パロディ「公明党の悩み」 ― 総選挙の争点(その2)
私は公明党。1964年の結党からはや50年。私も年をとったものだ。前身の公明政治連盟も同様だが、産みの親も育ての親も宗教法人創価学会。これは天下周知の隠れもない事実。ホームページでは「政党と支持団体の関係です。各政党を労働組合や各種団体などが支持する関係と同類です」などと言ってみてはいるが、そんなことを信じる人もないだろう。
母体の創価学会は、元は日蓮正宗の在家信徒団体としての法華講の一つだった。いまは、日蓮正宗とは喧嘩別れをして、僧侶のいないまま独自に宗教法人となっている。
その創価学会。戦前創価教育学会といった当時に、天皇制からの過酷な宗教弾圧の対象となっている。国家神道にへつらわない姿勢が不当な弾圧の原因だった。これは信仰者として誇ってよいこと。だから、親から受け継いだ私の出自自体に、反権力・親民衆の血は色濃く流れているわけだ。
しかしだ。最近その血が騒ぐことはない。むしろ、その反権力の血を押さえ、人からも見られないように心掛けているうちに、親権力・反民衆の体質になってしまったという批判の声が高い。反論はしたいんだが、何しろ自民党と組んで連立与党の一員になっているんだから、どうも反論も意気はあがらない。
創価学会は日蓮が唱導した法華経を信仰する。ここには、法華経の理念が国家の指導原理となることによって、この世に寂光浄土が実現するという固い信念がある。これが王仏冥合。すなわち王(政治)と仏(信仰)の一体化によってこそ、国家と民衆の真の幸福がもたらされるのだ。王仏冥合の理念のもと、その象徴として国家事業として国立戒壇を設けて、権力者を帰依せしめることこそ広宣流布実現の王道とされていた。そのためには必然的に政界に進出しなければならなくなる。私は、そのような使命を帯びてこの世に産み落とされ、そして育てられたのだ。
その出自ゆえ、若い頃は私も血気盛んだった。創価学会という組織が折伏という手段で勢力を拡大してきたように、その子の私も心意気も手法も同じだった。使命に燃えて、大恩ある親の期待に応えようと必死になって熱く行動をしたものだ。
ところが、大きな壁として立ちはだかったのが日本国憲法の政教分離原則だ。「王仏冥合が現実のものとなれば、まさしく政教一体の極み。憲法違反も甚だしい」と言い出す奴が現れた。とりわけ国立戒壇を設けるという私の方針が政教分離に反するとやり玉に上げられた。最も声高に、うるさく指摘したのは共産党だった。そのおかげで、私は転進を余儀なくされ、王仏冥合も国立戒壇も口にすることはできなくなった。だから、私は共産党が大嫌いなのだ。
以来、産み落とされた使命を掲げることはできぬまま、「平和の党」「福祉の党」を看板にしてきた。なんと言っても、創価学会の信者層は庶民そのものなのだから、民衆の党として生き延びるほかはない。その民衆の願いは、平和であり福祉なのだから、自ずと看板の文字は決まったのだ。しかし、かえすがえすもバックボーンを失ったことは哀しい。あれ以来、ふわふわと憲法や外交、安全保障に関わる基本姿勢は定まらない。
私も、基本的な立場が定まらないまま、護憲と言い、安保廃棄と言ってもみたこともあった。あれは若気の至りでのことで、今はすっかり大人になった。そして、自民党との連立を組んで与党に納まっている。自民党に恩を売りつつ、与党としての情報の取得や影響力の行使がたまらなく居心地のよい状態。この立場を手放すことはできそうもない。
しかし、この居心地の良さは、同時に悩みの根源でもある。ときどき溜息をつくこともあるのだ。若い頃の私の理想や使命はどこに行ってしまったのだろう。そして、「平和の党」や「福祉の党」の看板を掛け続けていることの面はゆさに、忸怩たるものを感じざるを得ない。およそ平和や福祉とは正反対の立場にある自民党との連立を組んでいることの負の側面だから、仕方ないと言えば仕方がない。
