澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

今日は、日本の歴史に慚愧の遺産が刻印された日

9月1日「震災記念日」である。姜徳相の「関東大震災」(1975年中公新書)と、吉村昭の「関東大震災」(1973年菊池寛賞受賞・77年文春文庫版発行)とを読み返した。

前者は、「未曾有の天災に生き残った人をよってたかってなぶり殺しにした異民族迫害の悲劇を抜いて、関東大震災の真実は語れない」「朝鮮人の血しぶきは、日本の歴史に慚愧の負の遺産を刻印した」との立場に徹したドキュメント。後者も、125頁から229頁までの紙幅を費やして、震災後の朝鮮人虐殺、社会主義者虐殺(亀戸事件)、大杉栄・伊藤野枝(および6才の甥)惨殺の経過を詳細に描写している。

姜の書の中に、「自警団員の殺し方」という一章がある。「残忍極まる」としか形容しがたい「なぶり殺し」の目撃談の数々が紹介され、「死体に対する名状し難い陵辱も、また忘れてはならない。特に女性に対するぼうとくは筆紙に尽くしがたい。『いかに逆上したとはいえこんなことまでしなくてもよかろうに』『日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない』との感想を残した目撃者がいることだけ紹介しておこう」と結ばれている。

中国では柳条湖事件の9月18日を、韓国では日韓併合の8月29日を、「国恥の日」というようだ。今日9月1日は、日本の国恥の日というべきだろう。現在の日本国民が、3世代前の日本人が朝鮮人に対してした残虐行為を、恥ずべきことと再確認すべき日。

災害を象徴する両国の陸軍被服廠跡地が東京都立横網町公園となっており、ここに東京都慰霊堂が建立されている。その堂内に「自警団」という大きな油絵が掲げられている。いかなる意図でのことだろうか。無慮6000人の朝鮮人を虐殺したこのおぞましい組織は、各地で在郷軍人を中心につくられた。

「在郷軍人というのは何か。軍人教育を受け、甲午農民戦争や日露戦争やシベリア出兵、こういうもので戦争経験をしている。朝鮮人を殺している。こういう排外意識を持った兵士たち」(姜徳相講演録より)なのだ。

なるほど、甲午農民戦争(1894年)や日露戦争(2004年)を経て、日韓併合(2010年)、シベリア出兵(1918年)、そして3・1万歳事件とその弾圧(1919年)を経ての関東大震災(1923年)朝鮮人虐殺なのだ。当時、既に民族的差別意識と、民族的抵抗への憎悪と、そして後ろめたさからの報復を恐れる気持ちとが、広く国民に醸成されていた時代であった。歴史修正主義派は、この点についての責任糊塗にも躍起だが、「新たな戦前」をつくらないためにも、多くの日本人に、加害者としての歴史を確認してもらわねばならない。

過日、高校教師だった鈴木敏夫さんから、「関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」という論文(大原社会問題研究会雑誌・2014年6月号)の抜き刷りをいただいた。その中に、高校日本史の教科書(全15冊)がこの問題をどう扱っているかについての分析がある。
「朝鮮人・中国人虐殺に触れているか。人数の表記はどうなっているか」「虐殺(殺害)の主体はどう書かれているか」「労働運動、社会主義運動の指導者の殺害に触れているか」について、「さまざまな努力により、濃淡の差はあるが、…総じて最近の学界の研究成果を反映した内容になっている」との評価がされている。

末尾の資料の中から、いくつかの典型例を紹介したい。

東京書籍『日本史A 現代からの歴史」が最も標準的で充実してる記載といえよう。
○小見出し「流言と朝鮮人虐殺」
「社会的混乱と不安のなかで、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすという事実無根の流言が広まった。警察・軍隊・行政が流言を適切に処理しなかったこと、さらに新聞が流言報道を書きたてたことが民衆の不安を増大させ、流言を広げることになった。
 関東各地では、流言を信じた民衆が自警団を組織した。自警団は、在郷軍人会や青年団などの地域団体を中心にして、警察の働きかけにより組織された。彼らは刀剣や竹槍で武装し通行人を検問して朝鮮人を取り締まろうとした。こうしたなかで、首都圈に働きにきていた数多くの朝鮮人や中国人が軍隊や自警団によって虐殺された。「朝鮮人暴動説」は震災の渦中で打ち消されたが、虐殺事件があいついだのは、民衆の中に根強い朝鮮人・中国人蔑視の意識があったからであった。
 また、震災の混乱のなかで、労働運動家や社会主義者らにも暴行が加えられ、無政府主義者大杉栄らが殺害される事件が起きた。」
(注に、死者数として「朝鮮人数千人、中国人700人以上と推定される」

