澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

平和を求める沖縄県民の代表・伊波洋一候補に大きなご支援を。

(2022年7月6日)
 冷戦時代、北海道が仮想敵国ソ連と向き合う防衛の最前線とされ、自衛隊精強部隊の配備地とされた。今、仮想敵国中国と最前線で向き合うのは沖縄であり先島・西南諸島とされている。米軍基地はこの地に集中し、自衛隊基地も増強されつつある。その「防衛」政策の象徴としての辺野古新基地建設強行が注目されざるを得ない。

 政府にとっての沖縄が防衛上の要地である以上、住民の政治的な支持を固めておきたい場所なのだが、基地負担の押し付けは県民の反発を必然とする。それだけでなく、歴史的な事情から沖縄は反戦平和の意識と運動の強い地域である。本土政府の沖縄に対する基地受け入れ容認の要請と、沖縄県民の反戦平和の要求との熾烈なせめぎあいの構造が続いて、今日に至っている。

 沖縄県民は「オール沖縄」を結成した。「オール」は、自分たちこそが沖縄県民の総意を代表するものとの自負を表している。「オール沖縄」に結集しない勢力とは本土政府からの切り崩し・懐柔に屈した人々。妥協して条件闘争路線をやむなしとした人々というわけだ。

 今回も、本土政府の沖縄に対する基地受け入れ容認の要請と、沖縄県民の反戦平和の要求とのせめぎあいという重大な参院選地方区。「オール沖縄」対「自・公」、革新対保守の一騎打ちという構図で大接戦が報じられている。当然に辺野古新基地建設の可否が大きな争点となっている。実は、選挙戦の形を借りて、政府と沖縄県民とが争っているのだ。

 「オール沖縄」の候補が、伊波洋一(無所属・現)。元宜野湾市長・元沖縄県議会議員、立憲・共産・れいわ・社民そして地元の社大党がこぞって支持している。保守側が、古謝玄太(自民・新、公明推薦)元総務省課長補佐、元NTTデータ経営研究所マネージャー。

 伊波候補は、「辺野古の新基地建設反対闘争が始まってから、もう25年以上。この闘いは私たちの誇りであります。絶対にこの辺野古の新基地を作らせてはならない」という立場。対する古謝はどうか。これまで、保守側は辺野古新基地建設を容認するとは言ってこなかった。民意が反対ということが誰にも分かっていたからだ。ところが、今回は挑発的に辺野古新基地建設「推進」の立場を明瞭にしている。政府の立場を沖縄県民に押し付けようという元官僚なのだ。

 平和と戦争の問題は、沖縄にこそ、くっきりとした影を落とす。「沖縄を再び戦場にするな」ということこそが沖縄県民の平和の願い。「9条変えろ」「敵基地攻撃」「軍事費2倍」という、自公政権や維新が唱える大軍拡の道を進めば、相手国を刺激して軍拡を加速させ、「安全保障のパラドックス」をもたらすことになる。この悪循環の中で、うっかり集団的自衛権を行使して「敵基地攻撃」を始めたら、「その結果として起こる報復攻撃に、真っ先にさらされるのが沖縄」なのだ。もちろん、ことは沖縄に限定された問題ではない。

 伊波洋一候補の、「相手候補は辺野古新基地推進、南西諸島のミサイル基地建設のため、国を挙げて県民相手に挑んでいる。この選挙で新基地ノーの民意をしっかり示そう」という訴えに、耳を傾けたい。

平和を願う皆様に、参院選での日本共産党候補者へのご支援をお願いします。

(2022年6月23日)
 本日は「沖縄慰霊の日」。77年前の6月23日、沖縄32軍司令官牛島満(中将)が自決して、沖縄戦における日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。しかし、この日に戦争が終わったわけでも、軍が降伏したわけでもありません。残された兵と住民の悲劇は、むしろこの日以後に本格化することになります。

 以下は、牛島の最後の命令書の一節です。

 「自今諸子は、各々陣地に拠り、上級者の指揮に従い、祖国のため最後まで敢闘せよ。さらば、この命令が最後なり。諸子よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」

 なんという無責任。いや、無責任どころではありません。「生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」という、戦陣訓を引用した命令が多くの兵と住民の命を奪うことになったのです。

 1945年4月1日に始まった沖縄本島の地上戦。住民を戦火に巻き込んだこの国内地上戦は、日本の近代が経験したことのないものでした。侵略戦争をもっぱらにしてきた日本にとって、「戦地」とは常に「外地」でした。戦争終結間際になって、初めて国内に上陸した敵軍隊との初めての本格的な地上戦は凄惨を極めたものになりました。この戦争で、沖縄県民の4分の1の人命が奪われています。

 ロシアのウクライナ侵攻が、沖縄地上戦を彷彿とさせる中で迎えた「沖縄慰霊の日」。糸満市摩文仁の平和祈念公園では、沖縄県主催の「沖縄全戦没者追悼式」が開かれました。あらためて平和を願い、戦争を繰り返してはならないとお考えの、沖縄県民の皆様、そして日本国民の皆様に、7月10日投開票の参院選では、日本共産党へのご支援を訴えます。

 在沖2紙が、今朝の朝刊に力のこもった社説を掲載しています。
 「沖縄タイムス」は、社説「[慰霊の日に]『ノーモア戦争』の声を」。そして、琉球新報が<社説>「慰霊の日 『前夜』を拒絶する日に」というタイトルです。

 琉球新報の社説の一節を引用します。

 「沖縄戦の教訓は『命どぅ宝』という非戦の思想であり、人間の安全保障の実現である。慰霊の日のきょう、かつての戦争「前夜」の状況を繰り返さないことを誓いたい。

 1944年の初頭まで沖縄には本格的な軍事施設はなかった。ワシントン軍縮条約によって、沖縄本島および離島沿岸部の要塞基地計画が廃止されたからだ。多国間による外交努力によって軍縮を実現させ、沖縄が戦場になる危険性が回避されたわけだ。

