澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

代替わりの宗教行事は天皇家の私事だ。けっして、国家行事としてはならない。

遠い神代の昔のことだ。高天原という神々の世界があった。その高天原には八百万の神々がおったが、ここも階級社会じゃった。エライ神もあり、えらくないも神もあって、いろいろでな。その神々のトップが、アマテラスという太陽の神で、この神は女性であったという。

この女神様、やや情緒不安定なところがあってな。弟のスサノオの乱暴に取り乱して、引きこもってしまわれた。その引きこもり先が天岩戸というところじゃった。アマテラスが天岩戸に引きこもると、世に陽の光が失われて真っ暗になってしまったという。神の住む高天原だけでなく、人の住む葦原中国までもだ。日照がなくなれば農業は壊滅だ。当然、みんな困った。

あわてた多くの神々が天安河原で臨時の集会を開いて善後策を協議した。アマテラスといえば高天原のリーダーだ。そのリーダーに使命感のないことが露呈したのだから、「アマテラス糺弾」「リーダー失格」の意見も出たはずだが、議事録は隠蔽され、後世には廃棄されて残っていない。伝えられているのは、堅固な天岩戸の岩盤をこじ開けて引きこもりのアマテラスを実力で外に連れ出した作戦の成功だけだ。

と言って、ドリルが用意されたのではない。この作戦のために、鏡と勾玉が作られた。賢木を根ごと掘り起こし、枝に勾玉と鏡とを懸けて真榊として飾った。岩戸の前に舞台装置ができあがると、アメノウズメが、いかがわしいダンスを披露して、座を盛り上げる。その周りで神々がヤンヤの大騒ぎ。天岩戸の中のアマテラスはいぶかしんだ。「外は真っ暗でみんな困ってると思ってたら、楽しそうにはしゃいでいるみたい。何で?」と、岩戸の扉を少しだけ開けて外を見た。

これに外から語りかける。「あなたより貴い神が現れましたので、みんな喜んでいるのです」。「えー。うっそー。そんなことありえないじゃん」「いいえ、ウソではありません。これをご覧ください」。差し出された鏡に映った自分の姿を見たアマテラス。「これが新たに現れたというライバルか。なんだ、大したものではなさそうじゃん。だけどもっとよく見せて」と、岩戸を開けて身を乗り出そうとしたところを、隠れていた力自慢のタヂカラオがその手をむんずとつかんで岩戸の外へ引きずり出した。で、世は再び、明るくなったそうな。

ところで、乱暴者のスサノオは高天原を追放されてな、出雲の国に降った。そして、その地を荒らしていた怪物八岐大蛇を退治する。前科のあるムチャクチャな乱暴者が、一躍ヒーローになった。退治した大蛇の尻尾から一振りの剣が出てきたとされておる。

天岩戸神話に出てくる鏡と勾玉、スサノオ神話に出てくる剣。この三つが、今度は天孫降臨神話に顔を出す。アマテラスは、記念にとっておいた鏡と勾玉の埃を払い、弟から取り上げた剣の錆を落として三品を揃え、「天壌無窮の神勅」とともにこれを孫のニニギの門出に贈ったのだ。これが、皇位のシンボルとされる、三種の神器の謂われだ。こうして、三種の神器は万世一系の皇位を支える「天壌無窮の神勅」とセットになり、国体イデオロギーを可視化するシンボルとなった。

周知のとおり、高天原から降臨したニニギの末裔が、初代天皇の神武。高千穂山麓から「悪者たち」を切り従えつつ東征して、大和橿原の地で皇位に就いたとされる。以来、万世一系の皇位が当代まで125代継承されていることになっている。三種の神器も常に皇位とともにあったと語り伝えられている。

何しろ、「王家」の物語である。これを記述する文書課の公務員は、王に忖度を重ねなければならない。王の権威を盛るために、やたらにカッコウをつけて難しく、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)などと名付けた。ネーミングにさしたる意味はないが、剣は武力の、鏡は宗教的権威の、勾玉は経済力の象徴として分かり易い。この3者が王権成立の3要素だったのだろうから。

「昔話しはこれでお終い」とはならないところがチト面倒なのだ。来年(2019年)の天皇の代替わり行事に、以上の神話が大きく関わってくる。

代替わり行事として、まずは「剣璽等承継の儀」なるものが予定されている。「剣・璽」とは、神器のうちの剣と勾玉のこと。「等」とは、国璽と御璽を指す。

古来、「剣」と[璽]は常時天皇の側に置かれていたという。オバマやトランプの来日時、核のボタンの入ったトランクを持参していることが話題になった。核大国の核戦力を掌握している人物であることの象徴である。世界を威嚇しつつ、移動しているのだ。「剣」と[璽]の持参も同じ発想。こちらはもう少し年期が入って、イデオロギー誘導装置として精巧なものとなっている。

天皇の「代替わり」にあたって、この「剣」と「璽」とを、前天皇から新天皇へ移す儀式が、戦前の「登極令」における「剣璽渡御の儀」。これに「国璽」(国印)と「御璽」(天皇印)を加えて「剣璽等承継の儀」。

結局のところ、「剣」と「璽」との承継は一面神話の再確認にほかならない。これは、信仰の世界の物語り。世界は神が7日で作りたもうた。イブはアダムのあばらぼねから生まれた。当然に信仰は自由である。しかし、信仰は飽くまでも私事の世界。天皇も、純粋に私事として行うべきであって、天皇の国事行為や国家行事として行ってはならない。のみならず、三種の神器の神話が天壌無窮神勅とセットになっていることが最大の問題である。天皇制を基礎づけるすべての神話・信仰は、公権力と関わりを持ってはならない。これが、日本国憲法が定める政教分離の神髄である。

天皇は敗戦後いち早く、自ら「人間宣言」をした。自らは神ではなく、自らを神とする法や政治や制度と一切の関わりをもたないことで、その地位を保持したのだ。目本国憲法は天皇の政治的権能のすべてを剥奪し、再び神に戻さない歯止めとして政教分離の規定をおいたのだ。時代を旧に復してはならない。代替わり儀式における天皇再神格化のたくらみを許してはならない。

おとぎ話だから目くじら立てるほどでもない、なんて暢気なことを言っているうちに、天皇制が国政にも社会意識にも食い込んでくる。天皇の権威を利用した施策が当たり前になってくる。日の丸も、君が代も、元号も逆らえないようになってくる。これに徹底して抗わねばならないと思う。主権者国民が天皇制の呪縛から自らを解き放ち、自律性・主体性を自覚的に獲得するチャンスではないか。
(2018年7月22日)

戦前の神社参拝強制と、いまここにある「日の丸・君が代」強制と

みなさま、「おしつけないで 6.30リバティ・デモ」にご参加ください。

私たちの主張は、「日の丸・君が代」反対ではなく、「日の丸・君が代強制」に反対なのです。「日の丸・君が代」が大切で大好きだという方のなかにも、「強制はよくない」と言ってくださる方は大勢います。思想や良心のあり方についての強制のない、みんながのびやかに生きることのできる社会を目指して、 「君が代」の強制と処分をはねかえすために、ご一緒にデモに参加していただけませんか。

私たちは、主張します。

「国旗・国歌」にどのような考えをもとうと自由であること、
「国を愛する」気持ちを押しつけることはできないということ、
学校に自由を取り戻したいということ、を。

この思いを広く訴えるために、私たち「君が代」裁判4次訴訟原告有志はデモを企画しました。歌ったり、踊ったり、シュプレヒコールをあげたり…。思い思いのスタイルで楽しく渋谷の町を歩こうと思っています。6月30日は“鳴り物”などを持ってお集まりください。

私たちと一緒に楽しく歩きましょう

… … … … … … … …

日時 6月30日(土曜日)
集会 18時半~ ウィメンズプラザ・視聴覚室
(表参道・青山学院大学前)
報告 澤藤統一郎(弁護士)「4次訴訟の現段階」
デモ 原宿・渋谷を歩く予定
主催 おしつけないで! 6・30リバティ・デモ実行委員会

下記のチラシをご覧ください。

リバティデモチラ
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このリバティデモ出発前の集会では、私が報告する。テーマは、「4次訴訟の現段階」。いま、東京「君が代」裁判(懲戒処分取消等請求訴訟)4次訴訟は、東京高裁で半分勝ち半分負けて13人が上告している。7月6日までに上告理由書を提出しなければならない。いま、弁護団は必死になって、この上告理由を執筆している。

以下に、お読みいただいて分かり易く面白そうなところをピックアップしてご紹介したい。「原判決(東京高裁第12民事部(杉原則之裁判長)2018年4月18日)には、憲法20条(信教の自由保障条項)解釈の誤りがある」とする上告理由中の一節。但し、引用がすべて原文のとおりではない。

1 原判決における、信教の自由侵害の主張を排斥する説示の中心部分は、「卒業式等における国歌斉唱時の起立斉唱は,‥一般的,客観的に見て,儀式的行事における儀礼的所作に当たる行為であり,それを超えて,宗教的意味合いを持つ行為であるということはできない」「卒業式等における起立斉唱等は,儀式的行事における学校職員という社会的な立場にある者としての行動にすぎず,本件通達及び本件各職務命令が,クリスチャンである教員らの信仰を否定したり,その信仰の有無について告白を強要したりするものであるということはできない」「クリスチャンである教員らが信仰者としての本心においてはなしがたい外部的行動を求められることとなり,その限りにおいて,その信教の自由についての間接的な制約となる面があるとしても,10・23通達及び本件各職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に衡量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」という簡明なものである。

