民意の怒風を巻き起こし、驕れる安倍政権を塵として吹き飛ばそう。
平家物語の名文句「驕れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し」は、いくつものバリエーションで語られる。そのなかに、「驕る平家は内より崩る」というものがある。奢侈に慣れ驕慢が染みついた一族の愚行から、さしもの権勢も滅びた。滅びの原因は外にではなく内にあったのだという戒めとされる。
遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高・漢の王莽・梁の周伊・唐の禄山、是等は皆旧主先皇の政にも従はず、楽みをきはめ、諌をも思ひいれず、天下の乱れむ事をさとらずして、民間の愁る所を知らざッしかば、久しからずして、亡じにし者ども也。
異朝の故事ではなく今の世のこととして置き換えて読めば、「憲法の定めるところに従わず、議席の数に驕って学者やメディアの提言を無視し、戦争を準備して近隣諸国との軋轢・緊張関係を高めながら、これを世論の憂いと受け止める自覚に欠け、結局は民意と乖離して政権は崩壊する」と示唆している。既に安倍政権は、「偏に風の前の塵に同じ」状態ではないか。平家物語作者の洞察力や恐るべし。
「内より崩る」を「一族の中の突出した愚か者の行為を発端にして瓦解する」と読むこともできよう。平家一族の権勢を笠に着た一門の愚行の例は、その末期症状としていくつも語られている。安倍政権でも、いくつもの末期症状が窺えるではないか。
一昨日(6月25日)の、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」の席上発言は、典型的な末期症状の露呈だ。失言としても冗談としても、到底看過し得ない。むしろ、非公開だからとしてホンネが語られたとみるべきだろう。こういう本性をもった輩が、勇ましく先頭に立って戦争法案成立に旗を振っているのだ。
勉強会出席の議員数は、37人だという。この「37人+百田尚樹」の38人衆が、「内より崩る」の愚行の尖兵だ。「安倍政権の内側からの墓堀人」にほかならない。そして、大切なことは、内側からだけでなく外側からも大いに働きかけて、内外相呼応して戦争法案を葬りさるとともに安倍内閣を早期に崩壊させねばならない。
朝日・毎日・東京だけでなく、さすがに読売までもが本日(6月27日)社説を掲げて、自民党・安倍内閣の「異常な異論封じ」「批判拒絶体質」を批判し、報道規制発言に苦言を呈している。産経だけが様子見である。明日の社説を注視したい。メディアとしての矜持を保つか、あるいは自ら墓堀人グループの一員として名乗りを上げるか。
「異常な『異論封じ』―自民の傲慢は度し難い」と題する朝日の社説は最近珍しく、ボルテージが高い。「これが、すべての国民の代表たる国会議員の発言か。無恥に驚き、発想の貧しさにあきれ、思い上がりに怒りを覚える。」と言葉を飾らない。毎日も、東京も遠慮するところがない。
この3紙の社説を読んだあと、百田のツイッターを見て驚いた。「炎上ついでに言っておくか。私が本当につぶれてほしいと思っているのは、朝日新聞と毎日新聞と東京新聞です(^_^;)」と言っている。開き直りも甚だしい。さすがに、内側からの墓堀人の名に恥じない。
当事者性から言えば、まずは「沖縄の2つの新聞はつぶさないといけない」(読売だけは、「あの二つの新聞社はつぶさなあかん」と表現している。録音を持っているのではないか)と言われた、沖縄タイムスと琉球新報とである。
沖縄タイムス編集局長・武富和彦、琉球新報編集局長・潮平芳和両名による「百田氏発言をめぐる沖縄2新聞社の共同抗議声明」は、押さえた筆致で、ジャーナリズムの基本姿勢を語って格調が高い。「戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した。戦争につながるような報道は二度としないという考えが、報道姿勢のベースにある。」という一節が印象深い。ジャーナリストとしての理念を立派に貫いているからこその権力側からの逆ギレ批判であることが良くわかる。
「百田氏の発言は自由だが、政権与党である自民党の国会議員が党本部で開いた会合の席上であり、むしろ出席した議員側が沖縄の地元紙への批判を展開し、百田氏の発言を引き出している。その経緯も含め、看過できるものではない。」とは正鵠を射たもの。安倍政権全体の問題であることが明らかではないか。
そして、本日の両紙の社説の舌鋒が鋭い。憤懣やるかたないという怒りがほとばしり出ている。
琉球新報は、「ものを書くのをなりわいとする人間が、ろくに調べず虚像をまき散らすとは、開いた口がふさがらない。あろうことか言論封殺まで提唱した。しかも政権党の党本部でなされ、同調する国会議員も続出したのだ。看過できない。」と言い、沖縄タイムスは「政権与党という強大な権力をかさにきた報道機関に対する恫喝であり、民主的正当性を持つ沖縄の民意への攻撃である。自分の気に入らない言論を強権で押しつぶそうとする姿勢は極めて危険だ。」「一体、何様のつもりか。」といずれも手厳しい。
政府に批判的な2紙を潰せと言っただけではない。「マスコミを懲らしめるには広告料収入がなくなるのが一番。」「文化人が経団連に働きかけてほしい」「悪影響を与えている番組を発表し、そのスポンサーを列挙すればいい」「広告を取りやめるように働きかけよう」とまで、政権政党の議員が発言したのだ。報道の自由侵害の問題として、全マスコミの怒りが沸騰しなければならない。たとえば、北海道新聞が「自民の勉強会 マスコミ批判は筋違い」「耳を疑う発言が、また自民党から飛び出した。」というが如く。
愚かな読売社説のように、「地元紙に対する今回の百田氏の批判は、やや行き過ぎと言えるのではないか。」などと、生温く政権におもねっていてはならない。
そして、メディアの怒りを国民全体の怒りとして受け止めなければならない。メディアの自由は、国民の知る権利に奉仕するためにあるのだから。
沖縄は渾身の怒りを表現するだろう。この沖縄の怒りを孤立させてはならない。日本全土の国民が沖縄の怒りを我が怒りとしなければならない。沖縄の平和は、そのまま日本全土の平和なのだから。
自民党・安倍政権は、まぎれもなく2本の虎の尾を踏んだ。一本はジャーナリズム、もう一本が沖縄である。その痛みは、虎の本体としての日本国民全体のものである。国民の圧倒的な怒りの風を起こして、安倍政権を塵として吹き飛ばそうではないか。
(2015年6月27日)