 (ところが、)日本はこの条約を破棄して沖縄と台湾方面の軍備強化に乗り出す。44年3月、沖縄に第32軍を創設した。沖縄戦を目前にした同年12月、長勇参謀長は県に対し、軍は作戦に従い戦をするが、島民は邪魔なので、全部山岳地方(北部)に退去させ自活するように伝えた。

 軍の方針について泉守紀知事(当時は官選知事)が県幹部にこう漏らした。『中央政府では、日本の本土に比べたら沖縄など小の虫である。大の虫のために小の虫は殺すのが原則だ。だから今、どうすればいいのか。私の悩みはここにある』

 45年1月に大本営は『帝国陸海軍作戦計画大綱』を策定した。南西諸島を本土防衛のための『前縁』として、『本土決戦』の準備が整うまで敵を引きつける『捨て石』と位置付けた。

 安倍晋三元首相は昨年、『台湾有事は日本有事』と述べた。ロシアのウクライナ侵攻後は核共有議論を提起した。岸田文雄首相も台湾を念頭に『ウクライナは明日の東アジアかもしれない』と発言し、防衛費大幅増を目指す。

 なぜ日本は歴史から学ばないのか。私たちは、再び国家にとって『小の虫』とされることを拒否する。」

 琉球新報は、「沖縄戦の教訓は『命どぅ宝』という非戦の思想だ」と言っています。この『命どぅ宝』(一人ひとりの命こそが、かけがえのない宝もの)「憲法9条」の理念と言ってよいと思います。

沖縄選挙区で、この思いを託せる候補者が、イハ洋一さんです。イハさんは、こう公約しています。

 「『屋良建議書』から玉城デニー知事の『新建議書』に込められた『平和で豊かな沖縄の実現』という県民の想いを国に届けます。政府の立場を沖縄に押し付けるのではなく、沖縄の声を国会へ届けます。県民の尊厳を守り、沖縄らしい社会の実現をめざします」

 参院選の投票は2度行います。各都道府県単位の地方区と、全都道府県を選挙区とする比例代表と。地方区には、それぞれの共産党の候補者(あるいは共産党が推薦する共闘候補)がいるはずです。沖縄では、「イハ洋一」さんになります。

 また、比例代表の投票には、「日本共産党」と政党名を書いていただくか、あるいは「にひそうへい(仁比聡平)」などの候補者名をお書きください。よろしくお願いいたします。

「DHCへの賠償命令維持」

(2022年6月5日)
 一昨日(6月3日)、東京高裁(渡部勇次裁判長)が「ニュース女子ヘイト報道事件」での控訴審判決を言い渡した。判決の結論は、当事者双方からの控訴を棄却し、昨年9月の一審判決をそのまま維持するとした。

 このところ選挙ムード一色の赤旗が、4日の社会面トップでこの記事を報道した。その見出しが、「DHCへの賠償命令維持」「辛淑玉さんへの名誉毀損認定」である。簡潔さがよい。形式的には、一審被告の法人格名は「株式会社DHCテレビジョン」である。そのとおり表記すべきが正確とも言えるだろうが、実質において「DHCテレビ」は、DHCの一部門に過ぎない。「DHCテレビ」はDHCの一人会社である。全株式を所有しているのが親会社DHC。もちろん、 「DHCテレビ」 の代表者はDHCのワンマンにして差別主義者として知られる吉田嘉明(取締役会長)である。このデマとヘイトに満ちた恥ずべき放送は、いくつもの部門をもつDHCの部門の一部に、その社風ないしは体質が表れたと見るべきであろう。違法と断定され、550万円の支払を命じられたのは外ならぬDHCなのだ。

 赤旗は、本日も続報を掲載している。「一歩踏み込んだ」「『ニュース女子』訴訟控訴審判決」「原告の辛淑玉さんら評価」という、原告・弁護団の記者会見記事。

 一般紙では、東京新聞の報道が、長い見出しで主要な論点を押さえている。「DHCテレビ『ニュース女子』の名誉毀損を認定」「高裁も一審判決支持『番組に真実性は認められない』」

 東京新聞の報道は、注目されたところ。何しろ、DHCテレビとならんで被告にされたのが、元東京新聞論説副主幹の長谷川幸洋なのだから。長谷川はこの番組の司会を務めていた。それでも東京新聞は真摯な報道姿勢を貫いている。そして見出しに「DHCテレビ」を出している。以下、一部を引用する。

 「判決は、辛さんが組織的に参加者を動員して過激な反対運動をあおっているという番組の内容に、真実性は認められないと判断。現在もDHCのサイトで番組が閲覧できる状態で「韓国人はなぜ反対運動に参加する?」などとテロップで表示されているとして、「在日朝鮮人である原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない」と言及した。

 番組の司会者だった本紙元論説副主幹の長谷川幸洋氏の責任については「番組の制作や編集に一切関与がなかった」とし、一審と同様に認めなかった。長谷川氏が辛さんに損害賠償を求めた反訴も同様に退けた。

 番組は東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)で2017年1月に放送された。昨年9月の一審判決は、DHCに賠償と自社サイトへの謝罪文掲載を命じた。

 判決後の会見で辛さんは「名誉毀損が認められてうれしいが、沖縄に対して申し訳ない気持ちもある。平和運動や沖縄を、在日である私を使ってたたくという、二重、三重に汚い番組だった」と振り返った。金竜介弁護士は、判決が出自に絡む誹謗中傷に言及した点に「人種差別をきちんと認めたことは評価できる」と話した。

 朝日の見出しは、「東京MXの「ニュース女子」、高裁も「名誉毀損」 賠償命令を維持」である。これはいただけない。この見出しだけだと、東京MXが被告になっているように誤解されかねない。DHCの責任が浮かび上がってこない。

