既に現実化しているスラップの萎縮効果?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第19弾
昨日(8月20日)の『DHCスラップ訴訟』法廷後の集会で、ジャーナリストの北健一さんが報告した。主に語られたのは、スラップの威嚇作用と、それによる言論の萎縮効果である。萎縮効果は、当該被告にだけではなく、その周囲から社会一般におよぶことの危惧が強調された。「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」のだ。
会場発言でも、かつてスラップと闘って勝った経験者が、勝利をしながらも提訴されたことによる不愉快、手間暇、金銭的負担、膨大な時間の浪費、精神的負担を語った。スラップからの早期の被害者解放の手立ての確立や、スラップ提訴者に対する制裁の必要が共通認識となった。
DHCとその会長吉田は、私たち弁護団が確認しているだけで、損害賠償請求等の10件の提訴と、出版物販売等禁止仮処分命令1件の申立をしている。仮処分事件は7月17日東京地裁民事9部の合議体によって申立を却下されているが、他は未解決。
各件の個別の請求内容もさることながら、この提訴の数自体が、あたるを幸いの濫訴というほかはない。この10件の提訴によって、DHCは「自分を批判すると提訴の危険を伴うぞ」と多くの人を威嚇し、警告を発して恫喝しているのだ。
誰だって、11件目の訴訟当事者にはなりたくない。だから、多くの人が筆を抑える。DHCのやり方を不愉快と思いつつ、現実に提訴されたときの煩わしさを避けた方が賢明と判断する。これが、DHCの付け目だ。かくて、言論の萎縮効果は蔓延する。
今日になって、その実例を教えられた。まず、下記の通知を紹介したい。個人のブログへのコメントである。作成名義の真正は定かでないが。
全文はこちらを参照していただきたい。
http://norisu415.blog.fc2.com/blog-entry-2057.html#comment5598
通知は「ブログ記事の削除要請の件について」と標題するもの。2014年8月19日付で株式会社ディーエイチシー総務部法務課杉谷義一名義(会社を代表するものではなく、一課員という立場としか考えようがない)の文書である。
「今般、貴殿は、本ブログ記事において、全体として弊社代表者を侮辱し、また、自ら「証拠もなしに」と何らの調査・取材も行っていないことを認めながら、弊社代表者が、「強烈な保身意識」のもとで渡辺議員を「警告、恫喝、口止め」している、「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」などと平然と書き、そのような人物が代表取締役会長をつとめている弊社の社会的評価を低下させ、弊社の名誉を著しく毀損しています。」
「弊社代表者」に対する意見を一方的に侮辱扱いし、独自の調査・取材がなければ意見・論評を行ってはならないとの決め付けは不当というほかない。また、「そのような人物が代表取締役会長をつとめている」ことを自認しながら、このことが公開されると会社の社会的評価が低下するというのは、諒解しがたい。
侮辱とは個人の名誉感情を害することであり、名誉毀損とは事実を摘示して社会的な評価を害することをいう。この通知は、その両者の区別を認識していない。また、代表者の個人の利益を守る趣旨でなされたものなのか、会社の評価を守る趣旨でなされたものなのか文意が明白でない。会社を代表した文書であるのか、代表者個人を代理した文書であるのかの性格が分明でないことからの混乱であろう。あるいは、会社と会社代表者が渾然一体となっていることがDHCの社内の実情なのかも知れない。
「貴殿が記事の削除に任意に応じて頂けない場合には、やむなく法的対応を検討せざるを得ませんので、できましたらそのようなこととならないよう何卒宜しくお願い致します。なお、本ブログ記事同様に、弊社代表者および弊社の名誉を毀損し或いは侮辱する記事を掲載した他のブログにおきましては弊社の指摘により記事の削除をして頂くことで円満解決しておりますことを、念のためお伝えしておきます。」
削除に応じなければ法的措置をとる旨を申し向けて、訴訟の負担の懸念から削除させようとするこの通知は、恫喝そのものといえよう。削除に応じればそれ以上の手段をとらないとの「飴」と、訴訟負担という「鞭」でブロガーを従わせようとしている。
もっとも、他のすべてのブログについて、「指摘」がなされ自主的な削除により「円満解決」したという趣旨であるとすれば、明らかな虚偽である。私のブログには何の「指摘」もなく訴訟が突然提起されているし、他にも無警告で訴訟が行われた例は確認されている。
さて、こんな申入を受けたら、あなたならどうする。
普通ならスパム扱いだろう。当たり前の感覚では、「警告、恫喝、口止め」「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」くらいで、訴えられるとは考えない。せっかく書いた記事を、これくらいのことで削除することはあり得ない。
権力や金力への批判こそジャーナリズムの真骨頂と考えている立場からはなおさらのこと。このような「強烈な保身意識」からなされた「警告、恫喝、口止め」に対しては、屈することはできないと考えるのが当たり前だろう。
ところが、ことDHCについては、この「当たり前」が通用しない。現実の問題として、DHCから「警告、恫喝、口止め」がなされると、抵抗することにはなかなかの覚悟が必要なのだ。
この申しれを受けたブロガーは、現実にどう対応したか。下記をお読みいただきたい。(ブログの特定は避けたかたちでの引用にしている)
**************************************************************
「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました。」
「一瞬、ただのスパムコメントかと思ったが、どうやらDHCは同様の手法で会社に不都合なブロガーに圧力をかけて回っている様だ。だとしても、こんな場末のパンピーブログにまで恫喝してくるとは、DHCとはケツの穴の小さい会社である。余程不都合な内容だったのだろうか(笑)。
笑ってばかりもいられない。と言うのも、DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高いからだ。実際、東京弁護士会の澤藤弁護士が、本ブログと似た様なことをブログに書き、つい最近DHCから2000万円の慰謝料を求めて訴訟を起こされている。」
「さて、本ブログはどう対処しようか。訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えないが、現実問題として本当に裁判を起こされても面倒だ。ついては、一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しようと思う。
もちろん、削除前のエントリーは保存しておく。澤藤弁護士の訴訟結果を待ち、澤藤弁護士が勝訴したら再アップしようと思う。」
**************************************************************
同じように、DHCから恫喝を受けたブログは無数にあるものと推察される。このブログの場合には、「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました」と宣言しているから、たまたま目についたもの。ひっそりと記事の削除に応じていれば、誰の目も届かないところで、DHCの「警告、恫喝、口止め」が成功を収めていることになる。これは、由々しき問題ではないか。言論が恫喝に屈しているのだ。
このブロガー氏は、気骨のある人とはお見受けする。DHCからの恫喝に不愉快をに明言しているのだから。そのブロガー氏も、「DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高い」ことを考慮せざるを得えない。「訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えない」と考えつつも、「現実問題として本当に裁判を起こされては面倒だ。やむなく一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しよう」という判断に至る。
残念ではあるが、「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」の好例となった。「澤藤弁護士の勝訴の暁の再アップ」を期待するのみである。
明らかに、経済的強者の濫訴が言論の萎縮を招いている。昨日の法廷での私の陳述の一節を繰り返しておきたい。
「仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告ら(DHCと吉田嘉明)を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」
その危機は遠くにではなく、既にそこにある。
(2014年8月21日)