2 以上の原判決の説示における「論理」は、わが国の憲法史を学んだ者にとって、大日本帝国憲法時代における天皇制政府が信教の自由侵害を糊塗したロジックの引き写しであることが一見明白である。
大日本帝国憲法28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」と規定した。
この条文によって曲がりなりにも「信教ノ自由ヲ有ス」るはずの「日本臣民」は、その実態において神社参拝や宮城遙拝を強制された。とりわけ、学校ではあからさまな公権力による宗教行事への参加強制がまかり通っていた。
その事態は、法治主義が無視され蹂躙された結果ではない。形骸としての法治主義は貫徹されたが、憲法の歪んだ解釈によって実質的に信教の自由侵害がもたらされたのである。
今、日本国憲法下にあって、裁判所のロジックが戦前と同様の過ちを繰り返そうとしている。

3 天皇制下の戦前といえども、国民に対する国家神道行事への参加強制は、その実質において旧憲法28条で保障された「信教ノ自由」の侵害にあたることに疑いの余地はない。これを、形式における合憲性を取り繕う論理として編み出されたのが、(1)「神社は宗教に非ず」とする神社非宗教論であり、(2)宮城遙拝や神社参拝は「臣民タルノ義務」であるとする、両様の公権解釈であった。
神社非宗教論は、公権力が宗教を恣意的に定義することによって、「信教の自由」の外延を限定する論法である。天皇制政府とその忠実な吏員とは、「神道には創始者がいない」「神道は教義の体系をもたない」「単なる自然崇拝である」「祖先の祀りに過ぎない」‥、等々の「宗教であるための必須の諸条件」を欠くことをあげつらって、神社や神道の宗教性を否定し、神道行事への国民の参加強制を信教の自由侵害とは無関係なものとした。
今日振り返って、神社非宗教論の「法論理」には、次の2点の問題性の認識が重要である。
その一は、公権力がいかようにも宗教を定義できるという考え方の問題性である。周知のとおり、信教の自由は各国の憲法史において自由権的基本権のカタログの筆頭に位置してきた。個人の精神生活の自由を公権力の掣肘から解放するための基本的人権概念の内実を、公権力の恣意的な宗教の定義によって権力が許容可能な範囲にまで切り縮めうるとの考えは、厳しく批判されなければならない。
にもかかわらず今、裁判所による「一般的,客観的に見て」という奇妙なキーワードが、信教の自由の外延を制限的に画する役割を果たしている。裁判所が、国民に強制される行為の宗教性の有無を「一般的,客観的に見て」と多数者の視点をもって切り縮めて判断することは、その判断によって信教の自由を侵害される少数者の立場からは、神社非宗教論と同様の誤りなのである。
その二は、「非宗教的行為については、国家が国民に強制しても、強制される国民の信教の自由に抵触するものではありえない」とする考え方(ドグマ)の問題性である。
かつては、神社参拝も宮城遙拝も非宗教的行為である以上、いかなる信仰をもつ者に対する関係においても、その強制が信教の自由を侵害するものではない、とされた。その天皇制政府と同様の思考のあり方が原判決の説示を貫いている。「日の丸・君が代は非宗教的存在であり、それへの敬意の表明行為に宗教性はない」「それ故、起立・斉唱(日の丸に正対して起立し君が代を斉唱すること)の強制が被強制者の信教の自由を害することはない」というドグマである。
しかし、非宗教的行為の強制が、特定の信仰者の信仰に抵触してその信教の自由を侵害することは、神戸高専剣道受講強制拒否事件最高裁判決を引用するまでもなく当然にありうることであって、原判決には信教の自由のなんたるかについて真摯に思いをいたした形跡を見出しがたい。

4 神社参拝や宮城遙拝の強制を合理化するもう一つの公権解釈における論法が、これを信教の自由にかかわる範疇からはずすだけでなく、「臣民タルノ義務」の範疇に属せしめるものである。
大日本帝国憲法(1889年制定)での「臣民ノ義務」は兵役の義務(20条)・納税の義務(21条)の二つであったが、教育勅語の発布(1890年)によって教育の義務が加わって、「臣民の三大義務」とされた。28条の「臣民タルノ義務」は、当初はこの「臣民の二大義務」ないしは「三大義務」を指すものであったが後に拡大して解釈されるようになった。
神社非宗教論だけでは、信教の自由を保障されたはずの国民に対する神社参拝強制を合理化するロジックとしては不完全であることを免れない。前述のとおり、非宗教的行為の強制が、特定の信仰をもつ者に対する関係ではその信仰を侵害することがありうるからである。神社の宗教性を否定しただけでは、「神社が宗教であろうとなかろうと、自分の信仰は自分の神以外のものへの尊崇の念の表明を許さない」とする者の信教の自由を否定する論拠としては不十分なのである。
天皇制政府の公権解釈は、神社参拝を「臣民タルノ義務」の範疇に属するものとすることでこの点を解決した。神社参拝の強制を自分の信仰に抵触するものとして服従しがたいとする者にも、臣民としての義務である以上は、信教の自由侵害を理由とする免除は許されないとして、強制を可能とするロジックが一応は完結することとなった。

5 著名な具体的事例として、上智大学学生の靖国神社参拝強制拒否事件の顛末を追うことで、この点の理解が可能である。
  「1931(昭和6)年9月の満州事変の勃発を境に、国内の思想言論の統制は加速度的に強化され、国家神道はファシズム的国教へと最後の展開をとげることになった。
  神社対宗教の緊張関係は、国家神道の高揚期を迎えて、様相を一変した。満州事変勃発の翌1932(昭和7)年4月、靖国神社では、「上海事変」等の戦没者を合祀する臨時大祭が挙行され、東京の各学校の学生生徒が軍事教官に引率されて参拝した。そのさい、カトリック系の上智大学では、一部の学生が信仰上の理由で参拝を拒否した。文部省と軍当局は事態を重視し、とくに軍当局は、管轄下の靖国神社への参拝拒否であるため態度を硬化させ、同大学から配属将校を引き揚げることになった。軍との衝突は、大学の存立にかかわる重大問題であったから、大学側は、天主公教会(カトリック)東京教区長の名で、文部省にたいし、神社は宗教か否かについて、確固たる解釈を出してほしいむね申請した。カトリックとしては、神社がもし宗教であれば、教義上、礼拝することは許されない、というのが、申請の理由であった。文部省は内務省神社局と協議し、9月、天主公教会東京大司教あての文部次官回答「学生生徒児童ノ神社参拝ノ件」を発し、「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ、教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、此ノ場合ニ、学生生徒児童ノ団体カ要求セラルル敬礼ハ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との正式見解を示した。神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できないというのである。この次官回答によって、学校教育においてはもとより、全国民への神社参拝の強制が正当化されることになった。カトリックでは、神社は宗教ではないという理由で、信者の神社参拝を全面的に認め、国家神道と完全に妥協した。しかしプロテスタントでは、翌年、岐阜県大垣の美濃ミッションの信者が、家族の小学生の伊勢神宮参拝を拒否して、二回にわたって同市の市民大会で糾弾されるという事件がおこったのをはじめ、教職者、信者による神宮、神社の参拝拒否事件が続発した。」(村上重良「国家神道」岩波新書・200~201頁)
ここに紹介されている文部次官通達が述べるところは、学生生徒児童が要求される靖国神社の祭神に対する敬礼の宗教性を否定するにとどまらず、「教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」と明確に、臣民たるの義務の一環だとしている。神社参拝を非宗教行為の範疇に属するとしただけではなく、村上重良が指摘するとおり、「いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できない」としたものである。
  はからずも原判決は、このロジックとの相似の論理を骨格としている。「靖国神社」は「日の丸・君が代」に、「臣民タルノ義務」が「公務員としての義務」に置き換えられた。
  「神社は宗教にあらず」とされた如く、「日の丸・君が代には一般的客観的に宗教性はない」とされ、さらに原判決は「クリスチャン教員らが公務員である以上、いかなる宗教上の理由によっても、起立斉唱等を拒否できない」と駄目を押したのである。
(2018年6月19日)

盛岡の集会で、「建国記念の日」の危うさを語る。

本日(2月11日)は「建国記念の日」。盛岡で開かれた「2018 『建国記念の日』について考える県民のつどい」に招かれての講演。『岩手靖国違憲訴訟と安倍改憲』というのが演題。故郷・盛岡に、この日、このテーマで招いていただいたことがありがたい。

『建国記念の日』とは、まことに怪しい祝日。「国民の祝日に関する法律」それ自体が、まず怪しい。その第1条は、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける。」とある。読むだに気恥ずかしくなる文章ではないか。

取って付けたかのごとき、「自由と平和を求めてやまない日本国民」「美しい風習」「よりよき社会」「より豊かな生活」の美辞麗句。自由・平和といったいどんな関係があるのか、わけの分からない祝日の主旨説明が並ぶ。そのなかに、次の一節。

「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」

「建国記念の日」を2月11日と定めたのは、国会ではない。内閣が政令で定めたのだ。それにしても、「建国をしのび、国を愛する心を養う」ための祝日とは、いったいそりゃ何だ。「建国」「国を愛する」の国とはいったい何だ。本日は、日本という国家について思いをめぐらし、国の来し方行く末を考える日とすべきであろう。

国家とは、突然作られるものでも、できあがるものでもない。しかし、その存立の原理なり理念が転換することはある。アンシャンレジームを廃して自由・平等・友愛を基本理念とする市民革命勃発の日であれば「建国の日」にふさわしい。毛沢東が、「中華人民共和国成立了!」と宣言した、1949年10月1日も、まさしく「建国の日」あるいは「建国記念の日」であろう。

今の日本の「建国の日」にふさわしいのは、法的に戦前の旧天皇制国家からの訣別の日としてのポツダム宣言受諾の8月14日か、敗戦記念の日とされている8月15日、あるいは降伏文書調印の9月2日であろう。あるいは、新国家建設の、新たな原理と理念を確認した日本国憲法公布の11月3日か、憲法施行の5月3日。

