澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「南北之塔」よ、何を見てきたか。いま何を思って建っているのか。

5月10日。旧友と糸満市真栄平の「南北之塔」を初めて訪れた。同行の小村滋君から事前の説明を受けるまで、この塔の存在自体を知らなかった。地元の人も、よく知らない。グーグルにも載っていない。この塔にたどり着くまでが一苦労だった。道を間違えつつ、ようやく小高い丘の上に見つけた。あまり人の来るところではない。

小村君の説明の大要は以下のようなものだった。

「アイヌと沖縄の住民が協力して造った塔。遺骨は、必ずしもアイヌと地元住民というわけでない。沖縄戦の時、真栄平の地元民と仲良くなった1人のアイヌが戦後しばらくして再訪し、遺骨収集地に塔を建てる資金を提供し、その後幾たびも訪問してアイヌの先祖供養であるイチャルパをしている。」

沖縄戦の県別戦死者数では、地元沖縄を除くと北海道が群を抜いて多数となっている。真栄平地区は沖縄戦激戦地の一つで、地区住民の3分の2近くが戦死し、終戦当時は集落内の各地に遺骨が散乱していたという。北海道民の遺骨も多くあっただろう。私は、本土中央から差別されている僻遠の地としての南の沖縄と、北の北海道の友好の証しと理解した。

塔の左側面に「キムンウタリ」とアイヌ語と思しきカタカナの刻印があった。しかし、同じ場所に「捜索24聯隊慰霊之塔」が建立されており、立派な銘文もあったが、こちらにはアイヌは出てこない。ウィキペディアを引用する。出典として何冊かの関係者の書籍が特定されている。

北海道弟子屈町出身のアイヌ文化伝承者、弟子豊治(てしとよじ)は、1944年、旭川第24師団第89連隊に入隊し、満洲経由で沖縄南部に派遣され、八重瀬町与座付近に配置された。軍隊生活の中、近くにある真栄平に出入りし、地域住民と交流を持った。多くの戦友が戦死したものの、弟子は命からがら生き残って北海道に帰った。

1965年、アイヌ古式舞踊公演のため、13人のアイヌによって構成されるアイヌ文化使節団の団長ととして沖縄を訪れた弟子は、真栄平を訪れた。そこでかつて親交のあった地域住民と再会した。

弟子は「キムンウタリ」と書いた木の慰霊碑を建て、アイヌの伝統的な慰霊の儀式、イチャルパを行った。「キムンウタリ(kimun-utari)」とは、「山の・同胞」という意味。弟子が所属していた部隊が通称「山部隊」と呼ばれていたことによる。

弟子は、慰霊塔の建立運動に賛同し、自分もその運動に協力したい旨を申し出、翌年、250ドルの寄付を集めて真栄平を再訪し、その250ドルは慰霊塔の一番上部の石碑に使われた。石碑の北側には弟子の希望で「キムンウタリ」というアイヌ語が彫られた。

沖縄戦で北海道出身の兵士が多数戦死しており、その中にアイヌも数含まれていることから、北海道アイヌ協会が、南北之塔で1981年にイチャルパ(供養祭)を実施し、その後、1985年・1990年・1995年・2000年・2005年にも実施されている。そういった由来から、その他のアイヌ民族関係団体が慰霊祭を実施することがある。アイヌと沖縄の友好のシンボルとして関係者の間ではよく知られている。

以上は、ともに和人から侵略を受け、差別され続けたウチナンチューとアイヌとの友好ないし連帯という「美談」である。が、現実の事情は、やや複雑であるようだ。

北海道新聞2009年2月20日夕刊1面に、「沖縄戦アイヌ民族元兵士と地元住民が建立 『南北之塔』偏見に揺れる 一部でイチャルパに異論」という記事があるそうだ。とあるブログを通じての孫引きだが、次のような内容。

南北之塔は、「道内出身者が中心の第24師団(通称・山部隊)」に所属した、アイヌ民族元兵士で故人の弟子豊治さんと、糸満市真栄平の住民が、66年、戦争犠牲者の遺骨を集めた納骨堂とともに建立した慰霊碑。

北海道ウタリ協会によれば、「沖縄戦で戦死したアイヌ民族は43人(判明分)。真栄平にその遺骨が納められているかは不明だが、同協会は81年からほぼ5年置きに南北之塔でイチャルパ(供養祭)を催し、別のグループも行っている。

真栄平の一部住民で組織する『南北の塔を考える会』が、塔とアイヌ民族とのかかわりを記した本の著者に訂正を要求。イチャルパを妨害して同会が慰霊碑への道を封鎖したこともある。

地元「考える会」の代表者は、「南北之塔が『アイヌの墓』と言われるのが許せない。北海道出身の沖縄戦戦没者の慰霊碑はほかにある。遺族はそちらに行けばよい」と言っているとか。

道新の記事は、こうした妨害を、「ごく一部の住民のアイヌ民族に対するレイシズムによるもの」としているという。本土が沖縄を差別し、その沖縄がさらにアイヌを差別したということなのだろうか。とすれば、まことに悲しい。

