司法も学術会議も、行政権力から独立していなければ存在価値はない。
(2020年11月14日)
素晴らしい小春日和の土曜日。午後は、引きこもっての「第51回司法制度研究集会」だった。昨年に続いて、今年も自由法曹団/青年法律家協会弁護士学者合同部会/日本民主法律家協会の共催。ズームで参加できるのが、ありがたい。
「今の司法に求められるもの ― 特に、最高裁判事任命手続きと冤罪防止の制度について」を総合タイトルとして、基調報告が豊秀一さん(朝日新聞編集委員)による「今の司法、何が問題か―新聞記者の視点から」。これに、梓澤和幸さんの「司法の民主化のために」と、周防正行さんの「冤罪防止のための制度の実現を」という報告。
今回の集会企画の段階では学術会議問題は出ていなかった。予定されたテーマとして学術会議問題関連のものはない。しかし、当面する最重要課題として学術会議問題を語らざるを得ない。司法を語りながらも学術会議問題を論じ、学術会議問題を論じつつも、司法を語る集会となった。
よく分かったことは、司法の独立侵害の問題と、学術会議の自主性侵害問題とは同質、同根の問題であること。そして、学術会議の会員任命問題と最高裁裁判官任命問題とについては、同じ法理で考えるべきことである。
司法の独立とは、権力分立を実効化するための制度である。司法部のみならず裁判官は、権力とりわけ行政権から独立して、権力の憲法や法からの逸脱を是正する機能をもたなければならない。行政権力から独立していない司法部も、司法官僚の権力から独立していない裁判官も、権力の暴走を止めることができない。
学術会議も、学術の国家的利用の在り方に関して、権力から独立して提言をなすべき存在である。政府からの掣肘を受けることのない、自律性あってこそ、学術を国策に反映させることができる。権力から独立していない学術会議では、権力の暴走を止めることができず、その使命を達することができない。
いま、司法の独立も、日本学術会議の自律性も危うい。ここを持ちこたえないと、大学にも、教育にも、メディアにも、法曹にも、文学や芸術や宗教にも、累が及ぶことになりかねない。そのような危機感をもたざるを得ない。
私も、ズームで短く発言した。次のような内容。
今回の6名の学術会議会員任命拒否は、49年前の23期司法修習からの裁判官希望者7名に対する任官拒否問題の再現という側面を持っている。
あのとき、採用人事を梃子として組織全体を統制する手法の有効性が確認された。司法部は成功体験を持ったのだ。「人事のことだから理由は言わない」という開き直りつつ、それでいて組織全体の萎縮効果を狙う狡猾さ。今度は、同じことを官邸が行っている。49年前のあの時の教訓をどう生かすべきかを総括し直さなければならない。
本日の司法制度研究集会の発言は、いずれ「法と民主主義」に掲載される。是非、ご一読をお願いしたい。
豊さんの基調講演も充実したものだったが、フロアからの岡田正則さんの発言がさすがに印象に残るものだった。その大要をご紹介したい。
6人の任命拒否が、違憲であり違法であることは明らかで、法律解釈論争は既に決着がついている。政権は既に詰んでいるのに、それでも「参った」と言わずに居直っている。そのような違法の居直りを許しているのが今の日本の政治状況なのだ。
自由・平等・連帯という市民革命のスローガンの内、利潤追求の自由のみが神聖化されつづけられる一方、歪んだ政治空間の中で本来の連帯が失われている。既得権益・特権を叩くという名目で、公務員や教員、正規労働者までが攻撃対象とされ、研究者や科学者などの専門家も同じような攻撃対象となっている。
さらに、国民に対する情報操作によって、任命を拒否された6名は、「反政府的傾向の連中」というレッテルを貼られつつあり、それゆえの混沌とした政治状況となっている。このままでは、大学の自治も、メディアの在野性も、日弁連の独立性なども、危うくなってしまいかねない。