澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

“Silence means consent.”「沈黙は賛成に等しい」

裁判所・裁判官の説得は、どうしたら可能であろうか。とりわけ困難な訴訟ではどうしたらよいのだろう。
そんなことが分かれば苦労はない。分からないから苦労を続けているのだが、分からないながらも考え続けなければならない。

おそらく、それをなしうるのは論理ではなかろうと思う。原告も被告も、双方それなりの論理をもって裁判所を説得しようとする。どちらをも選びとりうる裁判官に、こちらを向いてもらえるにはどうすればよいのか。

キーワードは、「共感」ではないだろうか。裁判官に、論理を超えたシンパシーをもってもらえるかどうか、そこが分岐点ではないか。「なるほど、私もあなた(方)の立場であれば同じようにしたいと思う」「同じようには出来ないかも知れないが、あなた方に共鳴し、共感する」と思ってもらえるか。できることなら、一緒に怒ってもらいたい、泣いてももらいたい。共感を得ることができれば、論理はこちらが用意したものを採用してくれる。あるいは、裁判所が探してくれる。独自に組み立ててもくれるだろう。

では、裁判所の共感を得るにはどうするか。そのキーワードはおそらく「真摯さ」ということではないか。裁判官の胸を打つものは、問題に向かいあう真剣さ、人としての悩みや葛藤の深さと、悩みながらもそれを乗り越えようとする真面目さなのではないだろうか。

裁判官という人格が、当事者の真摯な人格と向かいあったとき、共感が生まれる。そうしてはじめて、その当事者の主張する論理の採用に道がひらける。これが、困難な裁判の道筋だろうと思う。

本日、東京「君が代」裁判4次訴訟の口頭弁論で、原告のお一人が、次のような意見陳述をした。私は、大いに共鳴し共感した。政治的意見を異にする人にも、思想良心の自由を大切と思う立場から共感してもらえると思う。合議体の裁判官3人とも、よく耳を傾けておられた。

陳述の紹介は、特定性を避ける必要からやや迫力を欠くものとはなったが、是非多くの人にお読みいただいて「共感」をいただきたいと思う。

「私は、多様な価値を認め合うことや少数派の意見を尊重することの重要性を、いろいろな教材を通して生徒に教えてきました。

10・23通達以前、入学式・卒業式の前に生徒に対して「国旗国歌に対してはいろいろな考えがあるのですから、みなさんは自分の考えに従って行動して下さい」と説明していたのは非常に重要なことでした。ところが10・23通達後はこの説明は許されず、「教員は命令に従わないと職務命令違反で処分する」と脅されて国歌の起立斉唱を強制されました。民主主義の日本でこんな強制が許されるのか、日本はどんな国になろうとしているのか、起立したくない生徒の内心の自由は守られるのか、と私は非常に動揺しました。多くの同僚はしばらくの我慢だと言い、私も、処分は恐ろしいから立つしかないといったんは自分に言い聞かせました。けれど我が子や生徒たちの未来のために、今できることをしなくては後で大きな後悔をすることになると思い、悩んだ末に結局は起立しませんでした。

その後10年が過ぎ、今では入学式・卒業式での国歌斉唱はあたりまえのように淡々と行われます。前任校では式の進行台本には「起立しない生徒がいる場合は司会が起立を促す」と書かれていました。私はできるだけ式場外の仕事を担当させてもらうのですが、昨年3月校長から、「入学式・卒業式で起立すると約束しなければ3年の担任から外す」と迫られた時には本当に苦しい思いをしました。

私の学校では、進路指導を重視して2年から3年へはクラス替えをせず同じ担任が持ち上がります。私が「起立できない」と言えば、私のクラスだけ担任が代わり、生徒は「自分たちだけが不利になった」と思うでしょう。人間関係を築くのが苦手な生徒は「困ったな」と思うでしょう。私自身、「時間をかけて信頼関係を築いてきた生徒を、最後の一番大事な場面で担任として支援できないのは本当に悔しい」「担任を続けたい」「一緒にチームで生徒を見てきた学年団にも申し訳ない」。けれど一方、君が代斉唱を強制されて苦しんでいる生徒は確かにいるのに、国旗国歌強制の卒業式に誰も反対しなくなってもよいのか。自分を含め教員が全員起立斉唱する状況で、生徒に起立しない自由があると言えるのか。私自身の中でこのせめぎあいが続きましたが、“Silence means consent.”「沈黙しているのは賛成の表明に等しい」、つまり私が起立斉唱することは、生徒への強制に加担することにほかならないとの思いが頭を離れず、結局起立できないと決めました。その結果私は3年の担任を外されました。席だけは職員室の3年担任の場所にありながら、他の教師が3年生の生徒に親身な指導をしているのを見るにつけ、非常にさびしい思いをしました。

10・23通達は学校運営のあり方も大きく変えました。職員会議での採決が禁止され、都教委の指示や校長の判断だけで物事が決まる場面が増えた結果、教員集団が議論して教育に当たるという雰囲気がなくなりました。どうせなにを言っても無駄、校長に反論などすれば自分に不利になるという意識が浸透しました。しかも、杜撰な計画や実施の是非に疑問のある指示が次々に降りてきます。

例えばこの3月、今は退職した校長の判断で海外修学旅行が強引に決められました。しかし、実施年度の今年、航空機事故への懸念や費用の負担を理由に不参加者が増えて、大変困ったことになっています。私は職員会議で度々、学年の希望は沖縄であり、海外は経済的理由で参加できない生徒が出る、また教員の準備や事前指導が困難であると反対意見を述べましたが、全く聞き入れられませんでした。校長は、何を学ばせたいかを示すことができません。大切な教育の機会である修学旅行も十分な議論もなく決められてしまう。教育内容を教員自身が決められない。本当に生徒のためになるかどうかが置き去り。これが学校の現状です。

学校は教員が自由に個性を発揮して、生徒に問題提起し、考える場を与え、試行錯誤するチャンスを与える場です。しかし教員は卒業式・入学式で日の丸・君が代について生徒に説明できなくなり、授業や授業外でも社会性のある問題を取り上げにくくなり、生徒に自分で考え成長する機会を与えることが難しくなっています。

私たちは、疑問を持ち自分で考える人間を育てなければなりません。そのため学校は、教員が意見を自由に表明し議論できる場でなければなりません。都教委は、君が代の強制に賛同できないと言っているだけの私たちを徹底的に排除し、私たちを見せしめに教員の反論の口を封じ、学校の教育力を奪って、一体どんな人間を育てようとしているのでしょうか。

裁判官の皆様には、10・23通達が学校の現場を荒廃させている状況をご理解ください。そして、生徒のためにも、多様な意見を持つ教員が安心して教育に取り組める学校を取り戻してくださるようお願いします。」
(2014年9月5日)

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