澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「沖縄県民投票」妨害の議決をした5市の議員も法的責任を免れない

2月24日投開票が予定されている「辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票」。住民の直接請求を受けて、沖縄県議会が可決した住民投票条例によるもの。その事務手続は、各市町村が代行することになっており、その費用は県が負担する。

この投票事務手続委任の趣旨を木村草太さんは、沖縄タイムスへの寄稿の中で次のように説明している。

「地方自治法252条の17の2は、「都道府県知事の権限に属する事務の一部を、条例の定めるところにより、市町村が処理することとすることができる」とする。今回の住民投票条例13条は、この規定を根拠に、投票に関する事務は「市町村が処理する」こととした。
 なぜそうしたのかと言えば、投票所の設置や投票人名簿の管理は、国や県よりも地元に密着した市町村が得意とする事務だからだ。つまり、今回の事務配分は、各市町村に投票実施の拒否権を与えるためではなく、あくまで県民投票を円滑に実施するためのものだ。」

この点を、沖縄県のホームページはこう解説している。

Q5 市町村事務に要する経費について
  市町村の事務の執行に要する経費については、地方財政法第28条の規定に基づいて全額、県が負担し、市町村に交付します。市町村が実施する投票に関する事務の主なものは「名簿の調整」、「投票の実施」、「開票の実施」に係る事務があります。

ところが、この投票事務手続に関して、県内5市(沖縄、宜野湾、うるま、宮古島、石垣)が実施を拒否して事実上の投票不参加を表明している。

この実施拒否はおそらくは違法だ。違法な上に、住民の意見表明の権利を侵害している。これは、官邸や自民党の意向を忖度した宮崎政久・自民党議員の煽動によるところが大きく、5市の関係者の責任は重く大きい。そのことは明確だが、いまどう対応すべきか、それが喫緊の課題となっている。

なによりも全国の世論の結集と糾弾が最重要であろう。それを背景に、県から総務省に緊急に要請して、同省から各市町村への行政指導を求めるのが、一つの手立てではないか。あるいは、5市の住民から、各市を被告とする直接型義務付け訴訟の提起と、仮の義務付けの申立(行政訴訟法第37条の5・1項)ができないだろうか。

ところで、一昨日(1月15日)、「2・24県民投票じのーんちゅ(宜野湾市民の意)の会」が、同市で記者会見し、市を相手とする投票権侵害に対する国家賠償請求訴訟に向けて、原告を募集することを発表した。当座の間に合わないが、これも、インパクトが大きい。
原告募集期間は、2月24日まで。宜野湾市に住む同県民投票の投票資格者を対象としている。訴額(損害賠償請求額)は1人1万円、費用負担は訴訟費・事務経費などで1人千円で、3月の提訴を目指しているという。

「同会共同代表の宮城一郎県議は、原告団の規模の目安は同県民投票を求める市内の有効署名数の4813人と発言。「お金で償ってもらうというのは本来の趣旨ではない。やはり私たちの権利を奪うことの償いとして、その罪を歴史に残す」と説明しました。会は並行して、松川市長に引き続き県民投票の参加を求めていく構えです。」(TBS) また、宜野湾だけでなく、宮古島などでも同様の動きがあるという。

関連して提案したい。この損害賠償請求の提訴には、宜野湾市だけでなく、松川市長個人も、県民投票参加に反対した保守系議員も被告にすべきではないだろうか。

地方自治法の規定によって、県から事務の委託を受けた市は、その執行の義務を負うものと解される。だからこそ、市長は受託事務の執行やその予算を議会に提案した。議会がこれを否決すると、市に義務がある限り、市長はその義務遂行のために、議案を再提案(再議)しなければならない。そして、再び否決されても、やはり市の義務の遂行のためには、否決された受託事務を執行しなければならない。

この義務に違反していることが明らかな市と市長が、損害賠償の義務を負うべきことは分かり易い。この点を、今話題の自民党・宮崎政久衆院議員が作成・配布した12月5日付「県民投票条例への対応について」と題する2頁の資料には、このように記されている。

3 市町村議会で予算案を否決した場合の取り扱い
 地方自治法177条第1項により、当該市町村長は再議に付さなければならない。
 再議における議会の議決で再度否決された場合は、同条第2項により、当該市町村長は当該予算案を原案執行することが可能である。
 しかし、この原案は執行することが「できる」のであって、議会で予算案が否決された事実を前に、これに反して市町村長が予算案を執行することは議会軽視であり、不適切である。

果たしてそうだろうか。もともと、市は県から委託された事務を執行する義務を負っている。この「できる」は、再否決によっても義務を免除されない意と読むべきであって、「執行してもしなくてもよい」意と解してはならない。行政庁が「できる」とされた権限の不行使が違法とされる例は、数多くある。

むしろ問題は、議案に反対した議員の責任である。

やはり、宮崎が作成した、12月8日付の「県民投票条例への対応に関する地方自治法の解釈」と表題する文書には、

「予算案を否決することに全力を尽くすべきである。議員が損害賠償などの法的な責任を負うことはない」

との一文が見える。明らかに無責任な煽動というしかない。「法的な責任を負うことはないのだから」と、「市の義務の執行のための予算案」を無責任に否決した議員を特定して、その責任を問わねばならない。煽動した宮崎も、煽動された議員側も、予算案を否決する議決に責任が伴うことは考えていないようだ。しかし、憲法51条の議員の発言・表決についての免責特権は国会限りのもので、地方議会の議員に適用はないとされている。私自身の経験でも、以下のような判例がある。

(1991年1月10日・岩手靖国訴訟仙台高等裁判所判決)
「県議会のした国の代表及び国賓による靖国神社公式参拝が実現されるよう強く要望するとの趣旨の決議が違憲無効であることを前提として,同決議を可決して県に同決議事項を内容とする意見書等の印刷費並びに同意見書等を内閣総理大臣,総理府総務長官及び衆,参両議院議長等に提出するための旅費の支出による損害を被らせたこと及び法律上の原因なく前記旅費の支給を受けたことを理由として提起された地方自治法242条の2第1項4号後段に基づく議員個人に対する損害賠償請求及び県議会議長に対する不当利得返還請求につき,議員の発言又は表決は,地方自治法99条2項所定の地方議会の議決がその後の司法判断により違法とされても,その議決当時,前記発言又は表決の対象となった議決の内容に関する法的解釈が分かれている状況にあった場合には,前記発言又は表決が憲法及び法令の遵守義務を負う議員としての見識に基づき,かつ,相当の根拠と合理性を有する法解釈に依拠している限り,違法と評価されるべきではなく,また,議長は,議決の違憲性又は違法性が一見明白でない限り,議決に従って職務を行うべきであるから,職務上の行為としてした意見書等の印刷及び意見書等の提出のための出張は,違法とはいえず,その行為のため支出された費用を取得しても不当利得とはならない」

議員に責任を負わせることはできなかったが、この高裁判例の射程距離からは、煽動された5市の議員らが「憲法及び法令の遵守義務を負う議員としての見識に基づき,かつ,相当の根拠と合理性を有する法解釈に依拠していない」ことが明らかである以上は、有責と考えざるを得ないではないか。

(2019年1月17日)

徴兵検査のない成人を迎えた若者に訴える。ぜひ主権者として、平和憲法擁護の自覚を。

本日(1月14日)は「成人の日」。数少ない、天皇制とは無縁の、戦後に生まれた祝日。「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」日(祝日法)とされている。関東は天気も晴朗。「みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」にふさわしい日となった。私も、この日に、若者諸君に祝意と励ましの言葉を贈りたい。

何をもって「成人」であることを自覚するかは、社会によって時代によって異なる。かつての日本では徴兵検査だった。その時代、すべての成人男子には否応なく兵役の義務が課せられた。男子にとって大人になるとは、天皇の赤子として、天皇の軍隊の兵士になる義務を負うことだった。軍人勅諭を暗唱し、行軍と殺人の訓練を受けた。戦地に送られ、命じられるままの殺戮を余儀なくもされた。

