中国「核心的利益」論の理不尽。
(2021年2月13日)
「森喜朗・川淵三郎」迷走劇の根は深く、あぶり出されたものは女性差別問題だけではない。我々の社会が抱える構造的な病理を照らし出した貴重な経過から学ぶべきことは多い。わけても、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、「声を上げれば状況を変えられる」ことに希望をつなぎたい。
沈黙してはならない理不尽は世に満ちているが、今や強大国となった中国の「核心的利益」論を批判しなければならない。自国が「核心的利益」と名付けた数々を絶対に譲れないとするその姿勢の頑迷と傲慢の危険についての批判である。
自国の主張を絶対に譲らないという中国の頑なさは、戦前の天皇制日本を彷彿とさせる。天皇の神聖性や、天皇の神聖性の上に成り立つ「國體」は、指一本触れてはならない不可侵の「核心的利益」とされた。のみならず、「満蒙は日本の生命線」も「絶対的国防線」も「核心的利益を譲らない」とする同様の批判拒否体質の姿勢の表れである。
印象に新しいのは、昨年(2020年)「断固として、国家安全法を立法し香港に適用する」と言い出した当時、併せて中国が香港の民主化運動を支援する国際勢力に対して、「香港は中国の核心的利益、必ず守らなくてはならない重要な原則だ」「外部からの干渉は許さない」と牽制したことである。孤立した香港の民主化運動に、中国と対峙する実力はなく、いま野蛮な中国の実力が香港の民主主義を蹂躙している。
香港の民衆にとっての自由と民主主義は、それこそ彼らの「核心的利益」ではないか。香港にとどまらない。台湾の自立も、新疆ウイグル人の人権も、チベットの独立も、それぞれの民衆の「核心的利益」である。なにゆえ、中国がこれを毀損する名分を主張できるというのだろうか。ここにあるのは、強大国の野蛮な実力の誇示に過ぎない。
「領土と主権に関わる核心的利益」という呪文を絶対とし万能とする主張の愚かさが省みられねばならない。「利益」は、常に具体的な誰かのものである。国家の利益とは、実は「国家を僭称する誰か」の利益であると考えざるを得ない。国家の中の被支配階級、被征服民族、被抑圧階層の利益は僭称されている。のみならず、「中国の核心的利益」は、香港の利益ではありえない。核心的利益の主体から、台湾も除かねばならない。チベットも、新疆ウイグル自治区も、東トルキスタンも除いた「中国」とは、「国家」という名に値するものだろうか。
中国は、「核心的利益」の外延を拡大してきている。「国家主権と領土保全(国家主権和領土完整)」だけでなく、「国家の基本制度と安全の維持(維護基本制度和国家安全)」「経済社会の持続的で安定した発展(経済社会的持続穏定発展)」などという曖昧な概念も持ちだしている。結局は、中国全土の人民の利益ではなく、中国共産党とその支持勢力の利益をいうものと理解するほかはない。
また、「核心的利益」が国家のものであったとしても、それゆえに人権に優越する価値たりうるものではない。中国の「核心的利益」論は、人権の価値を顧みることのない、超国家主義以外の何者でもない。文明が到達した普遍的価値を蹂躙して恥じない、野蛮の主張と評するしかない。
この問題に関して、「声を上げれば状況を変えられる」望みは乏しい。それでも、「沈黙は理不尽への同意であり加担ともなる」ことを胸に刻みつつ、決して沈黙はしないことを決意したいと思う。中国に対してだけでなく、超大国アメリカにも、そして当然のことながら、日本の権力にも。