安倍クン正確な国語を使うようにー老国語教師の述懐
アベ君。私は恥ずかしい。キミに国語を教えたのは私だ。いつ、どこでと特定すれば物議を醸すことにもなりかねない。「昔々あるところで」のことだ。その昔々以来、キミの言語能力の進歩はない。キミのコミュニケーション能力の欠落には私にも責任がある。なんともお恥ずかしい限りだ。
私は口を酸っぱくしてキミに教えたはずだ。国語とは、コミュニケーションの手段であることを。最も大切なのは国語の技術ではなく、相手に自分の意見や心情を伝えようという熱意であり、相手の意見や心情を正確に汲もうという真摯な意思なのだと。キミにはその両者がともに欠落しているのだ。
国語が社会的存在であることもよく教えたはずだ。自分勝手な言葉の使い方は傲慢な性格の表れであって、言葉の受け手を困惑させるだけでなく、言葉の使い手の信用を落とすことになると。
その典型が「積極的平和主義」だ。「平和主義」という多くの人が好感を持つ被修飾語に「積極的」という修飾語をかぶせれば、常識的な意味での「平和主義」を強調する好ましい言葉だと思うはずではないか。ところが、キミが「積極的」という言葉を「平和」にかぶせた途端に、平和が戦争に変身してしまうのだ。こんな手品のような、自分勝手な言葉の使い方を、私はキミに教えた覚えはない。
さらにアベ君。最近気になるのは、キミの「理解」という言葉の意味の理解についてだ。キミは、「理解」という言葉を十分理解しているのだろうか。どうもあやしい。理解という言葉についてのキミの無理解が、国民に大きな混乱をもたらしていることを理解したまえ。
言葉には、重層的な意味がある。けっして単純に1語が、1概念と結びついているわけではない。キョトンとしていてはいけない。大事なことだ。よく分かってもらいたい。
キミは、戦争法案について、「国民の理解が十分ではない」と言った。このキミの言葉は、国民が法案の内容について認識を深めていないというのか、国民が認識した法案に了解を与えていないというのか、そのあたりが曖昧でよく分からない。キミに十分な国語能力があれば、もう少し明晰な語り口になるのだが…。
理解という言葉には、「ものごとを正確に認識する」という意味Aと、「あるものごとについての相手の立場や考え方に賛同や好意の心情を持つ」という意味Bが併存している。
Aが、「原発事故の経過はよく理解している」「総理の憲法21条についての理解はおかしい」という使い方における理解。Bは、「総理には沖縄県民の辺野古基地建設反対住民の心情についてご理解いただきたい」「再び戦争を起こしてはならないという国民感情に理解がない」という用例における理解。
BはAから派生したものではあろうが、明らかに違うもの。Aは理性的な認識だけを意味し、Bはこれに好意・賛同・シンパシーの心理が付加されている。
ところでアベ君。キミが、Aの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民が法案の中身について正確な認識を欠いている、という意味だ。立法事実や、それぞれの事態の要件の決め方や効果としての自衛隊の活動可能範囲などについて、国民はよく分かっていないということになる。だから、認識不十分な国民によく説明をして認識を深めてもらえば、法案に賛成してもらえるようになる。そういう文脈で、語っていることになる。
ところが、Bの意味で「国民の理解が十分ではない」といえば、国民は「このような法案には賛成できない」と言っていることになる。法案の中身をよく分かった人も、あるいは必ずしもよくは分らないない人も、「ともかく、法案が抱える危険がよく分かった」「もうこれ以上安倍のやり口を許さない」ということだ。もう態度は決まっているのだから、さらに説明を重ねることは意味のないことになる。
アベ君、おそらくキミの当初の思惑は、Aの意味で理解が不十分な国民が、丁寧な説明を受けて、次第に法案賛成に回っていくだろうと楽観していたのではなかろうか。ところが、あらゆる世論調査の結果は、国会の審議が進み、メディアが詳細な報道をするにしたがって、法案賛成派は減り、反対派が増加した。そして「首相の説明は不十分」という国民の割合も増加するばかり。
これは、Aの意味で理解が不十分な国民が、だんだんと認識を深めよく分かってきて、Bの意味で理解が不十分な国民に変身していったのだ。
最初は、本当に「よく分からない。もっと説明を」と要求していた国民が、安倍クン、キミの説明で、「これは危険だ」「安倍や自公のいうがままにしておいたらたいへんなことになる」と変わっていった。その意味で、A型からB型への大量の変異が生じたのだ。いまや、安倍クン、キミの言うことは信用できないという意味で国民のキミに対する理解がなくなっているのだ。
だから、いつまでも同じ「丁寧な説明」を続けても無意味なのだ。どうもキミにはその辺の意識が希薄なようだ。悪いことは言わない。潔くあきらめて、法案を撤回すべきではないだろうか。
その上であらためて、もう一度国語の勉強をしなおすことをお勧めする。私も責任上、付き合うことにしたい。
(2015年7月21日)