止へ大きなうねり」「障害者こそ平和が必要」というもの。この発言の選択とタイトルの付け方が、記者の共感を物語っている。

「運動の対象を改憲派にも拡げて、改憲派とも語り合おう」「革新・リベラル派だけの内向き運動だけでは勝てない。平和を希求する保守陣営とも協力して憲法を守ろう」「国内だけではなく、東アジアの草の民衆とも連帯しよう」「そして、8月15日には100万人大集会を成功させて改憲阻止へ大きなうねりを作っていこう」という、運動の拡がりを提案する発言が主流となったようだ。そして、「戦争の時代には弱い立場の人権が真っ先に切り捨てられる。障害者自身が弱者にこそ平和が必要だと訴えていきたい」という平和の尊さについての言及。まさしく、草の根の護憲運動が発言している。

なお、毎日もスペースは大きくないが、きちんと報道はしている。共同通信の配信で北海道新聞などの地方紙も報道をしている様子。朝日には関連記事がみあたらない。読売については言わずもがな。産経については「ことさらに『九条の会』を批判する記事」の掲載はないようだとだけ言っておこう。

各紙の報道での私の印象。
当然ではあるが、まずは、護憲派の危機感がとても強いということ。一歩一歩積み重ねられてきた、「戦争のできる国作り」が、いよいよ瀬戸際まで来ているという危機感である。これまでの運動の壁を乗り越えて、あらたな質と規模の護憲を求める国民的大運動を、という声が強い。

その危機感は、とりわけ戦前と戦争を知る世代に強い。「今が戦前に似ている」と語る高齢世代からの緊張感が伝わってくる。その高齢世代の危機感が、若い世代への運動継承の必要の強調となっている。

そして、これまで結束の対象としていた革新リベラルの域を超えて、その外の多くの人々に、改憲阻止の運動に参加を呼びかけようと訴えられている。共闘とは、無理に意見を一致させることではない。一致点での共同行動が第一歩である。

とりあえずは、専守防衛容認派も、瓶のフタとしての安保条約容認論者も、アベノカイケンだけには反対という論者も、閣議決定で実質改憲を許してはならないという一点護憲派も、「いまの安倍政権による改憲には反対」という一致点での共闘は可能であり、それこそが多数を味方に結集して大きな国民的運動を起こせるし、起こさねばならないのだ。

私も、自分の考え方は大切にしながらも、改憲阻止の大きな国民運動のうねりを作るためにはどうすればよいかを意識しつつ、当ブログを書き続けていきたい。
(2015年3月16日)

松谷みよ子さんが語った「治安維持法・思想弾圧・国家機密法」

今日3月15日は、民主主義と人権に関心を持つ者にとって忘れてはならない日。思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が、本格的に牙をむいた日である。

多喜二の小説「1928年3月15日」で知られるこの日の午前5時、全国の治安警察は一斉に日本共産党員の自宅や、労農党本部、無産青年同盟、無産者新聞社などを家宅捜索し1568名を逮捕、その内484名を起訴した。第1次共産党弾圧である。被逮捕者に対する拷問が苛烈を極めたことはよく知られている。皇軍の戦地での恥ずべき蛮行と並んで、天皇制政府の醜悪な側面を露呈させた恥部といってよい。

悪名高い治安維持法は、男子普通選挙法(衆議院議員選挙法改正法)とセットで、1925年3月に成立し、同年4月22日施行となった。その第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」であった。後に、法「改正」を重ねて刑は死刑を含むものとなる。

「国体ヲ変革シ」とは、天皇制を否定して国民主権原理にもとづく民主主義国家を建設しようという思想と運動を意味している。これが犯罪、しかも死刑に当たるというのだ。

「私有財産制度ヲ否認スル」とは、生産財を社会の共有にすることによって格差や貧困のない社会を目ざそうということ。これも危険思想故に犯罪とされた。天皇制政府が誰と結託していたかを雄弁に物語っている。

治安維持法は、「3.15」「4.16」、そして多喜二を虐殺した。まずは共産党に向いた治安維持法の牙は、社会民主主義者にも、自由主義者にも、平和主義者にも、労働・農民運動家にも、そして宗教者にも生け贄の対象を拡大していった。そのために、民衆は「滅多な口を利いてはならない」と政府を恐れた。その民衆にさらに容赦なく、天皇制政府は思想統制を強め、過酷な弾圧を続けた。