あくまで、現行の国の仕組みと理念ができあがったことが「建国」でなくてはならない。だから、「建国をしのび」とは、天皇制国家の不合理と理不尽を清算するために、いかに過大な犠牲を必要としたかを思いめぐらせることなのだ。だから、「国を愛する」の国とは日本国憲法が定める国民主権原理に基づいて作られ、平和と人権をこよなく大切にする「国」のことである。その国を「愛する」とは、決して再び天皇主権や天皇を傀儡にして国政の壟断を許した旧体制に戻してはならない、富国強兵のスローガンで、軍国主義・侵略主義を謳歌した過去と厳しく訣別することと決意することだ。

2月11日は、神話の上の天皇制起源の日。しかも、神なる天皇が、神勅によってこの国の統治者となり、国民を臣民に宿命づけた日である。「建国記念の日」として、かくもふさわしからぬ日はない。12月8日よりも、7月7日よりも、9月18日よりも「悪い日」というほかはない。

「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」、建国記念の日には、「明治150年」のデマゴギーを語らねばならない。「明治150年」の始まりの明治維新とは王政復古による天皇制再構築であった。それによって、軍国主義・侵略主義の国家が作りあげられたのではないか。今ある、「国民主権の日本」とはまったく別物の、「神なる天皇の国」の「建国」を、「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、記念」してはならない。

かの「神なる天皇のしろしめす国」は、主権者天皇と臣民からできていた。国民は、民草でしかなかった。臣民一人ひとりに価値はなく、天皇に随順し、天皇のために死ぬことでその価値が認められるという、恐るべき靖国の思想が臣民に植えつけられた。我々は、今自立した主権者として、このようなマインドコントロールを排斥し得ているだろうか。臣民根性を捨て切れていないのではなかろうか。

だから、今日「建国記念の日」には、天皇制のマインドコントロールの恐ろしさを再確認して、「再び権力者に欺されない」「マインドコントロールを許さない」「天皇や天皇制の権威に恐れ入らない」「天皇や天皇制を批判する言論に萎縮しない」「奴隷根性も、臣民根性も払拭して自立した主権者となる」ことを確認し決意すべきなのだ。それこそが、「自由と平和を求めてやまない日本国民として、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」必要なことではないか。

本日、そのような視点から、岩手靖国違憲訴訟を語りたい。以下はそのレジメ。

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第1 岩手靖国違憲訴訟とその判決
1 岩手靖国違憲訴訟とは二つの(住民)訴訟
☆岩手靖国公式参拝違憲訴訟
天皇と内閣総理大臣の靖国公式参拝を求める県議会決議の違憲を問題に
原告(牧師・元教師) 被告(議長・県議40人)県が補助参加
☆岩手玉串料訴訟(県費からの玉串料支出違憲訴訟)
原告住民(多彩な市民) 被告(知事・福祉部長・厚生援護課長)県
(提訴の日が愛媛玉串料訴訟と同日)
2 政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めである。
国家に対して「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」
利用を許さないとする命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)
との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみていない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
3 運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
4 政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で)
5 岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆政教分離国家賠償訴訟の経験は、戦争法違憲訴訟に受け継がれている。
6 1983年夏の陣
原告側証人 村上重良・大江志乃夫・高柳信一
被告側証人 神野藤重申(靖国神社禰宜)
7 「最低・最悪」完敗の一審判決(1987年3月5日)から
「完勝」の仙台高裁控訴審判決(1991年1月10日)へ
☆ 天皇・首相の靖国公式参拝は違憲
☆ 県費からの玉串料支出は違憲
いずれも、目的効果基準に拠りつつ、これを厳格に適用しての違憲判断。
☆ 上告却下 特別抗告却下
第2 政教分離問題の本質をどうとらえたか
1 信教の自由の制度的保障規定⇒基本的人権(精神的自由権)に関わる問題
2 天皇を再び神にしてはならないとする規定⇒国民主権原理に関わる問題
3 軍国神社靖国と政権との癒着を禁じる規定⇒恒久平和主義に関わる問題
4  政教分離の「教」とは、「国家神道の残滓」であり、
「天皇の神聖性」鼓吹であり、国民精神を戦争に動員した「軍事的擬似宗教」  である。
5 政教分離は、憲法の根幹に関わる大原則。
自衛隊の海外派兵や自民党改憲論にからんで、
ますますその重要性を高めている。
第3 自民党改憲草案第20条との関わり
1項 信教の自由は、保障する。
国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを
強制されない。
3項 国及び地方自治体その他の公共団体は、
特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。
ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、
この限りでない。
☆自民党のホンネは、「社会的儀礼」又は「習俗的行為」として、
国や自治体の神道的行事を認めさせようというところにある。
自民党の憲法なし崩し策動に、一歩の譲歩もあってはならない。
第4 天皇退位と明治150年
否定されたはずの、天皇の権力や権威が、今旧に復そうとしている。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。

「日の丸・君が代」、元号、祝日、勲章・褒賞は、今の世に払拭しきれない神権天皇制の残滓である。天皇の権威にひれ伏す臣民根性を払拭して、主権者意識を確立しよう。
(2018年2月11日)

「明治150年」と靖国と、そしてアベ。

一昨日(1月22日)、第196通常国会での首相の施政方針演説の冒頭は、次の言葉だった。
「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。」

やれやれ。1868年の明治元年から数えて今年が「明治150年」。で、それがどうした? 明治で年を勘定することに、いったい何の意味があるというのだ?

アベシンゾ-ら右翼ご一統にとって、「取り戻すべき日本」とは大日本帝国憲法下の「明治の御代」なのであろう。明治維新の150年前こそは、誇るべき帝国が始まる記念すべき年なのだ。ふやけた民主主義の戦後70年とは、較べるもおろかということなのだ。

明治への改元は1868年10月23日(新暦)だが、その年の1月1日(旧暦)に遡って適用されることとされた。その明治元年は戊辰戦争で始まる。鳥羽伏見の戦いの開戦は、旧暦で1月3日のことだ。要するに。明治元年は内戦の年だ。この年、およそ1万人の戦死者が出ている。

同月6日徳川慶喜は、軍を残して大坂城を脱して12日に江戸城に入る。就任以来初めての江戸城入りであったそうだ。将が兵を捨てて、こっそりと逃げ帰ったのだ。かくて、徳川の世の終わりは誰の目にも明らかになったが、薩長軍は「玉」を手にして錦旗を掲げ、賊軍の血を求めて闘い続けた。その最大の戦闘が会津戦争だった。戊辰戦争の最中に、江戸城内で招魂祭が執り行われている。官軍の死者の霊だけをだけを招いて讃え鎮める儀式。これが靖国の源流になる。

150年前のこの年。まことに血なまぐさい動乱の時代であって、右往左往した人々は、美しくもなければ気高くもない。感動すべきなにものもなく、権謀術数渦巻く時代に、勝敗だけが明瞭だった。西南雄藩が幼帝を我がものに天下を壟断し、徳川家と奥羽越列藩は賊軍として逼塞を余儀なくされた。

この150年前の政治的対立の図式を今に留めているのが、靖国神社である。官軍の戦死者だけを祀る宗教的軍事施設として1869年に東京招魂社として建立され、1879年に靖国神社と改称した。あくまで官軍の施設であったから、その宗教思想は徹底した死者の差別である。自軍の戦死者の魂のみを、天皇への忠誠ゆえに尊い神として祀る。一方、敵軍たる賊側の死者を祀ることは決してない。

佛教には怨親平等という思想があり、永く日本の民衆に浸透していたとされる。日本の民衆は、蒙古軍の戦死者も篤く弔った。戦国の戦場でも、敵味方の区別なく戦死者は等しく葬られた。「死ねばみんな罪科のない仏」。これが日本の民衆の心情となり、そのように行動することが美風とされた。ところが、天皇の軍隊はちがった。官軍のみを手厚く神として祀り、賊軍の死者には埋葬さえ自由にさせなかったとされる。

会津戦争では、会津藩士側の死者は3000人に近いとされる。新政府軍は、その遺体の埋葬を許さなかったということが定説となっている。降伏から半年後の1869年2月に阿弥陀寺(同市七日町)に改葬されるまで遺体は野晒しだったとされ、それが新政府軍だった旧長州藩と感情的な溝をつくる要因の一つにもなっていた。

よく引かれるのは、太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』である。新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られるという。

足を踏んだ方は忘れても、踏まれた方はその痛みを忘れがたい。アベは、長州人として会津の痛みが分かるまい。会津の側は、決して忘れない。「不可逆的な解決」などはあり得ないのだ。

もっともごく最近になって、会津側の戦死者567人については、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかったと報じられている。「3000人が半年も野に晒されていた」という定説は、その限度であらためられなければならないようだが、史実の如何よりは、会津人を筆頭とする東北人の藩閥政治に対する反感の存在が問題なのだ。

アベ施政方針演説は、白虎隊の生き残りである山川健次郎に触れているが、山川も会津戦争戦没者遺体の埋葬が許されなかったと思い込んでいたはず。薩長閥政府への怨念やるかたないものをもっていたはずなのだ。

その会津の戦没者を賊軍として、官軍の英霊と差別する「軍事的宗教施設」が靖国神社である。戦前そのトップである宮司は歴代軍人がその地位を占めてきた。戦後、靖国神社が宗教法人に改組されて以来11代目の宮司に、なんと150年前の賊軍の将の末裔が就任した。

これが徳川康久(69)、その曾祖父が徳川慶喜だという。官軍神社のトップに賊軍の将の末裔。150年の長き間に、「官」と「賊」との恩讐は乗り越えられたか…。と思ったのは、束の間の幻。共同通信が、次の記事を配信している。

「靖国神社の徳川康久宮司が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日、分かった。」という。ニュースソースは、「同神社関係者が明らかにした。」とのみされ、宮司自らのリークではない。また、「定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している」というから、靖国神社に穏やかならざる雰囲気を感じさせる報道。なお、定年は75歳とのこと。あと6年を残しての「異例の退任」なのだ。