私だって苦労しているのだ。憲法20条を改正して、天皇や閣僚による靖国神社への参拝を可能にしようという自民党との連立なのだから。もちろん、自民の言いなりにはなれない。さりとて、反自民の立場はとれない。
今回総選挙の公約だって苦心の末の産物だ。その辺をよく分かっていただきたい。
メインスローガンは「景気回復の実感を家計へー今こそ軽減税率の実現へ。」と言うのだ。重点5政策の第1が「地方創生で、力強く伸びる日本経済へ」とするもので、そのトップが、「軽減税率の導入」なのだ。これが今回選挙の私の目玉。タスキの文字であり金看板ではある。だが、残念ながら、その具体的な中身はない。メッキだけで本体はないと言われてもやむを得ない空っぽのスローガンであることは認めざるを得ない。
「福祉の党」としては、「逆進性顕著な消費税は撤廃」あるいは「消費増税阻止」と言いたいところだが、連立与党として言えるところではない。とは言え、主張の独自性を出さなければ、存在感のないまま埋没してしまう。だから、「消費増税は認めつつも、軽減税率導入」が金看板となったのだが、公約として書かせていただいた内容としては、「2017年度からの導入に向け、対象品目、区分経理、安定財源等について、早急に具体的な検討を始めます」というのが精一杯。すべてはこれからなのだ。一党だけなら努力目標としての政策発表は可能だが、自民党との摺り合わせなく勝手に具体的なことは言えない。「具体性のない公約」としてお恥ずかしい限りだが、これが連立ゆえの私の悩みなのだ。
改憲問題においても、集団的自衛権や特定秘密保護法の制定においても、あるいは露骨な労働法制改悪や福祉の切り捨てにおいても、今は自民党に追随するしかない。だから今回の公約においては、労働者優遇の法制提案は一切できなかった。私なりに自民党を牽制しているつもりではあるが、下駄の雪との批判は覚悟の上のことだ。
たとえば憲法問題。自民党が強固な改憲志向政党であることは周知の事実。私は、今回の公約発表では、正直に「憲法については、2012年の自民党との連立政権の発足に当たって『(衆参各院の)憲法審査会の審議を促進し、憲法改正に向けた国民的な議論を深める』ことで合意されています」と明記している。私は、「憲法審査会の審議を促進し、憲法改正に向けた国民的な議論を深める」という枠に縛られているわけだ。
縛りは合意だけによるものではない。連立与党にいること自体が縛りになっている。だから、自民党の特定秘密保護法制定にも集団的自衛権行使容認の閣議決定にも逆らえない。「もっと頑張れ」などという無責任な外野の声は、無い物ねだりなのだ。あるいは私に対する買い被りと言わざるを得ない。
今回の公約集にも、「集団的自衛権」という言葉は出て来ない。
「安全保障法制の整備に当たっては、2014年7月1日の閣議決定を適確(ママ)に反映した内容となるよう、政府与党で調整しつつ、国民の命と平和な暮らしを守る法制の検討を進めます」と意味不明なことを述べている。私自身にも良く分からないのだから、他の方にはチンプンカンプンだろう。
また、特定秘密保護法については、公約集に言葉が出て来ないだけでなく、その内容についても一言も載せなかった。民主主義の重要な課題であることはよく分かっているし、与党の一員として無責任ではないかという批判もあろうが、有権者に納得してもらえるような説明が難しい。載せない方が我がためと判断せざるを得ないのだ。
私の愚痴に耳を傾けていただいたことに感謝する。愚痴を言っても解決しない悩みを理解していただきたい。おそらくは、この悩みは自民党との連立を解消するまでは解決しないだろう。とは言え、連立の旨味も捨てがたい。いやはや、悩ましい次第。
(2014年12月4日)