澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

キーワードは平和的生存権?松阪市長の「閣議決定違憲確認訴訟」を応援する

集団的自衛権の行使を容認した7月1日閣議決定への批判の嵐は収まりそうにない。
「政府が右と言えば左とは言えない」NHKは特殊な例外として、あらゆる方面から、これまでにない規模とかたちの批判が噴出している。なかでも、三重県松坂市の若い市長による閣議決定の無効確認集団提訴運動の呼び掛けはとりわけ異彩を放っている。

7月1日の閣議決定を受けて、松阪市の山中光茂市長は、同月17日には提訴のための市民団体「ピースウイング」を設立し、自らその代表者となった。今後、全国の自治体首長や議員、一般市民に参加を呼び掛け、集団的自衛権をめぐる問題に関する勉強会やシンポジウムを開くなど提訴に向けた準備を進める予定と報じられている。大きな成果を期待したい。

伝えられている記者会見での市長発言が素晴らしい。「愚かな為政者が戦争できる論理を打ち出したことで幸せが壊される。国民全体で幸せを守っていかなければならない」というのだ。素晴らしいとは、安倍首相を「愚かな為政者」と評した点ではない。そんなことは国民誰もが知っている。「国民の幸せを壊されないように守って行かなければならない」と呼び掛けていることが素晴らしいのだ。

言葉を補えば、「集団的自衛権行使容認の閣議決定によって、このままでは国民の幸せが壊されることになりかねない。そうさせないように、国民全体で国民一人一人の幸せを守っていかなければならない。そのために提訴をしよう」という認識が語られ、具体的な行動提起がなされている。

おっしゃるとおりなのだ。国民は幸せに暮らす憲法上の権利を有している。とりわけ戦争のない平和のうちに生きる権利を持っている。

このことを憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と宣言している。しかも、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…この憲法を確定する」とも言っている。この2文をつなげて理解すれば、「為政者によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意してこの憲法はできている。だから、安倍のごとき愚かな為政者が憲法をないがしろにしようとするときは、一人一人の国民が平和のうちに生存する権利を行使することができる」ことになる。これが、平和的生存権という思想である。

憲法は、人権を中心に組み立てられている。憲法上の制度は、人権を擁護するためのツールと言ってよい。信仰の自由という人権を擁護するために政教分離という制度がある。学問・教育の自由という人権を擁護するために大学の自治という制度がある。言論の自由に奉仕する制度として検閲の禁止が定められている。

これと軌を一にして、平和的生存権を全うするために憲法9条がある。戦争を放棄し戦力を保持しないことで国民一人一人の平和に生きる権利を保障しているのだ。憲法9条の存在が平和的生存権を導いたのではなく、平和的生存権まずありきで、平和的生存権を全うするための憲法9条と考えるべきなのである。

平和的生存権を単なる学問上の概念に留めおいてはならない。これを、一人前の訴訟上の具体的な権利として育てて行かなくてはならない。その権利の主体(国民個人)、客体(国)、内実(具体的権利内容)を、度重ねての提訴によって、少しずつ堅固なものとしていかなければならない。

私は、平和的生存権の効果として、具体的な予防・差止請求、侵害排除請求、被害回復請求をなしうるものと考えている。そして、そのことは裁判所の実効力ある判決を求めうる権利でなくてはならない。

この平和的生存権は、松坂市長が提唱する閣議決定違憲確認訴訟(いわば「9条裁判」)成立の鍵である。これなくして、抽象的に「閣議決定の違憲確認請求訴訟」は成立し得ない。

最も古い前例を思い起こそう。1950年警察予備隊ができたときのこと、多くの人がこの違憲の「戦力」を司法に訴えて断罪することを考えた。この人たちを代表するかたちで、当時の社会党党首であった鈴木茂三郎が原告になって、最高裁に直接違憲判断を求めた。有名な、警察予備隊違憲訴訟である。

その請求の趣旨は、「昭和26(1951)年4月1日以降被告がなした警察予備隊の設置並びに維持に関する一切の行為の無効であることを確認する」というもの。これが、違憲確認訴訟の元祖である。

最高裁は前例のないこの訴訟を大法廷で審理して、全員一致で訴えを不適法と判断して却下した。ここで確立した考え方は、次のようなもの。「日本の司法権の構造は、具体的な権利侵害をはなれて抽象的に法令の違憲性を求めることはできない。具体的な権利侵害があったときに、権利侵害を受けた者だけが、権利侵害の回復に必要な限りで裁判を申し立てる権利がある」ということ。

この確定した判例の立ち場からは、「7月1日閣議決定が憲法9条に違反する内容をもつ」と言うだけでは違憲確認の判決を求める訴訟は適法になしえない。誰が裁判を起こしても、「不適法・却下」となる。

そこで、平和的生存権の出番となる。国民一人一人が平和的生存権を持っている。誰もが、愚かな政府の戦争政策を拒絶して、平和のうちに生きる権利を持っている。この権利あればこそ、人を殺すことを強制されることもなければ、殺される恐怖を味わうこともないのだ。

父と母とは、わが子を徴兵させない権利を持っている。教育者は、再び生徒を戦場に送らせない権利を持つ。宗教者は、一切の戦争加担行為を忌避する権利を持つ。医師は、平和のうちに患者を治療する権利を持つ。農漁民も労働者も、平和のうちに働く権利を持ち、戦争のために働くことを拒否する権利を持つ。自衛隊員だって、戦争で人を殺し、あるいは殺されることの強制から免れる権利を持っているのだ。

その権利が侵害されれば、その侵害された権利回復のための裁判が可能となる。侵害の態様に応じて、請求の内容もバリエーションを持つ。戦争を招くような国の一切の行為を予防し、国の戦争政策を差し止め、戦争推進政策として実施された施策を原状に復する。つまりは、国に対して具体的な作為不作為を求める訴訟上の権利となる。その侵害に、精神的慰謝料も請求できることになる。これあればこその違憲確認請求訴訟であり国家賠償請求訴訟なのだ。

もとより、裁判所のハードルが高いことは覚悟の上、それでもチャレンジすることに大きな意味がある。訴訟に多くの原告の参加を得ること、とりわけ首長や議員や保守系良識派の人々を結集することの運動上のメリットは極めて大きい。そうなれば、裁判所での論戦において、裁判所は真剣に耳を傾けてくれるだろう。平和的生存権の訴訟上の権利としての確立に、一歩、あるいは半歩の前進がなかろうはずはない。

困難な訴訟だと訳け知り顔に批判するだけでは何も生まれない。若い市長の挑戦に拍手を送って暖かく見守りたい。
(2014年8月5日)

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