民衆の立場から、その実態を掘り起こす優れた作業がいくつも公にされているが、その一つとして、松谷みよ子の「現代民話考」の一巻、「銃後」に「思想弾圧」がある。

「現代民話考」は、広い分野にわたって全国の民間伝承を採話したもので、全12巻に及ぶ。初版は立風書房だが、今は筑摩文庫で復刻されているようだ。その第6巻(第2期・?)が「銃後 思想弾圧・空襲・沖縄戦・引き上げ」となっている。なお、第2巻(第1期・?)が「軍隊 徴兵検査・新兵のころ」というもの。民衆の伝承が、これほど戦争に関わるものになっているのだ。

以下は、「銃後」の前書きに当たる「銃後考」の抜粋である。戦争の時代を生き抜いた知性と良心が語る言葉である。児童文学者としての優しさに満ちた感性が、強靱な理性に支えられたものであることがよくわかる。

「安維持法の名のもと思想統制が進められ、労組、農民組合などの運動に参加する人びと、自由人、社会思想を持つ人びとが検挙され、凄じい拷問がくりひろげられた。昭和8年、小林多喜二が築地署で特高による拷問で死亡した事件は心ある人びとに大きな衝撃を与えた。そしてこれらの思想弾圧があってこそ、天皇を神とし、大東亜を共栄圈とする思想も、銃後の思想統一もゆるぎないものにつくりあげられていったのである。その意味で今回、第一章を思想弾圧・禁止とした。」

「あの当時、非国民の恪印は死とつながる恐怖であった。日本国民のあるものは、幼い日からの軍国教育によって、ある者はしんそこ日本は神国であると信じ、大東亜共栄圈の理想を共有した。しかし、ある人びと、前述したクリスチャンや、思想的にこの戦争は正しくないと感じ、何等かのかたちで抵抗した人びともいる。‥無垢の愛に地をたたき、狂うほどの悲しみをあらわにした。「息子を返せ! 東条のバカヤロー」「天皇のヤロウー どんなにしたってきかないから!」これらの言葉が官憲に聞えたらどうなるか、当時を生きた人なら誰でもが知っている。また、福島の‥は、貧農の母が髪ふり乱し「おらの息子を連れて行くな」と出征の行列に泣きすがったと伝える。庶民の心のほとばしりを私は大切に思うのである。」

437頁のこの書には、かなり長い「あとがき」がある。松谷みよ子の息遣いが聞こえてくるようだ。「ちょっと気になること」として、「一つの花」事件の顛末が書かれている。「一つの花」とは、小学校の教科書に載った短編小説の題名。作中のおおぜいの見送りのない出征風景が「捏造」として、産経の批判のキャンペーンにさらされたことが「事件」である。

これを松谷は、「『一つの花』における見送りのない出征風景はこのように、見送りのない出征?戦争の悲惨?アカ、という図式をはめられ、新たなる伝説をつくりあげられていく。バカバカしいことながら、笑ってはすまされないことであった。」

としたうえで、こう続けている。
「先日、京都へ行ったとき、国旗掲揚、君が代が教育の場で強制されてきた、となげく声を聞いた。これは他県ではずいぶん前から聞かされたことであった。国旗があがる間、どこにいてもぱっと直立不動の姿勢をとらされるという話も聞いた。また、昭和61年11月10日には、天皇在位60年を奉祝して、二重橋前から銀座、日本橋などに提灯行列、日の丸、天皇陛下万歳のさけびで湧いた。偶然通りかかった知人は、戦時中のシンガポール陥落の提灯行列を思い浮べ、歳月が40年前に逆戻りしたような恐ろしさを覚えたという。この前の戦争が、天皇を現人神と神格化し、平和を希求する思想をアカときめつけて全国民を戦争への道に駈り立てていった、そのことはすでにあきらかである。この道は、いつかきた道、戦後だ戦後だといっているうちに、あたりの風景は戦前に変りつつあるのではないか。そして、風景を塗り変えようとする手と、「一つの花」事件とが無縁のものとは考えられないのである。国家機密法が繰り返し上程されようとしていることとも無縁ではない。