 この番組を巡っては、BPO放送倫理検証委員会が 東京MX に対して、「重大な放送倫理違反があった」とする意見を公表。遅れてのことだが、 東京MX は番組の放送を打ち切り、辛淑玉さんに不十分ながらも謝罪している。DHCが頑強に、謝罪もせず、番組の削除もしなかった結果が訴訟での決着となった。朝日の見出しは、「東京MX」を「DHC」か「DHCテレビ」とすべきではなかったか。

 毎日の見出しも、面白くない。「『ニュース女子』訴訟、制作会社に550万円賠償命令 東京高裁」である。「制作会社」とはそりゃ何だ。「DHC」も「DHCテレビ」も出て来ない。デマとヘイトの企業に、いったい何を遠慮しているのだと言いたくもなる。

 当然のことながら、沖縄の報道は辛口である。沖縄タイムスは「沖縄差別 裁判問えず 辛さん勝訴 笑顔なし ニュース女子訴訟」と見出しを打った。辛さんが、「沖縄に対して申し訳ない気持ちもある」と言った点に、沖縄からの共感である。

 そして、琉球新報が下記のとおり伝えている。「『プチ勝訴』ニュース女子制作会社が主張、上告も示唆 控訴審判決受け」という見出し。この明らかな敗訴判決を「プチ勝訴」というDHC側の異常な感覚を曝け出している。

 「ヘイトスピーチ反対団体の辛淑玉共同代表への名誉毀損を認めた東京高裁の控訴審判決を受け、被告側のDHCテレビジョンが3日午後、東京高裁前で番組の収録を行った。同社の山田晃代表(社長)は「プチ勝訴」などと主張する一方、「金銭的な部分で不服」として賠償責任を負う点に不満を示し、上告を示唆した。

 勝訴とは言わない。プチ勝訴と考えている。山田代表は同日午後の控訴審判決後、東京地裁前に姿を現し、報道陣に独自の主張を展開した。「プチ勝訴」とした理由について、同社ホームページで掲載を続ける番組の削除が命じられなかった点を挙げた。一審に続き550万円の賠償命令が出た点には「会社としてはね、やっぱり1円でも」「金銭的な部分で不服とするのは当然」と述べて「不当判決」とした。今後の方針を問われると「もうワンチャンスある」「上告に向けて検討する」として、「事実認定」の変更が期待しにくい最高裁の判断に望みを懸けた。」

 この会社の体質がよく表れている。判決理由で「放送内容の真実性は認められない」「現在もDHCのサイトで番組が閲覧できる状態で『韓国人はなぜ反対運動に参加する?』などとテロップで表示されている。だから『在日朝鮮人である原告の出自に着目した誹謗中傷を招きかねない』とされていることに何も反省しないのだ。一・二審とも、謝罪文の言い渡しを命じられていることにも意に介している様子はない。

 この会社は、つまりはDHCとその経営を牛耳っている吉田嘉明は、根っからのレイシストである。法や判決で命じられない限り、「ヘイトのどこが悪いか」と居直る体質なのだ。一つは判決で、そしてもう一つは良識ある民衆の批判とDHC製品不買で矯正するしかない。 

沖縄を「捨て石」にした天皇(裕仁)の弁解と本音。

(2022年5月19日)
 昭和天皇(裕仁)は、皇太子時代に欧州5か国を歴訪の途上沖縄に立ち寄ってはいる。が、摂政・天皇の時代を通じて一度も沖縄訪問の機会を得なかった。戦前も戦中も、そして40年を越える長い戦後も、一度として沖縄の土を踏んでいない。おそらく、戦後の彼は沖縄県民に対する後ろめたさを感じ続けていたからであろう。端的に言えば、会わせる顔がないと思っていたに違いない。あるいは、沖縄で露骨に民衆からの抗議を受ける醜態を避けたいとする政治的な配慮からであったかも知れない。

 だから、「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)には裕仁は一切出て来ない。代わって顔を出しているのは、その長男明仁である。それも、ほんの少しでしかない。

 「記録」の306ページに、「沖縄海洋博覧会」の項がある。海洋博の「会場全景」という大きな写真に添えて、やや小さな明仁の写真。「海洋博名誉総裁の開会を宣告する皇太子(現天皇)。1975年7月19日」という簡潔な解説。過剰な敬語のないのが清々しい。

 そして、次のページに、「皇太子火炎ビン襲撃事件」のごく小さな写真。「幸いにも皇太子ご夫妻を含め怪我人はなく、混乱は最小限にとどめられた」と解説されている。これ以外に、皇族に関連する記載はない。

 明仁ではなく裕仁が訪沖していれば、どんな展開になっただろうかと思わないでもない。裕仁と沖縄との関係については、曰わく因縁がある。天皇(裕仁)は、本土防衛の時間を稼ぐために沖縄を捨て石にした。天皇の軍隊は沖縄県民を守らず、あまつさえ自決を強要したり、スパイ容疑での惨殺までした。そして、新憲法ができた後にも、天皇(裕仁)は主権者意識そのままに、いわゆる「天皇・沖縄メッセージ」で、沖縄をアメリカ政府に売り渡した。沖縄県民の怨みと怒りを一身に浴びて当然なのだ。

 彼にも人間的な感情はあっただろう、忸怩たる思いで戦後を過ごしたに違いない、などと思ったのは甘かったようだ。それが、近年公開された 「拝謁記」で明らかになっている。「拝謁記」とは、初代宮内庁長官田島道治が書き残した、天皇(裕仁)との会話の詳細な記録。その内容の着目点が、朝日・毎日などの中央紙と、沖縄の新聞とがまったく異なるという。

 福山市在住のジャーナリストが、K・サトルのペンネームで、書き続けている「アリの一言」というブログがある。その2019年8月22日付け記事が「『拝謁記』で本土メディアが無視した裕仁の本音」という表題で、このことを鋭くしている。K・サトル氏に敬意を表しつつ、その一部を引用する。

『琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
 「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)

 琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
 「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」

 朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。

 米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。

 裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
 「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)

 「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。』

 まったくそのとおりだと思う。これに付け加えるべき何ものもない。あらためて今、沖縄を考えるべきときに、戦前も戦後も「沖縄を捨て石にした」天皇(裕仁)の実像を見極めたい。

沖縄の本土復帰運動の気運を高めた「甲子園の土」

(2022年5月18日)
 復帰前の沖縄に本土の人々の目が冷ややかだったかといえば、必ずしもそうではない。1958年夏の甲子園(第40回記念大会)に、戦後初めての沖縄代表チームとして首里高校が出場したときの同校への国民的な声援は大きく暖かいものだった。開会式では同校の仲宗根主将が選手宣誓を行っている。首里高は1回戦で敦賀高校(福井)に3対0で敗れるが、その後の「甲子園の土」のエピソードで、再びの話題となる。

 「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(沖縄県作成・1995年)の203ページに、この試合後「甲子園の土」をビニール袋に詰めている選手5人の大きな写真が掲載されている。そのキャプションが次のとおり。

 「首里高校が沖縄から初の甲子園出場。持ち帰ろうとした記念の土は、植物検疫法違反を理由に海中に投棄された。1958年8月」

 この記述だと、「植物検疫法違反を理由とする海中投棄」を指示したのが、日本側なのかアメリカ側なのか、よく分からない。この間の事情を「ハフポスト」が次のように要領よく解説している。

 「首里高ナインの数人がビニール袋に詰めて甲子園の土を船で持ち帰ったが、那覇港で彼らを待っていたのは冷たい仕打ちだった。アメリカの法律では甲子園の土は「外国の土」ということで、植物検疫法に抵触して持ち込み不可能だったのだ。

 沖縄はアメリカ統治下にあったから、検疫の検査を受けなければならなかった。検疫では「外国の土は持ち込んではならない」という規定があり、球児たちが大事に持ち帰った甲子園の土は外国の土だから検疫法違反と言うことで没収され、那覇港の海に棄てられてしまったのだ。」

 このニュースは大きな反響を呼んだ。あらためて、引き裂かれた沖縄の深刻な悲劇として強く印象づけられた。日本航空の客室乗務員が甲子園の小石を集めて首里高校に贈るなどのエピソードが続いた。

 「土の代わりに、せめて…」との思いを込めて。絹の布を敷いて小石を入れたガラス張りの箱が、58年9月上旬に空路で届けられた。その後、学校の敷地内に二つの石碑が建てられた。小石がはめられた「友愛の碑」と「甲子園出場記念の碑」。それから60年以上、そして本土復帰50年の今も、変わらずに息づいている(時事)。

 この「甲子園の土・投棄事件」は、沖縄返還運動の気運を大いに高める事件となった。その後、沖縄代表高が甲子園に出てくると、大きな声援に包まれる時代が続いた。相手校やその関係者にとっては、なんともやりにくい雰囲気。

 私がそれを実感として語れるのは、私の母校がその首里高校と甲子園で対戦しているからだ。1963年の春の選抜大会である。その1回戦で、私の母校が対戦した相手が、2度目の甲子園出場となった首里高校だった。私は、この試合を甲子園の母校応援席の一隅で観戦している。

 私の母校は大阪府富田林市にあるから通常はホームの雰囲気なのだが、このときは完全にアウエイだった。球場全体が首里の応援団なのだ。

 寒い日だった。しかも、途中からナイターになった。首里の選手には気の毒なコンディション。それゆえか、試合は8対0。観戦の印象では点数以上の大差だった。何しろ、投手戸田善紀(後にプロ入り。阪急から中日)の奪三振が21を数えた。首里のヒットは1本だけ。それでも、観客の声援は首里高に大きかった。

 前年の春に、私は高校を卒業している。母校の中心選手は、私が3年の時の一年生。小さな学校でたいていの選手とは知り合いだったが、私も心中では、首里高を応援していた。ウチのチームは、武士の情けというものを知らんのかね、と。

 首里高側の記事はこうである。

 「1963年(昭和38年)の春の選抜。泊港(那覇)から出航し鹿児島へ渡り、鹿児島から夜行列車で大阪入り。沖縄を出発してから3日目にたどり着いた甲子園で待ち受けていたのは、強豪のPL学園だった。
 抽選会でいきなり甲子園の常連校を引き当てた宮里さん(主将)は、自分自身で『あじゃー、へんなくじを引きやがって』と思ったという。

 チームは硬さのとれないまま強豪PLと対戦する。相手投手は、後に阪急ブレーブスに入団した戸田。『当時としては球は速かった。打席に立ってバットで捕らえきれるという感覚はなかった。ファールするのが精一杯』と21個の三振を喫する。

 『結局、野球をしたんじゃなくて、あそこにユニフォームを着て立っていただけなんだよ』と当時を振り返る宮里さん。」

 その年の夏の大会で、首里は初めて本土チームを破って一勝を挙げる。この試合にも全国が沸いた。それから9年後に復帰が実現し、復帰から50年が経過した。復帰後、沖縄は野球の強豪チームを輩出し、全国優勝の数も重ねた。しかし、今あの時代の沖縄のチームへの応援の声はない。おそらくは、政治や経済においても。

沖縄戦が語る、軍隊は住民を守らない、という教訓。

(2022年5月17日)
 昨日紹介した、「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」(1995年・沖縄県発行)の圧巻は、第1章・第1節「沖縄戦」である。

 貴重な戦場写真が生々しい。その中に、「住民虐殺」という禍々しい小見出しの数ページがある。沖縄の住民を虐殺したのは米軍ではない。「友軍」と表示されている日本軍だった。目を背けざるを得ない集団自殺の凄惨な写真に、次のような解説記事がある。

