どうすれば政権の暴走に司法は歯止めとなり得るかー第45回司研集会
昨日(11月15日)、日本民主法律家協会の秋の行事として定着している司法制度研究集会(「司研集会」)が開催された。今年で45回目となる。
今回のテーマは、「憲法の危機と司法の役割」。まさしく今にふさわしい。いささかなりとも憲法や司法に関心のある者にとって、ほかならぬこの今の憲法状況の危うさを正確に認識すること、司法がどのようにしてこの危機を制御可能であるのか、この実践的課題に興味をもたないはずはない。
長丁場の集会の中で繰り返された問いかけは、「反知性の政治に、法の知性をどのように対峙させるか」「どうすれば、政治の暴走を司法が制御できるか」ということ。「法は権力を制御する」という命題よりはやや広く、「憲法を危うくしている政治の暴走に歯止めをかける手段として、法の実現機関である司法が有効に活用されなければならない」という実践的な問題意識なのだ。
憲法は、改正手続きを経ることなく次第に全体として壊されつつあるというのが、共通した危機意識。9条だけが標的とされているのではない。民主主義システムの総体、主権者を育てる教育、精神的自由をはじめとする人権一般が、「戦後レジームからの脱却」「日本を取り戻す」という乱暴なスローガンのもと、全面的な危機にある。
このようなときにこそ、司法本来の役割に期待せざるを得ない。どうすれば、反憲法的な暴走政治をコントロールできるだろうか。理論と法実践との結合を目指す、日本民主法律家協会ならではの課題設定ではないか。
集会案内には、次のように集会の趣旨が語られている。
「特定秘密保護法の制定、集団的自衛権行使容認の閣議決定、盗聴法の大幅拡大を盛り込んだ法制審の答申など、今、まさに歴史の曲がり角なのではないかと思えるような、緊迫した時代状況になっています。悪法反対運動の重要性は言うまでもありませんが、同時に、戦争への動きや深刻な人権侵害に歯止めをかける重大な役割を担うのが三権分立の一翼を担う司法です。
1960年代から70年代にかけて、自衛隊の違憲性、公務員の労働基本権制限や政治活動禁止の違憲性を断ずる裁判が相次いだことを契機として、青法協攻撃、裁判官の再任拒否など『司法反動』の嵐が吹き荒れ、その後、司法は、国家の根本問題に関する立法や行政の行為について司法判断を回避し、あるいは合憲のお墨付きを与える傾向が顕著になりました。司法改革によってこの傾向は変わったでしょうか?
『壊憲』の動きに反対する国民の運動は広がり、司法に対する国民の期待は高まっています。今年は、元裁判官の著書『絶望の裁判所』が話題になる一方で、袴田再審開始、大飯原発差止、厚木基地自衛隊機飛行差止、原発事故と自殺の因果関係を認めた判決など、勇気ある下級審の判断も生まれ、国民を励ましています。
危機の時代に、司法はその役割を果たせるのか、果たさせるために私たちは何をすべきなのか。そのことを今、改めて考える集会を企画しました」
このような法実践に関わるテーマについて全面的にものを語ることができる理論家は世に稀である。最適任者として第一に指を折るべきは、ひいき目ではなく、森英樹協会理事長を措いてない。今日は、森講演に耳を傾けようと人が集まった。
学会の研究会ではなく日民協の集会である。実務家の報告も欠かせない。集会では、自衛隊イラク派兵差止訴訟弁護団全国連絡会の佐藤博文弁護士(札幌弁護士会)と、裁判官懇話会の活動に長年取り組んでこられた石塚章夫元裁判官(現在、埼玉弁護士会会員)のお二人も、それぞれの立場から「司法が何をなしうるか」「いかにすれば司法本来の役割を果たさせることができるか」を存分に語られた。
森講演の内容は、期待通りのさすがなものだった。その全文が「法と民主主義」12月号に掲載される。楽しみにしたい。森講演の満足度は当然として、意外にというと失礼に当たるが、石塚章夫元裁判官の講演がひどく面白かった。
長い講演を私の関心で要約すれば、テーマは裁判官の「感性」である。
最高裁事務当局が裁判官をイデオロギー的に統制した「司法の危機」の時代は過去のものではないか。代わって、今は意識的な裁判官統制が不必要な時代となってしまっているのではないか。いまや、事件数をこなすことだけに明け暮れ、事件や当事者を記号としか認識しようとしない裁判官で満たされた「絶望の裁判所」と嘆かざるを得ない時代となっている一面を否定できない。
しかし、現実の下級審判決の中には、紋切り型の法律家の文章としては異質の、血の通った文章と判断を垣間見ることができる。多くは、深刻な被害を訴える事件で、被害実態を丁寧に事実認定しているものが多い。これは、裁判官の中に残された感性が、当事者の感性と共鳴してできた判決と言えるだろう。
おそらく、このような共鳴を可能とする感性は、集団としての裁判官群の中に一定の割合で存在する。また、裁判官個々人の中にも一定の割合で残存しているのではないか。訴える主体の側の感性をもって、裁判官の感性の共鳴を引き出すような訴訟のあり方を工夫することが大切だろうと思う。それは決して不可能ではない。
これが、裁判官生活38年、地裁所長も高裁総括も務めた人の貴重なアドバイスなのだ。同感するところが多々ある。別の機会に、どうすれば裁判官の感性との共鳴ができるか、具体的な続きの話を聞かせていただきたい。そう、お願いしてきた。
(2014年11月16日)