澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

沖縄復帰50周年 ー「50年前はまだ期待があった。今状況はより悪くなっている」

(2022年5月15日)
 本日、沖縄本土復帰50周年である。50年前と同様に、沖縄は雨だったという。雨が降る中の宜野湾と東京とを結だ「記念式典」が開かれた。内容のない、印象の薄い盛り上がらない儀式だった。「記念式典」とはいったい何だろう。いったい何を、どのように記念しようというのだろうか。

 琉球新報は、「雨の中『沖縄を返せ』 50年前、基地従業員も願った復帰」とのタイトルで、元「全軍労」の専従役員(83)の回想を掲載している。
 「1972年5月15日の与儀公園で、降りしきる雨の音に対抗するように、復帰運動の象徴となっていた歌(『沖縄を返せ』)を大声で歌っていた」「あの日から50年。米軍絡みの事件・事故は絶えず、沖縄の差別的な扱いも続いている」「今も変わらないじゃないか」

 毎日は、本日の式典の取材記事。「『記念式典を粉砕するぞ』 飛び交う怒声、会場近くで抗議 沖縄」という見出し。会場の周辺では、「岸田は帰れ!」と叫ばれ、「辺野古新基地 直ちに中止せよ!」の横断幕や「違法工事止めろ」のプラカードが並び、背に「熊本県警察」の警官隊と抗議団がにらみ合った。「新基地 民意はNO」のプラカードを持っていた女性(73)=那覇市=は「復帰した50年前はまだ期待があったが、今は自衛隊配備も進み状況はより悪くなっている」と憤った、と報じている。

 50年前、「本土復帰」は沖縄の悲願であり、復帰後のその期待は大きかった。今、沖縄県民は、その期待と現実との落差に、落胆を隠せないのだ。

 この復帰への沖縄の期待については、私自身が肌で感じている。1966年末、復帰前の沖縄に1か月余の滞在を経験した。滞在しただけでなく、那覇の多くの市民と会話する機会を得た。当時、私は東大文学部社会学科の大学4年生。友人は皆就職が決まっていた頃に、留年必至の身で敢えてした沖縄行。そのときの強烈な沖縄体験の印象を忘れない。

 貧乏学生だった私に、長旅のできる余裕はなかった。当時私が在籍していた大学と琉球大学と朝日と地元紙とが共同でした大規模な社会調査の面接調査員としてのアルバイトでの長期滞在。初めてのパスポートを手に、行き帰りともに長い船旅だった。右側通行の車に戸惑いつつ、那覇北部の一街区を受け持って、毎日調査対象となった住民宅を訪問して、面接での聴き取り調査をした。

 自ずから、沖縄戦の話が出て来る。米軍基地への不満が話題となる、沖縄の歌や踊りや神話なども聞かされた。方言も教えてもらった。何と有意義な楽しいアルバイトだったろう。

 その中で強く感じたのは、「異民族支配」への拒絶感と、「平和で自由で豊かな本土」への復帰の願望であった。「本土復帰」は、明るい展望で語られていた。「日の丸」復帰運動のシンボルであった時代のことである。

 「即時・無条件・全面返還」のスローガンを掲げた復帰運動の昂揚を経て、72年5月15日沖縄の本土復帰は実現した。「鉄の嵐」を経験した沖縄の人びとが真に求めたものは、平和憲法がその条文のとおりに生き生きと根付いた本土への復帰だったろう。基地のない平和な沖縄を取り戻すことであったはず。しかし、現実は、本土の沖縄化とさえ言われた「核疑惑付き・基地付き返還」となった。それ以来、再びの闘いが始まって今日に至っている。

 その後に明らかとなった、主権者気取りの天皇(裕仁)の「沖縄メッセージ」に、私は激怒した。私も東北の蝦夷の末裔として実感する。権力の中枢は、常に平然と辺境を犠牲にする。沖縄も、中央政府に侵略され、捨て石にされ、さらに切り捨てられた。その非道な仕打ちに、天皇(裕仁)の個性が大きな役割を果たしている。とんでもない人物なのだ。

 沖縄本島の北端、はるかに本土を望む辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」。その碑文を読み直す。その文章に込められた想いに胸が痛くなる。

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
 ?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
  米軍占領に引き続き 1952年4月28日
  サンフランシスコ「平和」条約第3条により
  屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
  しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
  全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
  今踏まえている 土こそ
  辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
  しかるが故に この碑は
  喜びを表明するためにあるのでもなく
  ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
  人類が 永遠に生存し
  生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
  生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある

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