政治献金とは「政策をカネで買う」こと?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第21弾
「DHCスラップ訴訟」進行のご報告である。
次回の口頭弁論が、9月17日(水)の午前10時半。東京地裁705号法廷で開かれる。これが実質的に第2回目の法廷。法廷終了後の11時から東京弁護士会(5階)の507号室で、弁護団会議兼報告集会が行われる。集会では、弁護団からの報告だけでなく、現実にスラップを経験した被害者からの生々しい報告もある。前回の法廷も、事後の集会も充実したものだった。今回も、是非多くの方のご参加をお願いしたい。
さて、現在の進行状況。そんなに難しい裁判をしているわけではない。争点は少ない。裁判所の判断が困難な事件ではなく、判決まで長期を要する裁判でもなさそう。
では、いったい何が問題となっているのか。
原告ら(DHCとその代表者吉田嘉明)は、「被告(澤藤)がブログで自分たちの名誉を毀損した」と主張して提訴した。その精神的損害の金額を最初は2000万円だと言い、突如6000万円となった。当初の2000万円についても、増額した6000万円についても、その算定根拠は示されていない。ことほどさように根拠定かならざる請求。金額で驚かして萎縮効果を狙っていることを自白しているに等しい。
これに対する被告(澤藤)側の主張は、「そもそもこんな請求が成り立つはずのないことは自明ではないか。こんないい加減な裁判は、門前払いでさっさと終わらせてもらいたい」というもの。裁判の土俵に上がっての「請求棄却」ではなく、門前払いの「訴えの却下」を求めている。
なぜ、「原告らの請求が成り立つはずもない」というのか。それは、憲法21条の命じるところだからなのだ。私はブログで、吉田嘉明から渡辺喜美への8億円のカネの授受を「政治を金で買おうとした」と批判した。吉田自身が、週刊新潮に書いた手記を根拠に、あとは常識的な推論を重ねたもの。大金持ちが、政治に巨額のカネを注ぎこんだのだ。批判されて当たり前。しかも、吉田は同じ手記で、自分の商売に触れてこう言っている。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は、厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます」
これを読めば、誰しも吉田の思惑が、「特別煩わしい規制チェックをなくしたい、緩和したい」と読み取るだろう。「私の経営する会社の利益のための規制緩和」、それこそが「官僚機構の打破」の本音だと、常識的に思うだろう。私はその常識を述べたに過ぎない。
ところが、原告側はこう言うのだ。
「被告は原告吉田が、訴外渡辺議員に8億円を貸し付けたのは、自己の金儲けのためであると断定的に記述し、もって当該事実を摘示したものである。その根拠は、『この世のすべてのカネの支出には、見返りの期待かつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの』という、被告独自の価値観にある。日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいることを被告は知らない」
微苦笑を禁じ得ない。およそ、民事訴訟における主張ではない。
私は、「この世のすべてのカネの支出には、見返りの期待かつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの」という考えをもっている。だから、政治献金は民主政治を歪める危険があり、透明性の確保と規正とが必要だと確信している。もちろん、法もそのようにできている。
確かに、私は「日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいることを知らない」。しかし、稀なる聖人の存否についての論争はまったく無意味なのだ。訴訟で争われているのは、「私の考えが正しいか、間違っているか」ではない。「日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいるか否か」が争われているわけでもない。
週刊誌の「吉田手記」をどう読むかは、私の論評であり意見である。当然のこととして、論評や意見は自由でなくてはならない。もちろん、論評や意見の前提となる事実は主要な点において真実であることが求められる。本件においては、私が述べる意見が前提とする事実は、週刊新潮に掲載された吉田手記に基づくものなのだから、何の問題もありえない。私の論評ないし意見は、その自由が憲法で保障されているのだ。これに異論があれば、対抗言論をもって反論すればよいだけのこと。それだけの力のあるDHCであり、その会長ではないか。違法だと訴訟を起こすような問題ではありえない。
しかも、テーマは典型的な政治的言論、具体的には政治とカネの関わりの問題なのだ。言論の自由一般ではなく、民主主義政治の基盤をなす「政治的な批判の言論」についての自由が俎上に載せられている。私の言論は、最も尊重されなければならないのだ。さらに、原告らは、単なる私人でも一般人でもない。大企業であり、大金持ちであり、国民の健康に直接関連するサプリメント業界の最大手であり、その代表者である。もともと、国民からの批判の言論を甘受しなければならない「社会的強者」の立ち場にある。それだけではない。吉田が政治的思惑あって巨額のカネを公党の党首に拠出し、しかもそのことを自ら週刊誌に暴露したのである。その時点から、彼は政治家と同等にあるいはそれ以上に、政治的批判の言論を受忍すべき特別の立場にたったのだ。この点の自覚に欠けているが故に、自分に対する批判を嫌ってスラップ訴訟を濫発しているのだ。
以上のとおり、原告らが私の指摘のような批判を受けるべきはあまりに当然なのだ。批判の言論を受忍しなければならないのはあまりに明らかではないか。だから、本件を不適法な訴えとして、却下を求めているのだ。
ときあたかも、経団連が「政策をカネで買おうとしている」ことで世論の批判を受けている。たとえば次のように。
「経団連献金再開 露骨な政権擦り寄りだー経団連の榊原定征会長は、政治献金への関与を5年ぶりに再開し、会員企業に献金を呼びかける方針を表明した。
…経団連はアベノミクスを全面的に支持しており、結局、献金は自民党に向かうだろう。安倍晋三政権に擦り寄って、法人税減税などの大企業優遇策を実現しようとする意図は明らかだ。『政策をカネで買う』との批判が起きるのは当然だ。時代に逆行する方針の撤回を求める。」(9月10日 北海道新聞社説)
DHCに言わせれば、「この社説は、独自の価値観によるもの。総じて論説委員などは、日本国をより良くしようとして浄財を投じる企業がこの世にいることを知らない」ということになろうか。あまりに馬鹿げた「反論」であることがお分かりいただけよう。
(2014年9月10日)