その時代、主権は天皇にあって国民にはなかった。立法権も天皇に属し、帝国議会は立法の協賛機関に過ぎなかった。女子には、その選挙権も被選挙権もなかった。その時代、天皇制を支えた家制度において女性は徹底的に差別され、民事的に「妻は無能力者」とされていた。

あり得ないことに、天皇は神を自称していた。もちろん、神なる天皇は操り人形に過ぎなかった。この天皇を操って権力や富をほしいままにした連中があって、その末裔が今の日本の保守政治の主流となっている。

天皇、戦争、女性差別は一体のものだった。そのような非合理な国は亡ぶべくして亡びた。国の再生の原理は、新しい憲法に確固として記載された。国民主権、平和、そして自由と平等である。徴兵制はなくなった。天皇に対する批判の言論も自由である。女性差別もなくなった…はずである。その憲法の「改正」をめぐって、いませめぎ合いが続いている。

平和も、国民主権も、性差のない平等も、言論の自由も、昔からあったものではない。これからずっと続く保障もない。現実に、憲法は一貫して「改悪」の攻撃に曝されている。徴兵検査のない成人式も、主権者の意識的な努力なければ、今後どうなるか定かではない。

私たち戦後間もなくの時代に育った世代は、日本国憲法の理念を積極的に受容して、今日までこの憲法を守り抜いてきた。しかし、この憲法をよりよい方向に進歩させることは今日までできていない。いま、せめぎ合っているのは、憲法を進歩させようという改正問題についてのことではない。大日本帝国憲法時代の「富国強兵」の理念を復活させようという勢力が力を盛り返そうとしているのだ。言わば、「成人男子には徴兵検査を」という時代への方向性をもった「憲法改悪」なのである。

今の若者は保守化していると言う言葉をよく聞く。しかし、今のままでよいじゃないかというほどの社会はできていない。今のままでは将来が不安だと若者たちも気付いているはずだ。

この世の不正義、この世の不平等、権力や資本の横暴、人権の侵害、平和の蹂躙、核の恐怖、原発再稼働の理不尽、沖縄への圧迫。格差貧困の拡大、過労死、パワハラ、セクハラ…。この世の現実は理想にほど遠い。若さとは、この現実を変えて理想に近づけようという変革の意志のことではないか。

若さとは将来という意味でもある。社会がよりよくなればその利益は君たちが享受することになる。反対に社会が今より悪くなればその不利益は君たちが甘受しなければならない。

君たちには多様な可能性が開けている。未来は、君たちのものだ。君たち自身の力で、未来を変えることができる。これから長く君たちが生きていくことになるこの社会をよりよく変えていくのは君たちだ。

さて、今年は、選挙の年だ。君たちの一票が、この国の命運を決める。とりわけ7月に予定の参院選。いまは、自・公・維・希の改憲勢力が、かろうじて議席の3分の2を占めている。この3分の2の砦を突き崩せば、安倍改憲の策動は阻止することができる。君たちの肩に、主権者としての責任が重くのしかかっている。

投票日だけの主権者であってはならない。常に、主権者としての自覚をもって、民主主義や人権・平和のために何ができるかを考える人であって欲しいと思う。

一つ、主権者としての自覚における行動を提案したい。DHCという、サプリメントや化粧品を販売している企業をご存知だろうか。その製品を一切購入しない運動に参加して欲しい。商品の積極的不買運動、ボイコットでこの企業に反省を迫ろうというのだ。

DHCとは、デマとヘイトとスラップをこととする三拍子揃った企業。その会長である吉田嘉明が在日や沖縄に関する差別意識に凝り固まった人物。電波メディアを使って、デマとヘイトの放送を続けている。そして、吉田嘉明とDHCは、自分を批判する言論に対するスラップ(言論抑圧を動機とする高額損害賠償訴訟)濫発の常習者でもある。詳しくは、当ブログの下記URLを開いて、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズをお読みいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?cat=12

あなたがなんとなくDHC製品を買うことが、デマとヘイトとスラップを蔓延させることになる。あなたの貴重なお金の一部が、この社会における在日差別の感情を煽り、沖縄の基地反対闘争を貶める。また、安倍改憲の旗振りに寄与することにもなる。

言論の自由を圧迫するスラップ訴訟は、経済合理性を考えればあり得ない。しかし、DHCの売り上げの一部が、こんな訴訟を引き受ける弁護士の報酬にまわることにもなる。

DHC製品不買は、「消費者主権」にもとづく法的に何の問題もない行動。意識的にDHC製品を購入しないだけで、この社会からデマとヘイトとスラップをなくすることができる。若者たちに訴える。ぜひ、主権者としての自覚のもと、「DHC製品私は買わない」「あなたも買っちゃダメ」と多くの人に呼びかけていただきたい。投票日だけの主権者ではない、自覚的な主権者の一人として。
(2019年1月14日)

アベ内閣は、「あたらしい憲法のはなし『地方自治』」をよくお読みなさい

私は、文部省発行の中学生教科書「あたらしい憲法のはなし」(1947年発行)を批判的に紹介してきた。しかし、この教科書は、発刊間もなく保守政治から嫌われ、逆コースのなかで姿を消したものである。表面にこそ出てこないが、「平和主義に傾きすぎている」「政治の現実に合わない」「憲法解釈がリベラルに過ぎる」と、右から批判されたのであろう。憲法をないがしろにしてきた保守政権にとっては、この水準でも耳が痛いのだ。とりわけ、アベ内閣の沖縄政策は、日本国憲法の地方自治を蹂躙するもの批判せざるを得ない。じっくりと、この中学1年生向けの教科書で勉強をし直さねばならない。(以下の青字が教科書の記載。赤字が、その沖縄への具体的な適用である)

十三 地方自治
 戰爭中は、なんでも「國のため」といって、國民のひとりひとりのことが、かるく考えられていました。しかし、國は國民のあつまりで、國民のひとりひとりがよくならなければ、國はよくなりません。それと同じように、日本の國は、たくさんの地方に分かれていますが、その地方が、それぞれさかえてゆかなければ、國はさかえてゆきません。

 戰爭中の沖縄の人々は、「天皇のため國のため」だけでなく「本土の捨て石になる」よう強いられました。本土決戦の時期を遅らせるための沖縄地上戦は、「天皇も國も本土も」、沖縄県民ひとりひとりのことなどまったく考えていなかったことをよく示しています。この地上戦で、沖縄県民の4人にひとりが殺されているのです。戦後も、天皇は沖縄をアメリカに差し出して占領を続けるよう要請し、「本土」の独立をはかりました。今も、沖縄には米軍の基地が密集して、沖縄の経済の発展を妨げています。しかし、沖縄も他の県と同じように、日本の一部としてさかえてゆかなければなりません。外の地方が、沖縄を犠牲にすることは許されないのです。

 

 そのためには、地方が、それぞれじぶんでじぶんのことを治めてゆくのが、いちばんよいのです。なぜならば、地方には、その地方のいろいろな事情があり、その地方に住んでいる人が、いちばんよくこれを知っているからです。じぶんでじぶんのことを自由にやってゆくことを「自治」といいます。それで國の地方ごとに、自治でやらせてゆくことを、「地方自治」というのです。

 沖縄が発展するためには、沖縄がじぶんでじぶんのことを治めてゆくのが、いちばんよいのです。なぜならば、沖縄には、沖縄のいろいろな事情があり、沖縄に住んでいる人が、いちばんよくこれを知っているからです。國の地方ごとに、じぶんでじぶんのことを自由にやってゆくことを「地方自治」というのです。もちろん、沖縄にも自治の権利があります。

 

 こんどの憲法では、この地方自治ということをおもくみて、これをはっきりきめています。地方ごとに一つの團体になって、じぶんでじぶんの仕事をやってゆくのです。東京都、北海道、府県、市町村など、みなこの團体です。これを「地方公共團体」といいます。

