澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

資本主義への懐疑の表れとしての「ピケティ現象」

毎日新聞が本日の社説で「ピケティ現象」を論じている。ピケティが説く「21世紀の資本」の内容よりも、「ピケティ現象」に刮目せざるをえない。毎日の社説の内容よりも、大新聞が社説として「ピケティ現象」を取り上げていることに注目し歓迎したい。時代の関心は、格差・貧困という社会病理を凝視するだけでなく、その病理の根源としての資本主義への懐疑にまで進展しているのだ。

社説は、先月8日発売の「21世紀の資本」日本語版の人気に触れて、「東京都文京区立図書館は所蔵3冊に予約が200人以上」と言っている。実はその200人の中には、わが家のリクエストもはいっている。書物の中身は、膨大な統計資料だというではないか。内容の理解にはいくつかの解説記事を読み較べたほうが賢そうだ。何よりも6000円と高価な書物。購入しようとまでは思わない。そこで図書館への予約だが、同じ考えの人がご近所で200人だ。今年中には順番が回ってきそうにない。

毎日社説の内容を要約すれば以下のとおり。
「英仏米、日本など20カ国の過去100年以上にわたる経済統計を解析。土地や株などの資産を活用して得られる利益の伸びは、人々が労働で手にする所得の伸びや国の成長率を常に上回ることを明らかにした。『資本主義のもとでは、資産を持つ人がますます富み、持たない人々との格差が広がり続ける。富も貧困も世襲されていく』と分析している。『資本主義の疲労』とも言うべき現状と今後への警告だ。」
700頁を費やして、「資本主義のもとでは、格差と貧困が拡大する」ことを実証的に述べているのだという。

これが世界のベストセラーとなっている。各地で論争を呼び起こし、体制側の人物からの賛意表明もある。この世界的関心はまさしく「ピケティ現象」である。

しかし、そんなことがこの書物の内容なら、50年前の学生や青年たちの誰もが論じていたことではないか。貧困とはマルクス主義のいう「絶対的窮乏化」であり、格差とは「相対的窮乏化」であろう。もっとも、マルクスは演繹的に論理で語っていた。ピケティは統計で語っているという差はある。

半世紀前の一冊の書物を思い出す。ジョン・ストレイチーの「現代の資本主義」。学説史的な位置づけは知らない。が、教養学部時代に相原茂教授の経済学の授業でのテキストとして使用されたこの書に大きく影響を受けた。

私が理解した限りでのことだが、大意はこんなものだったと思う。
「資本主義は、それ自体としては不合理で矛盾を抱えた体制である。発達した現代の資本主義は寡占体制と国家との癒着を特徴とするが、絶対的・相対的窮乏化を必然とし、やがて誰の目にもその不合理が受け入れがたいものとなる。
しかし、この資本主義に対する民主主義的な統制は可能で、現にそれが実現しつつある。普通選挙や法治主義、あるいは表現の自由や労働組合活動の自由などに支えられて民主的な議会が成立する。その議会によって構成される権力は、所得の再分配や社会福祉を実行して、資本主義の病理を延命可能な程度にまで解決しうる。そのことなくしては資本主義の存続はない。謂わば、政治的な民主主義が、下部構造としての資本主義の延命を可能とするのだ」

ここでは、生産手段の社会化というマルクス主義理論の根幹には触れることなく、人民の政治参加という民主主義が語られている。民主的な権力が、ケインズ的な経済政策や社会福祉政策を実現することによって、よりマシな社会を漸進的に作りうるというメッセージである。

当時、「これは典型的な修正主義的立場ではないか」「資本主義の本質に切り込んでいないことにおいて限界がある」などと言ってはみたが、資本主義の矛盾を「修正」することが悪かろうはずはない。私は、ストレイチーのような立場は、もしかしたら反革命の反動的立場かも知れないなどと恐れつつ、長い目ではそれに説得されたことになる。

資本主義の矛盾・不合理を大前提として、これをいかに「修正」するか。資本の非人間性を押さえ込み、権力を民衆の立場で行使させる。このことを意識的に目指すこと、そんな運動なら自分にも参加が可能でないか。今ある矛盾を少しでも解決できるなら、改良主義といわれても修正主義といわれても、有意義なことではないか。民主主義や人権思想、そして立憲主義がそのような、資本主義の矛盾減殺の方向にに有益と考えての憲法擁護運動への積極的賛同である。

もっとも、ストレイチーには資本主義の終焉あるいは克服の視点があった。しかし、ピケティにはそのような視点はなさそうである。「放置すれば貧富の格差は拡大する」との法則性の指摘と、これを民主的に押さえ込むべきことの指摘とにとどまるようだ。それでも、格差や貧困が資本主義が必然化するものであることの指摘は重い。今の世に、その指摘がピケティ現象となる必然性があるのだ。

毎日社説は、やや遠慮がちに書いている。
「日本では、どうだろう。…現在進行中の経済政策は『持てる者に向けた政策こそが、すべての問題を解消する』といった考えに基づいている」

新自由主義、あるいは規制緩和論とは、資本主義の矛盾や不合理を認めない基本思想である。資本の活動の自由や市場原理に対するいかなる統制ももってのほか、という考え方である。「先ず富者をしてより富ましめよ。さればやがて貧者にもひとしずくほどは恩恵もあらん」というトリクルダウン理論が、小泉政権以来の、そして安倍政権で極端化した『持てる者だけに向けた優遇政策こそが、すべての問題を解消する』政策の根拠である。ピケティ現象は、このような政権のトレンドに、多くの人々が疑問を感じていることの証左である。そして、その疑問は資本主義体制そのものにまで向けられつつあるということなのだ。

毎日社説は、末尾で「ピケティ氏は、格差を解消するため、国際協調による『富裕税』の創設を唱えている。専門家は『非現実的だ』とそっけない。」と述べている。

さて、先ほどのストレイチーである。彼は、民主主義は資本の意を抑えて累進課税や富裕税の類の創設も社会福祉の充実も当然に可能と考えた。そうでなければ資本主義はもたないとしたのだ。ピケティのいう「富裕税」を非現実的とする人々は、資本主義の終焉を望んでいる、不逞の輩に違いない。
(2015年1月3日)

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Published in 土曜日, 1月 3rd, 2015, at 17:51, and filed under 経済.

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