澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

閣僚も国会議員も、任期中は靖国神社参拝をしてはならない

★秋季例大祭の靖国神社参拝を見送った安倍晋三首相は、19日視察先の福島県南相馬市で記者団の質問に答え、自身の靖国神社参拝について「第1次安倍政権で参拝できなかったことを『痛恨の極み』と言った気持ちは今も変わらない」と述べ、改めて参拝に意欲を示した。また、「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ちは今も同じだ。リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のことだ」とも語った、と報じられている。

☆安倍さん、あなたは間違っている。
「国のために戦い、倒れた方々に手を合わせて尊崇の念を表し、ご冥福をお祈りする気持ち」をもつことは、あなた個人の内心の問題としては自由だ。しかし、あなたが記者会見の席で、国民に広く聞こえるようにスピーチをするとなると、敢えて、私にも批判の自由がある、と言わざるを得ない。

戦争犠牲者を悼む気持はおそらく誰しも同じものだろう。誰しもが、人の死を厳粛に悼む気持をもっている。戦争の犠牲者に向かいあうとなれば、夥しい数の老若男女の洋々の未来を突然に断ち切られた無念の思いを受けとめなければならない。その重さ深さに胸の痛みを禁じ得ない。

しかし安倍さん、あなたはどうして「国のために戦い倒れた方々」を特に選んでの追悼にこだわっているのか。あなたの気持ちの中には「死者を斉しく悼む」よりは、「国のために闘った」ことへの顕彰、ないしは讃仰あるいは鼓舞の意図が隠されてはいないか。私は、戦争で亡くなったすべての人を戦争を引きおこした国家の行為による被害者と考える。国家の加害とは、具体的には国家の中枢にあって戦争を唱導した指導者の行為のことだ。もちろん天皇が加害者集団の中心に位置し、その近くにあなたの祖父もその一員としていた。あなたが、「国のために戦い倒れた方々」への格別の思い入れを表明することは、その加害被害の構造を糊塗する意図を感じざるを得ない。あなたは、闘い倒れた人の勇敢さを称える気持はあっても、実はその死を悼む気持は持ち合わせてはいないのではないか。

安倍さん、あなたはどうして、「国のために戦い倒れた方々」を「尊崇」すると言うのか。東京でも、広島でも、長崎でも、沖縄でも、また旧満州でも、南方諸島でも、多くの民間人が戦争の犠牲となった。あなたは、民間の戦死者にはけっして「尊崇」などとは言わない、「英霊」とも言わない。あなたの頭の中には、軍人が他と区別された特別な存在となっているのではないか。「敗戦はしたが、よくぞ雄々しく闘った」とでも言いたいのではないか。

おそらく、あなたは、戦没者を間違った国家政策の犠牲者だと考えてはいない。戦争犠牲者の中で、生前軍人軍属だった者の死を、その余の一般市民の死と区別して、これを「英霊」と顕彰し、「尊崇の念」を表するとき、戦争への批判や、戦争を企図した天皇をはじめとする国家指導者への批判は封じられる。あなたの意図はそこにあるのではないか。あなたには、戦争を絶対悪として戦争を起こした者への責任を追及しようという姿勢はない。戦争の悲惨さを稀薄化し、あわよくば戦争を美化し、戦争を起こしたものを免罪し、次の戦争の準備さえ考えているのではないか。

「英霊」こそは、次の戦争を準備するために利用可能な恰好の世論操作手段である。靖国神社参拝に執念を燃やすあなたには、「英霊」とともに敗戦を無念としリベンジの戦力を整える国家を建設しようとのメンタリティを感じざるを得ない。

「リーダーとしてそういう気持ちを表すのは当然のこと」ではない。人の死は、誰の死であろうとも、斉しく厳粛に悼まねばならない。軍人の死だけではなく民間人の死をも、自国民だけではなく戦争の相手国の国民の死も、とりわけ日本が侵略をし植民地支配した国や地域の国民の死を悼まねばならない。戦争の勝敗にかかわらず戦争による死を悲劇として悼み、真摯に不再戦を誓わねばならない。そして、苦しくても、あなたは近隣諸国の民衆の死に謝罪の気持を表さなければならない。「それがリーダーとして当然のこと」なのだ。

★菅義偉官房長官は18日の記者会見で、閣僚の靖国神社参拝について「国のために戦って貴い命を犠牲にされた方に尊崇の念を表明するのは当然のことだ」と述べた。同神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されていることに関しても「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」と語った、と報じられている。

☆菅さん、あなたは間違っている。
「貴い命を犠牲にされた方」というのはそのとおりだ。しかし、「貴い命を犠牲にした」のは「国のために戦った」軍人ばかりではない。夥しい数の、民間戦争被害者もいるのだ。特に、軍人の死者についてだけ、「尊崇の念を表明する」のは当然のことではない。

菅さん、あなたが「亡くなった方というのは皆、一緒にとらえるのが日本の歴史ではないか」とおっしゃったのには驚いた。あなたの言ったことは、確かに日本人の伝統観念で「怨親平等」という言葉に表現されている。蒙古襲来の際の犠牲者を敵味方の区別なく円覚寺に供養したなどの歴史が知られる。ところが、靖国神社はこのような日本人の歴史的伝統とはまったく無縁なのだ。皇軍の死者は「英霊」である反面、賊軍の死者は未来永劫に敵とされて峻別される。けっして混同されることはない。これは、死者の霊前で忠誠と復讐とを誓う軍事的装置として創建された招魂社・靖国神社の宿命なのだ。