 こんどの憲法では、この地方自治ということをおもくみて、これをはっきりきめています。地方ごとに一つの團体になって、じぶんでじぶんの仕事をやってゆくのです。東京都、北海道、府県、市町村など、みなこの團体です。これを「地方公共團体」といいます。沖縄県も「地方公共團体」です。國は、その自治をみとめ、住民の意思を尊重しなければなりません。

 

 もし國の仕事のやりかたが、民主主義なら、地方公共團体の仕事のやりかたも、民主主義でなければなりません。地方公共團体は、國のひながたといってもよいでしょう。國に國会があるように、地方公共團体にも、その地方に住む人を代表する「議会」がなければなりません。また、地方公共團体の仕事をする知事や、その他のおもな役目の人も、地方公共團体の議会の議員も、みなその地方に住む人が、じぶんで選挙することになりました。

 もし國の仕事のやりかたが、民主主義なら、地方公共團体の仕事のやりかたも、民主主義でなければなりません。地方公共團体は、國のひながたといってもよいでしょう。國に國会があるように、沖縄にも、県民を代表する「沖縄県議会があり、沖縄県知事もいます。みな沖縄に住むひとびとの選挙で選ばれています。今度の沖縄県知事選挙では、住民の意思を尊重しなければならない國が、自分の言うことを聞く人を知事にしようと一方を応援しました。これは、憲法の立場からはとてもおかしなことです。でも、沖縄の人々は、國が応援する人ではなく、自分たちのために働いてくれる人を選びました。沖縄の自治が根付いていることをよく表しています。

 

このように地方自治が、はっきり憲法でみとめられましたので、ある一つの地方公共團体だけのことをきめた法律を、國の國会でつくるには、その地方に住む人の意見をきくために、投票をして、その投票の半分以上の賛成がなければできないことになりました。
 みなさん、國を愛し國につくすように、じぶんの住んでいる地方を愛し、じぶんの地方のためにつくしましょう。地方のさかえは、國のさかえと思ってください。

 このように地方自治が、はっきり憲法でみとめられましたので、國は沖縄県の自治を尊重し、沖縄県民の意思を代表している玉城デニー知事の意見をよく聞かなければなりません。もちろん、あと2か月後にせまった住民投票の結果も厳粛に受けとめなければなりません。
 いま、沖縄県民は一致して、危険で生活の邪魔になり、経済発展の障害にもなっている米軍基地を減らせ、新しい基地を作ってはならないと、國に訴えています。また、県民の多くの人が、苦しかった戦争体験から平和を願う立場で、辺野古の新基地建設に反対しています。ところが、國は沖縄県民の意思を無視して、基地建設を強行しています。
 みなさん、誰もがじぶんの住んでいる地方を愛しています。沖縄の人たちもまったく同じです。また、沖縄のさかえは、國のさかえです。いま、沖縄で起こっている問題は、決して「沖縄の問題」ではなく、「この國のありかたの問題」なのです。他人ごととして見過ごすことなく、我がこととして、横暴なアベ政治に批判の声を上げてください。それが、日本国憲法からのお願いです。

(2018年12月29日・連続更新2099日)

プーチンが 安倍に諭した 民主主義

表面上は至極真っ当な発言も、発言者が誰であるかでニュアンスは大きく変わってくる。「あれが真意であるわけはない」「裏があるに違いない」と勘繰りが先に立つのだ。場合によっては、字面とは真逆の真意が忖度されることにもなる。アベが言う「丁寧な説明」や「積極的平和主義」はその典型だろう。麻生太郎が口にした「セクハラ罪はない」や、河野太郎の「次の質問をどうぞ」も同類。

しかし他方、裏があるにせよ、真っ当なことには反論なしがたい。真っ当な発言はその内容ゆえに、真意の忖度とはかかわりなく、発言の重みをもつこともある。とりわけ、発言の相手がよほど真っ当ならざる場合には。

伝えられるプーチンの沖縄辺野古問題への言及も、その真意の忖度を超えた発言の重みを認めざるを得ない。なにせ、批判の対象が安倍晋三なのだから。

「ロシアのプーチン大統領は20日に開いた年末恒例の記者会見で、ロシアが北方領土を日本に返した場合に米軍基地が置かれる可能性について、『日本の決定権に疑問がある』と述べた。安倍晋三首相はプーチン氏に北方領土には米軍基地を置かない方針を伝えているが、プーチン氏は実効性に疑問を呈した形だ。」

さらにプーチンは、「(米軍基地問題について)日本が決められるのか、日本がこの問題でどの程度主権を持っているのか分からない」「平和条約の締結後に何が起こるのか。この質問への答えがないと、最終的な解決を受け入れることは難しい」と言及し、安倍晋三の言の実効性を疑問視する理由を、辺野古基地建設問題を挙げて、こう発言したという。

「(沖縄県)知事が基地拡大に反対しているが、何もできない。人々が撤去を求めているのに、基地は強化される。みなが反対しているのに計画が進んでいる」。これが、「日本の主権のレベルを疑ってしまう」につながる。だから、2島返還後米軍基地が置かれる可能性を否定できないではないか。アベの言は信を措けない、との結論となる。

毎日の記事が具体的である。

 日本が配備する米国製のミサイル防衛(MD)システムに関し、プーチン氏は「防衛目的だと(いう日本の説明)は信じていない。システムは攻撃能力を備えている」と語った。ロシアは、日本が配備予定の陸上配備型迎撃ミサイルシステム「イージス・アショア」にも懸念を表明している。

 また、沖縄県の玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、米軍普天間飛行場の移設計画に伴い同県名護市辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて日本の主権のレベルを疑ってしまう」と批判的な見解を示した。

 さて、このプーチン発言。来月(19年1月)中旬から始まる日露の北方領土返還交渉の前哨戦と解説されているが、これが改憲問題に絡むかも知れないということで注目せざるを得ない。一部の観測では、今八方ふさがりの安倍政権にとって、唯一の点数稼ぎの展望が、「日露平和条約」の締結。「2島返還+α」を「現実的成果」として、ジリ貧挽回の解散だってないではないという。

安倍政権は、いまやあれもこれもうまく行っていない。経済も、原発も、沖縄も、国会運営も行き詰まっている。何よりも、ウソとごまかしにまみれたイメージが色濃く定着し、「信なければ立たず」という政治不信のジリ貧状態。トランプとも、習近平とも、韓国ともうまくやれない。そこに、プーチンの平和条約締結の提案。これがうまく行けば、タイミングを見計らっての解散総選挙。乾坤一擲の勝負に勝てば、改憲の目がまだ残されているというのだ。

興味深いのは、「沖縄県の玉城デニー知事や住民の反対にもかかわらず、…辺野古沿岸への土砂投入が始まったことについて『日本の主権のレベルを疑ってしまう』」とされたこと。安倍が、民主主義や地方自治の精神について、プーチンから諭されている図。さすがに、プーチンには言われたくないが、アメリカへの過剰な義理立てが、他国には尋常でない国における尋常ならさる事態と映っているのだ。

住民の意思を蹂躙して、宗主国への思惑忖度を優先する「独立国」にあるまじき奇矯な行動。プーチンにまで、『日本の主権のレベルを疑ってしまう』と言われたことを恥辱ととらえなければならない。そうではないか。首相よ、外務大臣よ。そして防衛大臣と国交大臣よ。
(2018年12月24日)

アベ独白 ― 「沖縄の皆様の心に寄り添う」の真意

「沖縄県民に寄り添う」っていう、私の例のフレーズ。最近とみに評判が悪い。冗談の分からない人々が真に受けちゃって、本気になって批判しているから始末にこまる。「沖縄県民に寄り添う気持があるなら、辺野古の埋立は直ちに中止して、県民投票の結果を待つべきだ」なんてね。私がそのとき任せの口先だけでものを言っているのが、分からないんだろうかね。

