澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

宮地義亮が記録した ー23期司法修習生阪口徳雄君の罷免から 再採用までー

(2020年12月18日)
宮地義亮という熱血漢がいた。早稲田を出て都庁に入り、その後司法試験に合格して23期の司法修習生となった。私と、同期・同クラス、実務修習地(東京)と班まで同じだった。それだけでなく、「青年法律家協会」や、同期で作った「任官拒否を許さぬ会」の活動をともにした。私よりは7才年長だが、気の合った間柄だった。その宮地義亮が、青年法律家協会の機関紙に掲載した、「あの日から2年 ー 阪口君の罷免から 再採用まで」のドキュメントをお読みいただきたい。

1971年4月5日、23期修習修了式当日の夕刻、阪口徳雄君は修習生罷免となり、2年後の1973年1月31日最高裁は彼の再採用を決定した。いったい何があったのか、どのようにして資格回復が実現したのか。最高裁の体質とはいかなるものか。「準当事者」としての立場で、当時弁護士になっていた宮地が綴っている。阪口君の修習生としての資格回復の1週間後に書かれたもので、当時の同期の心情をよく表している貴重な記録である。

23期の司法修習生集団は、権力機構としての最高裁当局、なかんずく司法官僚の頭目・石田和外とたたかった。その最前線に立った阪口徳雄君は、報復措置としての苛酷な罷免処分を受けた。阪口君の資格回復は、最高裁批判で盛り上がった国民運動の成果であったが、2年の期間を要した。

なお、ここで描かれている青法協裁判官任官拒否事件は、いま生々しい学術会議の任命拒否によく似ている。いずれも、不公正極まる採用人事を通じてトップの権力を誇示し、組織全体を萎縮せしめる手口なのだ。

この文章を書いた宮地義亮は、その後享年40で早逝している。悔やまれてならない。

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「青年法律家」1973年2月15日号 
 ◇ドキュメント◇あの日から2年ー阪口君の罷免から再採用までー

23期 宮地義亮(73・2・8記)

◇来なかった電報◇
2年前の(1971年)3月30日は23期の裁判官志望者たちにとって長い一日だった。
この日のうちに裁判官採用の決定を知らせる電報が届くことになっていた。
しかし夜がふけ、やがて朝が白みはじめてもついに待ち望んだ電報が届けられなかった人たちがいた。青年法律家協会の会員6人と「任官拒否を許さぬ会」の会員1名とである。
いずれも裁判官としてのすぐれた資質、豊かな憲法感覚、青年らしい正義感、信念にもとずいて行動する勇気をもちあわせていた。それ故にこそ、最高裁は彼らに対してその扉を開こうはしなかったのである。

◇冷たい最高裁の扉◇
こうした不採用決定は青法協への加入や任官拒否反対運動への参加という不当な理由によるものと疑がえる十分な状況にあった。その理由をただすため不採用者とともに、採用になった数十名の人たちが、場合によってはその採用決定を取り消されるかも知れない不利益をもかえりみず、不採用の「理由」をただすため最高裁に出むいたが2度も相手にされず追い返されてしまった。

◇残された唯一の機会◇
急をきいて帰省先より修習生が続々と上京してきた。いたるところで熱っぽいクラス討論が行なわれ、「終了式が最高裁および研修所に任官拒否の理由を公的にただす唯一の残された機会だ」ということで一致していった。
かくして彼らはクラス委員長の阪口君にその使命を託したのである。

◇運命の4月5日◇
式場にあてられた研修所の大講堂の雰囲気は例年と全く異なっていた。式次第も掲示されず、式場としての飾りつけもなく最高裁長官などの来賓の招待も取りやめになっていた。研修所側の判断は修習生の怒りを正当に(?)評価して式中止に傾いていた。だがこのことに気づいた者はいなかった。

◇誰一人制止する者なくあらしの拍手のなかで=500人の目撃者◇
守田所長が式辞をのべようと登壇したときだった。阪口君が式場のほぼ中央の自席から挙手し起立した。
同時にあらしのような拍手が式場を埋めた。
所長が手を耳にあてて聞えないというしぐさをしたので、誰かが「前にでろ」というと拍手は一段とました。彼は1瞬ためらったが拍手の波に押しだされるように前にすすみで所長に向って2度3度と礼をした。また誰かが「きこえないからマイクで話せ!」とさけんだ。
不思議なことに式場には前方に50名からの教官と事務局員10数名が席を占めていたが誰一人として彼の前進を阻む者もその行動を制止しょうとする者もいなかった。加えて、所長はにこやかな微笑(えみ)さえうかべて彼に対応した。こうした許容の状況のなかで彼は一礼して静かにマイクをとり、くるりと向きをかえて所長に背を向けた形で、「今日の喜ぶべき日に悲しむべき7人の不採用…その理由につき10分間釈明のため発言する機会を与えてあげてほしい。……」
所長はすでに演壇をおりて自席にもどっていた。
1分15秒が経過した。
突然中島事務局長が「終了式を終了しまーす」と落着いた口調で宣言した。
教官たちも一斎に席を立って退場しょうと出口に向かっだ。
誰かが「ワナにかかった!」と叫んだ。あまりにも唐突な終了宣言という卑怯なやり方に憤激した数名の修習生が事務局長につめより、これを制止しようとするクラス委員たち、取材の記者、カメラマン、退席しようとする教官などの間に混乱が起った。こうして500人の目撃者の前で、研修所は自らの手で式を混乱に陥入れたのである。