宮司退任の原因が、2年前のこれも共同通信のインタビュー記事にある模様。
この点は、「徳川幕府15代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀の動きを誘発した」と徳川氏を批判、波紋が広がっている。」と報じられていた。

宮司は共同通信インタビューで戊辰戦争に関してこう語ったという。
「幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗(みはた)を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」

この発言を受け、16年10月、亀井静香元金融担当相らが宮司に面会して、「西郷隆盛や会津白虎隊などの“賊軍”を合祀してほしい」を徳川氏に申し入れ、これが大ごとになった。亀井のこの行動に賛同したのは、石原慎太郎や中曽根康弘、石破茂など90人超だったという。

亀井によると、宮司は、「直ちにそういたします、とは言えません」との回答だったという。この対応について靖国神社元総務部長が「(明確に否定せず)合祀に含みを持たせた」などと反発した。

要するに、「靖国とは天皇の神社であり、官軍の神社なのだ。官と賊との区別を曖昧にすることは許されないのに、宮司たる者がなんたる発言」というわけだ。150年前創建当時の原理主義者と、150年目の復古主義者との角逐といってよかろう。そして、どうやら原理主義者、つまりは官軍派が賊軍の将の末裔に対する勝利を収めた如くなのだ。

明治は内戦で明けた。その内戦の確執は150年経ってもおさまっていない。靖国が内戦の死者の合祀施設から対外戦争の死者の合祀施設に基本性格を変えたとき、日本は天皇の権威と権力を最大限利用した軍国主義国家になっていた。明治150年とはそんな歴史である。こんなものを持ち上げてはならない。戦後の民主主義の歴史をこそ大切にしよう。日本国憲法制定以後70年余の国民主権の時代の積み重ねを誇りにしよう。
(2018年1月24日)

上野公園に見る「維新政府の不寛容」

日曜日の散歩コースは、いつも上野に。変わり映えせず芸のない話だが、季節季節に趣は大いに異なる。本日(1月7日)、風は冷たいが透きとおるような好天。見るものすべてが光っているような景色。

本郷通りを横切り、赤門から東大キャパンスにはいって鉄門から出る。岩崎邸の石積みを右に見ながら無縁坂を下って不忍池に。このところ池の畔に居着いているカワセミに見とれて、弁天堂から五條神社・上野大仏を経て噴水広場が終点。本日ここは、シャンシャン(香香)祭りの大にぎわい。

踵を返して王仁博士の碑に立ちより、2本のジュウガツザクラの満開を愛でる。その先が彰義隊を顕彰する「戦死之墓」と「上野戦争碑」。そして西郷隆盛像。150年前に闘った敗者と勝者が並んでいる。

意識的に「明治150年」を強調する風潮のなかで、彰義隊碑には特に事件後150年を意識させるものはなにもない。西郷隆盛像の近くには、NHK大河ドラマ「西郷どん」のポスターがあった。まあ、その程度。

ネットを検索すると、いろんなことが書き込まれている。「漢文石碑を読み歩く」というシーズの中に、「上野戦争碑記」として、その成り立ちが詳細に記されている。
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/ueno_sensou.html

以下その抜粋。
「明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した彰義隊と明治政府軍との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる阿部弘蔵(弘臧とも)が、上野戦争の経緯を記したもの。上野公園から見て東京国立博物館の裏手、寛永寺の境内に建っています。
  山崎有信『彰義隊戦史』(1904年)によると、阿部弘蔵は、上野戦争のときには数え年で20歳。いかにも当時の若い侍らしく、和漢の古典を学んだ上に西洋流の兵術も身に付けた、優秀な人材だったようです。わずか20歳なのに彰義隊の命名を任されたということは、文章の才でも一目置かれていたのでしょう。
 碑文の末尾にもあるように、弘蔵がこの文章を書いたのは、1874(明治7)年のこと。しかし、すぐに石碑を建てることはできませんでした。政府の許可が下りなかったのです。後に弘蔵の娘婿、松岡操がまとめた『寛永寺建碑始末』(1912年)では、その理由を「文字ニ不穏ナル点アリトイフヲ以テナリ」と推測しています。
  それから40年近く経った1911(明治44)年、こんどは松岡操たちが中心となって請願し、冒頭と末尾の240字ほどを削るなど文章にも手を加えて、ようやく石碑の建設にこぎ着けることができました。」

碑文の全体は余りに長い。しかし、最も関心を寄せるべきは、「削られた冒頭と末尾の240字ほど」である。その読み下し文と、現代語訳とを引用しておく。

【削除された冒頭部分】
明治の中興、百度、維(これ)新たなり。仁は海内遍く、沢枯骨に及ぶ。凡そ国事に死して功烈顕著なる者は、数百年の久しきを経と雖いえども、皆、封爵を追贈し、之を祀典に列す。又、嘗て譴(とがめ)を朝廷に得る者と雖も、過ちを悔い志を改むれば、則ち才を量りて登用し、復(また)旧罪を問わず。

 明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、その恩恵は亡くなった人々にまで施された。国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても、すべて爵位を追贈して、英霊を祀った。また、以前、朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用して、以後は一切、昔の罪を問題にはしていない。

而(しかる)に独り彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそう)を許されず。孤魂超然として依憑(いひょう)する所無し。嗟呼(ああ)、彼、豈(あに)叛臣賊子に甘んずる者ならんや。亦また各々忠を其の事(つかう)る所に尽くすのみ。世、或いは察せず、徒(ただ)成敗を視みて以て之を議するは、篤論(とくろん)に非あらざるなり。

 ところが、彰義隊に従って戦争で亡くなった者だけは、あのときに新政府軍に抵抗したという理由で、現在になっても簡単な葬儀さえ許されていない。見捨てられた魂はさまよって、きちんと成仏できないでいる。ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい、経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。

【削除された末尾部分】
余も亦た幸いに残喘(ざんぜん)を保ち、以て今日に至る。而(しか)れども彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る、悲しいかな。頃者(ちかごろ)、其の親しく睹(み)る所を追録し、之を石に勒(きざ)み、以て其の霊を慰む。亦た唯だ寃(えん)を天下後世に雪(すす)がんと欲するのみ。

 私もまた、幸いなことに生きながらえることができ、現在に至っている。しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこのたび、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。

「唯だ寃を天下後世に雪がんと欲するのみ」に関わる文章は、天皇制政府の許容するところとはならなかった。「死しての後はみな仏。敵も味方もありはせぬ」という日本古来の常識(むしろ、良識)は維新政府の採るところではなかった。官軍と賊軍とは、死して後も未来永劫に峻別され、賊軍が「雪冤」を述べることは許されないのだ。それこそが、150年を経て今なお変わらぬ靖国の思想である。

「明治150年」とは維新賛美であり、すなわち天皇制賛美でもある。天皇への忠誠は国民道徳の基本として刷り込まれ叩き込まれた。その反面、賊軍の死者は天皇への反逆ゆえに、死してなお鞭打たれ続けられねばならないのだ。「彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそうー粗末な葬儀)を許されず」「彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る」と、と嘆かざるを得ないのだ。

なお、1月5日毎日新聞「論点」が、「『明治150年』を考える」だった。
「今年は1868年の明治改元から150年。政府は『明治の精神に学び、日本の強みを再認識する』と記念行事を計画中だ。呼応するように保守層の一部から『明治の日』制定を求める動きも浮上している。近代日本の出発点となったとされる明治維新だが、維新称揚を『復古主義』と警戒する声も…。」というのがリード。そのリードのとおり、論者3人の見解がいずれも明快である。中でも、「寛容性のない国になった」と表題する、作家・原田伊織氏の論が傾聴に値する。その一部を抜粋しておきたい。

「長州出身の元老たちによる明治の『長州藩閥』政治は大正以降も今に至るまで『長州型』政治として日本の政治風土の中で続いている。特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。幕末に長州藩は孝明天皇や幼い明治天皇を担いで攘夷、倒幕の御旗として利用したが、明治以降はまさに『天皇原理主義』となり、国家を破滅に導いた。それ以前の日本には天皇を神聖化した『原理主義』などは存在しなかった。

もう一点は富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった財界とが癒着する社会を生み出したことだ。これが私が言う『長州型』政治である。明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのはただの偶然と思いたいが、戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜け切れなかった。

最大の問題は歴史の『検証』がほとんど行われなかったことだ。『明治維新至上主義者』である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、『それだけは違いますよ』と言いたい。どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬られ去ったか。その「過ち」の検証も反省もなく日本は2度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく業界との癒着がニュースになる。」

「明治150年」という今年、司馬遼太郎的史観を克服して、明治維新と天皇制維新政府に、批判の視点を持たねばならない。安倍晋三の「長州型」政治と対決しなければならない。維新政府の寛容性の欠如は「恩賜上野公園」の中にもよく見えるのだ。
(2018年1月7日)

アベシンゾーの「壊憲ことはじめ」

本日(1月4日)は、官庁の仕事始め。首相アベシンゾーは、さっそくの憲法違反ことはじめ。伊勢参拝と参拝後の年頭記者会見での発言と。

首相の伊勢神宮参拝は明らかな違憲行為である。
各メディアが報じるところによれば、安倍晋三首相は本日(1月4日)午後、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝した。どのように肩書記帳をしたか、公用車を使ったか、新幹線や近鉄の乗車料金は公費か私費か。メディアは関心事として報道していない。しかし、随行者を伴った参拝をし、直後に神宮司庁で総理記者会見までしているのだから、公的資格においての参拝であることは明らかで、憲法20条3項に定める政教分離違反と考えるしかない。

政教分離とは、「政」(公権力)と「教」(宗教)との癒着の禁止である。公権力との間に分離の壁を隔てることを要求される「教」とは、形式的には諸々の宗教一般であるが、実質的に日本国憲法が警戒するものは神道施設である。なかんずく、伊勢と靖国にほかならない。