菅さんあなたは、「開戦を決め戦争を指導した加害者側のA級戦犯」と、「徴兵され死地に追いやられた被害者側」とを「亡くなった方は皆一緒」とした。その考え方だと、戦争責任の観念は生じようがない。天皇や軍部、官僚、財閥等々の戦争の責任を意図的に全て免責することになってしまうではないか。

戦争責任の追及は、今まさに必要である。再びの軍国主義が勃興しかねない風潮なのだから。

★古屋圭司国家公安委員長は20日朝、秋の例大祭にあわせ、靖国神社を参拝した。古屋氏は午前8時半ごろ、靖国神社を訪れ、参拝後、記者団に「国のために命をささげた英霊に対して、哀悼の誠をささげて、そして、平和への誓いをあらためて表することは、国会議員として当然の責務だと思っております。日本人として、私が参拝することは、当然のことと思っております」と述べ、「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」と強調した、と報じられている。

☆古屋さん、あなたは間違っている。
我が日本国憲法は政教分離の規定をおいた。「政」とは国家権力のこと政権のこと、「教」とは宗教のことだが神道を念頭においている。就中、靖国神社と伊勢神宮をさすと言って大きく間違がわない。なぜ、憲法はこのような規定を置いたか。過ぐる大戦の惨禍の中から生まれた新生日本は、再び戦争を繰り返すことのないよう深く反省して、その反省の結果を憲法に盛り込んだからだ。

政教分離はその主要なものの一つである。戦前、天皇は神の子孫であり、自らも現人神とされた。この神なる天皇が唱導する戦争こそ正義の聖戦であり、神風も吹いて敗戦はあり得ないとされた。国家神道は軍国主義と深く結びつき、国民精神を侵略戦争に動員するための主柱となった。この危険な国家宗教を再現せぬよう歯止めをかけたのが現行憲法の政教分離原則である。政教分離の眼目は、国家神道の軍国主義的側面を象徴する靖国神社と、戦前の軍事大国日本に郷愁を隠さない保守政権との、徹底した関係切断にある。だから、政権を担う地位にある閣僚が靖国神社に参拝してはならない。

「国のために命をささげた英霊」という言葉の使い方において、軍人の死を特別の意義あるものとし、皇軍に対する批判を許さない靖国イデオロギーが表れている。軍国神社靖国は、けっして「平和への誓いをあらためて表する」にふさわしいところではない。

「日本人として私が参拝することは当然」という考え方は自由であるが、「参拝が国会議員として当然の責務」ではあり得ない。政教分離の本旨からも、最高裁判例の目的効果基準からも、国会議員も、閣僚も、少なくとも在任中は靖国神社と距離を置くべきである。

「国のために命をささげた英霊に対し、どのような形で哀悼の誠を示すかは、その国の人間が考える国内問題だ」「近隣諸国を刺激する意図は全くない」とは、政治家の発言としては未熟としか言いようがない。人の足を踏んだ方が忘れても、足を踏まれた方は痛みを忘れない。かつて軍国神社であったというだけでなく、現在なお大東亜戦争聖戦論を鼓吹している靖国神社への閣僚の参拝が、かつて皇軍の軍事侵略を受けた国からの反発を招かないはずはない。

★新藤義孝総務相は18日午前、東京・九段北の靖国神社を参拝した。17日からの秋季例大祭に合わせたもので、参拝後、記者団に「個人の立場で私的参拝を行った。(玉串料は)私費で納めた」と説明。「個人の心の自由の問題だ。(参拝が)外交上の問題になるとは全く考えていない」と強調した。また、中国や韓国からの批判が予想されることについては「個人の心の自由の問題なので、論評されることではない。外交上の問題になるとはまったく考えていない」と語った、と報道されている。

☆新藤さん、あなたは間違っている。
あなたは、個人の立ち場を強調するが、閣僚ともなれば純粋に個人の立場とは言えない。「玉串料を私費で納めた」だけで、私的な参拝とは言えない。もし、個人の立ち場を貫こうというのであれば、人知れずひっそり参拝すればよい。記者会見などしないことだ。もちろん、肩書の記帳もしてはならないし、公用車の使用、随行者の随伴もあってはならない。

閣僚の参拝は、「外交上の問題になる」ことは明らかではないか。憲法9条は、政治的には、日本のアジア諸国に対する不再戦の宣言であり、それあるがゆえに積み重ねられてきたアジア外交であったはず。閣僚の靖国神社参拝で、アジア諸国に対する日本の平和国家としての信頼失墜を招くのは愚かなことではないか。

☆国会議員も閣僚も、在任中は靖国神社にも、伊勢神宮にも参拝すべきではない。議員や閣僚の参拝によって、靖国神社や伊勢神宮が、国と特別の関係にある宗教団体だという外観をつくりだしてはならないのだ。とりわけ、戦争賛美に繋がりやすい、靖国神社への参拝は禁物である。
(2013年10月21日)

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Published in 月曜日, 10月 21st, 2013, at 23:46, and filed under 未分類.

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