愚民とてパンのみにて生くるものに非ず。サーカスとナショナリズムを与えておかねばならない。
(2022年12月4日)
私はSNSというものとは無縁である。そのうえ、サッカーにもワールドカップにも何の興味もない。どこの国が勝とうが負けようがどうでもよいこと。だから、日本共産党の中野区議・羽鳥大輔のツィッターが「炎上」したことに、さしたる関心をもたなかった。共産党議員の発言が、ナショナリズム信奉の右派から攻撃を受けて何の臆するところあろうかと思い込んでいた。
が、不明にして同議員が謝罪したことを知らなかった。「炎上」に屈したとなれば、これは「事件」である。ナショナリズムがいびつな同調圧力となって、真っ当な言論を圧殺する事件。スポーツナショナリズムが容易に反共と結びつくことを見せつけた事件。自由であるべき言論空間が非寛容なヘイト体質の発言者に占拠されているという事件…。とうてい看過できない。
最初に私自身の立場を明確にしておきたい。ドイツと日本のサッカー試合、いつもであれば、どちらが勝とうと負けようともどうでもよい些事に過ぎない。しかし、22年ワールドカップ・カタール大会での日独戦は、背景事情があって事情が異なる。この大会は準備段階から腐敗と差別、人権問題で大きく揺れていた。この問題に、ドイツの協会も選手も問題意識が高かった。日本は問題意識が低いというのではなく、見事なまでに何もなかったといってよい。だから、私はドイツに勝ってもらいたかった。そのドイツが負け、日本が勝ってしまったことを、まことに残念に思う。
昔、小学生だったころ、私のあこがれは白井義男であり、古橋広之進であり、石井昭八であり、山田敬三であり、力道山であった。世界に劣等感を持っていた戦後日本人の一人として、世界で対等に闘える「日本人代表」に拍手を送ったのだ。日本が幅広い分野で世界に対等に伍した存在感を示すにつれて、劣等感の同義であったナショナリズムも希薄になった。今回のワールドカップのごとき、国民がこぞって熱狂することには辟易である。
もしかしたら、最近の日本の、知的・文化的・政治的・経済的な衰退傾向が、再び劣等感に支えられたナショナリズムを刺激しているのかも知れない。メディアのナショナリズム煽動にも大きな違和感を禁じえない。おそらくは、私の感覚は羽鳥大輔に近似している。ただ、それが日本共産党とも近似しているかどうかはよく分からない。何しろ、自党の宣伝ポスターに富士山の写真をあしらう国民意識を重視した政党なのだから。
問題の羽鳥大輔ツィッターは3件ある。うち2件は極めて真っ当な内容である。過激でもなければ人を貶めるものでもない。ただ、日本のサッカーファンやナショナリストには、耳に心地よくないかも知れないが、特に目くじら立てるほどのものではない。これに過剰な批判のツィートが寄せられて「炎上」したのは、社会の多数派の不寛容を表すものにほかならない。ナショナリズムに馴染まぬ者への、一人ひとりの「小さな敵意の表明」の集積が、民主主義も表現の自由も圧殺する事態を生じかねない。
そして、3件目は、残念ながら「炎上」に屈した形での羽鳥の謝罪となった。おそらくは、党からの「指示」ないし「指導」があったと推察される。この事件、いくつもの問題を露呈している。
羽鳥の最初のツィートは、毎日新聞の「ドイツ代表、試合前の写真撮影で口塞ぐ 腕章禁止に抗議」の記事を引用して、以下をリツイートするもの。
「日本とドイツのサッカー協会の差を見せつけられちゃうし、日本代表は勝っちゃうしで、残念というほかない。」
「腕章」は多様性を訴えるメッセージ。ドイツは、その腕章の着用を禁じた国際サッカー連盟(FIFA)に抗議をしたのだ。これに対して、日本は何もしなかった。日本サッカー協会会長の田嶋幸三は、わざわざ練習場を訪れて、「今この段階でサッカー以外のことでいろいろ話題にするのは好ましくないと思う」と述べたという。だれ一人、これに異議を唱えた選手はいない。
日本のスポーツ界の実状をよく表している。「昔軍隊、今運動部」である。ドイツと日本とは、その人権意識の高さにおいて、月とスッポン、雲と泥との差なのだ。偏狭なナショナリズムよりも普遍的な人権が重要だとする立場からは、「ドイツが負けて日本勝った。まことに残念」となってなんの不思議もない。