「県民の皆様に寄り添う」って、私がこの頃急に言い始めたわけじゃない。一昨年(2016年)6月23日の「沖縄全戦没者追悼式典」あたりが初めてのことだったように思う。このときの式辞で、私は「沖縄県民の皆様方の気持ちに寄り添いながら、成果を上げていきたいと考えています。」と言っている。少しも具体性はないけど、なんとなく上手にその場を取り繕うフレーズとして、よくできていると思うんだ。

なにしろ沖縄は、政権にとっては完全にアウエイの雰囲気。全国どこでもたいてい私が顔を出すところは、物欲しげな物わかりよい常識人ばかりが集まってくる。だから、みんなが私をチヤホヤもし、忖度もしてくれる。それが首相たる私に対するエチケットというものだろう。ところが、広島だの長崎だの沖縄となると話しが別だ。ガチな雰囲気なんだ。誰も物欲しそうにしていないから、始末に悪い。こんなところでは、「県民の皆様に寄り添う」って、リップサービスをせざるを得ない。そのときより前にも「寄り添う」をつかったかも知れないが、もう忘れてしまった。何しろ、口先だけのことなんだから。

今年(2018年)6月23日の、「沖縄全戦没者追悼式」でも、式辞を「今後とも沖縄の皆様の心に寄り添いながら負担軽減を進めていく考えであります。」と締めくくった。

「沖縄の皆様の心に寄り添い」って何のことだか、しゃべっている私にもよく分からない。でも、分からないなりに、なんとなくそれなりの雰囲気は出ているじゃないの。それに、ちゃっかり「今後とも」と入れたから、「これまでも皆様の心に寄り添ってきた」ことになる。うまくやったと思ったんだ。だけどあのとき、翁長雄志さんから、刺すような険しい目でにらまれて、正直恐かったね。鬼気迫るオーラが漂っていた。

今年8月6日の「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の挨拶でも、「寄り添う」の使い回しをした。被爆者の方々に寄り添いながら、今後とも、総合的に推進してまいります。」とね。ああ、このフレーズ便利だ。いろんなところで使える。

次は、10月9日。翁長雄志さんの県民葬。そこで、官房長官が私の弔辞を代読した。そのときの起案の中に、「県民の気持ちに寄り添いながら沖縄の振興・発展に全力を尽くす」というフレーズを入れたんだ。ところが、これに反応して怒声が飛んだ。県民参列者からの「帰れ!」「嘘つき!」「いつまで沖縄に基地負担を押しつけるんだ」などなど。葬儀の場で怒号が飛び交うのは珍しい光景だろう。県民の相当数が、翁長さんの命を縮めたのは、安倍と菅だと思い込んでいる様子なんだ。それにしても、「嘘つき」と言われるのは応える。思い当たるから、なおさらだ。

続いて10月12日官邸に玉城新知事を迎えての会談の席。変わり映えしないが、プロンプターを覗き込みながら、こう言った。
「戦後70年がたった今なお、米軍基地の多くが沖縄に集中しているという大きな負担を担っている。この現状は到底、是認できるものではない。今後とも、県民の皆さまの気持ちに寄り添いながら、基地負担の軽減に向けて一つひとつ着実に結果を出していきたい」

そして10月24日。臨時国会冒頭の所信表明演説にも、このフレーズを入れ込んだ。「今後も、抑止力を維持しながら、沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減に、一つひとつ、結果を出してまいります」とやった。

「今後も」「抑止力を維持しながら」というんだから、これまでとすこしも変わらないつもりだったんだが、「沖縄の皆さんの心に寄り添い」がひとり歩きを始めたようだ。本気で言ってるわけじゃないから、痛し痒しというところ。

こんな風に「沖縄の皆さんの心に寄り添い」と繰りかえしながら、辺野古の海を埋め立てて新基地を作る方針を変えたことはない。こういうことは、ブレてはいけないんだ。

沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減に、結果を出してまいります」と国会で演説したのが10月24日。そして、11月1日には辺野古埋立の工事再開に踏み切ったのだから、まあ、少しは早かったかもしれないな。さらに、大浦湾に土砂投入を開始したのが12月14日。「嘘つき」呼ばわりも無理はなかろう。

でも、私も「ご飯論法」のアベだ。まったく言い分がないわけでもない。

まず、私は、確かに「沖縄の皆さんの心に寄り添い」とは言ったよ。だけど、「沖縄の皆さんだけの心に寄り添い」とは言っていない。わざわざ口に出さなくても、本土の皆さんや、私の支持基盤である右翼の皆さん。あるいは、アメリカ政府の皆さんなど、「多くの方々の心にも寄り添」わなくてはならない。だから、心ならずも、沖縄の皆さんを失望させることもあるのは、やむを得ない。

それだけじゃない。「沖縄の皆さん」も一色ではない。当然に、寄り添うべき心も千差万別じゃないか。かならずしも辺野古新基地建設反対だけが、寄り添うべき心だとは思えない。自然を破壊しても、騒音や事故が頻発しても、軍事基地を作っていただきたい、という沖縄の心だって、探せばあるはず。中国や北朝鮮の脅威から我が国を防衛するための基地建設なんだから、アベ政権に協力したいという「声なき声」をよく聞かなければならない。
耳を澄ますと、ほら、そういう右側からのかすかな声が、私だけにははっきりと聞こえてくるんだ。

(2018年12月19日)

辺野古埋立は「第4の琉球処分」、12月14日は「沖縄屈辱の日」。

暴走政権の辺野古土砂投入の強行が12月14日。翌15日付の琉球新報社説が、よく意を尽くして説得的であり印象的でもある。これは、県外の多くの人々に読んでもらうべきだろう。全文を引用したい。
https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-849072.html

社説の標題は、「辺野古へ土砂投入 第4の『琉球処分』強行だ」

 この光景は歴史に既視感を覚える。沖縄が経験してきた苦境である。
 
 政府は、名護市辺野古沿岸に米海兵隊の新基地を造るため埋め立て土砂を投入した。昨年4月の護岸着工以来、工事を進める政府の姿勢は前のめりだ。9月の知事選で新基地に反対する玉城デニー知事誕生後わずか約1カ月後に工事を再開し、国と県の集中協議中も作業を進めた。手続きの不備を県に指摘されても工事を強行し土砂を投入したのは、基地建設を早く既成事実化したいからだ。
 県民の諦めを誘い、辺野古埋め立ての是非を問う県民投票に影響を与えたり、予想される裁判を有利に運ぼうとしたりする狙いが透けて見える。

 辺野古の問題の源流は1995年の少女乱暴事件にさかのぼる。大規模な県民大会など事件への抗議のうねりが沖縄の負担軽減に向けて日米を突き動かし、米軍普天間飛行場の返還合意につながった。
 ところが返還は県内移設が条件であるため曲折をたどる。関係した歴代の知事は県内移設の是非に揺れ、容認の立場でも、使用期限や施設計画の内容などを巡り政府と対立する局面が何度もあった。
 5年前、県外移設を主張していた仲井真弘多前知事が一転、埋め立てを承認したことで県民の多くが反発。辺野古移設反対を掲げる翁長県政が誕生し玉城県政に引き継がれた。県内の国会議員や首長の選挙でも辺野古移設反対の民意が示されている。
 今年の宜野湾、名護の両市長選では辺野古新基地に反対する候補者が敗れたものの、勝った候補はいずれも移設の是非を明言せず、両市民の民意は必ずしも容認とは言えない。本紙世論調査でも毎回、7割前後が新基地建設反対の意思を示している。そもそも辺野古新基地には現行の普天間飛行場にはない軍港や弾薬庫が整備される。基地機能の強化であり、負担軽減に逆行する。これに反対だというのが沖縄の民意だ。