南北之塔よ、何を見てきたか。何を考えているか。そして、何を語りたいのか。黙せず、語ってみよ。
(2018年5月17日)

和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風

5月10日、沖縄戦の南部戦跡を訪ねた。これまでも何度か訪れてはいるが、そのたびに心が痛む。

最初に訪れたのは復帰前。学生のころに、このあたりを時間をかけて歩いたことがある。魂魄之塔が最も印象に深かった。
「糸満市米須の海岸近くにある沖縄戦戦没者の塔。戦後、同地に収容された真和志村民が散在する遺骨を集め、1946年2月に建立された。約3万5000柱を祭っていたが、その後国立沖縄戦没者墓苑に転骨された。設置管理者は県遺族連合会。」(琉球新報の解説)

その塔に隣接して歌碑があることに、今回はじめて気が付いた。

「和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風」翁長助静詠

和魂は「にぎたま」。荒ぶる魂ではなく、安らかな死者のたましいという意味であろう。「おくつき」は奥津城、墓所のこと。この奥津城で、「み床の上をわたる潮風」を感じつつこの歌に接すれば、霊魂の存在を信じない私とて、「にぎたまよ、しずもりたまえ」と願わずにはおられない。

翁長助静は戦前は小学校長で、戦後那覇と合併以前の真和志市市長となった人。原神青醉の名で歌人としても知られる。現知事翁長雄志の父君である。

この人が、沖縄戦の模様について、次のような一文を残している。

(略)師範学校で編成した鉄血勤皇隊千早隊の十数人を部下とする情報宣伝部長が私の役目。翼賛会での私は国民服に戦闘帽、日本刀のいでたち。(略)途中、当時那覇署長をしておられた具志堅宗精氏、山川泰邦署僚などが、兼城の墓の中で署員の指揮をとっており、いまのひめゆりの塔近くでは金城増太郎三和村長が墓地に避難している。こうした人たちに「ここは戦場になるから早く避難して方がいい」と指示したが、行政も警察ももはや指揮系統はめちゃくちゃの状態。そんな所に妹の夫、国吉真政君と出会ったところ「負け戦にになっているのに親を放ったらかして何をしている」という。早速付近をうろうろしている父を見つけ、その日はヤギ小屋で一泊。翌日夕方摩文仁に移動しながら喜屋武岬近くで簡単な壕をつくって小休止。このとき突然米軍の砲撃を受け、目前で父助信が戦死した。同じ壕にいた十数人の避難民のなかで、父だけに破片が命中したのだから悲運としか言いようがない。日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている。→沖縄タイムス社『私の戦後史 第5集』「翁長助静」

なるほど。この歌には、自分の父への鎮魂の思いも込められているのだ。
そして、「日本の勝利を信じ命をかけて行動した私にも敗戦思想が強まってきた。敗残兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景も何度も見てきている」と言っていることが興味深い。父の死よりは、「兵が住民を壕から追い出し、食糧を奪い取る光景」こそが、日本必勝の精神を崩壊させたというのだ。

この思いが、沖縄の人々の戦後の原点であったろう。とりわけ翁長助静において、また翁長雄志においても。
(2018年5月16日)

沖縄本土復帰46周年ー沖縄タイムスの怒りの社説紹介

5月15日。1972年のこの日、米軍統治下にあった沖縄の施政権が日本に返還された。沖縄が本土に復帰して、あれから46年となった。

「核抜き・本土並み」が米日両政府の建前であった。県民の願いは、「基地のない平和の島としての復帰」と表現された。基地に囲まれ、核の脅威にさらされ、戦争と隣り合わせの沖縄から、平和・人権・地方自治が重んじられるはずの本土への復帰である。それが、46年前の5月15日に実現した、…はずだった。

法的には、沖縄の本土復帰は、沖縄への日本国憲法の全面施行を意味する。であればこそ、平和・人権・地方自治の実現への高い期待があった。ところが、既に当時、日本国憲法体系が大きく安保法体系に虫食いされて多くの空洞を抱えた状態にあった。だから、沖縄の本土復帰は、県民が思い描いた日本国憲法体系への復帰ではなく、安保法体系によって虫食い状態となった憲法の適用を余儀なくされたのだ。

しかも、時の佐藤政権はいざというときの沖縄への核持ち込みの密約を結び、「核抜き」については誰もが不信と不安を持っての本土復帰だった。

凄惨な地上戦を経て、戦後も苛酷な米の軍政下におかれた沖縄が反米であることはよく分かる。アメリカの支配からの脱出を望んだことは当然であった。しかし、戦前本土によって差別され、本土温存の捨て石とされた沖縄が、なぜかくも熱意をもって、「本土復帰」を願ったのか、理解は必ずしも容易ではない。復帰運動のシンボルが「日の丸」であったことにも違和感を禁じえない。日本国憲法と「日の丸」、私の心裡では整合しない。

進藤栄一が、天皇(裕仁)の沖縄メッセージの存在を米国公文書館で発見して公表したのは復帰後5年を経た79年であった。もし、復帰以前にこの天皇の身勝手な酷薄が明らかになっていたら、「日の丸」が復帰運動のシンボルになっていなかったのではないか。

