澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

美術館は、クレームを口実に展示作品を撤去してはならない

東京に、いまだ残雪。しかし、季節は確かな「光りの春」。湯島から上野の界隈には、梅やマンサクが咲き、カンザクラまで開いていた。不忍池周辺では柳が芽を吹き、春はもうすぐの風情。

日曜の午後。作品撤去要請問題で話題となった、「現代日本彫刻作家展」を観ようと、東京都美術館に足を運んだ。しかし、展示期間は一昨日(2月21日)で終了していた。残念。

東京新聞の1月19日朝刊報道によれば、事件の顛末は以下のとおり。
『東京都美術館(東京都台東区上野公園)で展示中の造形作品が政治的だとして、美術館側が作家に作品の撤去や手直しを求めていたことが分かった。作家は手直しに応じざるを得ず「表現の自由を侵す行為で、民主主義の危機だ」と強く反発している。
 撤去を求められたのは、神奈川県海老名市の造形作家中垣克久さん(70歳)の作品「時代(とき)の肖像?絶滅危惧種」。…特定秘密保護法の新聞の切り抜きや、「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙を貼り付けた。代表を務める「現代日本彫刻作家連盟」の定期展として15日、都美術館地下のギャラリーに展示した。
 美術館の小室明子副館長が作品撤去を求めたのは翌16日朝。都の運営要綱は「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めており、靖国参拝への批判などが該当すると判断したという。中垣さんが自筆の紙を取り外したため、会期が終わる21日までの会場使用は認めたが、観客からの苦情があれば撤去を求める方針という。
 小室副館長は取材に「こういう考えを美術館として認めるのか、とクレームがつくことが心配だった」と話す。定期展は今回で7回目だが、来年以降、内容によっては使用許可を出さないことも検討するという。』

美術や芸術を一面的に定義づけて、政治や宗教と切り離そうとすることに無理がある。政治も宗教も、そして芸術も、人間の存在の根源と深く関わるが故に、相互に分かちがたく結びつき切り離しがたい。作家の個性こそが美術や芸術の本質なのだから、行政が個々の作品について「政治的」「宗教的」とレッテルを貼ることは、それ自体が作家の表現活動への不当な制約となろう。ましてや、それ故に展示を拒否することは、公権力の違法な行使とならざるをえない。

古来、平和を願い戦争を憎む芸術は、明らかに政治的メッセージ性を有するが、同時に人間存在の根源と結びつくものとして、その芸術性を疑うものはない。たとえば「ゲルニカ」や「原爆の図」は、作者の反戦の政治的メッセージと芸術的個性とが融合したものとして受け容れられている。「政治的であるが故に非芸術」などという愚かな批判はない。

現代の日本社会に生きる作家の個性が、時代の危険な空気を敏感に察知して、自分の作品に平和の危機を象徴するメッセージを書き付けることがあっても、事情はまったく同様である。行政が、「政治的であるが故に非芸術」などと言ってはならない。「政治的」というレッテルを張ることこそ、真の意味で「極めて政治的」な行為なのだ。

また、「靖国神社参拝の愚」「憲法九条を守り」「現政権の右傾化を阻止」などのメッセージが、「特定の政党を支持、または反対する場合」に該当する訳がない。

東京新聞の取材のとおり、美術館側の本音は、「クレームがつくことが心配だった」ということにある。これが時代の空気であり、皮肉なことに、作品の撤去を求められた作家の感覚の的確さを裏付けるものとなった。

しかし、行政は、「クレームがつくことが心配だった。だから作品の撤去を求める」と言ってはならない。「クレームがつくことが心配だった。だから万全の配慮で作品を守る措置を講じる」と言わねばならなかった。

教員組合や労働組合が主催する集会に関して、各地の地方公共団体が右翼の襲撃等のおそれがあるとして会場の使用不許可処分を行うことがある。自治体が組合を嫌悪しているわけではない。「クレームがつくことが心配」だというのだ。しかし、最高裁は、これらの処分を原則違法としている。行政には、実力で言論を封じようという右翼の襲撃から集会を防御して、憲法21条の表現の自由を擁護すべき責任があるのだ。

その典型判例が、上尾市福祉会館使用許可事件最高裁判決(1996年3月15日)。最高裁はこう言っている。

「主催者が集会を平穏に行おうとしているのに、その集会の目的や主催者の思想、信条等に反対する者らが、これを実力で阻止し、妨害しようとして紛争を起こすおそれがあることを理由に公の施設の利用を拒むことができるのは、前示のような公の施設の利用関係の性質に照らせば、警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られるものというべきである。ところが、前記の事実関係によっては、右のような特別な事情があるということはできない。なお、警察の警備等によりその他の施設の利用客に多少の不安が生ずることが会館の管理上支障が生ずるとの事態に当たるものでないことはいうまでもない。」

当該の作品展示に対して、右翼的心情をもつ来館者からクレームがつく「多少の不安」が生ずることは予想されるところ。これが、作品撤去の口実に使われてはならないことは、いうまでもない。是非とも、東京都美術館にも、そのような気概を堅持していただきたい。
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                上野公園花便り
なかなか最高気温が10度に届かない。まだまだ寒い。雪も融けずにあちこちに残っている。

けれども、公園には子どもたちの声がはじけている。日が長くなって、春はもうすぐだ。「不忍池」のまわりのシダレヤナギの木が全体に黄緑色になってけむってきた。枝を手元に引き寄せて、仔細に眺めてみれば、ふしふしに若芽が膨らんでいる。春を運ぶ樹液が枝枝のすみずみまで行き渡るトクトクという音が聞こえるようだ。

紅梅も白梅もちょうどいい五分咲きだ。メジロが花粉にまみれて、枝から枝へと遊び回っている。おや、「上野動物園の入り口」あたりに、桜も咲いている。薄いピンクの五弁のカンザクラだ。

「五条神社」の境内にはフクジュソウの花が太陽のようにキラキラ咲いている。クリスマスローズの花も咲いた。梅もほどよく香っている。「清水寺の舞台」の下にはマンサクの黄色い花も満開だ。クラッカーがはじけたように、細長い花弁が外に向かって飛び出している。春になると「マンズサク」花で、雪国の人が待ち望んでいる気持ちがよく分かる。

「湯島天神」の梅は何だか精彩がない。まだ蕾が多くて五分咲きで、まさに見頃だが、梅の花より人が多い。受験シーズンのかき入れ時。いたるところ合格祈願、合格御礼の絵馬が山のようにぶら下がっている。さすが梅の木にではなく所定の場所に。昔は梅の枝にビッシリとオミクジが結びつけられていたが、今はオミクジは売られていない。あまりの人混みで、梅の香りはしなくて、たこ焼きの臭いが充満している。ここ湯島天神の春は受験の悲喜こもごもの思いと混ざり合ってやってくる。
(2014年2月23日)

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Published in 日曜日, 2月 23rd, 2014, at 19:32, and filed under 未分類.

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