 その民意を無視した土砂投入は暴挙と言わざるを得ない。歴史的に見れば、軍隊で脅して琉球王国をつぶし、沖縄を「南の関門」と位置付けた1879年の琉球併合(「琉球処分」)とも重なる。日本から切り離し米国統治下に置いた1952年のサンフランシスコ講和条約発効、県民の意に反し広大な米軍基地が残ったままの日本復帰はそれぞれ第2、第3の「琉球処分」と呼ばれてきた。今回は、いわば第4の「琉球処分」の強行である。
 歴史から見えるのは、政府が沖縄の人々の意思を尊重せず、「国益」や国策の名の下で沖縄を国防の道具にする手法、いわゆる植民地主義だ。

 土砂が投入された12月14日は、4・28などと同様に「屈辱の日」として県民の記憶に深く刻まれるに違いない。だが沖縄の人々は決して諦めないだろう。自己決定権という人間として当然の権利を侵害され続けているからだ。

「琉球処分」は、明治政府の強権による沖縄に対する廃藩置県である。1879年3月、政府は軍隊と警察力を動員した威嚇のもと、琉球藩を廃し沖縄県設置を強行した。旧国王尚氏は東京移住を命じられ、琉球王国は約500年にわたる歴史を閉じた。

これに、擬して「第2の琉球処分」と言われるものが、第2次大戦後1952年のサンフランシスコ講和条約発効で、本土とは切り離されて米軍の統治下におかれたことを指す。これがなぜ「琉球処分」なのか。昭和天皇(裕仁)の沖縄切り捨ての意向が、米国に伝えられていたからだ。1947年9月20日付のいわゆる「天皇メッセージ」(宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモ)によれば、既に政治的権能を失ったはずの天皇が、「米軍の沖縄駐留について『25年ないし50年あるいはそれ以上の長期』を求めた。訪米する外相に向かって『米軍撤退は不可なり』とわざわざ念を押した」ともいう。

さらに、1972年の沖縄返還は、県民の意に反し広大な米軍基地が残ったままの日本復帰となった。「核と基地」を沖縄に押しつけ続けてきた政府の姿勢を「第3の琉球処分」と表現したのだ。

琉球新報社説は、辺野古土砂投入の蛮行を、「歴史に既視感を覚える」とし、「第4の『琉球処分』強行だ」とした。「この光景は沖縄が経験してきた」という苦境は、自然災害による苦境ではない。戦争による苦境ですらない。本土の政府から民意を蹂躙され続けた歴史を「苦境」と言っているのだ。

県外の我々は、沖縄に「苦境」を押しつけた側として、真摯に襟を糺さなければならないと思う。

もう一つ。沖縄県の公式ホームページが玉城知事の12月14日コメント全文を掲載している。これも意を尽くした内容で、国民みんなが目を通すべきものだと思う。その内容に共感して、これを引用する。
 https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/henoko/documents/301214chijikomento.pdf

知事コメント(土砂投入について)

 本日、普天間飛行場代替施設建設事業に係る名護市辺野古の工事現場に職員を派遣したところ、土砂投入作業が行われたことを確認しました。沖縄県が去る8月31日に行った埋立承認撤回に対して沖縄防衛局が、行政不服審査制度を悪用し、自らを「固有の資格」ではなく私人と同様の立場であるとして、審査請求及び執行停止申立てを行ったことは違法であり、これを受けて国土交通大臣が行った執行停止決定もまた、違法で無効であります。
 県は、このような違法な執行停止決定の取消しを求めて去る11月29日に国地方係争処理委員会に審査を申し出ておりますが、同委員会での審査は済んでおらず、現時点において何ら、本件執行停止決定に係る法的な判断は示されておりません。

 また、県は、去る12月12日に、沖縄防衛局に対して行政指導文書を発出し、違法無効な本件執行停止決定を根拠として埋立工事を行うことは許されないこと等から、エ事を進めることは断固として容認できず、ましてや土砂を投入することは絶対に許されないとして、直ちに工事を中止するよう強く求めたところであります。

 私は、昨日、菅官房長官及び岩屋防衛大臣と面談し、行政指導文書の内容を説明するとともに、違法な土砂投入を行うことは決して容認できないことを伝え、改めて土砂投入の中 止を強く要求しました。それにもかかわらず、国が、このような県の要求を一顧だにすることなく土砂投入を強行したことに対し、激しい憤りを禁じ得ません。

 国は、一刻も早く工事を進めて既成事実を積み重ね、県民をあきらめさせようと躍起になっていますが、このような行為は、逆に沖縄県民の強い反発を招き、工事を強行すればするほど県民の怒りはますます燃え上がるということを認識するべきであります。

 数々の違法な行為を行い、法をねじ曲げ、民意をないがしろにし、県の頭越しに工事を進めることは、法治国家そして国民に主権があるとする民主主義国家において決してあって はならないことであります。

 国が、地方の声を無視し、法をねじ曲げてでも国策を強行するやり方は、地方自治を破壊する行為であり、本県のみならず、他の国民にも降りかかってくるものと危惧しております。

 沖縄県民、そして全国民の皆様には,このような国の在り方をしっかりと目に焼き付け、心に留めていただき、法治国家そして民主主義国家としてあるまじき行為を繰り返す国に対し、共に声を上げ、共に行勤していただきたいと思います。現時点ではまだ埋立工事全体の一部がなされているにすぎず、また、工事の権限のない者によって違法に投入された土砂は、当然に原状回復されなければなりません。

 県としては、国地方係争処理委員会への審査申出など、執行停止の効力を止めることに全力をあげているところであり、今回土砂を投入したとしても、今後、軟弱地盤等への対応が必要であり、辺野古新基地の完成は見通せないものであります。

 普天間飛行場の5年以内運用停止を含む危険性の除去は喫緊の課題であり、県としては、今後13年以上にも及ぶ固定化は認められません。今後も引き続き、同飛行場の一日も早い閉鎖・返還・県外・国外移設及び運用停止を含む危険性の除去を政府に対し、強く求めてまいります。

 私は、多くの県民の負託を受けた知事として、ぶれることなく、辺野古新基地建設に反対するという民意に添い、その思いに応えたいと思いますので、県民・国民の皆様からも一層の御支援、御協力をいただきますよう、よろしくお願い申し上げます。
 平成30年12月14日 沖縄県知事 玉城デニー

(2018年12月17日)

「民意は海に埋められない」 ― 辺野古土砂投入に抗議する。

今日も、辺野古の海が泣いている。大浦湾に土砂が投入されたことの怒りがおさまらない。何もできなことがもどかしいが、せめて声を上げよう。「アベ・無法政権の暴走を糺弾する」と。

昨日(12月15日)、玉城知事は、就任後初めて辺野古のキャンプ・シュワブゲート前を訪問して、座り込みの人々を激励した。安倍政権による辺野古埋め立て土砂投入強行に対して、知事は「打つ手は必ずある。われわれのたたかいはとまりません」と力説。「国の暴挙に対して、本当の民主主義を求めるという私たちの思いは全国のみなさんも共感しています。そのことも確かめてがんばっていきましょう」「(政府との)対話の気持ちはこれからも継続していく。しかし、対抗すべき時は対抗していく」「われわれは決してあきらめない。勝つことはあきらめないことです」と呼びかけ、拍手に包まれたという。

ある報道では、知事は「勝つことは難しいかもしれないが、絶対に諦めない」とも述べたという。これは、示唆に深い。「勝てるから闘う」のではない。理不尽に、怒りを燃やして闘うのだ。相手は強く大きい。だから、「もしかしたら勝つことは難しいかもしれない」。しかし、「絶対に闘い抜く。諦めない」。「あきらめるとは、自ら勝利を放棄することだ」「あきらめることなく、できることはすべてやる」という闘いの決意なのだ。

