澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください

戦前の軍国主義・侵略主義・植民地主義を支えたものが天皇制だった。富国強兵・滅私奉公のスローガンを支えたのも天皇制だった。権威主義と差別が蔓延する社会を支えたのも天皇制。

戦争の惨禍に最大の責任を負うべきは、明らかに天皇であり天皇制であった。国家と国民を滅亡の一歩手前まで追い込んだ諸悪の根源としての天皇制。敗戦時、国民は深刻に旧体制の欠陥を検証し、これを剔抉しようと試みたが、天皇制を清算できなかった。生き残った旧天皇制の残滓は、いつまた再生し、肥大化しないとも限らない。

天皇制とは、国民に対する精神支配の仕組みである。支配しやすい権威主義的精神の国民を作りあげるための道具立て。天皇の生前退位と代替わりが来年(2019年)に行われる。国民を臣民とし、臣民根性を刷り込んだ天皇制の新たなかたちでの復活を警戒しなくてはならない。

現在なお、天皇制刷り込みの小道具はいくつも残存している。まずは元号。そして、「日の丸・君が代」。さらに祝日と叙勲。それに、歌会始や天皇出席の諸行事…。

中でも、存在感の大きいものが元号。明らかに元号は天皇制を支えている。こんな不便で、不合理なものは、そろそろ退場の潮時だろう。頃合いよろしく、新元号制定に反対する署名運動の要請が舞い込んできたので、ご紹介したい。

署名用紙は、下記URLでプリントアウトを。
http://han.ten-no.net/wp-content/uploads/2018/02/shomei_20180207_1.pdf
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新元号制定に反対する署名
内閣総理大臣 殿

天皇退位特例法にもとづいて、天皇の退位を2019年4月30日とすることが決まりました。「平成」は、この日をもって終わります。政府は「元号法」に基づき新しい元号を発表するとしていますが、わたしたちはこれを機に、新しい元号を制定しないことを求めます。
元号制度は、古代中国において、皇帝が時間を支配することを目的として作られたものです。「王」や「君主」の在位に合わせて暦を法律で変える国は、現在では日本しかありません。元号は「君主」の時間に民衆を従わせるための、本来的に非民主的な制度であるといえます。
2017年にNHKが行った世論調査によると、「西暦よりも元号をつかう」と回答した人は28%に過ぎません。63%が「元号よりも西暦をつかう」と回答しています。改元のたびの暦がリセットされる不便さを多くの人が感じ、元号は民衆生活の中からも急速に後景化しています。しかし残念ながら、役所や学校などでは元号の使用が慣例化され、市民も公共機関と関係をもつ場面では元号を使うことが事実上強制されています。
元号を変更することによる様々なシステム変更によって、大きな混乱や事故、また経済的な損失がもたらされることは、「昭和」から「平成」への改元でも起きたことです。このような混乱をもたらす元号は無用の長物でしかありません。新しい元号を制定せず、元号制度を終わりにしてください。

【請願事項】
 『新しい元号を制定しないでください。』

【元号はいらない署名運動】
氏名
住所
1次集約:2018年4月30日
集約先■靖国・天皇制問題情報センター(「元号署名在中」と明記下さい)
東京都新宿区西早稲田2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
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★仲間のみなさんへ★おねがい★
「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください
2019 年5 月1 日の天皇代替わりにむけて、政府は新しい元号を2018 年中に発表するとしています。
一昨年来、首都圏各地でさまざまなかたちで反天皇制の運動に取り組んできた私たちは、この新元号制定に反対する署名活動を皆さんによびかけます!
「昭和」の時代と比べれば、市民生活から元号は急速に姿を消しつつあります。インターネットでも元号不要論・不便論が公然と語られだしてきました。「最も生活に身近な天皇制」であるはずの元号と、民衆意識との乖離は着実に進んでいるのです。この天皇制の大きな弱点である元号制度を突くことを通じて、「終わりにしよう天皇制」の声を、共に、さらに広げていきましょう!
「8・8天皇メッセージ」から始まった「平成」代替わり反対闘争の重要な一環として、この署名運動に取り組んでいただけるようお願いします。目標は5000筆です。たくさんの仲間と共同できることを心待ちにしています。

