蔓延する「自己規制ファシズム」「従順ファシズム」
「毎日」5月9日夕刊で、辺見庸さんが「息苦しさ漂う社会の空気」と題して次のように述べている。
「ファシズムとは・・独裁者の言葉に突き動かされるのではなく、そんたくや自己規制、自粛といった日本人の『得意』な振る舞いによって静かに広がっていくということだ。」
「銃剣持ってざくざく行進というんじゃない。ファシズムはむしろ普通の職場、ルーティンワーク(日々の作業)の中にある。誰に指示されたわけでもないのに、自分の考えのない人びとが、どこからか文句が来るのが嫌だと、個人の表現や動きをしばりにかかるんです」
「80年代までは貧者が増えれば階級闘争が激しくなると思われていたけど、今は彼らがプロレタリアートとして組織化され立ち上がる予感は全くない。それどころか保守化してファシズムの担い手になっている。」
大いに同感。同時に、私自身にも思いあたることとして耳が痛い。
先日図書館回りをして、各館に掲示の「図書館宣言」を写真に撮ってきたときのこと。「撮影させていただきます」と形式的にひと言挨拶したつもりが、「はい、どうぞ」とはならない。みんな口を揃えて、「責任者に聞いてきます。」となる。そして、館長のお出まし。
「どうして自分で判断できないんだろう」と友人に不満を言うと、「それはあなたが責任をスタッフに押しつけたからだよ。黙って撮ればいいのに」と指摘された。なるほど、おっしゃるとおり。文句を言われたら、もめたら嫌だからという気持ちが自分にもあった。プライバシー権や肖像権を尊重しますという、常識人を演じたかったからでもあった。
このごろつくづく、人の集まるところに行きたくない。先日、新宿御苑にお花見に行ったら、持ち物検査をするのでバッグを開けろという。東京都庁へ行って、展望台へ行こうとしたら、ここでもだ。当然抗議した。ガードマンと言い合いをするのは覚悟の前だけれど、周りの一般人からも胡散臭い顔をされ迷惑そうにされる。どうして、みんなそんなに従順なんだ。
国民栄誉賞授与式の行われた、東京ドームもこの手のことを徹底してやる。金属探知の身体検査までする。国民栄誉賞なら、それに文句がある人が爆弾を持ってくることの疑いも分からないではないが、「ラン展」でも「キルト展」でもの厳重検査はわからない。女性のハンドバッグを覗きたいのかしらと思う。時には「君が代」に付き合えとまでも。何の権利があってこんな理不尽な目に遭わせることが出来るのか。しかも多くはたいそうな料金をとってのこと。この理不尽を成り立たせているのが、不気味なみんなの従順さ。だから私は人の集まるところには行きたくないのだ。
「自己規制ファシズム」とは、「従順ファシズム」「良い子シンドローム」でもある。「抵抗の美徳」を再確認しよう。
辺見庸さんにひと言の異論。「昔は気持ちの悪いものは気持ち悪いと言えたんですよ」とのご意見ですが、はたしてそうでしょうか。昔からこの国では、はっきりとものが言えなかったし、そのことが「美徳」で、「得意」でもあったのではないでしょうか。
漱石大先生でも「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくこの世は住みにくい。」とおっしゃっているではありませんか。
もっと古い例を探せば、
「方丈記(第7節)」には、「世にしたがへば、身、苦し。したがわねば、狂せるに似たり。いずれの所を占めて、いかなる業をしてか、しばしも此の身を宿し、たまゆらも心を休むべき。(世間の常識に従えば、納得しがたいこの身が苦しい。さりとて、従わなければ常識外れと激しいバッシング。いったい、どこでどうすれば、心が安まるだろうか)」とあり、
また、「徒然草」(75段)には、「世にしたがへば、心、外の塵に奪われて惑い易く、人に交われば、言葉、よその聞きに随ひて、さながら、心に非ず。(社会的同調圧力に身をまかせれば、自分自身を失ってしまう。人と上手に付き合おうとすると言葉一つにも相手の意向を気遣いしなければならない。自分の心のままに語ることなんてできっこない)」とあるとおり。