いま、なにかが水面下で不気味にふくれあがりつつある。「一つの花」見送りのない出征事件は、いまから8年前になる。しかし遠い地鳴りのようなこの出来事を、私たちは忘れてはなるまい。一つ、一つの事件、それはごく小さく、とるに足りぬもののように見える。しかし、その小さな出来事が積み重なることによって、私たちの感性はいつしか馴らされ、気がついてみれば戦争への道をふたたび歩いている。そういうことがないとどうしていえようか。「ねえ、あのとき、どうして戦争に反対しなかったの?」子どもたちにそう問われることのないように、私たちは、常にするどく、感性を磨かねばと思う。卵を抱いた母鳥のように。」

松谷みよ子さんは、2月28日に永眠された。あらためて、警世の人を失ったことを悔やまざるを得ない。この書が上梓されたのは1987年4月であった。松谷さんがたびたび言及している国家機密法(自民党側はこれを「スパイ防止法」と呼んだ)は、1985年に国会上程されて廃案となり、87年ころには再提出が懸念されていた。いま、これに替わって特定秘密保護法が成立してしまった。また、産経の役割は相変わらずである。

松谷さんの言をかみしめたい。「小さな出来事の積み重ねに感性を馴らされてはならない」。しかし、今や安倍政権の所為は、「小さな出来事の積み重ね」の域を超えている。今を再びの戦前とし、後世に再びの「治安維持法・思想弾圧」の伝承を語らせる歴史を繰り返してはならない。
(2015年3月15日)

教育行政が教員集団の力量を殺いではならない

昨日の当ブログは、教育がビジネスチャンスとされていることを取り上げた。本日は、教育が国民の思想統制手段となる危険について警告を発したい。

文科省は初等中等教育局長名で、各都道府県教育委員会などに宛て3月4日付「学校における補助教材の適切な取扱いについて」と題する通知を出した。同旨通達は1974年9月以来のことという。

この通知を発した動機と趣旨については、こう前置きされている。

「最近一部の学校における適切とは言えない補助教材の使用の事例も指摘されています。このため,その取扱いについての留意事項等を,改めて下記のとおり通知しますので,十分に御了知の上,適切に取り扱われるようお願いします。」「管下の学校に対して,本通知の内容についての周知と必要な指導等について適切にお取り計らいくださいますようお願いします。」

教育は本質的に自由で闊達なものでなくてはならない。専門職としての教師の判断によって、具体的な現場々々に相応しい創意に溢れた手法の採用が尊重されなければならない。かつての天皇制教育は、国定教科書による一方的な知識を詰め込み、思想や価値観までをも画一化しようとした。その反省から、戦後教育改革は国定教科書を排して複数の教科書の採択が可能な体制とし、補助教材の活用も当然のこととした。教育の場に、単一の価値観を押しつけてはならない、ましてや国家によるイデオロギーの注入は許されない。そのような文明世界の常識に従ったのだ。

いま、その原則が揺らいでいる。同通知は補助教材の使用が可能なことは確認している。しかし、決して「検定教科書だけに頼らず社会の多様性を反映した補助教材の積極的活用を」と奨励するものではない。教師による補助教材を活用した授業を牽制し、萎縮させる方向での通知の内容となっている。

たとえば、次のようにである。
「学校における補助教材の使用の検討に当たっては,その内容及び取扱いに関し,特に以下の点に十分留意すること。
・教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従っていること。
・その使用される学年の児童生徒の心身の発達の段階に即していること。
・多様な見方や考え方のできる事柄,未確定な事柄を取り上げる場合には,特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと。」

しかし、これでは何が判断基準なのか不明確極まる。「教育基本法,学校教育法,学習指導要領等の趣旨に従って」の補助教材使用と言っても、法も学習指導要領の記述も抽象性が高い。もちろん補助教材使用についての具体的な判断基準を意識したものではない。「特定の事柄を強調し過ぎたり,一面的な見解を十分な配慮なく取り上げたりするなど,特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」も同様である。権力が、「特定の見方や考え方に偏った取扱いとならないこと」と言えば、「時の政権の意見に従え」との意味にほかならないのが常識ではないか。