1 署名を集めて、集約先または取り扱い団体までご郵送下さい
2 署名の取り扱い団体(個人ももちろん可)になってください
新元号制定に反対する取組みをするチャンスは、そう何回もないと思います。運動の広がりを示すために、ぜひ、皆さん自身が取り扱い団体・個人となって、署名集約のハブになってください。
3 街頭署名集めを計画してください
このテーマは街頭署名集めもしやすいテーマだと思います。ぜひ計画してください。一緒にやる仲間が見つからない方は、下記いずれかの連絡先までお気軽にご相談ください。
4 提出行動にご参加ください
署名の集まり具合や、新元号制定に向けた政府の動きなどを勘案して、内閣府に対して署名提出
行動を行います。あらためて日程をお知らせしますので、ご参加ください。

「元号はいらない署名運動」呼びかけ団体
■反天皇制運動連絡会 千代田区神田神保町1-21-7-2A 淡路町事務所気付 hanten@ten-no.net
■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
横浜市神奈川区鶴屋町2-24-2 かながわ県民センター9FレターケースNO.333
■靖国・天皇制問題情報センター 新宿区西早稲田2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
■天皇制いらないデモ実行委員会 立川市富士見町2-12-10-504 立川テント村気付 tennoout@gmail.com

(2018年2月15日)

盛岡の集会で、「建国記念の日」の危うさを語る。

本日(2月11日)は「建国記念の日」。盛岡で開かれた「2018 『建国記念の日』について考える県民のつどい」に招かれての講演。『岩手靖国違憲訴訟と安倍改憲』というのが演題。故郷・盛岡に、この日、このテーマで招いていただいたことがありがたい。

『建国記念の日』とは、まことに怪しい祝日。「国民の祝日に関する法律」それ自体が、まず怪しい。その第1条は、「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを『国民の祝日』と名づける。」とある。読むだに気恥ずかしくなる文章ではないか。

取って付けたかのごとき、「自由と平和を求めてやまない日本国民」「美しい風習」「よりよき社会」「より豊かな生活」の美辞麗句。自由・平和といったいどんな関係があるのか、わけの分からない祝日の主旨説明が並ぶ。そのなかに、次の一節。

「建国記念の日 政令で定める日 建国をしのび、国を愛する心を養う。」

「建国記念の日」を2月11日と定めたのは、国会ではない。内閣が政令で定めたのだ。それにしても、「建国をしのび、国を愛する心を養う」ための祝日とは、いったいそりゃ何だ。「建国」「国を愛する」の国とはいったい何だ。本日は、日本という国家について思いをめぐらし、国の来し方行く末を考える日とすべきであろう。

国家とは、突然作られるものでも、できあがるものでもない。しかし、その存立の原理なり理念が転換することはある。アンシャンレジームを廃して自由・平等・友愛を基本理念とする市民革命勃発の日であれば「建国の日」にふさわしい。毛沢東が、「中華人民共和国成立了!」と宣言した、1949年10月1日も、まさしく「建国の日」あるいは「建国記念の日」であろう。

今の日本の「建国の日」にふさわしいのは、法的に戦前の旧天皇制国家からの訣別の日としてのポツダム宣言受諾の8月14日か、敗戦記念の日とされている8月15日、あるいは降伏文書調印の9月2日であろう。あるいは、新国家建設の、新たな原理と理念を確認した日本国憲法公布の11月3日か、憲法施行の5月3日。

あくまで、現行の国の仕組みと理念ができあがったことが「建国」でなくてはならない。だから、「建国をしのび」とは、天皇制国家の不合理と理不尽を清算するために、いかに過大な犠牲を必要としたかを思いめぐらせることなのだ。だから、「国を愛する」の国とは日本国憲法が定める国民主権原理に基づいて作られ、平和と人権をこよなく大切にする「国」のことである。その国を「愛する」とは、決して再び天皇主権や天皇を傀儡にして国政の壟断を許した旧体制に戻してはならない、富国強兵のスローガンで、軍国主義・侵略主義を謳歌した過去と厳しく訣別することと決意することだ。

2月11日は、神話の上の天皇制起源の日。しかも、神なる天皇が、神勅によってこの国の統治者となり、国民を臣民に宿命づけた日である。「建国記念の日」として、かくもふさわしからぬ日はない。12月8日よりも、7月7日よりも、9月18日よりも「悪い日」というほかはない。