かつて民族信仰として存在していた神社神道が、天皇崇拝の祭儀と結びついて、国家神道となった。正確に言えば、明治政府によって拵え上げられた。国家神道とは、天皇を神の子孫であるとともに現人神として崇敬し、かつ天皇を神の司祭とする「天皇教」をいう。

幕末、「天皇教」は一握りの為政者のイデオロギーに過ぎなかったが、150年前に維新政府ができたとき、臣民意識の教導の有用な道具として徹底して活用された。為政者が創出した信仰だから、為政者自身が信仰心を持っていたわけではない。しかし、天皇を神として崇拝すべきことは、学校と軍隊を通じて臣民に叩き込まれ、人格を支配した。こうすることで、対内的な統合作用を形成するとともに、対外的には選民意識、排外主義の涵養に重要な役割を果たした。

敗戦によって、ようやくにして日本は神の国から普通の国になった。天皇教の信徒であった臣民は解放されて主権者となった。しかし、天皇教の祭神であり教主であった天皇は天皇のまま生き残った。76年もの間、天皇制権力が臣民に叩き込んだ天皇崇敬の念は容易に消えず、再度天皇が神の位置に戻らぬとも限らないと懸念された。

この懸念に歯止めを掛けた装置が日本国憲法の政教分離規定である。従って、公権力が、近づいてはならぬとされるのは、何よりも天皇の神社なのである。その代表格が、アマテラスを祭神とする天津神社の筆頭である伊勢であり、天皇の軍隊の戦死者を祭神とする軍国神社靖国なのだ。

いうまでもなく伊勢は天皇の祖先神を祭神とする神宮として神社群の本宗の位置を占めている。公権力は、他のどんな宗教施設よりも、伊勢と癒着してはならない。本日のアベの伊勢詣では、違憲のことはじめなのである。

歴代首相による新春の参拝は毎年恒例とも報じられているが、漫然と違憲行為が積み重ねられているということに過ぎない。ならぬものはならぬのであり、違憲はあくまで違憲である。

なお、参拝には、野田聖子総務相や林芳正文部科学相、世耕弘成経済産業相らとともに、話題の加藤勝信厚生労働相も随行したという。加藤勝信の厚労相就任は、アベのオトモダチ人事の典型だが、大型消費者被害をもたらしたジャパンライフ事件のフィクサーとして今年のアベ政権の「顔」になるはずの人物である。

そして、2つ目の壊憲行為は伊勢での年頭記者会見における発言の内容である。
官邸のホームページに、本日(1月4日)の「安倍内閣総理大臣年頭記者会見」における発言内容が掲載されている。
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0104kaiken.html

まず、【安倍総理冒頭発言】がある。アベ個人ではなく、自民党総裁としての発言ではない。明らかに、総理としての発言。これがかなり長い。

最後の方に、唐突に不思議なパラグラフが出て来る。
「この国の形、理想の姿を示すものは憲法であります。戌年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法の在るべき姿を国民にしっかりと提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。自由民主党総裁として、私はそのような1年にしたいと考えております。」

取って付けたかのごとき「憲法改正」への言及。ところが、これが「自由民主党総裁として」の発言ということにされてしまう。総理年頭記者会見を改憲宣伝の場にしてはならない。

憲法への言及は「憲法改正に向けた議論を深めていく」というだけ。人権や民主主義や国際平和や、生存権や平等について行政府の長としてしっかり憲法を遵守するという話は出て来ないのだ。

質疑応答は少しも面白くない。切り込むところがない。それでも、アベはこんなことを言っている。

「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものであります。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の基本理念は今後も変わることはありません。その上で、時代の変化に応じ、国の形、在り方を考える、議論するのは当然のことだろうと思います。大いに議論すべきだと考えています。
  そこで私は、昨年の5月、それまで停滞していた議論の活性化を図るために一石を投じました。事実、その後、党内での議論は活発になったと思います。具体的な検討は党に全てお任せしたいと考えています。」

心得違いも甚だしい。「時代の変化に応じ国の形、あり方を考える議論をするのは当然のこと」ではない。憲法は、主権者から公権力を預かる者に対する命令なのだから、首相アベは憲法の枠内でしか動いてはならない。それが憲法99条が明示する公務員の憲法尊重擁護義務というものだ。憲法改正の発議を首相がする権限はない。改正論議を呼びかけるのも越権だ。改憲発議は、国民の意向を受けた国会がするものではないか。

首相として、憲法遵守の発言なく、改憲にのみ言及した本日の伊勢での年頭記者会見。新年からアベ発言には憲法を粗略にする驕りが見える。それを許している国民の側に緩みが見える。気をつけよう、アベ改憲と暗い道。気を緩めてはならない。
(2018年1月4日)

「安倍靖国参拝違憲訴訟・関西」最高裁判決について

まずは、以下の「抗議声明」をお読みいただきたい。

「2017年12月20日、最高裁判所第二小法廷は安倍首相靖国参拝違憲訴訟において、不当な上告棄却(および上告不受理)決定を下した。

 そもそも本件参拝は、憲法第20条に明確に禁止されている国家機関(内閣総理大臣)による宗教活動であることは明らかである。また、違法な参拝を受け入れた靖国神社は戦没者を英霊と意味づけることによって国民に対して英霊につづいて国と天皇のために命をささげることを促す戦争準備施設であり、そのことは、被告靖国神社自身が『靖国神社社憲』などで明確に認めていることである。したがって、本件参拝は原告(控訴人)らの内心の自由形成の権利・回顧祭祀に関する自己決定権などを侵害するのみならず、平和的生存権を侵していることも明らかである。本件参拝は、けっして「人が神社に参拝する行為」一般に解消できるものではない。

1981年4月22日に行われた靖国神社の例大祭に対して愛媛県は5000円の玉ぐし料を支出した。支出だけで、知事が東京に出向き例大祭に参拝したわけではない。この件に対して最高裁大法廷は1997年4月2日疑問の余地のない違憲判決を下した。わずか5000円の支出が憲法第89条が禁止する宗教団体への援助になるとしたのではない。県が靖国神社を特別扱いしたことが知れ渡ることが援助になると判断したのである。首相の参拝となれば、この「援助」は絶大である。このことは、本件を審理した地裁・高裁の裁判官も当然熟知している。すなわち、本件参拝はどう考えても違憲というほかはないことを彼らは熟知している。この、愛媛玉ぐし料訴訟最高裁判決に際して尾崎行信裁判官が「今日の滴る細流がたちまち荒れ狂う激流となる」という警句を以て違憲行為の早目の阻止を示したことや、小泉靖国参拝違憲訴訟福岡地裁判決において亀川清長裁判官が、違憲性の判断回避は行政の違憲行為を放置することになるからとして「当裁判所は、本件参拝の違憲性を判断することを自らの責務と考え」るとしたような憲法擁護の責務を果たす気概は現在の司法には存在しないのだろうか。

本件に対する地裁及び高裁の判決は、それでも屁理屈の理由を付している。最高裁第二小法廷はそれさえしないのである。大阪地裁及び高裁で安倍首相に対する忖度の理屈をこねる役割を担わされた裁判官たちは、最高裁第二小法廷の山本庸幸裁判長らをうらやましく思っていることだろう。そして、どんな明白な証拠が出てきても、忖度を重ね、しらを切り通せば、国税庁長官や最高裁判事に「出世」できると学んだことであろう。

われわれは、こうした日本の行政と司法の現状に怒りを超えて深い悲しみを覚える。
われわれは、この決定を到底容認することはできない。これに対して、強く抗議するとともに、戦争を志向し人権を侵害する行為を見逃さない司法が確立し、今後、閣僚らの靖国参拝が永遠にとどめられるまで、闘いをやめないことを宣言する。

 2017年12月22日
安倍靖国参拝違憲訴訟の会・関西訴訟団
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 安倍晋三が首相として靖国神社を参拝したのは、2013年12月26日、第2次安倍内閣発足後1年を経てのことである。彼は、礼装し公用車を使って靖国に向かい、「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳して、正式に昇殿参拝している。靖国側も私人安倍晋三として接遇したわけではない。これを私的参拝だから政教分離則に反しないというのは、黒いカラスを白い鷺と言いはるほどの無理があろう。

 要するに、首相としての安倍晋三が靖国という軍国主義を象徴する宗教施設に参拝したことが憲法の政教分離原則に反することは明らかなことなのだ。最高裁は、厳格な政教分離論を排斥して、目的効果基準を編み出したが、この緩やかな基準をもってしても、愛媛玉串料訴訟大法廷判決は、県費からの玉串料支出という形での愛媛県と靖国神社との関わりを、違憲と断じた。しかも、裁判官の意見分布は13対2の圧倒的大差だった。

だから、原告らは勝訴を確信していたか。実はそうではない。問題は、違憲判断にたどり着けるかどうかにあった。その点だけが実質的な争点だったといってよい。喩えて言えば、土俵に上がっての勝負は目に見えていた。問題は、土俵での取り組みができるかどうかだけ。結局は、原告らは土俵に上げてもらえなかったということなのだ。

裁判所とは、違憲・違法な行為があったときに、誰でも駆け込んでその是正を求めることができるところではない。権利の侵害を受け者が、その回復を求めることができるに止まるのだ。その意味では、裁判所は人権の砦ではあっても、必ずしも憲法の砦ではない。たとえ政府に明白な違憲行為があろうとも、そのことによって権利の侵害を受ける者がいなければ、裁判手続を通じての是正はできない。他人の権利侵害での裁判も受け付けてはもらえない。健全なメディアによる健全な世論形成によって、次の選挙で政府をあるいは政策を変えさせることが期待されているのみなのだ。

ことは三権分立の理解にある。「司法の優越」は、司法がオールマイテイであることを意味しない。立法や行政が、国民の権利を侵害するときに限り、その権利侵害を回復する限度で、司法は機能する。とはいえ、具体的事案で、司法が機能する場面であるか否かの判断は、けっして容易ではない。