 「国を守るという大義は、日本軍に様々な暴挙を許した。戦況が悪化していく中、追い詰められ孤立した日本軍は、住民に対して戦争への参加や自決を強要しただけでなく、スパイ容疑による虐殺や避難壕からの追い出し、食料強奪等を行った」

久米島虐殺事件
 米軍は本島南部を占領した後の6月26日、那覇の西方約90kmに位置する久米島の攻略を開始した。当時久米島には米軍施設はほとんどなく、わずかに海軍兵士約30人が通信業務に従事していた。米軍上陸後山中に身を隠した日本軍は米軍と接触した島の住民に次々とスパイ容疑を掛け、6月末から終戦後の8月20日までに、5件22人を他の住民への見せしめとして惨殺した。上陸した米軍の死者として降伏勧告状を届けた郵便局員や食料を求めて米軍キャンプに出入りした朝鮮人の一家など、いずれも無抵抗の住民を一方的なスパイ容疑で殺害したものである。日本軍は住民に食料を供出させながら山中を逃げ回った挙句、9月7日久米島守備隊長以下全員が無傷のまま米軍に降伏し島を後にした。久米島の住民に危害を加えたのは米軍ではなく日本軍であった

 沖縄の無念が伝わってくる。そして、その次のページに、以下の生々しい手記が掲載されている。

真壁では千人壕というのがあって、そこに入りました。
…(略)…
それから千人壕からちょっと離れた壕に移りましたが
そこは民間も友軍もごちゃごちゃになっていました
大きくて何百人も入れるので随分大勢の人がいました
友軍よりは民間の人がずっと多かったんですが
そこで大変なことを見ました
 四つか五つかになっていたと思いますが
男の子がおりました
その子は親がいないと言って泣いていました。
子供は入り口の方にいましたが
壕の上には穴が開いていました。
そしたら友軍の兵隊が
 この子の泣き声が聞こえる、
泣き声が聞こえたら私たちも大変である、
この子をどうするか親はいないのか…
と言いました。
兵隊の声に誰も返事する人はいません。
それで兵隊たちが中に入って行ったんです。
少し明るかったんですね。
上に穴が開いていたから連れて行って
三角な布を引き抜いて細くして、
またしめて殺しました。
民間の人がそれを見てみんな泣いていました。
首をしめるのは現に見ましたが
怖かったもんですから
最後まで見ることはできませんでした。
  中城村儀間とよ(当時19歳)

 日本軍は、「沖縄住民を守らない」ではなく、「沖縄住民を虐殺した」のだ。沖縄ではなく本土防衛を任務とした日本軍は、住民を犠牲にしても軍と兵隊を守ろうとしたのだ。
 沖縄県民の日本軍についてのこの記憶は、そのまま戦後の自衛隊に対する忌避の感情につながった。復帰直後の解説記事に、「1972年10月自衛隊那覇駐屯地が誕生」とあり、次いで、那覇市役所の入り口と思しき場所の横断幕とビラ配布状況についての興味深い写真が掲載されている。

 そのキャプションは、「1972年12月から翌73年2月にかけ、自衛隊配備に対する抗議行動の一つとして、革新自治体は自衛隊員の住民登録を拒否した」とある。残念ながら、横断幕の文字が完全には読めない。隠れた文字を補うと、以下のとおりである。

 「米軍を強化し、米軍の安全を守る自衛隊・自衛隊員を那覇市から追放しましょう」「私たち那覇市民は、廃墟と化した那覇市を営々と再建してきました。軍靴で再び踏み荒らされないように、反自衛隊闘争を発展させましょう」「自治労 那覇市職労」

 横断幕に書かれたこの一文が、日本で唯一の凄惨な地上戦を経験した沖縄県民の軍隊という存在に対する感情をよく表している。

1972年5月15日、それまで沖縄復帰運動のシンボルだった「日の丸」が、「軍国主義」の象徴となった。

(2022年5月16日)
 私の手許に、B4版で500ページに近い重量感十分の写真記録集がある。おそらくは3㎏の重さ、内容もずっしりとこの上なく重い。

 「沖縄 : 戦後50年の歩み 激動の写真記録」という、1995年に沖縄県が編纂し発行したもの。毎年6月23日には開いて読むことにしている。

 構成は、序章を「大琉球の時代」とし、本章は下記のとおりである。
  第1章 廃墟のなかから
  第2章 基地の中の沖縄
  第3章 ドルと高等弁務官の時代
  第4章 ベトナム戦争と復帰運動
  第5章 アメリカ世からヤマト世へ
  第6章 21世紀に向けて

 416ページ以後が資料編で、衣・食・住・教育・スポーツ・芸能・美術・女性…たばこ・泡盛・映画等々、興味は尽きない。

 いうまでもなく、「第5章 アメリカ世からヤマト世へ」が、1972年5月の「本土復帰」の記述の表題である。この「世」は「ゆ」と読まねばならない。「アメリカ世(ゆ)は、アメリカ支配の『世の中』」あるいは『時代』を表す。この表題の付け方が意味深なのだ。「本土復帰」とは言わない。「復帰」も「返還」も、もちろん「祖国」の語もない。「アメリカ世からヤマト世へ」は、読み方によっては、「沖縄の支配者がアメリカからヤマトに替わっただけ」「他者の沖縄支配であることに変わりはない」と主張しているように読めなくもない。

 この第5章第1節の解説には、「世替わり」と小見出しが付けられている。その冒頭部分が下記のとおりである。

 「世替わり」の日、1972年5月15日午前零時には、汽笛が鳴り車からは一斉にクラクションが響いた。抗議と歓迎の交錯した複雑な県民感情の中、「世替り」は訪れた。27年間の米軍支配に終止符を打ったこの日は、県全体が大雨になり「県民要求を無視した返還に天も怒った」と評する人、「歓喜の涙」と5.15を迎えた人など世論は分かれた。1945年の敗戦以来、県民の圧倒的多数が望んでいたはずの復帰なのに、素直に喜べない気にさせたのは何と言っても返還の内容であった。