それでも、本土復帰が実現して46年が経った。果たして、復帰実現前に願った沖縄となったであろうか。本日(5月15日)の沖縄タイムスの社説を詠みやすいように組み替えて、引用したい。本土政権への沖縄の怒りが厳しく表現されている。

「復帰後生まれの人口が過半数を占め、米軍基地の形成過程を知らない人が多くなった。沖縄に基地が集中するようになったのはなぜなのか。

米軍普天間飛行場のように、
《沖縄戦で住民らが収容所に入れられている間に米軍が土地を接収し基地を建設》したり、
《本土から米軍が移転してきた》りしたケースがある。
共通しているのは日本政府が基地建設や米軍移転を積極的に容認していることだ。

在沖米軍の主力で、兵力の6割、面積の7割を占める海兵隊はもともと沖縄に存在していたわけではない。1950年代に反基地感情が高まった岐阜や山梨・静岡から米軍統治下の沖縄に移転してきたのが実態だ。

復帰後本土では基地が減ったが、沖縄の基地はほとんど変わらなかった。その結果、国土の0・6%を占めるにすぎない沖縄に米軍専用施設の7割が集中する過重負担の構造が出来上がったのである。

日米の軍事専門家らが認めているように、海兵隊が沖縄に駐留しているのは
《軍事的合理性》からではなく、
《政治的理由》からである。

クリントン米政権下で駐日米大使を務めたモンデール元副大統領が普天間の返還交渉で、1995年の少女暴行事件で米側は海兵隊の撤退も視野に入れていたが、日本側が沖縄への駐留継続を望んだと証言している。引き留めるのはいつも日本政府である。

橋本政権下で官房長官を務めた梶山静六氏が98年、本土での反対運動を懸念し普天間の移設先は名護市辺野古以外ないと書簡に記している。本土の反発を恐れ沖縄に押し付ける論理である。

屋良朝苗主席は復帰前年の71年、「復帰措置に関する建議書」で「従来の沖縄はあまりにも国家権力や基地権力の犠牲となり手段となって利用され過ぎてきた」と指摘している。46年後の現在も何も変わっていない。

辺野古新基地ができてしまえば、半永久的に残る。普天間にはない強襲揚陸艦が接岸できる岸壁や弾薬搭載エリアが計画され、負担軽減とは逆行する。米軍の排他的管理権によって国内法が及ばない基地ができるのである。

 基地が集中する沖縄で、生物多様性豊かな宝の海を埋め立て、基地を建設するのは明らかな禁じ手だ。

 北朝鮮情勢が劇的に動き始めている。日本政府は東アジア情勢を俯瞰する大局観をもって、辺野古新基地建設をいったん止め、海兵隊や不平等な日米地位協定の在り方を問い返す機会にすべきである。」

同感、おっしゃるとおり、というほかはない。
(2018年5月15日)

月とスッポン ― 徳ゆえに王に推戴された尚円と、不徳を批判されながら政権にしがみつくアベ晋三と。

もしもし、前島の船員会館は、この方向でよろしいのでしょうか。

ああ、先ほど「りっかりっか湯」にいらっしゃった方ですね。この道を真っ直ぐに行って15分足らずですよ。私も同じ方向ですから、ご一緒しましょう。

助かりました。那覇にお住まいの方ですか。

いえ、私は伊是名島から建築現場への出張で、近くのホテルに宿泊中です。

ほう、伊是名ですか。あの辺の島は、一つ置きに、ハブのいる島、いない島とならんでいるそうですが、伊是名はハブのいる島ですか。いない島ですか。

不思議なことに、伊平屋島、伊江島にはハブがいるのですが、伊是名島にはハブはいません。よいところですよ。一度、いらっしゃるとよい。

何が伊是名の見どころなんでしようか。

自然も美しいですが、伊是名は歴史の島です。第2尚氏と言ってお分かりでしょうか。その初代尚円王の出身地で、ゆかりの史跡がたくさん残っています。

にわか勉強で教わりました。三山を統一して首里王朝を建てた尚氏は7代で亡んで、血筋のつながっていない第2尚氏が明治政府の琉球処分・廃藩置県まで19代も続いたとか。

そうなんです。その第2尚氏の初代が、元は伊是名島の百姓だったんですよ。百姓から琉球の王様になって、百姓の気持が分かるからよい政治をしてくれたと言われています。

どうしてまた、農民が王様に?

王になる前は、金丸という名前でした。評判の働き者だったそうです。でも、あんまり彼の田ばかりが稔るので、周りからやっかまれて島を逃げ出したんですね。そして、彼が首里で出会って仕えた人が後の6代目尚泰久王だった。金丸は、この王に重んじられて、王の片腕と信頼されたそうです。

なるほど。で、クーデターで、王を倒したということですか。

伊是名島では、そうは言われていません。尚泰久王がなくなってあとを嗣いだのが7代の尚徳王ですが、これが暴君で百姓を顧みない。金丸は諫めたが、王は聞く耳を持たない。それで、あきらめて隠居したと言われています。

第1尚氏最後の尚徳王は殺害されたのではありませんか。金丸は暴君殺害に関与していない?

