この薄汚い手口は「改憲クーデター」ではないか
内閣法制局長官に外務省から小松一郎氏起用という異例の人事は、昨日(8月8日)の閣議で本決まりとなった。発令は、今月20日の予定という。小松氏は、第一次安倍内閣で安保法制懇の事務方を務めた人物。「法制局長官の首のすげ替えによる集団的自衛権容認への解釈変更」という、薄汚い解釈改憲「手口」の工程がいよいよ始動である。
この安倍流「手口」のうす汚さは際立っている。先に、96条先行改憲論では、「本末転倒」「姑息」との批判噴出で、安倍も譲歩を余儀なくされた。心強いのは、その運動の過程で、国民もメディアも立憲主義や憲法が硬性であることの意味について学んだことだ。ならば、96条改憲にもまして遙かに汚い今回の「手口」を、学びの成果を踏まえた国民運動で挫折させ、再度安倍の意図を封じることができないはずはない。
96条先行改憲論に対する「本末転倒」「姑息」という批判は、今回の「手口」に対するものとしては生温く不適切と言わざるを得ない。本日の赤旗に躍った見出しは「改憲クーデター」であり、「裏口改憲」である。朝日には、「解釈改憲は邪道」。そして、毎日のインタビュー記事の中から、「法治ではなくて人治だ」という指摘。
9条改憲の手続には、96条所定の改憲手続に則った発議と国民投票が必要とされている。これが憲法改正の正道であり、表口の攻防でもある。しかし、その困難なことは、誰の目にも明らかだ。そこで、まず96条を先行改憲して改憲手続のハードルを下げておいての改憲が試みられた。安倍自民と橋下維新との合作の「手口」である。ところが、「本末転倒」「姑息」と大きな批判を浴びて撤退を余儀なくされている。次の手口は、国家安全保障基本法制定による「立法改憲」である。これで、憲法9条を事実上死文化させることができるという思惑。しかし、これだって衆参両議院での論戦と各議院過半数の賛成を得なければならない。ところが、法制局長官の首のすげ替えでこれまでの憲法解釈を変えてしまうことによる実質改憲は、国会の承認すら不必要。内閣限りで可能なことなのだ。
各議院の3分の2も、国民投票の過半数も、そして議会過半数の議決すら不要にしての「内閣限りでの実質9条改憲」は、まさしく「改憲クーデター」であり、「邪道」と言わざるを得ない。表口を避けた「裏口改憲」でもあり、安倍と小松による「人治」でもある。うまい手というよりは、この上ないあきれた薄汚い「手口」。しかも、危険極まる。「改憲クーデター」「裏口改憲」「邪道」「人治」。いずれも本質を衝いて批判のネーミングとして素晴らしい。著作権などはありえない。みんなで大いに使って、これをはやらせよう。
ところで、ときに硬骨漢に出会う。大言壮語はしないが、節を曲げず、理不尽には昂然と顔を上げてものを言う。敢えて、火中の栗を拾うことを厭わないその姿勢が清々しい。
本日の朝日と毎日両紙に、阪田雅裕元内閣法制局長官のインタビュー記事が掲載されている。言葉は穏やかだが、内閣法制局の憲法解釈の見直しの動きを真っ向批判する内容の発言。朝日では、集団的自衛権の行使容認と9条2項の整合性について、「憲法全体をどうひっくり返してもその余地がない」と言っている。毎日でも、「集団的自衛権を認めると、9条の意味がなくなる。国民の考える平和主義と整合するか疑問」と言う。
本質的な批判であって、しかも分かりやすく、徹底している。「元法制局長官」の発言として、このインパクトは大きい。
朝日の記事の末尾に次の阪田氏発言がある。
??法制局は首相の意向に沿って新たな解釈を考えざるを得ないのでは?
「そうですね。僕らも歴代内閣も全否定される」
さもありなん。それでよかろうはずはない。阪田氏だけではなく、他の歴代長官も、歴代総理もそれぞれに発言あってしかるべきではないか。なにしろ、この「改憲クーデター」によって、「僕らも歴代内閣も全否定される」ことになるのだから。
****************************************************************************
『セミの声』
いま、ニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミが我がちに鳴いてうるさいこと限りがない。暑さをいっそうかき立てるように、ジージーという声とミーンミーンという声が混ざり合って、ひっきりなしに聞こえる。夜中にだって、網戸に取り付いて鳴いている。窓のすぐそばの枝にミンミンが止まって鳴き始めると最悪だ。7日間の短い命に対する哀れ心はなくなって、思わず「うるさい」と怒鳴って木を揺すって追い払う。
どうしてあの小さな体から、あんな大きな声が出るんだろう。それより、何のために必死に鳴くのか。ファーブル大先生も興味をかき立てられた。「それはつれを招き寄せる雄の訴えであり、恋い焦がれるもののカンタータであると」いう説には納得できない、と言っている。プラタナスの幹に雄と雌がたくさん集まって樹液を吸っているときに、大音声で鳴く雄の歌はまったく雌を魅了しない。「求婚者のあのひっきりなしの告白は、何の足しにもならない」。
そこで実験をしてみた。セミが止まって鳴いているプラタナスの木の下で、村役場の大砲をぶっ放したのだ。「上の方では何の騒ぎも起こらない。演奏者の数は同じであり、律動も同じであり、音量も同じである。・・強大な爆音もセミの歌に何の変化も起こさなかった」「発砲に少しも驚かず、動ずることもない、このオーケストラの変わらぬ態度をどう見たらよいのか。セミは耳が聞こえないのであると推論したものであろうか」。結局「もしも誰かが、セミはただ生きていると感じる喜びのためだけに、その音を立てる機関を動かすのであって、自分の出す音には無頓着だ、ちょうど我々が満足しているときに両手をすりあわせるのと同じである、と主張したとしても私は別に反対はしないであろう」とあきれている。
雄の耳が聞こえないなら、雌の耳にも恋の歌は届くはずはなく、ただただはた迷惑も考えず、生を謳歌しているだけなのだろうか。ファーブル先生にも解けない謎はある。
そして、ファーブル先生も知らないことはある。「素数ゼミ」のことだ。アメリカには、北部に17年ゼミ、南部に13年ゼミが生息する。幼虫として各々17年、13年のあいだ、土の中で過ごす、一番長生きな昆虫だ。2種類のセミが一緒に羽化するのは、17×13=221年に一回しかない仕組みになっている。今年は17年前の1996年に17年ゼミが発生した北部の町(地域)が、セミだらけになる。何十億匹のセミが羽化して、7日間の生を楽しむ。木の下にうっかり立っていれば、セミのオシッコでびしょ濡れになる。一斉に鳴くとジェット機の爆音のようだという。でもその町の住人は、一生に何回も会えない風物詩として、楽しみにしているらしい。
いたるところを埋め尽くすセミは鳥やネズミの餌になるだけではなく、人間様のおなかにもおさまる。幼虫はフライパンで蓋をして、バターで煎って、ポップコーンになる。ある昆虫学者は「セミはステーキより高タンパクで低脂肪でおいしい」と絶賛している。セミをコーティングしたチョコレート菓子も期間限定で売り出される。
うちの庭のセミは7年ゼミで毎年毎年はやけてくるので、ありがたみが薄い。今度は、「あんまりうるさいと食っちゃうぞ」と言ってみようか。
(2013年8月9日)