 1969年11月22日、佐藤ニクソン会談で72年沖縄返還を合意、共同声明を発表。71年6月17日、マイヤー駐日大使と愛知外相が返還協定に調印。72年1月8日、佐藤ニクソン会談で沖縄返還を72年5月15日と決定するなど、沖縄の復帰スケジュールは決まったのに、その中身は県民の要求する即時無条件返還ではなかった。

 日米間で合意したのは、「72年・核抜き・本土並み」という触れ込みだったが、その公約も実体の伴わないものだった。復帰後も米軍基地の自由使用が認められたことがその証拠であろう。全国の75%を占める米軍専用基地はベトナム戦争の泥沼化に連れて強化こそすれ、撤去には結びつかなかった。政府の公約した「本土並み」が虚像だったと実感した県民は多かったはずである。「第三の琉球処分」と言われても仕方のない返還のあり方だったと言える。だが基地の存続を希望した人たちがいたことも否定し得ない事実である。

 新生沖縄が誕生したその日は、賛否の声を反映したかのように祝賀と抗議の大会が相次いだ。保守的な人たちは復帰祝賀県民大会を、革新的な人々は5・15を「屈辱の日」として、決議大会とデモ行進を決行、県内を二分した。

 この日をもって、復帰運動のシンボルとして扱われた「日の丸」が逆に「軍国主義」の象徴ととらえられたのは歴史の皮肉であった。

 これが、50年前の5月15日「沖縄の本土復帰」をめぐる県民意識であった。「革新的な人々は5・15を『屈辱の日』と捉えた」という厳しい表現が眼に突き刺さる。それゆえに、その日以来「日の丸」の意味づけが変わったのだ。「復帰運動のシンボル」から、「軍国主義の象徴」に。そして50年、今もなお「日の丸」は「軍国主義の象徴」であり続けている。

沖縄復帰50周年 ー「50年前はまだ期待があった。今状況はより悪くなっている」

(2022年5月15日)
 本日、沖縄本土復帰50周年である。50年前と同様に、沖縄は雨だったという。雨が降る中の宜野湾と東京とを結だ「記念式典」が開かれた。内容のない、印象の薄い盛り上がらない儀式だった。「記念式典」とはいったい何だろう。いったい何を、どのように記念しようというのだろうか。

 琉球新報は、「雨の中『沖縄を返せ』 50年前、基地従業員も願った復帰」とのタイトルで、元「全軍労」の専従役員(83)の回想を掲載している。
 「1972年5月15日の与儀公園で、降りしきる雨の音に対抗するように、復帰運動の象徴となっていた歌(『沖縄を返せ』)を大声で歌っていた」「あの日から50年。米軍絡みの事件・事故は絶えず、沖縄の差別的な扱いも続いている」「今も変わらないじゃないか」

 毎日は、本日の式典の取材記事。「『記念式典を粉砕するぞ』 飛び交う怒声、会場近くで抗議 沖縄」という見出し。会場の周辺では、「岸田は帰れ!」と叫ばれ、「辺野古新基地 直ちに中止せよ!」の横断幕や「違法工事止めろ」のプラカードが並び、背に「熊本県警察」の警官隊と抗議団がにらみ合った。「新基地 民意はNO」のプラカードを持っていた女性(73)=那覇市=は「復帰した50年前はまだ期待があったが、今は自衛隊配備も進み状況はより悪くなっている」と憤った、と報じている。

 50年前、「本土復帰」は沖縄の悲願であり、復帰後のその期待は大きかった。今、沖縄県民は、その期待と現実との落差に、落胆を隠せないのだ。

 この復帰への沖縄の期待については、私自身が肌で感じている。1966年末、復帰前の沖縄に1か月余の滞在を経験した。滞在しただけでなく、那覇の多くの市民と会話する機会を得た。当時、私は東大文学部社会学科の大学4年生。友人は皆就職が決まっていた頃に、留年必至の身で敢えてした沖縄行。そのときの強烈な沖縄体験の印象を忘れない。

 貧乏学生だった私に、長旅のできる余裕はなかった。当時私が在籍していた大学と琉球大学と朝日と地元紙とが共同でした大規模な社会調査の面接調査員としてのアルバイトでの長期滞在。初めてのパスポートを手に、行き帰りともに長い船旅だった。右側通行の車に戸惑いつつ、那覇北部の一街区を受け持って、毎日調査対象となった住民宅を訪問して、面接での聴き取り調査をした。

 自ずから、沖縄戦の話が出て来る。米軍基地への不満が話題となる、沖縄の歌や踊りや神話なども聞かされた。方言も教えてもらった。何と有意義な楽しいアルバイトだったろう。

 その中で強く感じたのは、「異民族支配」への拒絶感と、「平和で自由で豊かな本土」への復帰の願望であった。「本土復帰」は、明るい展望で語られていた。「日の丸」復帰運動のシンボルであった時代のことである。

 「即時・無条件・全面返還」のスローガンを掲げた復帰運動の昂揚を経て、72年5月15日沖縄の本土復帰は実現した。「鉄の嵐」を経験した沖縄の人びとが真に求めたものは、平和憲法がその条文のとおりに生き生きと根付いた本土への復帰だったろう。基地のない平和な沖縄を取り戻すことであったはず。しかし、現実は、本土の沖縄化とさえ言われた「核疑惑付き・基地付き返還」となった。それ以来、再びの闘いが始まって今日に至っている。

 その後に明らかとなった、主権者気取りの天皇(裕仁)の「沖縄メッセージ」に、私は激怒した。私も東北の蝦夷の末裔として実感する。権力の中枢は、常に平然と辺境を犠牲にする。沖縄も、中央政府に侵略され、捨て石にされ、さらに切り捨てられた。その非道な仕打ちに、天皇(裕仁)の個性が大きな役割を果たしている。とんでもない人物なのだ。

 沖縄本島の北端、はるかに本土を望む辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」。その碑文を読み直す。その文章に込められた想いに胸が痛くなる。

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 〝鉄の暴風〟やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
  米軍占領に引き続き 1952年4月28日
  サンフランシスコ「平和」条約第3条により
  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
  しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
  全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
  今踏まえている 土こそ
  辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
  しかるが故に この碑は
  喜びを表明するためにあるのでもなく
  ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
  人類が 永遠に生存し
  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
  生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

えっ? 共産党が「自衛隊感謝決議」に賛同?

