澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

NHK会長人事の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」

NHKの籾井勝人会長がまたまた話題を提供している。この人に抜きがたく刻印されたイメージどおりの、「期待を裏切らない」発言によってである。余りに露骨で拙劣な政権ベッタリの籾井発言に接して、安倍首相のメディア対策人事が成功しているとは到底思えない。これは政権側から見ても大失敗の人事ではないか。

言うまでもなく、真実を伝えてこそのメディアでありジャーナリズムである。真実を不都合として妨害する力を持つ者は、第1に政治権力、第2に経済的富力、そして第3に多数派の社会的圧力である。

これらの諸力から毅然と独立し対峙する存在であってはじめて、メディアとしての存在価値がある。何よりも、報道の自由とは権力から憎まれ、経済的富者から疎まれ、社会の多数派から歓迎されない、そのような事実や見解を報道する自由なのだ。

権力にへつらい、シッポを振って恥じないこのような人物。ジャーナリストとしての矜持を持たないこんな男を、よくぞ見つけてきてNHKのトップに据えたものだ。救いは、ジャーナリストらしい格好すらできないことだが…。

一昨日(2月5日)の籾井発言の内容は、昨日の朝日に詳しく、本日(2月7日)朝日だけが「NHK会長 向き合う先は視聴者だ」と題して社説に取り上げている。朝日のその姿勢に拍手を送りたい。

ああ朝日よ、君に告ぐ。君、萎縮したまふことなかれ。籾井が何を言おうとも、他紙の攻撃激しくも、君の誇りは傷つかじ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰をたのむべき。君、萎縮したまふことなかれ。

本日の朝日社説の冒頭を引用したい。さすがに、読みやすい良く練られた達意の文章となっている。
「NHKの籾井勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で『従軍慰安婦問題』を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
『正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう』

まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を『政府の方針』が左右するかのような言い方だ。
就任会見で『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。
政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。」

昨日の「会見詳報」には、次のような発言も収録されている。

問 去年、朝日新聞の誤報問題で従軍慰安婦が脚光を浴びたが、従軍慰安婦問題を戦後70年の節目で取り上げる可能性は
籾井 なかなか難しい質問ですが、やはり従軍慰安婦の問題というのは正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えませんよね。そういう意味において、やはり今これを取り上げてですね、我々が放送するということが本当に妥当かどうかということは本当に慎重に考えなければいけないと思っております。そういう意味で本当に夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、この辺がポイントだろうと思います。

問 先ほどの従軍慰安婦問題で、正式に政府のスタンスがよく見えないとおっしゃった。現時点では河野談話があり、現政府も踏襲すると言っている。それでも政府のスタンスがよく見えないというのは、河野談話について変わるべきだとか変わりうるとか言うことでおっしゃってるんでしょうか
籾井 その手の質問にはお答えを控えさせていただきます。

問 「よく見えない」という認識は……
籾井 あの、どんな質問もお答えできかねます。

問 それはどうしてですか
籾井 しゃべったら、書いて大騒動になるじゃないですか。

問 大騒動になるようなお考えをお持ちなのですか
籾井 ありません。そんな挑発的な質問はやめてくださいよ。

この人の頭の中では、NHKとは「政府のスタンス」に従う伝声管でしかないのだ。そのような戦前のあり方を反省しての放送法であり、あらたな公共放送機関としての新生NHKであったはずではないか。

いま、先日亡くなられた奥平康弘氏の、表現の自由に関する論文を読み返している。そのなかに、戦前の放送規制のあり方に関して次のような叙述がある。やや長いが、是非お読みいただきたい。

わが国放送事業が、1924年、社団法人東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の設立免許とともにはじまったのは、周知のとおりである。監督庁たる逓信省はその内規、放送用私設無線電話監督事務処理細則(1924(大13)年2月作製、のちしばしぱ改正した)および各放送局施設許可付帯命令書などにより、放送番組内容の詳細な事前検閲権を確保し・所轄逓信局長の監督に服せしめるものとした。のちまもなく、既存三法人を解散させ、日本放送協会を成立せしめたが、放送番組に関する公権力的検閲の大綱は変化しない。1930年全面改正された監督事務処理細則によれば、
(1) 放送種目及び放送内容は社会教育上適当と認めるものに重きを置くこと
(2) 放送内容中経済財界に関する事項については慎重なる考慮を払うここと
(3) 講演・演芸等の委嘱又は雇傭に依る放送は人選を慎重調査し特に外国人を選ぶときは十分に注意すること、などが命ぜられている。
また、大体において新聞紙法・出版法に準拠して、放送番組の禁止・削除・訂正の各事項が列挙されている。これらの諸点につき、逓信局の事前のチェックをうけることもちろんだが、それだけでは不十分というわけか、つぎのようなフェイル・セイフの制度がとられている。
すなわち、各放送には監督者たる放送主任者を配置せしめなけれぱならず、この放送主任者席には「常時放送を監督し得る装置と瞬時に放送を遮断し得る装置をなさしめ、逓信局との直通電話もこの席に設くること」これである。
逓信省は、所轄逓信局を経由して、そのときどきの具体的な禁止事項・注意事項を通達し、たえまない指導監督をおこなっていたが、準戦時体制に入ると、ここでも番組統制権は、他のマス・メディア統制権とともに、内閣情報局の集中掌握するところとなる。」(有斐閣「表現の自由??理論と歴史」『戦前の言論・出版統制』。初出は「ジュリスト」378号・1967年)

同論文で、出版・新聞・放送・演劇・演芸等の表現活動に対する戦前の統制を概観して、氏は最後をこう結んでいる。

「戦前の出版警察を考究して脳裡から離れないのは、日本人はよくも長いこと、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢してきたものだという一事である。わたくしには、この秘密をわたくしなりに解明をしてみないかぎり、現行憲法が表現の自由を保障しているということに安心立命することができないように思える。」

「奥平先生に、まったく同感」では済まない。述べられていることが過去のことではなく、現在の問題でもあるのだから。籾井のごときがNHKの会長を続けるこの事態は、まさしく「日本人はよくも、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢していられるものだ」というに値する。こんな人物をトップにいただくNHK、こんなトップを任命する安倍政権の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」に我慢してはおられない。安心立命など到底できようはずもない。
(2015年2月7日)

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Published in 土曜日, 2月 7th, 2015, at 23:51, and filed under ジャーナリズム, 安倍政権, NHK問題.

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