本日(12月16日)、共同通信の世論調査結果が発表された。

辺野古の土砂投入、支持しないは56%。
共同通信の世論調査によると、政府が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設先、名護市辺野古沿岸部への土砂投入を始めたことについて、移設を進める政府の姿勢を支持しないとの回答は56.5%だった。支持は35.3%。

私は、この調査の結果に頗る不満である。支持派の35%の諸君、恥を知れ。キミたちには、県民に寄り添うと言いながらこの暴挙に出た政権に対する怒りはないのか。沖縄が本土のための犠牲になり続けてきた歴史を知らないとでもいうのか。やっかいなものを沖縄に押しつけて安閑としていることを、やましいとも後ろめたいとも思わないのか。取り返しのつかない自然環境の破壊に心が痛まないのか。

ところで、闘争はときに名文句を生む。砂川では、「土地に杭は打たれても 心に杭は打たれない」が人々の口にのぼった。今度は、民意は海に埋められない」だ。期せずして、朝日・毎日・東京の各社説が似たフレーズを記事にした。

この件では、各紙の社説に情も熱もこもっているものが多い。
朝日と毎日とは、はからずもタイトルがそろった。朝日が「辺野古に土砂投入 民意も海に埋めるのか」とし、毎日が「辺野古の土砂投入始まる 民意は埋め立てられない」とした。両紙とも、ボルテージが高い。

朝日 「『辺野古ノー』の民意がはっきり示された県知事選から2カ月余。沖縄の過重な基地負担を減らす名目の下、新規に基地を建設するという理不尽を、政権は力ずくで推進している。」「政府の振る舞いはこの1年を見るだけでも異様だった。」「その首相をはじめ政権幹部が繰り返し口にするのが『沖縄の皆さんの心に寄り添う』と『辺野古が唯一の解決策』だ。本当にそうなのか。」
そして、本土の人々に「わがこと」として考えようと呼びかけ、最後をこう締め括っている。
「沖縄に対する政権のやり方が通用するのであれば、安全保障に関する施設はもちろん、『国策』や『国の専権事項』の名の下、たとえば原子力発電所や放射性廃棄物処理施設の立地・造営などをめぐっても、同じことができてしまうだろう。そんな国であっていいのか。苦難の歴史を背負う沖縄から、いま日本に住む一人ひとりに突きつけられている問いである。」

毎日 「わずか2カ月半前に示された民意を足蹴にするかのような政府の強権的姿勢に強く抗議する。米軍普天間飛行場の辺野古移設工事で、政府は埋め立て予定海域への土砂投入を開始した。埋め立てが進めば元の自然環境に戻すのは難しくなる。ただちに中止すべきだ。9月末の沖縄県知事選で玉城デニー氏が当選して以降、表向きは県側と対話するポーズをとりつつ、土砂投入の準備を性急に進めてきた政府の対応は不誠実というほかない。
……
 沖縄を敵に回しても政権は安泰だと高をくくっているのだとすれば、それを許している本土側の無関心も問われなければならない。仮に将来移設が実現したとしても、県民の憎悪と反感に囲まれた基地が安定的に運用できるのか。埋め立て工事は強行できても、民意までは埋め立てられない。」

東京新聞は、さらに厳しい。
「辺野古に土砂 民意も法理もなき暴走
群青の美(ちゅ)ら海とともに沖縄の民意が埋め立てられていく。辺野古で政権が進める米軍新基地建設は法理に反し、合理性も見いだせない。工事自体が目的化している。土砂投入着手はあまりに乱暴だ。
 重ねて言う。
 新基地建設は、法を守るべき政府が法をねじ曲げて進めている。なぜそこに新基地が必要か。大義も根底から揺らいでいる。直ちに土砂投入を中止し虚心に計画を見直す必要があろう。
これ以上の政権の暴走は、断じて許されない。」

これと対極にあるのが、言わずと知れた産経である。街頭右翼ががなり立てているあの大音量のスピーカーを聞かされている心地である。

「辺野古へ土砂投入 普天間返還に欠かせない
市街地に囲まれた普天間飛行場の危険を取り除くには、代替施設への移設による返還が欠かせない。日米両政府による普天間飛行場の返還合意から22年たつ。返還へつながる埋め立てを支持する。

翁長雄志前知事や玉城デニー知事らの反対や、「最低でも県外」と言った鳩山由紀夫首相(当時)による迷走が、返還に結びつく移設を妨げてきたのである。玉城知事は「激しい憤りを禁じ得ない。県民の怒りはますます燃え上がる」と土砂の投入に反発して、移設阻止に取り組む考えを示した。だが、知事は、移設が遅れるほど普天間飛行場周辺に暮らす宜野湾市民が危険にさらされ続ける問題を無視してはならない。

 沖縄の島である尖閣諸島(石垣市)を日本から奪おうとしている中国は、空母や航空戦力、上陸作戦を担う陸戦隊(海兵隊)などの増強を進めている。北朝鮮は核・ミサイルを放棄していない。沖縄の米海兵隊は、平和を守る抑止力として必要である。安倍晋三首相ら政府は反対派から厳しい批判を浴びても移設を進めている。県民を含む国民を守るため現実的な方策をとることが政府に課せられた重い責務だからだ。沖縄を軽んじているわけではない。

来年2月24日には辺野古移設の是非を問う県民投票が予定されている。普天間返還に逆行し、国と県や県民同士の対立感情を煽(あお)るだけだ。撤回してもらいたい。」

おそらくは、この産経社説の論調がアベ政権のホンネ。アベ政権のホンネをあからさまに語る論説として貴重なのだ。恐るべきかな産経、恐るべきかなアベ政権。
(2018年12月16日)

「辺野古の海を壊すな」「平和を壊すな」「民主主義を壊すな」「決してあきらめない」 ― 辺野古土砂投入に抗議する。

本日(12月14日)、アベ政権は辺野古新基地建設のための大浦湾埋立工事を強行して、護岸から海中に土砂の投入を開始した。

土砂投入が始まったのは本日午前11時ごろ。名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブの南側で、護岸からダンプカーが土砂を下ろし、その土砂をブルドーザーが海へ押し出した。工事は午後も続き、埋め立ての土砂が次々と運び込まれた。(朝日デジタル)

緊急に辺野古で1000人の抗議集会が組まれた。「埋め立てやめろ」だけでなく、「あきらめない」がスローガンになっていたという。

政権は、沖縄県民の、そして全国の平和を願う人々の「あきらめ」を狙っている。それが、人々の共通認識だ。だから、今、「あきらめることなく、抗議の声をあげ続けること」それが最も大切なことではないか。

玉城知事は県庁で緊急記者会見を開き、「法をねじ曲げ、民意をないがしろにして工事を進めるのは、法治国家、民主主義国家としてあるまじき行為だ」と厳しく批判。「国は一刻も早く工事を進めて既成事実を積み重ねて県民を諦めさせようと躍起だが、工事を強行すればするほど県民の怒りは燃え上がる」と指摘し、移設阻止のために「あらゆる手段を講じる」と強調した。 (毎日)

朝日は、稲嶺進・名護前市長の声をこう紹介している。

「沖縄に『もう引き返せない』という空気を作りたいのだろうが、あまりに乱暴だ。移設工事が進んでいると見せるための、国民と米国に向けたパフォーマンスでしかない」。
「沖縄は戦後ずっと民主主義も地方自治もない、憲法の『番外地』だった。その上、さらに「新たな基地」を受け入れることはできない」。
「2010年の初当選後、政府から市への米軍再編交付金が打ち切られ、中学校体育館の建て替え事業など市の13事業が宙に浮いた。むき出しの「アメとムチ」を肌身で感じた。」
「政府が悪いことをした時、止める方法がこの国にはない。無人のダンプカーが暴走するようだ」
「あきらめはない。土砂投入が始まったといっても、私たちは何も変わらないですよ」