個人の権利利益の保護を目的とする通常の訴訟(主観訴訟)に対して、例外的に権利侵害を要件としない客観訴訟というものがある。特に、法秩序の適正な維持を目的として訴権が認められたもの。その典型が、地方公共団体の財務会計行為の適正を目的とした住民訴訟である。これは、はじめから立派な土俵が設定されているのだから、違憲判断に踏み込む要件の成否を問題にする必要がない。津地鎮祭訴訟、岩手靖国違憲訴訟、愛媛玉串料違憲訴訟などは、この土俵に上がっての成果だった。

しかし、首相の参拝や、官邸の公用車の管理に関して、住民訴訟の適用があるはずはない。原告として名乗り出る人は、首相安倍晋三の靖国参拝によって、何らかの権利や利益が侵害されたことを主張しなければならない。そのために、原告らが有する「宗教的人格権」や「平和的生存権」が侵害されたという構図を描かなければならない。あるいは、この訴訟では「内心の自由形成の権利」「回顧祭祀に関する自己決定権」の侵害などが主張された。

しかし、大阪地裁も大阪高裁も、これを「原告(控訴人)らの不快感の域を出るものではなく、法的保護に値する利益の侵害とはいえない」と切り捨てられている。

従って、判決は違憲判断を避けただけで、安倍参拝を合憲と判断したわけではない。原告らは、安倍と裁判所を追い詰めたが、体を交わされたのだ。

先に引用した、訴訟団声明中の「本件参拝は、けっして『人が神社に参拝する行為』一般に解消できるものではない。」に触れておきたい。

小泉靖国参拝国家賠償請求訴訟において、最高裁は2006(平成18)年6月、「人が神社に参拝する行為は他人の信仰生活に圧迫、干渉を加えるものではない。このことは内閣総理大臣の参拝でも異ならない」として、損害賠償の対象にはならないと判示した。訴訟団はこれを納得しがたいとしているのだ。外ならぬ内閣総理大臣が、外ならぬ軍国神社靖国に公式に参拝という形での政教分離の破壊行為は、平和や立憲主義に対する極めて具体的で直接的な攻撃というべきものとして、戦没者遺族や宗教者の精神生活・信仰生活の平穏を侵害するものなのだ。

「安倍靖国参拝違憲訴訟・関西」と名付けられたこの訴訟。戦没者の遺族ら765人が原告となって、首相と国、靖国神社を被告として、将来の参拝差し止めと1人1万円の慰謝料の請求をしたもの。最終的に敗れたとはいえ、けっして勝ち目のない訴訟ではなかった。また、この訴訟提起自身が、市民が直接に安倍内閣の憲法破壊行為に異議申し立てをする場の設定として意義あるものと言うべきだろう。

訴訟団声明の末尾には、「戦争を志向し人権を侵害する行為を見逃さない司法が確立し、今後、閣僚らの靖国参拝が永遠にとどめられるまで、闘いをやめないことを宣言する」とある。その軒昂たる意気や良し。
(2017年12月27日)

靖国派の終戦記念日論説(神社新報)を批判する

8月が終わりに近い。毎年この時期になると、し残したことのあるような、忘れ物があるような、なんとなく焦りにも似た気持になる。当ブログも、8月のうちに言っておくべきことを言い尽くせていない。

何を素材にすれば、言い残した語るべきことを語れるか。典型右翼の言論に対置する反論の形式が分かり易い。そのような観点で素材を探してみたが、適切なものが見つからない。結局、神社新報(神社本庁の準機関紙)の論説に落ちついた。8月21日付「終戦記念日 英霊への感謝と自戒を常に」と表題するものである。

同論説は、表題のとおり、「終戦記念日に際して、(1) 英霊への感謝と、(2) 英霊に恥じぬ自戒」とを呼びかけるもの。しかし、もちろんそれだけのものではない。そして、戦争観、戦没者観がよく出ている。

論説は、4個のパラグラフから成っている。必ずしも、各パラグラフが論理的に連関しているというわけではない。その意味で、出来のよい論説とは言いがたい。

○第1パラグラフは、戦没者の慰霊や追悼のあり方を述べる。
「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』である八月十五日、今年も靖國神社をはじめ全国の護国神社には多くの人々が参拝し
て英霊に感謝を申し上げ、東京・日本武道館では天皇・皇后両陛下御臨席のもとに、政府主催の「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれた。
 戦後七十二年を経過し、戦争の記憶を持つ人々が減っていく中にあっても、国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々に思ひを馳せようとする心は綿々と受け継がれてをり、靖國神社・護国神社で社頭に額づき、また両陛下の黙祷に合はせて御霊の安らかなることを祈ってゐる。
 先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐるが、残念ながらさうした雰囲気に反する行動も見られる。六月の「沖縄全戦没者追悼式」における野次や罵声なども含め、慰霊や追悼といふ厳粛であるべき場において、相応しくない行為に及ぶ人たちに対しては、ぜひともその再考を促したい。」

8月15日、国民が追悼した対象が、「国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々」と表現されている。これは天皇(明仁)の戦没者追悼式での式辞からの転用だが、「(国を護るために)遠く戦地に赴いた」のは、帝国主義的侵略戦争に駆り出されたということだ。けっして自国を守るために、国土への侵入者と戦ったものではない。にもかかわらず、被侵略国の被害者に対する謝罪も反省も、追悼の言葉すらもない。これが宗教者の言だろうか。

また、本当に、「先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐる」だろうか。死を悼み、死者を回想してその人を偲び、その死を悼んで追悼すること自体は自然におこなわれていることだろう。しかし、ここで論じられているのは、戦争犠牲者一般の死を追悼することではない。皇軍兵士の戦没者だけを特別に「英霊」(優れた霊魂)と称して、これに「慰霊の誠を捧げる」と顕彰するのだ。死んだ兵士に、「あなたは立派だった」「あなたは優れた行いをした」と称賛しているのだ。こうして、侵略戦争の性格や戦争責任の所在は切り捨てられる。靖國神社や護国神社への参拝は、そのようなことさらの意図をもった、特殊な戦死者への接し方なのだ。

なお、慰霊や追悼が厳粛であるべきことは論を待たない。しかし、厳粛な問題であればこそ、死者の政治的利用は許されない。慰霊や追悼に名を借りた、現政権の9条改憲策動への靖国神社利用を許してはならないのだ。

○第2パラグラフは、信教の自由援用の問題である。
 「もとより、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱へる人々に対しては、信仰の営みの観点から我々が信ずる英霊祭祀のあり方を示し、そこに存する我々の意志を地道かつ明確に示していくことが必要であるだらう。
 しかし、この慰霊の日にあたり、ややもすれば反対することが目的化したやうな集会なども開かれ、例へば「平和安全法制」や「共謀罪」などに関する主張を絡め、または現政権への批判を持ち出して、慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向きも見られる。また一方で、自らの信仰を充分に咀嚼しないまま、英霊祭祀に反対するやうな勢力に対していたづらな反論を試み、混乱に拍車をかけるやうなこともあってはならない。いづれにしても、不毛な論議が雑音のやうに入り乱れ、真摯な祈りを妨碍するやうなことが最も懸念されるところである。」

興味深いのは、「(靖国の)英霊祭祀に異議を唱へる人々」の二分論である。その一として、「自らの信仰」を動機とする一群の人々のあることを認めている。戦没者、あるいはその遺族が、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱えることに対しては、必ずしも感情的な反発をしていない。神社側の信仰の営みとして神社側が信ずる英霊祭祀の意志を地道に示していくしかないという。「あなたたちと私たちの、それぞれの信仰の衝突なのだ。ここは、私たち流を貫かせていただく」という姿勢。

「英霊祭祀に異議を唱へる人々」の別の一群とは、「慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向き」である。神社側は「真摯な祈り」を捧げており、これに政治的な立場から異を唱えることは、「真摯な祈り」の妨害と位置づけられている。

しかし、戦没兵士の死をことさらに美化し、特別の意味づけを行っているのは、(靖国)神社側である。戦争や兵士の死の真実を明らかにし、その死の意味を明らかにする議論は、同じ過ちを繰り返さないために、避けて通ることはできないのだ。これを「真摯な祈り」の妨害として議論を封じることは、結局は戦争と戦死の美化論につながらざるを得ない。

○第3パラグラフは、8月15日の意味づけを中心とした叙述。さしたる論争点はない。
 「いふまでもなく八月十五日は、「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」の玉音放送があり、終戦の象徴的な日となってゐる。終戦の日としては、ポツダム宣言を受諾した八月十四日や、ポツダム宣言に基づく降伏文書の調印日である九月二日、またはサンフランシスコ講和条約発効日の四月二十八日など、いくつかが挙げられようが、やはり昭和天皇が御親らポツダム宣言受諾の旨を国民に示された八月十五日が似つかはしく、加へて月遅れの盆と重なることで、さうした意味合ひが強くなってゐる感がある。
 盆行事は本来旧暦の七月十五日だが、太陽暦採用にあたって月遅れの行事が八月十五日におこなはれるやうになり、各家庭では祖霊を迎へたり墓参りをしたりと、さまざまな行事がおこなはれる。それゆゑに多くの人々が休暇を取って帰省することになり、東京都心は正月に人々が帰省したときのやうな、ある意味で独得な静けさにも包まれる。さうした都会の中で「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれ、隣接する靖國神社では、ほぼ終日に亙って降り続いた雨に濡れることも厭はず、神前で真摯に祈りを捧げる人々が列をなしてゐた。」

