武田清子『天皇観の相剋』再読
本日(4月19日)の朝刊で、武田清子さんが4月12日に亡くなられていたことを知った。思想史学者で国際基督教大名誉教授。1917年のお生まれは、丸山真男(1914年生)や鶴見俊輔(1922年生)らと同世代で、享年がちょうど100となる。
靖国訴訟に携わった際に、「天皇観の相剋ー1945年前後ー」に目を通した。
その際には、アメリカ占領軍の対日占領政策における天皇制廃止論と天皇制存続論との「相克」としてだけ理解した。戦後民主化の障害物として廃止の対象とする天皇観と、効率的に支配と民主化に利用できるものみる天皇観との相克。
連合国の天皇や天皇制への批判は厳しかった。たとえば、同書の中に、終戦直前のワシントンポスト(1945年6月29日付)が報じるギャラップ世論調査の紹介がある。天皇(裕仁)の取り扱いに関するアメリカの世論は、以下のとおりである。
処刑 33%
終身刑 11%
追放 9%
裁判で決定 17%
日本を動かすパペットに利用せよ 3%
軍閥の道具だから何もしない 4%
雑・回答なし 23%
天皇個人を処罰し天皇制を廃止すべし、というのが圧倒的な戦勝国の世論だった。「日本の天皇制が根こそぎに除去されるまで、日本人を文明人の仲間とすることは不可能である」(『シカゴ・ニュース』)、「あの、中世的ミカド・システム(天皇制)が、温存されている限り、太平洋にはけっして平和はあり得ない」(『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』)、「裕仁は、日本の軍事的冒険に直接的に責任がある」(雑誌『ネーション』)などの米国内の論調が紹介されてもいる。オーストラリアの世論は、さらに天皇や天皇制に厳しいものだったという。
しかし、天皇(裕仁)は「処刑」・「終身刑」・「追放」にはならず、「裁判で決定」にすらならなかった。この範疇の世論合計が70%にも達していたにもかかわらずである。彼は、戦犯としての起訴を免れ、3%の支持しかなかった「日本を動かすパペットに利用」という政策が採られることになった。
これは、奇妙ではないか。圧倒的な世論を背景とした峻厳なラティモアらの天皇制廃止派と、占領政策の効率的な運用という観点からのグルーら妥協的天皇制温存派の「相克」において、どうして前者が敗れて後者の採用となったか。当時の私はその関心だけで読んだ。しかし、これは皮相な読み方だったようだ。
この書の広告文に、「廃止か保持か―日本降伏をめぐる英・米・オーストラリア・中国など連合国側のさまざまな天皇観の対立・相剋をはじめて実証的に明らかにし、戦後改革を伝統社会の変容のドラマとして解明した画期的研究。諸外国の「鏡」に映し出された天皇制のイメージは、同時に日本人のいかなる思考や集団行動様式を反映しているのか。」とある。相克は、「諸外国の『鏡』に映し出された日本自身の天皇制の二重のイメージ」だということがこの書の眼目のようなのだ。
著者自身が、朝日.comのインタビューで、次のように分かり易く、明快に語っている。
「1945年前後の連合国では、天皇観が対立していました。アメリカの中国専門家オーエン・ラティモアは『アジアにおける解決』で、天皇制を廃止しなければ日本の民主化はできないと主張しました。オーストラリアも天皇制廃止論の強い国の一つでした。一方で、アメリカの駐日大使だったジョセフ・グルーは、天皇は秩序維持に不可欠な『女王蜂』であり、右翼や軍国主義者を排除すれば天皇がいても日本は民主化できる、と楽観的でした。
この相剋の帰結は、天皇の人間宣言や象徴天皇制となりますが、実は外国という鏡に映った日本の中の相剋だったというのが私の見方です。そもそも明治維新のシンボルとしての天皇観に対立があった。吉田松陰は『天下は一人の天下』と絶対主義的な天皇観であり、山県太華は『天下は天下の天下』と制限君主的な天皇観でした。
明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。『万世一系ノ天皇』は『神聖ニシテ侵スヘカラス』だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す。これはその後、超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解していきます。
二重構造の天皇観が、敗戦で連合国という異質の文化と出会い、民主化というドラマが始まりました。その時、連合国と共演した日本人は誰なのか。私は、天皇の側近だったようなオールドリベラリストではなく、大正デモクラシーや天皇機関説でインパクトを与えられ、民主化への希望を懐に持っていた一般民衆だったと思いました。そういう人たちが新憲法を支持した。(以下略)」
なるほど、相克しているのはもともとわが国に古くからあった「二重構造の天皇観」なのだ。これをキーワードに読み直すと、いろんなことが見えてくる。
著者は、近代日本の形成過程の中に、天皇に関する二つのイメージ、二つの相対立する天皇観が存在し、その両要素がパラドキシカルな緊張関係を保ちながら機能していた、と分析する。
単純化していえば、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」と、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」との、二つの天皇のイメージが、近代日本を貫いて二重構造・二元制をなして機能してきた。これが近代日本の内包する天皇観の相克で、こうした相矛盾する天皇観が外国の鏡に自らを投影し、それが無条件降伏後の日本の占領政策にはね返ってきた、というのだ。
具体的には、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」からは天皇制廃止の方針しか出てこない。しかし、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」からは天皇制を温存しつつ、平穏な民主化という選択肢が現実的なものと映ることになる。日本の占領政策は後者をメインに折れ合って、天皇の権威を利用して成功裡に平穏な民主化を実現したことになる。
この分析は、天皇・天皇制の考察を中心に、戦前と戦後の連続性と断絶性の契機を考える基本視点を提供するものでもある。天皇制の相克の折り合いは、戦前と戦後の断絶性と連続性との折り合いでもある。天皇制を温存した戦後は、戦前的な多くのものを引きずって今日に至っている。天皇制温存の「民主化」は平穏な過程というメリットとともに、自ずから不徹底な限界を内在する宿命にもあったのだ。
わが国戦後の天皇制存続下の民主化は、昨今における北朝鮮の金体制温存下での民主化の課題を彷彿とさせる。微温的に天皇制を温存しつつこれを「無力化」した日本の戦後民主主義改革の如くに、金体制の存続を保証しつつ、民主化や国際協調が可能なのだろうか。
(2018年4月19日)