「今の組長、筋目を外しているんじゃござんせんか」
高倉健が亡くなって懐かしむ声が高い。
彼は、ヤクザ映画で売り出した俳優。さすがに、ヤクザ、暴力団、博徒、テキ屋などという言葉は避けて、映画資本は「任侠」という言葉を選んだ。その任侠映画シリーズの花形鶴田浩二の弟分という役回りで、高倉は大衆の支持を得た。
現実の暴力団・博徒集団は、民衆の嫌われ者である。右翼組織と一体化して、政治権力や企業の手先ともなった。安保反対のデモ隊にも三池争議のピケ隊にも襲いかかった野蛮な憎むべき輩。それが、映画では美化されて民衆の喝采を得た。
アウトローや反権力は、民衆の憧れとなる一面をもっている。スパルタカス、水滸伝、ロビンフッド、カリブの海賊、アルセーヌルパン、アテルイ、平将門、国定忠治…。政治権力や社会秩序の圧力が重苦しいと感じる多くの人々の願望と空想の中で、偶像化された反逆児が自由人として羽ばたいた。あるいは、社会秩序からの自由を求めながら結局は挫折する者の生き方の美学が多くの人に受けいれられた。
それだけでなく、鶴田浩二や高倉健の世界では、民衆の道徳が語られたのではないだろうか。「弱きを助け強きを挫く」のがその動かしがたい基本。弱き立場の民衆は、これを支持した。「強きに与して」の「弱い者いじめ」は、最も恥ずべき卑怯な振るまいとして醜く描かれた。
そして、常に「筋目」を通すことが語られた。「義理」や「仁義」に外れることが嫌われる。嘘をつくこと、策略で人を陥れることは専ら悪役の役所。任侠映画は、意外に健全な民衆の道徳観に支えられていた。
安倍晋三という役者は、どうやらこの典型的な任侠道に大きく外れた悪役を演じているのではないか。筋目を外して、「強きに与して強い者いじめ」ばかり。高倉健に喝采を送った民衆が、これからも安倍晋三を支持するとは考えにくい。
本日の赤旗を引用する。「野中広務元自民党幹事長が、15日放送のTBS『時事放談』で、安倍首相の政治姿勢を厳しく批判した」というもの。その批判が、「安倍は、保守の筋目を外している」という、老ヤクザ、いや任侠の言に聞こえる。
「首相の施政方針演説について野中氏は、『昭和16年に東条英機首相の大政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときと変わらない』『重要な部分には触れないで非常に勇ましい感じで発言された』と述べました。
沖縄県辺野古への米軍新基地建設を民意に背いて強行する姿勢については、『沖縄を差別しないために政治生命を懸けてきた1人として、絶対に許すことができない。県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨している』
また来年度予算案について『防衛費だけ増えていく、そういう国づくりが本当にいいのか』と疑問を投げかけ『一番大切な中国の問題、韓国の問題を正面から捉えようという意欲がないのではないか』と指摘しました。最後に『私は戦争をしてきた生き残りの1人だ。どうか現役の政治家に“戦争は愚かなものだ”“絶対にやってはならない”ということを分かってほしい』と訴えました。」
先代親分の代貸しが、老いの身でこう呟いているのだ。
「今の組長は、筋目をはずそうとしていらっしゃる。ふたたびの出入りはしないことを誓っての組の再出発だった。これこそが筋目だということをもうお忘れか。
先の出入りを知る者も少なくなった。勇ましい言葉は組を滅ぼすこととわきまえてもらわなくてはならない。今の組長のやり方は危なっかしくって見ちゃいられない。
隣の組とは腹を割って話し合わなくっちゃならない。その懐の広さが、親分の親分たる力量の見せどころ。ところが、今の組長は貫禄に乏しく、セールスはできても、手打ちのための話し合いができない。これじゃダメだ。
そして、なによりも弱いものの立場に立って親身になってこその任侠道ではないか。いじめられている者を、かさにかかって痛めつけるようでは、任侠道もおしまいだ。今の組長、道に外れている。
それに嘘をついてはいけない。大事なことを言わないのは嘘なのだ。大事なことは言わずに、些細なことを大袈裟に言うことで組員を騙し、組の外にいる人々との緊張を高めて、最後は出入りにもっていこうとしている。
これは、先の出入りの前の時代とよく似たやり方だ。今の組長のじいさまの代が、そんなことをやって組を壊滅の寸前までもっていったのだ。私は強く危惧し憤慨している。また同じことを繰り返してはならない」
(2015年2月16日)