島では、金丸は先王の殺害とは無関係と言い伝えられています。自分では王位を望まなかったのですが、周囲がその徳を慕ってぜひ王位にと声を上げたので、推されて王位に就いたということです。

なるほど。画に描いたような易姓革命。農民の出自であろうとも、徳があってよい政治をしてくれる人だから王にふさわしいとみんなが認めたわけだ。

そのとおりです。6代目尚泰久が評判のよい王様でしたが、それは金丸のお陰でもあったのです。だからみんなが金丸を説得して王様になってもらった。同時に、尚氏の血統は王位から外されました。

へえ。不祥事を重ね、政治の私物化を批判されながら政権にしがみついているアベなんぞとは真逆なんですね。それにしても、血筋のつながりないのに、どうして金丸が尚氏を名乗ったのでしょうか。

これも金丸が望んでしたことではなく、明から冊封を受けているため、やむなく尚氏を名乗らざるを得なかったということです。

金丸は、15世紀の人ですね。いまだに、人気があるんですか。

伊是名島は金丸を生んだ土地であることを誇りにしています。なにしろ、百姓から出た、百姓の気持ちの分かる王様ですからね。島にはその史跡がたくさん残っています。

なるほど、庶民から出た政治家と、2代目3代目の世襲政治家との違いみたいなものでしょうかね。この点もアベなんぞと真反対。

もう船員会館の近くまで来ました。この先の四つ角のすぐ右側ですよ。私はここで失礼します。

いつか伊是名に行ってみますよ。ありがとうございました。
(2018年5月14日)

級友との沖縄の旅・4日目ー沖縄と天皇

本日(5月11日)は、沖縄の旅最終日の4日目。糸満から那覇に戻って夕刻には羽田着の予定。4日目の予定記事となる。

今日の沖縄の状況は、戦争の惨禍とアメリカの極東軍事戦略がもたらしたものだが、その結節点に天皇(裕仁)の存在がある。そして、本土がそのような沖縄を放置し、その犠牲の上に安逸をむさぼる構造がある。ちょうど、過疎地に原発のリスクを押しつけ、その便益は中央が受益している如くに、である。

信じがたいことだが、日本国憲法の適用範囲から沖縄を切り離して米軍の統治に委ねようというアイデアは、憲法施行によって一切の権能を剥奪されたはずの天皇(裕仁)の発案だった。彼の超憲法的行動としての「沖縄メッセージ」が、沖縄をアメリカに差し出したのだ。

GHQの政治顧問シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた1947年9月22日付公文が残されている。

沖縄県公文書館のインターネットによる資料紹介では、以下のとおりである。

“天皇メッセージ”

(シーボルト書翰の)内容は概ね以下の通りです。
 (1)(天皇は)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
 (2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
 (3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモ(シーボルト書翰)によると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。

沖縄県には遠慮があるようだが、「沖縄メッセージ」の核心は、「共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか」というものである。

昭和天皇(裕仁)には、憲法施行の前後を通じて自分の地位に決定的な変更があったという自覚が足りなかったようだ。1948年3月には、芦田首相に「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」と述べてもいる。

「沖縄メッセージ」の負い目からであろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を訪問したが沖縄だけには足を運ばなかった。運べなかったというべきだろう。

「沖縄についての天皇の短歌」「天皇に対する沖縄の短歌」について、内野光子さんから、いくつかを教えてもらった。

 「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」

これは、死期に近い1987年の天皇(裕仁)の歌。気にはしていたのだ。やましいとは思っていたのだろう。しかし、彼がいう「沖縄をたずねて果たさんつとめ」とは何なのだろうか。謝罪を考えていたとすれば、立派なものだが原爆投下による惨禍についても「やむを得ないことと」と言ってのけた彼のこと。沖縄の民衆に手を振ることしか脳裏になかったのではなかろうか。

父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから6回、計11回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。

一方、天皇に対する在沖の歌人たちは、次のような厳しい歌を詠んでいる。

 日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)

 戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)

 おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)

根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、事実上異民族支配が今も続く沖縄。

傍観者としてではなく、沖縄の人びとのこの怒りを真摯に受け止めねばならないと思う。
(2018年5月11日)

級友との沖縄の旅・3日目ー南部戦跡

本日(5月10日)沖縄の旅3日目。本日は、名護から南部戦跡や平和公園をまわって糸満泊の予定。3日目の予定記事となる。

学生時代、初めてパスポートをもって復帰前の沖縄を訪れたことがある。そのときも、南部の戦跡をめぐった。まだ平和祈念公園はなく、平和の礎の建設もなかったが、ごつごつした摩文仁の断崖と、そこに建っていた仲宗根政善さんの次の2首の歌碑が印象に深い。

いわまくらかたくもあらむ やすらかにねむれとぞいのる まなびのともは 
(ひめゆりの塔)

南の巌のはてまで守り来て散りし龍の児雲まきのぼる
(沖縄師範健児之塔)