(2022年4月30日)
 4月25日の那覇市臨時市議会。「本土復帰50年に際し、市民・県民の生命を守る任務遂行に対する感謝決議案」なるものが上程され、採決の結果賛成多数で可決となった。このタイトルには感謝の宛先についての記載はなく、決議の手交や郵送は行わないというが、自衛隊に感謝する内容である。自衛隊への「感謝決議」は県議会を含め、沖縄県内の市町村議会では初めてのことと報じられている。自民党議員が提案し、これに共産党が賛成にまわったことが、大きな話題となっている。

 提案理由は以下のとおりである。

 「本年で本土復帰 50 周年を迎えるにあたり、関係機関が行った緊急患者等の災害派遣で市民県民の多くの命が救われた。
よって本市議会は、関係機関に対し感謝の意を表すためこの案を提出する。」

採択された決議の全文を引用しておきたい。

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 「戦後 27 年の米国統治を経て沖縄県が本土復帰をして、本年は 50 年の節目を迎える。
 多くの離島を抱える島しょ県の沖縄は、これまで「島チャビ(離島苦)」に挑戦しながら振興発展の歩みを進めてきた。復帰とともに配備された自衛隊は、本来任務ではなかった緊急患者空輸を昭和 47 年、粟国島を皮切りに開始し、本市消防局や医療機関と連携しながら、本年 4 月 6 日に南大東島の緊急患者空輸をもって搬送数が総計 1 万件を超えるに至った。
 その他にも災害派遣として市内外における不発弾処理や、行方不明漁船等の捜索など市民・県民の生命を守る活動を継続して行っている。
 また、海上保安庁も同様に本土復帰以来、3 千百件余の離島患者空輸や漁船等からの救助をおこなっているほか、ドクターヘリも同様な任務を行い、この復帰 50年には様々な行政機関や医療機関などの連携と協力があり市民・県民の生命と財産が守られてきた。
 よって本議会は本土復帰 50 年に際し、関係機関並びに関係各位における市民・県民の生命を守る任務遂行に対して、深甚なる敬意と感謝の意を表するものである。

令和 4 年(2022 年)4 月 25 日
那 覇 市 議 会    

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 市議会の定数は40。欠員が2で、採決に加わらない議長を除くと、決議の投票権者数は37。そのうち15名が退席して表決に加わらず、有効投票数は22となった。無所属の2人が反対にまわり、採決結果は賛成20、反対2。この賛成票20の中に、共産党の5票がある。

 地元紙報道の見出しは、【自民・共産が賛成 那覇市議会 感謝決議 自衛隊 緊急搬送】(琉球新報)、【自衛隊に感謝決議 那覇市議会で県内初 離島患者の搬送1万件で】【自衛隊への感謝決議 「党派を超えて可決され喜ばしい」と岸防衛相 那覇市議会で共産も賛成】(沖縄タイムス)など。

 採決時退席したのは、立憲民主・社大、公明、ニライ会派など。ときは、ウクライナ侵攻のさなか。ところは、参院選・知事選を間近にした沖縄の県庁所在地である。影響は大きい。なんとも、分かりにくいことが起きるものだ。

 琉球新報社説の一節は次のように述べている。「共産党は決議が民生に限った内容だとして賛成した。これまでの自衛隊に対する党の立場とどのように整合を図ったのかは分かりづらい」。私も同様の感想を持つ。

 今、「自衛隊に感謝を」「自衛隊を侮辱するな」「国土の防衛という崇高な任務に敬意を」という、意識的な世論づくりが進行している。当然のことながら、9条改憲の地ならしである。その策動に乗せられてはならない。にもかかわらず、9条改憲反対の中心勢力である共産党が、「自衛隊感謝決議に賛成」とは、いったいどうしたことか。

 アジア太平洋戦争での唯一の地上戦において、日本軍の被害を経験した沖縄ではないか。住民がガマから追い出され、あるいは集団自決を強要され、「軍隊は住民を守らない」と骨身に沁みた沖縄県民ではないか。その地での自衛隊感謝決議自体が信じがたい。

 「離党の患者搬送や、災害派遣や、あるいは不発弾処理や、行方不明漁船等の捜索等々の市民・県民の生命を守る活動に限っての感謝」だから問題ないと言ってはならない。自衛隊の『本質』『本務』は、紛れもなく軍事力の行使にあって、民生にはない。自衛隊の『非本質』的部門における『非本務』活動をもって、自衛隊の存在を肯定評価してはならない。

 本来、必要な民生活動を自衛隊に任せていてはならない。それぞれの専門活動機関を創設し、専門性の高い活動を目指すべきである。離党の患者救援や災害派遣は、その用途に特化した機材や装備を有し専門的な訓練を積んだ機関に任せるべきべきである。軍事用装備品の流用で済ましてよいはずはないのだから。

 そして、ことさらに自衛隊に感謝してはならない。全ての公務員が国民に奉仕しているのだ。警察も消防も清掃も海保も気象庁も、そして教育も司法も行刑も…。自衛隊の任務のみを崇高としたり、特別に感謝の対象とすべき理由はない。

