むのたけじ逝くー「おれなんか70より80と、ますます頭良くなってきた」
昨日(8月21日)、むのたけじが亡くなった。享年101。
戦争に加担した自分の責任を厳しく問い、再びの戦争の惨禍を招くことのないよう社会に発信を続けた、憲法の理念を体現するごとき人生。その良心の灯がひとつ消えた。この人の姿に励まされ希望を感じてきた多くの人々に惜しまれつつ。
東京外国語学校スペイン語科を卒業し、報知新聞記者を経て1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となった。若い従軍記者として、つぶさに戦争の実相を見つめたのだ。そして、1945年8月15日敗戦の日に、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日を退社したという。戦後は、故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊、一貫して反戦の立場から言論活動を続けた。
今年(2016年)5月3日、東京有明防災公園での「憲法集会」に車椅子で参加している。そのときの元気なスピーチが、名演説として記憶に新しい。これが公の場での最後の姿となったという。朝日による当日の演説要旨は以下の通り。これがむのたけじの遺言となった。
「私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。
ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。
国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。」
しかし、憲法9条はけっして安泰ではない。その後の参院選で、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占める危険事態となった。101歳の叛骨のジャーナリストは、壊憲に突き進むアベ政治に、さぞかし心残りだったろう。
朝日の秋田版に掲載された、「むのたけじの伝言板」というシリーズのインタビュー記事がある。92歳から94歳の当時のもののようだ。その一部を抜粋して紹介したい。
─むのさんは「高齢者」「老後」という言葉は使いませんね。
高齢なんてのは、官僚の年寄りだましのお世辞だよ。老人は老人、年寄りは年寄り。それだけでいい。老後とは何だ。老いはあるけど、老いた後とは何なんだ。よけい者だというのでしょ。高齢も老後も、老人を侮った言葉。「敬老」じゃなく「侮老」だ。
─敬老会に誘われませんか。
10年位前に3回行ったけど、本当に小馬鹿にしているよ。安っぽい折り詰めに2合瓶1本つけて、幼稚園の子供のダンス見せて、選挙に出る連中が挨拶して、それでおしまいだもの。年々予算削られるから、ごっつおうもない。なんも面白くね。
─でも喜んでいる人もいるでしょ。
いるでしょね。それはそれでいい。喜んでいない人もいるということを理解してもらわないと。しかも相当の人数いるんじゃないの。もっと心を込めた、年寄りが長く生きていて良かったと思う行事、何かあるんじゃない。
─年金はもらってますか?
初めから拒否しているから、ないんです。61年に制度ができたとき、「集めた銭を軍備強化に使う恐れがあるから入らない」と。
そういう立場だけど、「若者3人が高齢者1人を支えている」というような言い方はおかしいよ。本当の社会福祉、社会保障から見れば、我々を支えているのは、個人じゃなく国家なのだから、みんなでみんなを守るの。社会保障とはそういうもの。
今は、年取ったら介護保険だ、施設だ、と老いることが人間のゴミ捨て場みたいじゃないの。それは間違いだ。おれなんか70歳より80歳と、ますます頭良くなってきた。変なことに惑わされない。頼るのは、自分の常識だよ。
─戦後すぐに平和運動は起きたのですか。
すぐは、食うのに懸命だった。憲法9条なんて当たり前だから放っておいた。それがよくなかった。この戦争は何だったのか。だれが何のために計画したのか。自衛権まで否定していいのか。そういう勉強をやらなければならなかったのだが、開放感が先に立った。
そして60年安保闘争。国会を70万人が取り囲んだ。政党や労働組合が「平和な世の中を」と叫び、古い政権を倒して新しい政権を作ろうとした。が、これが三文の値打もなかった。
─平和運動の始まりとおもっていましたが。
平和だ、戦争反対だというけど、スローガンだけになった。本気になって命をかけてなかった。平和運動で何が残ったかというと、「良心にしたがって平和運動に参加した」という自己満足だけ。実の詰まった平和運動ではない。
─むのさんは「地域社会が喜びと希望を持って、どんどん働く力が出てくるような平和運動」を提唱しています。どういうものですか。
戦争は、国の経済、金もうけとつながっている。みんなが、ほどほどのところで満足していけば、戦争はいらない、やらないに変わっていく。平和運動はこれまで、自分の体の外だけでの運動だったの。デモ行進とか抗議文とか。威勢よくみえるけど、戦争を計画している人には痛くもかゆくもない。スローガンではなくて、生活そのものを変えないと。
戦争反対ならば、自分自身も暮らしぶりを変える。夫婦喧嘩しながら平和を学びたくもないでしょ。隣近所と朝の挨拶もしないで平和国家もないものだ。夫婦の関係、親子の関係をどうするか。そういうことから始めればいい。
非常にまだるっこいように見えるけど、戦争をたくらむ人たちに決して動かされないような、そういう生活態度につながれば、予算を一つも使わずにできるじゃないの、平和な世界というものが。
これも朝日に掲載された、むのの意見。高市総務相の停波発言への批判だが、むのが戦時の経験から、今を見つめて危機感を持って警告を発していることがよく分かる。
「太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。
その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。
もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。
国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。
報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。
報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。
戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。
「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。」
心からご冥福をお祈りする。そして、私もその良心の灯を受け継ぐ一人でありたいと思う。
(2016年8月22日)