このとき那覇で、まったく偶然に仲宗根政善さんにお目にかかってお話を伺う機会を得ている。魂魄の塔も印象に深い。

その後、慰霊の塔や歌碑が数多く建てられた。その中の心に残る幾つかの歌を記しておきたい。歌碑の中には、靖国調で違和感を禁じえないものも少なくないが。

わが立てる臥牛の山は 低くして  南海は見えず 吾子はかへらず
この果てに 君ある如く 思はれて 春の渚に しばしたたずむ
(北霊の塔)

むせび哭く み魂の散りしか この丘に かすかにひびく 遠き海鳴り
(ふくしまの塔)

和魂となりてしづもるおくつきの み床の上をわたる潮風
(魂魄の塔)

しろじろと しおじはるかに かがやける マブニのおかに きみをまつらん
(のじぎくの塔)

平和祈念公園ができてから確か3度ここを訪れている。その都度平和の礎の大理石の肌に手のひらを当て、刻印を指でなぞっている。故郷を同じくする人の名には一入感慨が深い。

ここでの慰霊の対象は全戦没者である。戦争の犠牲となった「尊い生命」に敵味方の分け隔てのあろうはずはなく、軍人と民間人の区別もあり得ない。男性も女性も、大人も子どもも、日本人も朝鮮人も中国人も米国人も、すべて等しく「その死を悼み慰める」対象としている。「戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求する」立ち場からは、当然にそうならざるを得ない。

味方だけを慰霊する、皇軍の軍人・軍属だけを祀る、という靖国の思想の偏頗さはここには微塵もない。一途にひたすらにすべての人の命を大切にして平和を希求する場、それが、平和祈念公園であり、平和の礎である。

あらためて、貴重な人命を葬り去った戦犯たちの責任を想起する。それは、戦争を起こした責任であり、近隣諸国への加害責任であり、敗戦が明確になってからも戦争を継続した責任であり、民間人の命を危険にさらした責任であり、戦後も長く損害の回復を怠った責任でもある。戦争の惨禍は国がもたらすもの。過去の戦争の被害について徹底して国家の責任を追求することが、再びの戦争の惨禍を防止することにつながる。

(2018年5月10日)

級友と沖縄の旅・2日目ー辺野古

本日(5月9日)沖縄の2日目。本日は、那覇から辺野古に行って名護泊の予定。2日目の予定記事となる。

沖縄は、今年(2018年)が「選挙イヤー」。51件の首長選・議会選挙が目白押しだという。11月に予定の県知事選がメインだが、南城・名護・石垣・沖縄・豊見城・那覇の計6市でも市長選が実施される。オール沖縄陣営は、幸先よく南城市長選で勝利したが、その後の名護・石垣・沖縄で連敗している。転機になった2月4日の名護市長選の結果が象徴的で残念というほかはない。

「オール沖縄」の立場で一貫し、辺野古新基地建設反対で盤石と思われていた現職の稲嶺市政がなぜ敗北したか。選挙後にいろいろ取り沙汰されたが、名護市民の中に「辺野古疲れ」が見られるという指摘に考えさせられた。

いくつもの世論調査の結果は、地元の辺野古新基地建設反対意見が賛成を大きくリードしていることを明らかにしている。だから、過去の2期は「オール沖縄」の稲嶺陣営が勝利した。しかし、今回はそうならなかった。基地建設に賛成ではないが、いつまでも反対をしてはおられない、という市民の気分が「辺野古疲れ」と表現されているのだ。

県を挙げての辺野古新基地建設反対運動は続けられ、それなりの効果も上げてはいるが、国の力は強いと映っている。結局は基地の建設は避けられないのではないか。とすれば、いつまでも反対で突っ張るよりは、よりよい条件で国と折れ合って、現実的な利益を獲得した方が得策ではないか、という心情。

こういう気分の市民には、本土の革新政党幹部からの「基地反対の稲嶺を」という選挙応援は耳にはいらず、「基地問題」よりは「生活」重視へという訴えが功を奏したというのだ。

これを象徴するのは、小泉進次郎の選挙演説である。理念を語らず、理性に訴えず、感性にだけ訴える手口。欺しのテクニックと言って差し支えない。今や、小泉こそがアベとは別の意味での危険な政治家となっている。2月5日の当ブログを再読いただきたい。

名護高校の生徒諸君 ― 小泉進次郎のトークに欺されてはいけない。
http://article9.jp/wordpress/?p=9879

恐いことに、若年層が「将来ビジョンや理念よりは、今手の届く利益を」という訴えに耳を傾けている。稲嶺陣営は、高齢者層で勝ったが若年層で大きくリードされたのだ。

若年層に限らない。闘いが困難になれば、あるいは展望が開けないときには、闘いを避けて易きにつきたいのが、人の世の常ではある。「オール沖縄」より国家は何層倍も強い。しかも、その背後にはさらに強大なアメリカが睨みをきかせている。

確かに、基地ができれば地元の将来は暗い。しかし、がんばってもどうせ無駄なら、妥協とひき換えの、地元振興策というアメにありつくことができる。闘いを挫折させるこの構造は普遍性のあるものではないか。この困難な中で、地道に闘いを続ける人々に敬意を表せずにはおられない。