 さらに、日本国憲法は、武力を保持しないと定めている。自衛隊はその存在自体が違憲である可能性が高い。仮にこれを違憲な存在でないとすれば、専守防衛に徹した規模や装備や編成に限定しなければならない。果たして、自衛隊は違憲の存在ではないのか。この議論の徹底を躊躇させる空気はきわめて危険である。

 自衛隊とは、暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する危険な暴力装置である。これに対しては、徹底した文民(主権者国民)の統制下に置かねばならない。自衛隊のあり方に対する批判を躊躇させる空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。予防がなによりも肝腎なのだ。

 だから、自衛隊感謝決議は、自衛隊批判を口にしにくくする空気作りの第一歩として危険なのだ。ましてや、共産党が賛成となればなおさらではないか。革新を名乗る党が、このような決議に賛同してはならない。猛省を促したい。

沖縄が問う「日の丸」とはなんだ。「本当の意味での復帰」とは。

(2022年4月19日)
 来月15日で、沖縄の本土復帰から50年となる。その企画記事が目に付くようになったが、毎日の「沖縄の人々は日の丸の向こうに何を見ていたのか」という連載に注目したい。「沖縄の人々が日の丸を通して見ていたもの」は、時代によって違うのだ。そのことのレポートとなっている。

 昨日の記事のタイトルは、「基地の街に並んだ日の丸 あれから半世紀『沖縄の真の復帰まだ』」という、複雑なニュアンス。

 「その数日間は戦後の沖縄で日の丸が最も盛んに振られた日々だったのかもしれない。1964年9月、日本本土に先駆けて沖縄に到着した東京オリンピックの聖火は、日の丸の小旗で熱烈に迎えられた。そこは当時、米国が統治する島だったのに、だ。」

 取材対象となったのは、当時大学2年生だった岸本義弘さん(77)。「沖縄本島中部のコザ市(現・沖縄市)のセンター通りで聖火を引き継いだ。沿道に詰めかけた観衆から拍手と「頑張れー」の声援が湧いた。米兵相手の飲食店が建ち並ぶコザ。そんな基地の街にも日の丸が等間隔で並び、小学生たちも竹ざおに日の丸の旗を付けて振った。

 岸本さんは太平洋戦争の末期、米軍が沖縄に上陸する直前の45年2月に生まれた。生後まもなく、父は戦場で、母は空襲で亡くなった。戦後、島を占領統治したのは両親の命を奪った米軍だった。「ほとんど植民地扱いでしょ。米軍が憎たらしかった」。だからこそ、聖火を囲む無数の日の丸に感激した。「これで日本国民になったと思った。復帰はもう間近だと」

 その岸本さんが今はこう呟く。「沖縄の人がいくら反対しても基地は県内に押しつけられる。沖縄は日本になりきれていない。本土の人ももう少し一緒になって考えてほしい。それが本当の意味での復帰ではないか」

 そして、本日は、もう少し遡った時代についての記事。「日の丸、御真影がよりどころ 士気高揚、皇民化…結末は沖縄戦」というおどろおどろしいタイトル。

 「戦後27年間の米国統治下の一時期、沖縄で「祖国復帰」への願いを込めて盛んに振られた日の丸。だが、時代をさかのぼると、その旗は県民を巻き込んだ太平洋戦争末期の沖縄戦に至る経過の中で、重要な役割を担ったものでもあった。」

 1879年のいわゆる「琉球処分」で、約450年にわたる琉球王国が廃止され、県が設置された沖縄。約20年後には沖縄でも徴兵制が始まり、日中戦争(1937年開戦)では沖縄からも兵士が前線に派遣された。集落の人々は日の丸の小旗を振って兵士たちを見送った。

 1941年12月、日本軍による米ハワイの真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争。當真嗣長(とうましちょう)さん(91)が通っていた国民学校の教室には世界地図が貼られ、日本軍が南方の地域を占領する度に、子供たちが紙に描いた日の丸を貼り付けていった。當真さんの心は高揚した。

 子供たちの心を震わせたのは日の丸だけではなかった。1887年以降、沖縄の学校には順次、天皇の写真「御真影」が配られ、奉安殿と呼ばれた建物などに納められた。現在の那覇市にあった沖縄師範学校女子部の生徒だった黒島奈江子さん(98)は「絶対的なものだった。恐れ多くて、奉安殿の前ではせきさえできなかった」と証言する。祝日は奉安殿に日の丸が掲げられ、生徒たちは敬礼を求められた。

 沖縄では、日本との同化を図るため、学校を拠点に皇民化が強力に推し進められた。日本は天皇を中心とする国家体制を造り上げ、大陸へと進出していった。その結末が沖縄戦だった。

 沖縄では、時代によって「日の丸」のもつ意味が変わってきたのだ。かつては、新興天皇制政府の専制のシンボルであり、皇国にまつろわぬ人々への弾圧のシンボルであった。やがては県民がこれに服属を表明するシンボルとなり、本土から捨て石とされた沖縄戦では皇国に対する忠誠心のシンボルとなった。

 新憲法制定後に、まだ主権者気取りだった天皇(裕仁)から捨てられた沖縄は日本が独立したあとも、米軍の統治下におかれた。このような事態において、「日の丸」はその意味を変えた。横暴な占領者アメリカに対する抵抗のシンボルとなり、当時の沖縄における本土復帰運動のシンボルともなった。

 私は、66年暮れの1か月余復帰前の沖縄に滞在する機会を得てそのことを実感している。64年東京オリンピックの「日の丸」を打ち振った沖縄の人々の思いが痛いほど分かる。が、琉球処分やその後の沖縄の歴史を思えば、「日の丸」を打ち振った人々の胸の底にある切なさも思わずにはおられない。

 「本当の意味での復帰」は、まだない。そもそも、沖縄が「復帰」を求めた日本とはどんな国あるいは社会だったのだろうか。そして、これから沖縄にとって、「日の丸」とはどんな意味をもつことになるのだろうか。復帰50年、答は見えてこない。

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