結局のところ、現場の教師は、上司・校長・教委・文科省、さらには政権の思惑を忖度して補助教材選択の可否を判断することにならざるをえない。萎縮効果は免れず、それこそが文科省の狙いというべきであろう。

さらにこの通知の問題は、次の記述にある。
「教育委員会は,所管の学校における補助教材の使用について,あらかじめ,教育委員会に届け出させ,又は教育委員会の承認を受けさせることとする定を設けるものとされており,この規定を適確に履行するとともに,必要に応じて補助教材の内容を確認するなど,各学校において補助教材が不適切に使用されないよう管理を行うこと。
 ただし,上記の地方教育行政の組織及び運営に関する法律第33条第2項の趣旨は,補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく,教育委員会において関与すべきものと判断したものについて,適切な措置をとるべきことを示したものであり,各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること。
 なお,教育委員会が届出,承認にかからしめていない補助教材についても,所管の学校において不適切に使用されている事実を確認した場合には,当該教育委員会は適切な措置をとること。」

これは、現場への締め付けであり、恫喝ですらある。
上記記述の第2段落には、確かに「補助教材の使用を全て事前の届出や承認にかからしめようとするものではなく」「各学校における有益適切な補助教材の効果的使用を抑制することとならないよう,留意すること」との言い訳は述べられている。しかし、わざわざこの通知が発せられたのはこの部分を強調するためではない。

この通知は、補助教材の使用については、教師は校長に、校長は教委に、事前の伺いを立てるようにせよとの通達として読むこともできる。このようにして、教育現場の管理をさらに徹底しようとする、政権と文科省の意図を読み取らなければならない。

この意図を傍証してくれるのが、本日の産経社説だ。いつものとおりの産経らしく、文科省の意図を忖度して、この通知のホンネを明らかにしてくれている。

タイトルは、「不適切教材 独り善がりの指導やめよ」というもの。その社説の中で、産経が「不適切な教材例」としているのは以下の事例。

「遺体の画像を配慮なく見せるなど教員の良識を疑わせる問題」「公立中学の社会科の授業で教諭が『日本海(東海)』と表記した地図を掲載したプリントを配る例」「高校の定期試験で安倍晋三首相の靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事を問題文に示して、生徒の解答を誘導するような事例」「過激組織「イスラム国」が日本人人質を殺害したとする画像を授業で見せる例」

産経も、「学校教育法で教科書のほかに副読本や教員の自作のプリントなど「有益適切」な補助教材を使うことが認められている」と言い訳めいたことを言っている。しかし同時に、「補助教材の使用にあたり校長の許可を得て教育委員会に届けるルールも守られていなかった」と強調している。

驚いたのは、産経社説の締めくくり。「文科省は通知で適切な教材を有効に活用することも促している。日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材こそ工夫してほしい。独善的な指導は多様な見方や考え方を損なう」というもの。

結局、「靖国参拝を批判的に取り上げた新聞記事」の使用は不可で、「日本の豊かな自然、国土や歴史について理解を深める教材」は可というのだ。前者は独善で不適切、後者は多様な見方や考え方を示すものとして適切。恐るべき産経の独善。おそらくは政権も同意見。

なるほど、ナショナリストには、「日本の豊かな自然、国土や歴史」でなくてはならない。おそらくは、「豊かな」という形容詞は、「自然」だけでなく「国土や歴史」をも修飾するようだ。原発事故で荒れ果てた福島の自然や国土は、教材として取り上げるに不適切ということになろうし、侵略や植民地支配の日本の歴史も「豊か」ならざるものとして「理解を深める」対象から外されることになるのだろう。

教育現場の管理をさらに徹底しようというのがこの通知だが、教育を締めつけて窒息させてはならない。使用教材の適不適の判断には微妙な問題が絡む。最も適切で有効な批判は、現場の教師集団の意見交換の場においておこなわれるべきである。校長や経験豊かな教師、さまざまな信条を持つ教員集団の経験交流や意見交換の充実が何よりの優先課題というべきである。

真に憂うべきは、教育行政が教員の裁量を奪い、教員に対する管理を徹底することによって、教師集団から教育専門職としての力量を奪いつつあることではないか。教育行政は意図的にそのように仕向けているとの憂いを払拭できない。
(2015年3月14日)

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