清水書院『高等学校日本史A 最新版』が最も詳細。
○[こらむ関東大震災]
「1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9という大地震が襲った。ちょうど昼食の準備の時間で火を使っていた家庭も多く、各地で火災が発生した。家屋の大半が木造で、水道も破壊され消火活動がほとんど不可能であったことも被害を拡大させた。東京・横浜両市の6割以上が焼きつくされ、関東地方全体で10万の死者と7万の負傷者を出し、こわれたり焼けたりした家屋は70万戸に及んだ。通信も交通もとだえ、余震が続くなかで、翌日から朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ、放火をしてまわっている、暴動をおこすらしいなどのうわさが流れはじめた。
 東京市および府下5郡にまず戒厳令が出され、続けて東京府、神奈川・千葉・埼玉3県にその範囲が拡大された。『戒厳』とは、戦争に準ずる内乱や暴動の場合に、軍事上の必要にこたえて行政権と司法権を軍司令官に移しこれに平時の法をこえた強大な権限をあたえることであるが、この戒厳令下で、軍隊と警察は『保護』と称しで大量の朝鮮人をとらえ、留置場に収容したり、殺したりした。また民衆もうわさを信じ、在郷軍人会や青年団、消防団などを中心に自警団をつくり、刀剣・竹やり・木刀などで武装して、通行人を検問し、朝鮮人を襲った。この朝鮮人に対する殺傷は東京・神奈川・埼玉・千葉などを中心に7日ごろまで続き、約6、000人が殺された(『韓国独立運動史』による。内務省調査では、加害者が判明した分として。朝鮮人231人、中国人3人としている)。そのほか中国人も多数被害にあっており、江東区大島だけでも約400人が虐殺された。
 また労働運動家10名が警察にとらえられ、軍隊に殺された亀戸事件、甘粕事件がおこるなど、首都を壊滅状態にした災害の混乱のなか、警察や軍隊そして民衆の手による、罪も無い人びとの虐殺がおこなわれた」
(注に、「亀戸事件」「甘粕事件」の説明がある)

実教出版『高校日本史B』は、簡略ながら必要事項がよく書き込まれている。
○小見出し「関東大震災」
「1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこった。震災直後の火災が京浜地方を壊滅状態に陥れ、混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こした』などという民族的偏見に満ちたうわさがひろめられ、軍隊・警察や住民が組織した自警団が、6、000人以上の朝鮮人と約700人の中国人を虐殺した。また、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害され(甘粕事件)、労働運動の指導者10人が軍隊と警察によって殺害された(亀戸事件)。」
さらに、次の段落で、「天譴論」にふれている。また「政府は個人主義の風潮、社会主義の台頭を警戒して、国民精神作興詔書を出すなど思想取り締まりを強化した。震災は国家主義的風潮が強まるきっかけともなった。」と書いている。

山川出版社『詳説日本史』は背景事情への目配りがよい。
○小見出し「関東大震災の混乱」(コラム)
「関東大震災後におきた、朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に例を見ないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署構内で警備に当たっていた軍隊により社会主義者10名が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍部ともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。」

一方、採択率は微々たるものだが、「『つくる会』系教科書の先輩格」(鈴木)である明成社『最新日本史』の記載は次のとおり。「これでも検定を通るのかと驚く」(同)のレベル。
○小見出し「戦後恐慌と関東大震災」(縦書き)
「大正十二年(1923)九月一日、大地震が関東一円を襲い、京浜地帯は経済的には大打撃が受けた(関東大震災)。」
・注1「大震災による被害は、全壊一二万戸。全焼四十五万戸、死者・行方不明者十万数千人に及んだ。混乱の中、無政府主義者大杉栄と伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害された。また、朝鮮人に不穏な動きがあるとする流言に影響された自警団による朝鮮人殺傷事件が頻発した。その一方、朝鮮人を保護した民間人や警察官もいた。また、政府は戒厳令を布き事態の収拾に当たった。」

心ある高校生には、教科書から一歩踏み出して、せめて吉村昭「関東大震災」に目を通してもらいたいと願う。決して心地よいことではないが、勇気をもって歴史と向かいあうことの必要性が理解できるのではないだろうか。
(2014年9月1日)

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