私(澤藤)は、今年(2018年)5月、辺野古でグラスボートに乗り、1時間近く、辺野古近海海底の珊瑚礁を目にした。あの美ら海が壊されるのかと思うと、胸が痛む。毎日夕刊は、「大浦湾には、生物5806種の生物が確認され、うち262種が絶滅危惧種」と報じている。世界遺産となった屋久島や小笠原諸島よりも多いのだという。「『やめろ』美ら海に叫び」という見出しが痛々しい。

アベ政権が押し通そうとしている「辺野古の海を壊す」ことは、「平和を壊す」ことでもあり、「沖縄県民の民意を蹂躙する」ことでもあり、そして「民主主義を壊す」ことでもある。まだまだ闘う手段は残されている。決してあきらめることなく、声をあげ続けたい。

下記は、昨日付の自由法曹団の声明である。私の気持ちにピッタリなので、これを転載しておきたい。
(2018年12月14日)
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 日本政府の辺野古海域への土砂投入方針の撤回を求める声明

今年9月に行われた沖縄県知事選挙で、辺野古新基地建設反対を掲げ、「オール沖縄」の支援を受けた玉城デニー現沖縄県知事が、安倍政権の全面支援を受けた佐喜真淳候補に8万票以上の圧倒的大差をつけて勝利した。辺野古新基地建設反対は圧倒的多数の沖縄県民の意思である。

 しかし、日本政府は、行政不服審査法を悪用して、埋め立て承認撤回の効力を停止させた上、12月14日にも辺野古新基地建設に伴う埋め立て土砂の投入を強行しようとしている。こうした日本政府の方針は、沖縄県知事選挙で示された沖縄県民の意思を真っ向から踏みにじるものであり、断じて許されない。

 しかも、日本政府は、土砂投入のため、12月3日に名護市安和にある民間桟橋から土砂搬出作業を開始したが、同桟橋は沖縄県規則で定められている桟橋設置工事の完了届がなされておらず、桟橋内の堆積場についても沖縄県赤土等流出等防止条例で必要とされている届出がなされてないなど、違法に違法を重ねている。

 また、今回計画されている土砂投入は、埋め立てに必要な2100㎥のうち、辺野古側の約129㎥分にすぎない。地盤の強さを示すN値がゼロという”マヨネーズ並み”の軟弱地盤が大浦湾側の護岸の建設予定地で見つかっているところ、軟弱地盤の改良には公有水面埋立法に基づき沖縄県に届け出ている設計概要の変更と玉城デニー沖縄県知事の承認が必要であり、かかる承認がなければ日本政府は大浦湾側で埋め立て工事を進めていくことはできない。

 このように埋め立て工事を進めていく展望が全くないにもかかわらず、日本政府があえて土砂投入にこだわるのは、来年2月24日に予定されている辺野古新基地建設の是非を問う県民投票、3月以降に予定されている衆議院沖縄3区補選の前に、少しでも土砂を投入したことを見せつけて埋め立てを既成事実化し、新基地建設に反対する沖縄県民を諦めさせることを狙っているからである。

 自由法曹団は、二重三重に沖縄県民の意思を踏みにじる土砂投入の強行を許さず、日本政府に対して、土砂投入方針の撤回を強く求めるものである。
  2018年12月13日 自由法曹団 団長・船尾徹

第49回司法制度研究集会 ― 「国策に加担する司法を問う」

本日(11月17日)は、日本民主法律家協会が主催する第49回司法制度研究集会。テーマは、「国策に加担する司法を問う」である。

独立した司法部存在の意義は、何よりも立法部・行政部に対する批判の権限にある。立法部・行政部の活動が憲法の定めを逸脱し国民の人権を侵害するに至ったときには遠慮なくこれを指摘し、批判して国民の人権を救済しなければならない。たとえ、国策の遂行に対してでも、司法が違憲・違法の指摘を躊躇してはならない。当然のことだ。

それが、「国策に絡めとられる司法」「国策に加担する司法」とは、いったいどうしたことだ。日本の司法は、そう指摘されるまでに落ちぶれたのか。

われわれは、違憲審査権行使をためらう裁判所の司法消極主義を長く批判し続けてきた。「逃げるな最高裁」「違憲判断をためらうな」「憲法判断を回避するな」と言って来たのだ。

ところが、最近の判決では、司法部が積極的に政権の政策実現に加担する姿勢を示し始めたのではないだろうか。つまりは、われわれが求めてきた「人権擁護の司法積極主義」ではなく、「国策加担の司法積極主義」の芽が見えてきているのではないかという問題意識である。言わば、「人権侵害に目をつぶり国策遂行に加担する司法」の実態があるのではないか。これは社会の根幹を揺るがす重大な事態である。

冒頭、右崎正博・日民協理事長の開会の挨拶が、問題意識を明瞭に述べている。

これまでの長期保守政権下における裁判官人事を通じて、行政に追随する司法という体質が形成された。その結果として、国策を批判しない司法消極主義が問題とされてきた。しかし、昨今の幾つかの重要判決は、むしろ政権の国策に積極的に加担する司法の姿を示しているのではないか。

国策は民主主義原理によって支えられているが、民主主義原理の限界を画するものが立憲主義の原理、すなわち人権という価値の優越である。日本国憲法は、民主主義原理と立憲主義とのバランスの上に成立している。そのような憲法のもとで、はたして現実の司法は日本国憲法の理念を実現しえているのか。

この問題意識を受けての基調報告が、岡田正則氏(早稲田大学・行政法)。「国策と裁判所―『行政訴訟の機能不全』の歴史的背景と今後の課題」と題する講演。そして、国策に加担した訴訟の典型例として、沖縄・辺野古訴訟と原発差し止め請求訴訟の2分野からの問題提起報告。「国策にお墨付きを与える司法─辺野古埋立承認取消訴訟を闘って」と題して沖縄弁護士会の加藤裕氏と、「大飯原発差止訴訟から考える司法の役割と裁判官の責任」と題する樋口英明氏(元裁判官)の各報告。その詳細は、「法と民主主義・12月号」(12月下旬発行)をお読みいただきたい。いずれの報告も、有益で充実したものだった。参加者の満足度は高かったが、同時に現実を突きつけられて暗澹たる気持にもならざるを得ない。

たいへん興味深かったのは、辺野古弁護団の加藤さんと、大飯原発差止認容の判決を言い渡した樋口さんの語り口が対照的だったこと。淀みなく明晰で理詰めの語り口の加藤さんと、人柄が滲み出た穏やかな話しぶりの樋口さん。鋭い切れ味の加藤さんと、抗いようのない重い説得力の樋口さん。加藤さんは沖縄の民意を蹂躙する政権の国策に加担した判決を糺弾する。樋口さんは国策加担という言葉を使わないが、誰にもそのことが分かる。お二人の話しぶりの対比を聴くだけても、今日の集会に参加の甲斐はあった。

私は樋口さんには初めてお目にかかった。この人なら、当事者の言い分に耳を傾けてくれるだろうという、裁判官にとっての最も必要な雰囲気を持っている。その樋口報告は、私が理解した限りで次のようなものだった。

3・11福島第1原発事故後の原発差し止め訴訟では、認容判決は私が関わったものを含めて2件しかない。棄却判決は十指に余る。「どうして原発差し止めを」と聞かれるが、原発は危険で恐い物だという思いがまずある。差し止めを認めなかった裁判官に、「どうして恐くないのか」聞いてみたい。

また、自分の頭で考えれば当然にこの危険な物の差し止めの結論となるはず。自分の頭で考えず、先例に当てはめようという考え方だから差し止め請求棄却の結論になるのではないか。

危険とは(1)危険が顕在化したときの被害の大きさ
    (2)被害が生じる確率
の2面で測られ、通常この2面は反比例する。一方が大きければ他方が小さい。ところが、原発は両方とも大きい。