○第4パラグラフでは、神社流の慰霊のあり方の肯定を強く押し出している。
 「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然であり、決して好戦的なものではない。平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。ただ闇雲に「平和」の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。
 また八月十五日の祈りを捧げるとき、平素の自らの行為についても充分に考へる必要があらう。果たして今の自らが英霊に恥ぢないやうな生活を送り、浄明正直といふ言葉に反してゐないかといふことも含め、常に自戒の念を持つ必要性を指摘したい。
 八月十五日といふ節目の日に際し、英霊が護らうとしたこの日本において日々の生活を送れてゐることへの感謝の念を持ち、また内外の情勢への的確なる対応を常に考へ、そして、現今の平和な世の中を後世に伝へるためにも、改めて祈りを捧げるものである。
平成二十九年八月二十一日」

「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」という表現が曲者である。兵士の戦死を、意味のない無駄死にだったとは国民感情において口にしにくい。とりわけ、遺族の面前では。そこで、立派な目的をもった戦争で、国のために立派な死を遂げたと、死が美化されることになる。戦死の美化は、必然的に戦争目的の美化をともなう。国の膨張政策や軍国主義までカムフラージュされる。そして、戦った敵国は、邪悪で卑劣な国でなくてはならない。このようにして、英霊への感謝と顕彰は、戦争に対する反省をないがしろにし、次の戦争の準備に利用されることになる。

しかし今の国民感情を考慮するとき、平和の大切さに言及せざるを得ない。論説は、微妙な言い回しで、「慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然」という。どうして「もちろん」なのかは了解しがたい。「戦没者の慰霊と顕彰」は、軍事的行為として過去の戦争の肯定そのものではないか。好戦的なものといって差し支えない。

さらには、「平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。」という。ここに述べられていることは、英霊の名を借りての「中国・北朝鮮に対する軍事的防備の増強」と、「アメリカとの軍事同盟強化」のアピールである。英霊に名を借りた、好戦的防衛政策の鼓吹にほかならない。

そして、神社イデオロギーのホンネが出てくる。
「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。」
ここに、「平和」と「真の平和」のダブルスタンダードが語られている。ここでの「真の平和」は、安倍晋三のいう「積極的平和主義」に酷似する。平時から軍備を調え、必要なときには毅然として軍事力を行使せよ、というのだ。それが、「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」の意味するところとして、言及されているのだ。「靖国派」の面目躍如ではないか。

もちろん、平和を実現するためには、「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけ」ではたりない。「歴史と現実を直視する」ことを通じて、徹底した靖国派との論争が必要である。そして、あらゆる国との間で核廃絶や軍縮に「毅然たる態度」を執り、紛争のタネをなくするために国際協調の「的確なる対応」を考えなければならない。
(2017年8月26日)

憲法日記・連続更新第1600回に靖国を論じる。

毎日の更新を続けている当ブログは、本日で連続第1600回となった。

休眠していていた「憲法日記」を再開したのは、2013年1月1日。その前年12年12月総選挙での第2次安倍政権発足が暮れの26日、これに危機感を抱いてのことだ。

安倍晋三という右翼の歴史修正主義者が、「戦後レジームからの脱却」、「日本を取り戻す」などというスローガンを掲げて政権に返り咲いた。支持勢力は、保守ではない。明らかに右翼ではないか。

あの第1次政権投げ出しの経過が印象に強かった。この上なくぶざまでみっともない本性をさらけ出したひ弱な政治家。誰も、彼がすぐれた政治理念をもつカリスマ的な指導者だとは思ってはいない。むしろ、愚かで浅薄な人物というのが定評。その愚かで浅薄な安倍晋三が、右翼勢力の支持で再びの政権に就いた。時代の風が、右から吹いていることをいやでも意識せざるを得ない。

彼は、右翼を糾合してこれをコアな地盤とし、保守派と「下駄の雪・公明」を巻き込んだ勢力で、戦後営々と築き上げられてきた民主主義の破壊を目論んだ。戦後的なるものを総否定した戦前回帰の復古主義である。そのことは、日本国憲法の否定と、限りなく大日本帝国憲法に近似する自民党改憲草案に象徴的に表れていた。

こうして、平和や民主主義や人権を大切に思う側の国民による、総力をあげての安倍政権との闘いが始まったのだ。私もできることをしなければならない。それが、2013年1月1日からの当「憲法日記」である。書き始めた当時は、日民協の軒先を借りてのことだった。自前のサイトに移って、思うがままに書けるようになったのが、2013年4月1日。この日のブログを第1回と数えて、本日が1日の途切れもなく第1600回となった。

ところが、まだ、安倍政権が続いている。気息奄々の安倍晋三が、いまだに憲法を変えたいと執念を見せている。だから、私も、この日記を書き続けなくてはならない。憲法の安泰を見届けるまでは。

これまでの1600日。ブログのテーマに困ったことはほとんどない。私には手に余る大きなテーマで書き始めてとてもまとまらず、さて困ったとなって代わりに何を書こうか。と思案することは少なくない。そういうときは、産経の社説に目を通すのだ。困ったときの産経頼み。産経こそがこコアな安倍支持勢力の代弁者。もちろん読売も安倍的右翼勢力だが、産経の方がものの言い方がはるかにストレートで分かり易い。だから、産経社説はありがたい。本日も、批判の対象としてご登場いただく。

昨日(8月16日)の産経社説は、「戦後72年の靖国、いったい誰に『申し訳ない』のか 首相も閣僚も直接参拝せず」というタイトルだった。言い古された、陳腐きわまる靖国擁護論である。その全文を太字で記して、批判を試みたい。もっとも、批判も陳腐なものとならざるを得ないのだが。

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 戦後72年の終戦の日、靖国の杜には雨にもかかわらず、多くの参拝者が訪れた。国に命をささげた人々の御霊に改めて哀悼の意を表したい。
・宗教観念や信仰の内容を他者が批判する筋合いは毫もない。亡くなった人の霊がこの世に残るという信仰を持ち、特定の宗教施設に亡き人の霊が宿っているとして、霊が祀られている施設への参拝者が訪れることを非難する者はなかろう。憲法20条で保障される信教の自由を尊重すべきが、常識的な姿勢。戦没者遺族の心情は自ずと尊重されるべきである。
・但し、「国に命をささげた」人々の意味は定かではない。まさか、戦没者のすべてが、喜んで「国に命をささげた」と言っているわけではなかろうが、戦没者を一括りにして、意味づけをすることは慎まなければならない。
・なお、今年(2017年)の8月15日靖国参拝者数は、雨がたたってかいつになく少数で静謐であったというのが、各紙の報道である。産経社説だけが、「靖国の杜には雨にもかかわらず、多くの参拝者が訪れた。」と書いている。現実ではなく、願望を優先せざるを得ないのだろう。

 東京・九段の靖国神社は、わが国の戦没者追悼の中心施設である。幕末以降、国に殉じた246万余柱の御霊がまつられている。うち213万余柱は先の大戦の戦没者だ。終戦の日に参拝する意義は大きい。
・靖国神社が、わが国の戦没者追悼の中心施設であったことは歴史的事実ではある。しかし、今は、「一宗教法人であって、それ以上のものではない」ことを明確にしなければならない。
・「国に殉じた246万余柱の御霊」の表現はいけない。膨大な戦没者とその遺族のなかには、「国に殉じた」気持をもち、靖国の顕彰や奉祀を感謝の念をもって受け容れている人もいるだろう。しかし、遺族が合祀されていることを徹底して嫌忌している人もいる。「国に殉じた」のではなく、「国に命を奪われた」と考えている人たちも少なくないのだ。
・「終戦の日に参拝する意義は大きい。」とは、なんとも無内容な一文。もし、「終戦の日に参拝する意義」が、今次の大戦において「国に殉じた」人々を顕彰することにある、というのなら、それは余りに偏った独善的イデオロギーの表白である。

 靖国は静かな追悼の場である。その国の伝統文化に従い戦没者の霊をまつり、祈りをささげることはどの国も行っていることだ。
・「靖国は静かな追悼の場である」。それだけのことなら、なんの問題もない。この宗教施設が戦没者を偲ぶ場としてふさわしいと考えている個人が、それぞれの思いで追悼の場とすればそれでよい。ところが、それではもの足りぬという人々がいる。国の関わりが必要という思惑をもつ人々が、靖国を静かな追悼の場でなくしているのだ。
・「その国の伝統文化に従い戦没者の霊をまつり、祈りをささげることはどの国も行っていることだ。」
これは、ずるい文章だ。文脈からすると、「どの国も行っていること」が述語なのだから、これが主要な命題との印象を受ける。本当に、戦没者に対する靖国的祭祀が国際的な普遍性を持っているのかを吟味しようとすると、「その国の伝統文化に従い」という特殊性に逃げられる。いったいどっちなんだ、と言いたくなる文章。
・実は、どっちでもないのだ。靖国とは、国際的な普遍性を持っていないことは当然として、日本固有の伝統文化に従った戦没者の霊のまつり方でもない。近代天皇制政府が拵え上げた似非伝統なのだ。

 とりわけ国の指導者が、国民を代表して哀悼の意を表することは、当然の行いだ。それが堂々と行われないのはなぜなのか。
・国が全戦没者を追悼する式典は、「全国戦没者追悼式」として毎年8月15日に挙行されている。その問題性なきにしもあらずだが、産経が、「国の指導者が、国民を代表して堂々と戦没者に哀悼の意を表することを行わないのはなぜか」というのは間違っている。
・宗教法人靖国神社が、国家行事を行うにふさわしからざる場であることは、自明であって、ここで「国の指導者が、国民を代表して哀悼の意を表する」などは絶対にあってはならない。もちろん、明確に違憲な行為でもある。

 安倍晋三首相は自民党総裁として玉串料を納めたが、直接参拝しないのはやはり残念である。
 この日の閣僚の参拝は一人もいなかった。寂しい限りである。
・はたして、安倍晋三首相の玉串料奉納は私人としての行為であったか。極めて疑問であるが、参拝はできなかった。内閣総理大臣としての玉串料奉納もしないポーズはとらざるを得ない。乱暴な安倍晋三も、憲法を守らざるを得ないと、ようやくにして理解してきた。その限りでけっこうなことだった。
・一般論だが、産経が「残念」「寂しい」と表白する事態は、憲法に笑顔をもたらすものである。

