アベも小池もこんな程度の人物。信頼してはならない。
昨日(10月7日)の毎日新聞第10頁「オピニオン」面に、編集委員伊藤智永の連載コラム「時の在りか」が載っている。今号は、「政治家の生き方を選ぶ」。政治家の生き方などどうでもよいことだが、冒頭のアベ晋三と小池百合子のエピソードが興味深い。
まずアベについて。
衆院解散に反対だったはずの菅義偉官房長官に、側近議員が「なぜ同意したんですか」と尋ねたら、答えたそうだ。
「反対したさ。でも、総理が言うんだ。国会が始まったら、またモリ・カケ(森友・加計両学園問題)ばかりだろ、もうリセット(機器の動作を最初の状態に戻すこと)したいんだって」
安倍晋三首相が国会開会中は疲れきっていらいらし、国会が終わって外遊に出ると元気になるのは、衆目の一致するところだ。
思えば10年前、第1次政権を放り出したのも9月、臨時国会初日に所信表明演説まで行った翌々日、各党代表質問の1時間前だった。理由は腹痛とされているが、記者会見で本人が述べたのは、国会運営の行き詰まりである。
今回の解散理由である「国難」も、信を問うより先に国会で話し合うべきだが、伝家の宝刀を握る人は国会そのものが嫌だという。返答に窮した菅氏の顔が目に浮かぶようではないか。
おそらく、このとおりなのだろう。臨時国会冒頭解散の大義なんて、こんな程度のものなのだ。アベに国政運営の情熱は感じられない。もう、身を引いたらよかろう。政治家人生をリセットして、大好きな外遊で余生を過ごしてもらうことが、本人のためであるのみならず、日本の平和や民主主義のためにも望ましい。
さて、もうひとり。リセットおばさんこと小池百合子についてのエピソード。
小池百合子東京都知事が「私がリセットします」と割り込んできた時は、安倍首相も虚をつかれただろう。
しかも、民進党の前原誠司代表が、党丸ごと希望の党に「合流」を即決して、首相は一時「どんな選挙結果になろうと、自分が責任を取る」と悲壮な言を口にしたという。
しかし、それから1週間余、
「排除」
「踏み絵」
「持参金」
「股くぐり」
「私は出ない」
「全てが想定内」
など情味を欠いた言葉が飛び交い、選挙戦に入る前に新党「ブーム」は失速気味である。
政局が静かだった8月、小池氏と会った旧知の大学教授は、築地市場移転の話を振ったら、
「どうだっていいじゃない、そんなこと。もっと前向きに次のこと考えなきゃ」
と一笑に付され、国政への野望に鼻白んだという。
なるほど。これも、さもありなんと思わせる話。
小池にとっては、築地市場移転問題など、「どうだっていい、後ろ向きの話」なのだ。頭にあるのは、「権力欲に前向きの次のこと」だけなのだ。
このコラムは、「選挙が政治家の生き残り競争に終始したら、私たちは何を選べばいいか。個々の政治家の生き方に票を投じたらどうだろう。」という趣旨なのだが、その本論の方は面白くもおかしくもない。しかし、アベと小池の、こんなできすぎたエピソードがよく耳にはいってくるものだと感心せざるを得ない。
同じページの「みんなの広場」(投書欄)の4通の投書がみな読むに値する。うち3通は、アベ・小池のエピソードに関連する。中でも、「翼賛政治再来のような混乱」(無職・中村千代子・奈良市)が、アベ・小池を忌避して野党共闘にエールを送ろうという立場。スジが通って爽やかである。
大義なき衆院解散への怒りもどこへやら、連日メディアが取り上げる「希望の党」の動向が気になって仕方がない。綱領も抽象的で組織体制も確立していない新党に公認申請するため、政治信条をリセットし、踏み絵を踏まされた前議員らには怒りを通り越し、哀れささえ感じる。
「小池人気」にあやかろうと新党に吸い込まれるように群がる政党と前議員たち。戦後72年の今、翼賛政治再来を思わせる政党政治の混乱、未熟、堕落を目にするとは思ってもみなかった。この新党は現政権との対立軸を掲げるが、政党の核でもある安全保障・憲法観が自民党と変わらない。補完勢力ではなく、れっきとした“別動隊”だ。
安保法制や「共謀罪」法の廃止を求めて市民団体と野党が築いてきた連携が新党設立で崩れるのではとの不安もあった。しかし暮らしの中での怒りや苦しみを政治の変革に求めて運動する市民と野党共闘の取り組みは揺らいでいないと思う。エールを送りたい。
メディアが作りあげる、「アベ・自民 対 小池・希望」の対立構図。確かにおもしろおかしいが、この構図の強調は「暮らしの中での怒りや苦しみを政治の変革に求めて運動する市民と野党共闘」勢力の存在を埋没させ、視野の外に追い出しかねない。
投書者が指摘するとおり、「アベ・自民」と「小池・希望」とは、政党の核である安全保障政策や憲法観において変わるところがない。希望は、れっきとした自民の“別動隊”なのだ。にもかかわらず、「アベ・自民か、小池・希望か」の構図だけを前面に出して保守2党しか選択肢を示さないとすれば、これは翼賛体制というほかない。指摘のとおり、「翼賛政治再来を思わせる政党政治の混乱、未熟、堕落」の事態である。この投書子のような良識に期待したい。
もう一つ。「『恥なし議員』に任せられない」(無職・松崎準一・68・堺市)も紹介しておきたい。
…日本を取り巻く国際情勢には確かに不安を覚える。きちんと国民を守り、各種の問題を確実に解決してもらいたい。ところが、不信感を払拭することもせず、「記憶にない」「記録は処分した」などとごまかしに力を注ぐありさまだ。恥ずかしげもなく、こんな振る舞いをする人たちに政治を任せたくない。今回はそのための選挙だと思う。
テレビなどのマスコミは「森友・加計」隠しの解散と批判しながら、関係が指摘された政治家を番組に呼んでも、司会者や評論家らは突っ込んで追及しない。不思議だ。“選挙劇場”として楽しんでいるだけではないだろうか。
まったくそのとおりだ。選挙戦を他人の“選挙劇場”として楽しんでいてはならない。自分たちの運命を自らが決する選択という自覚をもたなくてはならない。この社会がどうあるべきかについて、一人ひとりが責任を持たねばならないのだ。伊藤が紹介する、アベや小池のごとき無責任政治家の党に投票してはなない。
(2017年10月8日)