澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国旗国歌強制をめぐるナショナリズムについて

悪名高き「10・23通達」に基づく懲戒処分は457件に及ぶ。その関連訴訟は、まだまだ続いている。この訴訟は、国旗・国歌の評価をめぐる訴訟でもなければ、「日の丸・君が代」の歴史認識をめぐる訴訟でもない。ひとえに、「国旗・国歌」あるいは、「日の丸・君が代」の強制が許されるか否か、というだけの訴訟なのだ。

その本質は、個人と国家との憲法価値の優劣をめぐる争いである。すべての憲法訴訟において、実質的にそれぞれの憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量されているものは、「個人の尊厳」と「国家の存立」という各憲法価値にほかならない。法的には、その衡量の帰趨は自明であるにかかわらず、この正確な衡量を狂わせているものがある。それがナショナリズムである。

本件の訴えは、「原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制が許容されるのか」というシンプルな問に回答を求めるもの。
この問への回答のために衡量の対象とされるものの一方は、敬意の表明の強制対象である国旗・国歌。国旗・国歌ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている。したがって、秤の一方に載せられるものは国家そのものの憲法価値である。「国家への敬意という価値」と言ってもよい。

もう一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする教員個人の尊厳であり、個人の思想良心の自由という人権としての憲法価値である。国家と対峙する個人が自らの尊厳という憲法価値を認めるよう裁判所に求めているのだ。

一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた秤の衡量の結果は、本来であれば、「個人」の方が「国家」よりも遙かに重いことが明白である。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であるのだから、これは当然のこと。

ところが、学校現場ではそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。

ナショナリズムは、国民を統合する機能をもっている。その故に、為政者に親和性がある。また、ナショナリズムは国民多数派の心情でもある。多数派が、政権を形づくる原則においては、政権がナショナリズムに親和的であることは理の当然。したがって、政権を握った為政者は、意識的にナショナリズムを涵養する。その極端な例のひとつが、戦前の日本であった。

かつて、天皇制政府の教育政策は国粋的なナショナリズムを鼓吹した。日本は神国であって、他国に優越した存在であることが強調された。戦前の国策として意識的に涵養されたナショナリズムは、一面国民を統合することに成功した。しかし、その過剰なナショナリズムは、対外的には排外主義となり、侵略戦争と植民地主義の温床となった。対内的には、ナショナリズムに熱狂しない少数者を非国民とする非寛容の思想となって、思想良心の自由を侵害し、政治弾圧や宗教迫害の温床となった。

戦後民主主義は、排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズムが復興しようとしている。戦前とまったく同じ「日の丸・君が代」を国旗国歌とする法律を作り、学校現場で「日の丸・君が代」への敬意表明を強制していることがその象徴的なできごとである。

ナショナリズムには、国民を熱狂させる力がある。国家への統合に国民の精神を総動員するエネルギーを秘めている。国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力となっている。

ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとする。尊崇に値するものとさえ考える。国旗国歌についても、同様にこれを重大なものとして扱い、すべての国民に対して、これに敬意を表明することを強要する。

ナショナリズムによる国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。10・23通達を発出した東京都の例は、その最悪の実例である。

ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派である。すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は少数派である。関連訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求めた争訟が展開されている。

言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎む少数派の思想の自由」である。多数派には思想良心の自由の保障は実質的に無用である。

多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。10・23通達と、同通達にもとづく職務命令とはそのようにして、教員の人権を脅かしている。

多数派は、国旗国歌に敬意を表しない少数派の思想や良心は許し難いとする。個人の単位で思惟し行動する原則を認めず、国民としての思想や行動の統合を求めることがナショナリズムの本来的な志向である。行政は、ナショナリズムを背景に、多数派の意思を権力を発動して実行した。そのような文脈において、今、司法の役割が問われている。

司法がナショナリズムという「多数派の意思」に動揺してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、多数決原理に迎合してこれに追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってははならない。司法がその役割を果たさなければ、ナショナリズムの非理性的な熱狂は、対外的には容易に排外主義となり、対内的には異論を許さない非寛容な非国民排除の社会を再現することになりかねない。ナショナリズムという危険物の扱いを過てば、日本国憲法の前文が痛苦の反省の対象とした歴史を繰り返すことにつながりかねない。

革新陣営総体が上り坂で強いとき、裁判所は保守反動の役回りとなる。革新派の勢力が十分でないとき、人権擁護の歯止めを裁判所に期待せざるを得ない。人権擁護の立場を貫徹することが、結果としてナショナリズムの歯止めとなる。10・23通達関連訴訟をそのような展望をもっつものとして関わっていたいと思う。

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     NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
 ※郵便の場合
  〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
 ※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
 ※ファクスの場合 03?5453?4000
 ※メールの場合 http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.htmlに送信書式
☆抗議内容の大綱は
 *籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
 *経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
 *百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
 *経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任を勧告せよ。
よろしくお願いします。
(2014年3月3日)

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