名護市長戦での敗北にめげずに、辺野古の闘争は今日も続けられている。ひとときでも、闘う人々と現場をともにしよう。少しの時間でも座り込みに参加しよう。大浦湾にボートを出して、海上の闘いも目に焼き付けておこう。
(2018年5月9日)

級友と沖縄の旅・初日

本日(5月8日)から沖縄。学生時代の仲間9人で本島3泊4日の旅。8日(火)の昼前に那覇に集合して、11日(金)夕方まで。大型のレンタカーを借りて、4日間県内を廻ろうという企画。案内役は、元朝日の記者で退社後に張り切って沖縄に関わり続けている小村滋君。小凡というペンネームで発信を続けている。

宿泊先は、8日が那覇、9日が名護、そして10日が糸満。小村君の予約してくれた宿が、3100円(素泊まり)、5500円(朝食付き)、4000円(素泊まり)と、いずれもリーズナブルなのがありがたい。なにせみんな70代、年金生活者なのだ。

この仲間は、1963年に大学の教養課程に入学して、第2外国語として中国語を選択した「Eクラス」の同級生。当時中国語選択はごく少数派だった。ドイツ語、フランス語、そして理科ではロシア語などが主流だった時代、変わり者27人が中国語を学んだ。主任の教授が工藤篁というこれまた変わり者。およそ、出世主義や権力欲を小馬鹿にする雰囲気に満ちていた。だからなのか別の理由なのかはよく分からないが、Eクラス在籍者からは、学生運動や政治運動の活動家は輩出しても、立身出世や富貴に恵まれた将来とは無縁と信じられていた。

それでも、どこにも例外はあるものだ。27人の同級生のうち、官僚になったのが2人いる。1人は大蔵官僚になって、理財局長から国税庁長官(!)になった。もっともこの友はクラス会にトンと顔を出さない。もうひとりは警察官僚となって警察の位で警視監になっ手の退官と聞いている。多分よい官僚だったであろうが、いずれも異色。裁判官になったのが1人。順調に出世して仙台高裁長官から最高裁裁判官となった。リベラルな人物だったが、惜しいかな在任中に亡くなった。

以上の3人はEクラスの傍流。主流派は立身出世とは無縁の者ばかり。中には、何を生きる糧としてきたのかよく分からぬ魅力にあふれた人も少なくない。学者(哲学・歴史・教育)が3人。ジャーナリストが幾人か。ごく真っ当に民間企業で勤め上げた人もあるが、意外に教育に携わった人が少ない。弁護士になったのは私一人。

誰もが、何ものでもなかった頃に知り合った、氏素性の底が割れている仲間と一緒の旅。しかも沖縄だ。いかで、楽しまざらんや。

沖縄のどこに行くか何を見るかは、その日の風次第。小村君の気分次第。決まっているのは、少しの時間でも辺野古の座り込みに参加しようということ。大浦湾にボートを出して、辺野古を海から見ようということ。そして、瀬長亀次郎の「不屈館」には必ず行こうということくらい。

沖縄行のレポートは帰京後のこととして、5月8日~11日までは、出発以前に書きためた予定記事とならざるを得ない。本日がその第1回である。本日の訪問先は、沖縄戦の最激戦地である嘉数がメイン。それに、首里に王朝が移る以前の王都であった浦添に足を運ぶ。

(2018年5月8日)

沖縄県知事の「辺野古・埋立の承認撤回」の具体化に期待

小凡こと小村滋君から、メール添付の【アジぶら通信 第42号】をいただいた。今号はA4・5頁。文字通りのミニコミ紙だが、さすがに素人離れした体裁と内容。自分で撮った現場の写真もなかなかのものだ。

「アジぶら」という紙名は、学生の作る「アジビラ」みたいなものという謙遜でもあろうが、欧米ではなく「アジア」を見据えてものを考えようという主張。そしてアジアのあちこちを「ぶらぶら」見聞しながら型にはまらない記事を発信しようというコンセプトとお見受けしている。

今号のメインタイトルは、「辺野古」座り込みパワー 4・23~28(小凡・記)」である。ご自身の座り込み体験記。

連続6日500人集中行動「辺野古ゲート前連続6日間500人集中行動」の呼びかけに応じて4月24日、沖縄へ行った。那覇空港に着いて早速、沖縄2紙を買った。集中行動は23日が初日だったから、それを報じる24日紙面は、ともに一面に大きな写真入りだった。朝日新聞(大阪)も23日夕刊は1面に写真入りだった。