◇強権の発動◇
その日のうちに、緊急の最高裁裁判官会議が開かれ阪口君の罷免処分が決定された。
夜8時半大講堂で待機していた修習生の前で気丈にも彼は涙一つこぼさず罷免の辞令を一気に読み上げた。「罷免!」ということばが大講堂の静寂を破ってすみずみにゆき渡ったとき、彼のそばにいた一人の修習生が「阪口!」と悲痛な叫び声をあげて、阪口君をしっかりと抱きしめた。それは任官拒否を許さないたたかいを1年有余にわたって共にしてきた友をいとおしむ抱擁であった。

◇国民の良識は最高裁を許さなかった◇
最高裁に対する国民の批判はきびしかった。処分の苛酷さはもとよりのこと、教官会議の「罷免に値しない」という多数意見を無視し、一言の弁明の機会も与えることなく、何が何んでも彼に制裁を加えようと自ら終了式の終了を宣言しておきながら、当日の夜の0時までは修習生の身分ありとする狡猾な論法をあやつり、しかも間違った事実認定をもとに…。
4月13日衆議院法務委員会で最高裁の矢ロ人事局長は「制止をきかず約10分間混乱させ式を続行不能にした」と説明し、500人の目撃者に挑戦した(あとで訂正を余議なくされることになったが…)ーーその夜のうちに処分を決定してしまったのだから、国民がこの不当から違法なスピード判決にただあ然とし、非難を集中して、良識の健在を示したのは当然といえば当然であった。

◇北から南へかけめぐる◇
阪口君のもとには全国からおびただしい数の激励電報電話、手紙がよせられた。団地の主婦、工場で慟く労働者、学生、サラリーマンETC。
こうした国民の反響は阪ロ君への実情報告の要請になってあらわれた。彼はびっしり詰ったスケジュールをやりくりして、それらの1つ1つに誠実に応えていった。あるときは1000名をこえる聴衆を前に講演をしあるときは4、5人とお茶をのみながら夜半に及ぶことさえあった。
こうした北から南への列車をのりついでの報告の旅は各地で大きな共感をよんでいった。
裁判所のあり方がこれほど国民の間で語られ、現実の生活とのかかわり合いをひとりひとりが感じたことがかってあっただろうか。
好漢阪口も聴衆の拍手が鳴りやんで、ひとり津軽海峡をわたる青函連絡船のデッキにたたずみふと郷里の老いた母のことや、同期の仲間が弁護士として第一線で活躍していることをおもい一まつの淋しさがよぎることもあった。
こうしたさまざまな哀歓を伴ないながら、36都道県をかけめぐり約10万の人々にことの真相を伝えていった。

◇法曹界のなかでも◇
46年5月8日日弁連は臨時総会において、阪口君の処分につき「不当かつ苛酷なものであり断じて容認できない」旨の決議を圧倒的多数で可決した。
次いで47年2月「阪口徳雄君を守る法曹の会」が創立され、長老から若手まで約1000名の弁護士が参加し「法曹資格」実現への大きな足がかりができた。
同年4月10日には23期の弁護士の九0%をこえる352名の署名が全国からよせられ「阪ロ君の法曹資格を回復させよ」という趣旨の要望書を最高裁に提出した。

◇ゆらぐ赤レンガの巨塔◇
こうした法曹内外の阪口君に対する熱い共感や暖かな支援と最高裁に対する不信で最高裁の権威は大きくゆらぎはじめていた。
国民からの信頼を失ったとき最高裁の存在価値は急速に低下していかざるを得なない。とくに事実認定の重大な誤りはおおうべくもなく、最高裁の最大の弱点でありアキレス腱とさえなっていった。

◇選択◇
こうした状況のなかで彼を1日も早く弁護士にという声は、同期生をはじめ先輩弁護士、国民の間に急速に広がり高まっていった世論であった。
訴訟の提起、弁護士会への登録という回復方法についてはもとより真剣な検討が行なわれた。
しかし一日も早く法曹資格を実現するという目標にてらし、いずれも非現実的ななものであった。
こうしたなかで浮び上ってきたのが「再採用」の道だった。
最高裁が「懲戒」罷免した者を再採用した先例はないがこれをさせるという方法の選択であった。最高裁は厳しい国民的批判と、運動の広がりにつつまれ、失墜した権威と信頼を何とか回復しようと腐心する一方、このまま切り捨て御免にしてしまおうとの冷酷な姿勢との間を往き来しているような形跡がみられた。
そうした権力側の自己矛盾のなかに解決のカギが秘められていた。
彼は多くの同僚先輩の説得と最後には彼自身の選択において、一日も早く法曹資格を得、真に国民の立場に立つ法律家としての役割に積極的意義を認め、再採用の道をえらんだのである。
かくして昭和47年7月小池金市弁護士の事務所に入り法律実務の研さんを積むこととなった。来るべき日にそなえて……。

◇国民審査の結果、最高裁に大きな衝撃◇
国民の最高裁に対する批判は国民審査のなかに確実にあらわれ、最高裁に大きな危機感を与えた。
司法の反勧化を許さず、民主主義を守る国民運動のうねりは衆議院総選挙にも反映し、法務委員会での鋭い追及という不吉な予感が最高裁を支配しはじめていた。

◇再採用決定!◇
 1月31日、最高裁裁判官会議は阪口君の再採用を決定した。阪口君の「上申書」とひきかえに。
 それは礼儀作法についての反省にとどまり、その背景にある思想、信条、それにもとずく行動という、「聖域」に権力がふみことを許さなかった。
 そして最高裁に「再採用」(罷免処分という自己決定の否定)という大きな譲歩を余儀なくさせ、法曹資格獲得への大きな1歩を切り開いた。かくて権力との和解という儀式のなかでわれわれは、彼らに形ばかりの名を与え大きな果実を手にすることができたのである。

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Published in 金曜日, 12月 18th, 2020, at 23:09, and filed under 司法制度.

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