原発事故の桁外れの被害の大きさは福島第1原発事故で実証されている。普通、事故の機械は運転を止めれば被害の拡大を阻止できるが、原発はそうはいかない。「止める⇒冷やす⇒閉じ込める」が不可欠で、福島の6基の事故ではそれができなかった。だから、福島第1原発事故の被害があの程度で済んだのは、いくつもの好運の偶然が重なった結果に過ぎない。その僥倖の一つでも欠けていれば、首都東京も避難区域に入っていたはずなのだ。

また、原発事故が起こり被害が生じる確率はきわめて高い。そもそも、基準地震動を何ガルに設定するか極めて根拠が薄い。地震学は未成熟な学問分野というべきで地震予測の成功例はない。気象学に比較してデータの集積もごく僅少に過ぎない。しかも、原発の規準地震動は、通常の木造家屋よりも遙かに低い。その設計において耐震性は犠牲にされている。それが、世界の地震の巣といわれる危うい日本の地層の上にある。

差し止め認容判決の障害は行政裁量といわれるが、既に日光太郎杉事件判決(東京高判1973 年)で十分な批判がなされている。自分の頭でものを考えれば、人格権に基づく原発差し止めも同様の結論になるはず。

会場からは、「日の丸・君が代」強制問題原告からの訴えもあった。これも国策だ。しかも軍隊の匂いがする国策の強制。自分の頭でものを考えず、先例追随のコピペ判決裁判官が、国策加担判決を積み重ねている。「先例追随主義」と「国策加担」とは紙一重というべきものなのだろう。

あらためて思う。事態は深刻である。
(2018年11月17日)

米軍基地を本土に「引き取る運動」について

親しい小村滋君からの【アジぶら通信 第48号】(2018年11月5日付)が届いた。相変わらず沖縄の記事が満載。彼の沖縄に対する思いが溢れている。
そのトップの記事は、「『辺野古』は普天間代替でない!? 」という見出。

こんな書き出しだ。「例えば11月2日の朝日新聞1面の辺野古新基地問題の記事は『米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画で……』で始まっていた。3面や社会面に関連の記事があるときも、書き出しはこの『ハンコ』が押されている。毎日新聞も似た表現の『ハンコ』だ。この表現が『普天間代替施設は辺野古だ』と、多くの人たちに思わせる原因の一つだろう。しかし沖縄に住む、基地問題に関心のある人で、『普天間代替』と思っている人は少ない。」

小村君らしい。古巣の朝日の記事への批判だ。その紋切り型の「ハンコ」的言い回しの不正確を衝いている。枕詞のごとくに、「辺野古」を語るのに、「普天間飛行場の辺野古への移設問題」と言ってはいけない。それが、本土の人々の考え方を誤導している、と言っている。

指摘のとおり、まずもって普天間飛行場には海がない。対して「辺野古」は海の基地でもある。多様な自然を残し工事直前までジュゴンが泳いだ海。この海を潰しての基地の建設。これが「代替」であろうはずがない。

反対派の稲嶺進・前名護市長時代に作ったパンフは普天間になかった「辺野古」の3機能を挙げる。
① 全長270㍍の護岸を持ち、ヘリを運ぶ250㍍余の大型船が接岸できる
② 約1万6000㎡の弾薬搭載エリア。辺野古には元々弾薬庫があるが、新しく建て直すという
③ 航空機用の燃料を運ぶ109㍍のタンカーを横付けできる桟橋
しかも沖縄戦後の米軍占領時代に銃剣とブルドーザーで奪い取った基地が最新鋭設備に更新されて、治外法権に近い地位協定で。日本政府が1兆円余を投じて、あと100年間は使えるという。

以上は1面の要約だが、異論のないところ。しかし、2面以後は論争的テーマを扱っている。
2面の見出しは、「沖縄の基地 全国議論なるか」「小金井市議会で陳情を採択 意見書では共産党が???」となっている。

「東京都小金井市議会で9月25日『沖縄の米軍普天間飛行場移設の候補地として本土の全自治体を対象に公正で民主的な手続きで決める』とする陳情が賛成多数で採択された。この陳情は、今年5月に発刊された『沖縄発 新しい提案 辺野古新基地を止める民主主義の実践』に基いて沖縄出身の市民が提出したものだ。米軍基地による過重な負担を沖縄に押し付けて無関心でいる本土の日本人の『沖縄差別』を乗り越える画期的な試みと思われた。しかし10月5日の同市議会でひっくり返った。陳情に賛成した共産党が、意見書を採択する段階で『本土移転を選択肢とする部分に同意できない』と反対に転じ、採択が見送られた。背景には、革新陣営に根強い『全ての基地に反対』論がありそうだ。結果として、本土と沖縄の分断を図る安倍政権の策に乗せられることにならないか。」これが問題提起だ。

この陳情は、沖縄発の「新しい提案」と言われる考え方に基づいたもの。「新しい提案」は、引き取る運動」を提起している。次のステップで問題の解決を目指す、という。
①辺野古新基地建設工事を直ちに中止し、普天間基地を運用停止にする。
②普天間基地の代替施設について、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とする。
③その際、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が国内に必要か否か当事者意識を持った国民的議論を行う。
④国民的議論において普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、民主主義および憲法の精神に則り、地域への一方的な押し付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより決定する。

沖縄の現状を憂うる者にとって、「①辺野古新基地建設工事を直ちに中止し、普天間基地を運用停止にする。」ことに異論のあろうはずはない。問題は、次の「②普天間基地の代替施設について、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とする。」の賛否である。これは必ず分かれる。

たとえば原発を考えて見よう。福島の原発、柏崎刈羽の原発、東海第2の原発を、沖縄を含む全土で引き受けようという運動が成り立ち得るだろうか。私はあり得ないと思う。

一方、NIMBY(ニンビー)という言葉がある。“Not In My Back Yard”の略語、それは必要だが「我が家の裏庭には御免だ」というエゴの姿勢を揶揄する際に用いられる。「保育所は必要だ。しかし、我が家の隣に建てられちゃあ、やかましくてかなわん。」「児童相談所は大切な施設だ。だが、そんなものを町内に建てられたら、地価が下がってしまう。」という類のエゴ。ゴミ処理場が典型だろう。どこかに絶対に必要だ。その必要なものなら、すべての受益者の民主的な議論で、立地を決めなければならない。

米軍基地は、原発だろうか、それともゴミ処理場か。わたしは、原発同様のもので断じてゴミ処理場ではないと考えている。どこにもあってはならない、言わば絶対悪である。“Not In Any Yard”なのだ。

もちろん違う立場もあろう。安保必要論からの立場。「抑止力は有効だし必要だ」「中国や北朝鮮からの攻撃に備えた米軍基地は日本のどこかに必要だ」「沖縄だけに負担を押しつけるのではなく、全土で分担が必要だ」という立場。米軍基地必要論を前提に、その偏在を沖縄差別と突きつけられると、心優しい人々には断り切れなくもなるだろう。

おそらく小村君の考え方は、それとも違う。「『基地は、原発かゴミ処理場か』と、最初に切り分けをして本土引き受け賛成か反対かというのではなく、そのことも含めた議論誘発の提案として意味を認めてよいじゃないか。自分も含めて、本土の人間に、我がことと真剣に考えるきっかけを提供する提案だと思う。」ということなのだろう。だから、基地不要論者の小村君が、紙幅を割いてこの提案を紹介しているのだ。そう思う。

実践的な問題として私は考える。この陳情案は、もっと練り上げる必要があったのではないか。私の地元、文京区では、もっとシンプルな請願案で採択に至っている。
http://article9.jp/wordpress/?p=11263

「新しい提案」や「引き取る運動」を前面に出したのではうまくいかない。それこそ、「結果として、本土と沖縄の分断を図る安倍政権の策に乗せられる」ことになりかねない。アジぶら1面のとおり、「普天間移設先」問題としてではなく、「辺野古『新基地』建設反対」を前面に出した陳情にすれば、事情はずいぶん違ったものになったのではないだろうか。
(2018年11月7日)

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