見よ!民衆の底力

民衆の底力を見せるのが狙いだ。
辺野古に着いたのは午後2時頃だった。これまで辺野古ゲートには何回か来ているが、座り込みは少人数で静かな抗議だった。今回は違った。リーダーのスピーカーは「午前中で670人。2人が逮捕された」と言った。私のように午後に来る者、午前中で帰る人、延べにしたら700 人は越えるだろう。
森友問題を最初に告発した木村・豊中市議が呼びかけ人として挨拶し大きな拍手を浴びた。東京から来た女性3人のバンドも大きな拍手を浴びた。福島にも通っているという。
午後3時過ぎ、「道路を占拠するのは道交法違反です」などと警察のスピーカー。引っこ抜き規制が始まるようだ。
座り込みの両側を機動隊が囲む。座り込みのお尻に着いた。まだ先だろうと思っていたら、私が引き抜かれた。片腕ずつ2人、足を独り。70㌔を腕で支えるのは結構しんどい。装甲車の列まで来たところで降ろされた。装甲車とフェンスの間に押し込められて息苦しい空間だった。気がつくとトラックの巨大な列が出来ていた。昨23日は座り込みが終わった4時過ぎてトラックがゲートへ入ったという。この日は午後4時半頃からトラックがゲートへ入り始めた。リーダーの指示に従って少し離れたテント下で集会だった。
その後、逮捕された2人を励ますために名護署に集まった。雨が降り出していた。シュプレヒコールを繰り返しながら留置場のある裏に周り、警察署をひと回りした。解散したとき、日は暮れて、雨は強まっていた。
集中行動、最初の 5 日間は目標を上回る600~700人が詰めかけたが、政権側も機動隊員の数を増やして対応。完全阻止とはいかなかった。しかし最終日の4月28 日「屈辱の日」は県民大会として約1500人が参加し、工事車両はなかったという。

共闘? 分裂? オール沖縄
今回の「集中行動」のきっかけは、2月の名護市長選の敗北だ。保守系の立場からオール沖縄の共同代表だった呉屋守将・金秀グループ会長が共同代表を辞任。呉屋氏らは辺野古の賛否を問う県民投票を推進し、オール沖縄とはブリッジ方式で共闘するとした。これに対して、残った革新系のオール沖縄は「辺野古座り込みこそ民衆運動の原点」と今回の集中行動となった。

 **************************************************************************

ところで、「後書き」の「県民投票と撤回」という次の記事がやや気になる。

▼「県民投票」と「撤回」 オール沖縄は既に別居している。翁長知事支持、辺野古新基地の阻止では一致しているのに、である。問題は「撤回」と「県民投票」の関係らしい。▼本格的埋立てを7月にも始める、と政権側は公言。大浦湾の自然を守るには6月にも「撤回」せよという。一方は、県民投票での民意証明が撤回の最強武器という。森友・加計問題で首相夫妻関与の実態がいくら出てきても、公文書改ざんしてまで「知らぬ存ぜぬ」の政権が相手だから。▼沖縄タイムスは3、4月と両派識者の論考やシンポを掲載した。「県民投票の前でも撤回できる」と言えば、片や「百害あって一利なし」論をトーンダウンしたようだ。両者はかなり近づいたように私には見える。今回の「集中行動」は民衆運動の原点を見せつけた。一方「『辺野古』県民投票の会」が9月投票めざして署名集めに動き始めた。1+1=3 になる共闘になって欲しい。

辺野古の新基地建設反対運動に注目して丹念に報道を追っている者以外には、「大浦湾の自然を守るには6月にも《撤回》が必要」という文意が分かりにくい。この機会に行政行為における《撤回》の意味を確認しておきたい。

問題になっている《撤回》とは、仲井眞弘多・前沖縄県知事が、国に与えた「海面の埋め立て申請に対する『承認』」の《撤回》である。前知事がした「承認」を、後任の翁長知事が《撤回》すべきということなのだ。

辺野古新基地建設のためには、大浦湾を埋め立てねばならない。しかし、公有水面の勝手な埋立てが軽々に認められてよいはずはない。公有水面埋立法は、公有水面の「免許」を知事の権限とし、「国土利用上適正且合理的ナルコト」「埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」その他の諸要件を満たさない限り、「免許してはならない」と定める。

国が埋立工事をする場合については、特に「国ニ於テ埋立ヲ為サムトスルトキハ当該官庁都道府県知事ノ承認ヲ受クヘシ」(同法42条1項)と定める。つまり、国が海面の埋立をしようとする場合でも、県知事の「承認」が必要なのだ。

仲井眞弘多・前沖縄県知事は2013年12月27日付で、辺野古移設に向けて国の埋め立てに「承認」を与えた。翁長知事は、この「承認」に瑕疵があったとして、「承認を取り消し」た。すなわち、「もともとしてはならない違法な承認だったから取り消す」としたのだ。

紆余曲折を経て、国は「翁長知事の承認取消こそ違法」として、県に対して「承認取消を取り消せ」という是正を指示し、これに従わない県に対して行政訴訟(国の是正指示に従わない不作為の違法確認訴訟)を起こした。残念ながら翁長知事の「承認取消」は最高裁まで争って認められないと法的には決着が着けられた。

「承認取消」が通らなければ、これに代わる「承認撤回」で行こう、というのが運動体の中から提案されている。これが《撤回》の意味。

もともとすべきでなかった間違った承認について遡って効力をなくするのが「承認取消」であるのに比して、承認のときの違法はともかく現時点では承認すべきではなくなっているのだから承認の効力をなくするというのが「承認の撤回」。

昨年(17年)3月、翁長知事自身も集会では「撤回を必ずやる」と発言しているが、1年余を経てその実行はない。軽々にはできない。慎重を要すると考えているのだ。常識には、「承認時以後の事情変更」「承認時には知り得なかった違法事由」を特定して立証しなければならない。運動論としてはともかく、「承認取消」で敗訴している以上、法的には明確な根拠が必要なのだ。