羽鳥は、第1ツィートへの批判に反論する形で、以下の第2ツィートを投稿した。
「この意見も前の意見も私個人の意見ですが、日本代表の戦いはすごいと思いますし、ものすごい努力をされたと思います。しかし、『日本代表を応援し、その勝利を喜んでいなければ日本人に非ず。そう考えてないなら黙っていろ』という空気の中で、『日本が勝ってよかった』とはとても思えません。」
私もまったくの同意見だ。どんな理由でどこの国のチームを応援してもしなくても、他人からとやかく干渉される筋合いはない。「オマエも日本人なら当然に日本を応援しろ」「日本の勝利を喜べない者は日本人ではない」という非寛容な社会的同調圧力が、戦前は「非国民」攻撃となり、最近は「反日」攻撃に言葉を変えている。
この羽鳥ツィートに対する批判を拾ってみた。悲しいかな、これが今日の日本の主権者多数派の民度のレベルなのだ。この人たちが、安倍長期政権を支えたと言えよう。
「さっさと日本から出て行きやがれ」「日本を嫌い、日本を蔑んで溜飲を下げていながら一方で日本に依存し続ける。真正の恥知らずだな」「なんだこいつ」「素直に日本嫌いって言えよ笑」「多分、ルーツが日本にないんや」「仕方ないわ。媚中とか親中どころやなくて、中国そのものなんやろな」「中国や北朝鮮を応援してる人でしょ?」「ばかだし、日本から出て行って欲しい」「共産党って本当に日本の事キライだよね」「共産党ってそういう党なんだ」「そうなんよ そういう党なんよ」「僕、サッカー興味ないのですが、狂産党の凄さは、伝わりました。」「どうせ、コメントで馬脚を表しているけど反日議員でしょ。税金泥棒議員は消えなよ」「さすが日本共産党と言うのやら…」「日本代表が勝って残念って何を考えているのですかね?こんなのが日本の国政政党ですから。日本国民はしっかりと考えなければならないのです」「『日本が勝って残念』と思う感性の人が区議というのがやべぇと思うんだが」「天皇制問題や自衛隊問題で同調圧力に屈し続けてきた日本共産党の上層部から圧力があったのではないかなと思えてしまいます」「日本人の台詞じゃないですね」「普段サッカーを観ない人間でも、日本代表が勝てば嬉しいのにね」「ドイツが勝った方が嬉しいはまだ分かるが(死ぬほど大好きな選手がいる等)、日本が勝って嬉しくないはおかしいでしょ」「共産党が『日本』と付けるな。日本が穢れる。立憲君主制すらまともに知らん無能議員の無知極まりない」「日本共産党はこんな、礼儀の無い党派で相手にするべきではない」「日本から消滅すべき党派」「人が喜んでるところに水をさしておいて捻くれた理屈でゴネてよく言うよ!左翼共産党ほど自分達の意見以外まったく認めないくせに」
このような「炎上」の結果、羽鳥議員は突然謝罪に転じる。おそらくは、不本意ながらにである。羽鳥議員には無念であったろうが、問題は個人的な無念よりは、ナショナリズム批判の言論が撤回に追い込まれたことの社会的影響である。謝罪文言は以下のとおり。問題の局面がすり替えられての謝罪であることは、自分自身がよく分かっているはず。
「多くの方からご指摘がありまして現在は以下のように思っています。
選手のみなさんは、努力を重ねフェアプレイで全力を尽くして戦ったわけで、その双方に対して敬意を払うことが政治に携わるものとして当たり前の態度でした。『日本代表が勝って残念』という言動は間違いでした。申し訳ありません。」
さて、無邪気にナショナリズムに酔っている「日本大好き」人間をどう見るべきだろうか。
「人はパンのみにて生くるものに非ず」とは、史上最高の箴言である。そして、「パンとサーカス」はこれ以上のない警句。この組み合わせは、今、こう分裂するのではなかろうか。「誠実に生きようとする人は、パンのみにて生きることはできない。生きるためには自由と人権と民主主義が必要である」「愚民もパンのみでは統治に十分ではない。スポーツとナショナリズムを与えておく必要がある」
古代ローマでの、生臭い「サーカス」は、いまワールドカップやオリンピックに姿を変えている。ローマの権力者は、市民に「パン(=食糧)」と「サーカス(=娯楽)」を提供することによって、市民を政治に無関心な愚民とした。いま、意識的にその政策が行われ、しかも一定の成功をおさめているのではないだろうか。
スポーツナショナリズム恐るべし、と言わねばならない事態である。