 かつて首相が閣僚を率いて参拝するのは、普通の姿だった。中国が干渉するようになったのは、中曽根康弘首相が公式参拝した昭和60年8月以降である。
 長期政権を築いた小泉純一郎首相は平成13年から18年まで年1回の靖国参拝を続けたものの、多くの首相が参拝を見送っている。いわれなき非難を行う中国や韓国への過度の配慮からだ。それがさらなる干渉を招いてきた。
 安倍首相も25年12月に参拝した後、参拝を控えている。
・首相や天皇の公式参拝(公的資格による参拝)は、憲法20条3項の政教分離原則が禁じるところである。わが国は、主権者の意思として、国家がすべての宗教との関わりを持つことを禁じた。その宗教とは憲法に明示されていないが、なによりも天皇を神の子孫であり現人神とする国家神道(=天皇教)であった。なかでも、国家神道の中の軍国主義側面を司る靖国神社である。
・また、日本国憲法はアジア諸国に対する侵略戦争を反省する不戦の誓いとしての性格を有している。だから、日本国憲法の理念は、日本一国だけのものではなく、アジア諸国全体のものとも言える。わが国は、憲法の運用において独善に陥ることなく、近隣諸国の声に耳を傾けなければならない。

 首相はこの日、名代の柴山昌彦総裁特別補佐に「参拝に行けずに申し訳ない」と託したという。だれに対して申し訳ないのか。英霊の前で平和と国の守りをしっかりと誓うべきである。
・安倍晋三は、「参拝に行けずに申し訳ない」という必要はない。「国家を代表する立場でありながら、特定宗教団体に玉串料など奉納し特別の関わりを作ってしまい、申し訳ない」と日本国憲法と憲法制定権力者である国民に詫びなければならない。
・靖国は、平和を誓うにふさわしい場所ではない。神も神社もいろいろだ。学問の神に商売繁盛を願うのも、地獄の神にこの世の栄達を願うのも筋違い。宗教的軍事施設である靖国は、平和を祈る場ではない。もともとが戦死者に向かって、「あなたの死を無駄にしない。次の戦いでは必ず勝って見せる」と誓う儀式の場なのだから。

 春秋の例大祭など機会を捉え、参拝してもらいたい。
 靖国の社頭では、戦没者の遺書や書簡が月替わりに紹介、配布され手に取る人も多かった。8月のこの日の文は、24歳の若さで西太平洋のトラック諸島で戦死した陸軍中尉が「父上様」と記し、「墓標は、つとめて小たるべし」と自身のことをわずかに、国を守る思いがつづられていた。
 海外の激戦地には、いまなお多くの遺骨が眠っていることも忘れてはならない。
 戦没者の孫、ひ孫世代の子を連れた人も目立った。国や故郷、家族を思って逝った尊い犠牲のうえに国が築かれてきた歴史を改めて知る日としたい。
・戦争を忘れてはならない。とりわけ、戦争で悲惨な死を遂げた若者たちの苦悩と悲惨を忘れてはならない。そのことに、異存のあろうはずはない。
・引っかかるのは、産経が繰り返す「国のため」「国を守る」「国を思い」「その犠牲の上の国」である。
産経社説には右翼言論の常として、「わが国」だけがあって、戦った相手国がない。相手国の国民がないのだ。あたかも、戦争で悲惨な死を遂げた若者たちの苦悩と悲惨は、わが国特有のものだったごとくではないか。中国をはじめとするアジア諸国民の若者たちにも、英・米・蘭・ソの連合国の兵士たちも、まったく同様であった。過酷な植民地支配をうけた朝鮮もである。
・にもかかわらず、靖国神社は、けっして1931年以来の戦争が侵略戦争であったことを語らない。また、けっして皇軍の蛮行を語らない。ひたすらに戦争を正当化し、戦死を美化するのみである。

この立場に与するのが産経新聞であり、産経が支持するのが、安倍政権である。その安倍政権が、いまだに生き延びている。嗚呼、しばらくブログは続けざるを得ない。

(2017年8月17日・毎日連続更新第1600回)

日中両国民間の「和解」を阻む靖国神社ー張剣波さんの指摘

重慶大爆撃訴訟(現在、東京高裁係属中)を支える「弁護団」と「連帯する会」が発行している『重慶大爆撃 会報』が40号となった。訴訟の進行は困難な局面に差し掛かっているが、この訴訟は大きな問題提起をなし得ている。

戦後日本は、旧日本軍(皇軍)による中国への侵略と加害の歴史に正面から向き合ってこなかった。戦後72年を経てなお加害についての真摯な謝罪と反省はなく、両者の和解は成立していない。この訴訟と、日中両国にまたがるこの訴訟を支える運動とは、究極の和解を目指すものと言えよう。

この会報40号に、「靖国神社と靖国神社参拝の本質について」と題する張剣波さん(早稲田大学講師・政治学博士)の講演録が掲載されている。被害者の側から日中両国民の和解の必要が語られていて、紹介に値するものと思う。

氏は、日中両国民間の和解の必要について、大意こう語っている。(なお、以下の紹介文は、文意を変えない程度に、澤藤が要約したもの)
「和解は不可欠なのです。和解がないと、心のわだかまりは残ります。そもそもそれは、正義に反します。政治的政策的な動機で田中角栄が中国を訪問して、日中国交正常化以降、一時期日中友好の時代もありました。でも結局、それが非常に脆いものだったのです。歴史問題が障害になって日中友好の時代はあっという間に過ぎ去ってしまいました。
和解というプロセスがないと、戦争につながるという懸念が残ります。日本が再び戦争への道を走る。その危険性は、今も全くないとは言えない。多くの人が心配するところです。しかし、私は元侵略者が再び侵略戦争をやるという可能性以上に、侵略された側が強く大きくなって復讐のために何かをやる、その方を私は心配するのです。そんなことのないように、やはり和解という問題は重要なのです。」

その上で、氏は和解の障害としての靖國神社の存在について語っている。靖国を語ることは、日本軍の戦没兵士の功罪を語ることであり、中国での戦争の性格を語ることでもある。当然のことではあるが、被害側の氏の言葉は、私たちにとって重く、しかも鋭い。

「歴史問題を語る時に、日本軍の戦没者の性格は、中国からみると極めて簡単な問題ですけれども、日本の中では、これは非常に難しく微妙な問題になっているのです。私が日本に来たばかりのときに、大学でお世話になった日本人の先生が仰ったことを今でも鮮明に覚えています。『あなたの家族や親戚の人が戦死していたとしたら、それでもあなたは家族の死をもたらしたその戦争を間違った戦争だった、と言えるだろうか』というのです。なるほど、日本の普通の庶民は、やはりそういう風に思うのだ、こんな偉い先生でもそう思うのだ、ずっと頭の中に、その話が残っている。これは、戦死者、戦没者の性格について私が考える一つのきっかけにもなりました。

中国の一般民衆からすれば、日本による戦争の侵略性と犯罪性は明らかで、侵略と犯罪に加担した日本軍の兵士の罪は戦死しても消えない。ところが、侵略戦争と犯罪に加担した日本軍の軍人がその罪を背負ったまま靖国神社に祀られている。神として、英霊として。

重慶空爆を行って中国軍に撃ち落とされた兵も、731部隊で人道に悖る行為をした将兵も、靖国神社に祀られています。彼らは、紛れもなく侵略者であり犯罪者です。これを祀る靖国神社というのは、侵略戦争を支える軍事的な施設であり、侵略の道具でした。

侵略された側から見た場合、日本軍の戦没兵士は侵略者であり犯罪者であって、彼らを多角的に理解しなければならない理由はありません。靖国神社は、このような侵略者、犯罪者を、英霊として、神として祀っている。これは、全く正当性を持だない。反正義であり、反人類である。そのような施設を参拝することは、なおさら正義に反する。参拝してはならない。

このような前提にたって、靖国神社あるいは靖国神社参拝を考えれば、靖国神社の存在がある限り和解は困難です。侵略戦争に加担して死亡した者を美化する施設はあってはならない。まして、そのような施設を参拝するということは、絶対にあってはならない。和解の妨げになります。

保守系の議論の中で靖国神社参拝問題が政治問題になるのはA級戦犯分祀ということが争点になります。A級戦犯を靖国から分祀すればこの問題は終わるから、外国の首脳にも靖国神社を参拝させる、日本の政治家も堂々と参拝しても良いと。そのような主張が結構あるのです。しかしそうあってはならないのです。決してA級戦犯だけの問題ではない。A級戦犯をそこから出したからもう参拝しても良い、ということにはならないのです。」

靖国神社問題の最もやっかいなところは、戦没者遺族の心情を神社側が絡めとっているところにある。靖国の英霊とは、客観的には侵略戦争の尖兵である。被害国から見ての侵略者であり犯罪者である。しかし、「自分の親が戦死していたとしたら、その親を侵略者であり犯罪者と呼べるだろうか」「自分の子の死をもたらしたその戦争を間違った侵略戦争だったと言えるだろうか」という問は、受けとめるのにあまりに重たい。

靖国神社は、家族の死をこの上なく美化し意味あらしめてくれる。戦没者遺族にとって、これ以上ない慰藉の場なのだ。しかし、同時にその慰謝は天皇が唱導した侵略戦争への無批判な賛美につながる。

そうあってはならない。本来遺族は、大切な家族を兵士とし無惨な死へと追いやった、国の責任をこそ追及すべきなのだ。まさしくこれこそが歴史認識の根幹に関わる問題。あまりに重いが、いかに重くとも歴史の真実は真実として受けとめなければならない。被害を受けた側の怒りや嘆きは、比較にならぬほどに大きく深刻なのだから。
(2017年7月17日)

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