迂闊な《撤回》は、国側から「承認撤回の取消を求める」訴訟提起に持ちこたえられない。これに関して、最近明らかになった知見として、埋立予定海域の活断層の存在と地盤の軟弱性の疑いが、撤回の根拠となり得るのではないかと、話題になっている。

自由法曹団沖縄支部の新垣勉弁護士は、ごく最近大要次の報告をしている。

撤回に向けた動き
 県は、これまで行政法研究者の助言を得ながら、埋立承認撤回の法的根拠と理由を検討してきた。しかし、なかなか撤回に踏み切る適切な事由を探し出せずに苦しんできた。
 ところが、上記活断層の存在及び軟弱地盤の存在は、状況に大きな変化を与えようとしている。これまで、知事を支援してきた撤回問題法的検討会(県内行政法研究者・団員弁護士で構成)は、2月に「県は、検討段階から撤回に向けた具体的準備に入ること」を提言する法的意見書を提出した。
 同意見書は、
 ①活断層の存在が埋立地の安全性を大きく損なうこと(要件事後喪失事由)、
 ②埋立が辺野古の海の豊かな自然環境を破壊し、新基地建設が県民の生活・生命身体等の安全を損ない、沖縄の経済発展を大きく阻害すること(公益事由)
を主な理由に撤回の準備に入ることを提言している。
 県も同様の認識を有しているようであり、今後の進展が期待されている。

今後に注目して見守りたいと思う。
(2018年5月7日)

黙ってはならない ― 天皇制批判にもセクハラにも

4月29日。かつての天皇誕生日で、その前は天長節だった。戦争責任を免れた昭和天皇裕仁が誕生したこの日を選んで、「春の叙勲」受賞者が発表されている。その数4151人。かたじけなく、うやうやしく、天皇から格付けられたクンショウをもらってありがたがっているのだ。

この4151人に、芥川龍之介の言葉を贈ろう。

「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章も―わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」

勲章をもらうのは軍人だけでない。なぜ良い齢をした大人が酒にも酔わずに、勲章をもらったことを人に知られて、それでも恥ずかしげなく往来を歩けるのであろうか。

たまたま、本日の東京新聞9面「読書」に、「沖縄 憲法なき戦後」(古関彰一・豊下楢彦共著)の書評が出ている。表題が、「米軍にささげた『捨て石』」というもの。沖縄を「捨て石」として米軍に捧げた人物、それがほかならぬ天皇裕仁である。

この書評が指摘するとおり、「沖縄に基地が集中したのは地政学上の理由ではなく、そこが『無憲法状態』にあったからだ」「沖縄の運命を決める政策決定の〈現場〉に、当の沖縄は不在だった。」「アメリカにフリーハンドを与えることを提案した昭和天皇の『沖縄メッセージ』の役割は大きい」(評者・田仲康博)。まことにそのとおりだ。今日は、この指摘を噛みしめるべき日だろう。

昭和天皇(裕仁)は、自由なき国家の主権者の地位にあったことだけで、責任を問われねばならない立場にある。のみならず、国の内外にこの上ない戦争の惨禍をもたらしたことについての最大の責任者でもある。さらに、敗戦後には何の権限もないはずの身で、沖縄を米国にささげたのだ。なんのために…。保身以外には考えられない。

そんな人物ゆかりの日に、クンショウもらってニコニコなどしておられまいに。

いま、天皇や天皇制を批判する言論に萎縮の空気を感じざるを得ない。アベやその取り巻きにおもねる言論が大手を振って、権力や権威の批判が十分であろうか。「国境なき記者団」が今月25日に発表した「報道の自由度ランキング・18年度版」では日本は67位とされている。昨年の72位よりも5ランク上げた理由は理解し難いが、43位の韓国や45位の米国の後塵を拝しているのは納得せざるを得ない。

言うべきことは言わねばならない。空気を読んで口を閉ざせば、空気はいっそう重くなるばかり。萎縮せず、遠慮せず、躊躇せず、黙らないことが大切だ。「私は黙らない」と宣言し続けねばならない。

昨日の新宿「アルタ」前での若者たちの『私は黙らない』行動。セクハラ批判に声を上げた彼らの行動を頼もしいと思う。持ち寄られたカラフルなプラカードには、「With You」「どんな仕事でもセクハラは加害」「私は黙らない」などの文字。

ここでも「勇気を出して声をあげる」ことが大切なのだ。一人の声が、他の人の声を呼ぶ。多くの人が声を合わせれば、社会の不合理を変える。「萎縮して黙る」ことは、事態をより悪くすることにしかならない。

集会は「いつか生まれる私たちの娘や息子たちが生きる社会のため、ここから絶対に変えていきましょう」との言葉で締めくくられたそうだ。

安倍や麻生が権力を握るこの時代。ときに絶望を感じざるを得ないが、社会の不当に黙ることなく声を上げる人々がいる限り確かな希望は消えない。天皇や天皇制や叙勲についての不合理の指摘や批判の言論についても、黙してはならない。
(2018年4月29日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.