「EU離脱国民投票」の「日本国憲法改正国民投票」への教訓
民主主義とはなんだろうか。なんとなく分かっているようで正確に定義することは難しい。民主主義の正しさを証明することはさらに難しい。民意にもとづく政治だから常に正しいとは限らない。このことは、脳裏に刻むべきだ。ナチスも天皇制政府も民衆の意思が支えた。
間接民主主主義の不完全さはアベ政権の存在自体が見事な証明となっている。では直接民主主義はどうだ。プレビシットというのはまことにいやな語感。大阪都構想の住民投票などはまさしくプレビシットとして、危うく成功しそうになった愚かな事例であったろう。
民衆が独裁を支え独裁が民衆の支持という正当性を獲得する儀式としてのプレビシット。その歴史上の典型事例として挙げられる、1804年ナポレオンの皇帝就任を是認した国民投票の賛成票は99.93%、1934年ヒトラーの総統就任を是とした投票の賛成率は89.93%、オーストリアが実施した国民投票でのナチス支配下のドイツへの併合への賛成票は99.73%であったという。(朝日.com)
英国のEU離脱問題は、国民投票という制度の危うさを示す1事例の追加として貴重であり教訓に満ちている。国民投票の結果を、「それが国民の意思の結実なのだから正しい」とか、「最高の民主的手続の結果なのだから尊重しなければならない」などと、けっして言ってはならない。国民投票の結果が間違っていたかどうかの検証には長いスパンが必要かと思っていたが、わずか3日間で答が出てしまったようだ。
投票前には、英国〈BRITAIN〉+離脱〈EXIT〉の造語「BREXIT(ブレグジット)」が流行ったという。ところが投票直後から、英国〈BRITAIN〉と後悔〈REGRET〉を組み合わせた「BREGRET(ブリグレット)」、あるいは後悔〈REGRET〉+離脱〈EXIT〉で、「REGREXIT」(リグレジット)という言葉が行き交っているという。国民投票は間違いだったというのだ。多くの国民個人の投票行動として、そして国家の選択として。そもそも、なすべきでない国民投票をしたということにおいても〈REGRET〉せざるを得ないのだ。
EUは、独・仏の不再戦の誓いの具体化として始まったヨーロッパ統合の理念の結実と言ってよい。その平和の理念が、ナショナリズムの反撃を受けて後退を余儀なくされての英国の離脱だ。その意味で、まことに残念といわざるを得ない。
しかし、今問題とするのはそのような大局的な意味での誤りではない。投票直後から、「失敗だった」「欺された」「やり直しを」という声が満ちているという、その手続的なお粗末さについてである。多くの人の命運に関わるこんなに大事なことが、このように軽々しく扱われていることへの疑問である。
新聞の見出しが「離脱派公約の『うそ』続々」と報道している。再投票を求める署名は既に400万人に近いという。また、当日のロンドン地区の豪雨が、残留派の投票への足を鈍らせたともいう。英国民は、短慮な国民投票で、EU離脱を決めたのだ。
本来、民主主義は、熟議の政治であり、熟慮の政治でもある。ある時点での民意の検知よりは、相当期間における熟議と熟慮のプロセスをこそ重視しなければならない。煽動され過熱した国民の意思ではなく、真実の情報に基づく冷静な論議の末の国民投票でなくては過つのだ。「こんなはずではなかった」「私の投票先を変更したい」と言っても後の祭りなのだから。
このことを日本国憲法の改正手続のあり方に貴重な教訓としなければならない。民意を問うこと自体に積極的意味があるとか、その時点での主権者の意思は尊重されねばならない、などと言ってはならない。軽々に改正時の民意を絶対化してはならない。その投票結果は、次の世代をも拘束するのだ。世代を超えて妥当する揺るぎない規範の選択という責任が伴うことが自覚されなければならない。
イギリスの制度はよく知らない。報道によれば、「国民投票の結果を議会の決議で覆すことは可能」だそうである。そして、英下院で議論する対象になるかを決める要件の署名数は10万人ということ。現在、署名はその40倍にも達しており、近く下院の委員会が議題として取り上げるか否かの協議が始まるという。ならば、大騒ぎしての国民投票はいったい何のためだったのだろうか。
わが国のこととして考えれば、軽々に改憲発議や国民投票はすべきでないということになろう。相当期間の冷静な熟議があり熟慮があれば、改憲発議も国民投票も不要との結論に落ちつくはずなのだから。
(2016年6月29日)