「自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」、建国記念の日には、「明治150年」のデマゴギーを語らねばならない。「明治150年」の始まりの明治維新とは王政復古による天皇制再構築であった。それによって、軍国主義・侵略主義の国家が作りあげられたのではないか。今ある、「国民主権の日本」とはまったく別物の、「神なる天皇の国」の「建国」を、「国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、記念」してはならない。

かの「神なる天皇のしろしめす国」は、主権者天皇と臣民からできていた。国民は、民草でしかなかった。臣民一人ひとりに価値はなく、天皇に随順し、天皇のために死ぬことでその価値が認められるという、恐るべき靖国の思想が臣民に植えつけられた。我々は、今自立した主権者として、このようなマインドコントロールを排斥し得ているだろうか。臣民根性を捨て切れていないのではなかろうか。

だから、今日「建国記念の日」には、天皇制のマインドコントロールの恐ろしさを再確認して、「再び権力者に欺されない」「マインドコントロールを許さない」「天皇や天皇制の権威に恐れ入らない」「天皇や天皇制を批判する言論に萎縮しない」「奴隷根性も、臣民根性も払拭して自立した主権者となる」ことを確認し決意すべきなのだ。それこそが、「自由と平和を求めてやまない日本国民として、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために」必要なことではないか。

本日、そのような視点から、岩手靖国違憲訴訟を語りたい。以下はそのレジメ。

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第1 岩手靖国違憲訴訟とその判決
1 岩手靖国違憲訴訟とは二つの(住民)訴訟
☆岩手靖国公式参拝違憲訴訟
天皇と内閣総理大臣の靖国公式参拝を求める県議会決議の違憲を問題に
原告(牧師・元教師) 被告(議長・県議40人)県が補助参加
☆岩手玉串料訴訟(県費からの玉串料支出違憲訴訟)
原告住民(多彩な市民) 被告(知事・福祉部長・厚生援護課長)県
(提訴の日が愛媛玉串料訴訟と同日)
2 政教分離とは、象徴天皇を現人神に戻さないための歯止めである。
国家に対して「国家神道(=天皇教)の国民マインドコントロール機能」
利用を許さないとする命令規定である。
・従って、憲法20条の眼目は、「政」(国家・自治体)と「教」(国家神道)
との「厳格分離」を定めたもの
・「天皇・閣僚」の「伊勢・靖國」との一切の関わりを禁止している。
・判例は、政教分離を制度的保障規定とし、人権条項とはみていない。
このことから、政教分離違反の違憲訴訟の提起は制約されている。
・住民訴訟、あるいは宗教的人格権侵害国家賠償請求訴訟の形をとる。
3 運動としての岩手靖国訴訟(公式参拝決議の違憲・県費の玉串料支出の違憲)
靖国公式参拝促進決議は 県議会37 市町村1548
これを訴訟で争おうというアイデアは岩手だけだった
県費からの玉串料支出は7県 提訴は3件(岩手・愛媛・栃木)同日提訴
☆訴訟を支えた力と訴訟が作りだした力
戦後民主主義の力量と訴訟支援がつくり出した力量
神を信ずるものも信じない者も 社・共・市民 教育関係者
4 政教分離訴訟の系譜
津地鎮祭違憲訴訟(合憲10対5)
箕面忠魂碑違憲訴訟・自衛隊員合祀拒否訴訟
愛媛玉串料玉串訴訟(違憲13対2)
中曽根靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
滋賀献穀祭訴訟・大嘗祭即位の儀違憲訴訟
小泉靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟
安倍首相靖国公式参拝違憲国家賠償訴訟(東京・大阪で)
5 岩手靖国控訴審判決の意義と影響
・天皇と内閣総理大臣の靖国神社公式参拝を明確に違憲と断じたもの
・県費からの玉串料支出の明確な違憲判断は愛媛とならぶもの
・目的効果基準の厳格分離説的適用
目的「世俗的目的の存在は、宗教的目的・意義を排除しない」
効果「現実的効果だけでなく、将来の潜在的波及的効果も考慮すべき」
「特定の宗教団体への関心を呼び起こし、宗教的活動を援助するもの」
☆政教分離国家賠償訴訟の経験は、戦争法違憲訴訟に受け継がれている。
6 1983年夏の陣
原告側証人 村上重良・大江志乃夫・高柳信一
被告側証人 神野藤重申(靖国神社禰宜)
7 「最低・最悪」完敗の一審判決(1987年3月5日)から
「完勝」の仙台高裁控訴審判決(1991年1月10日)へ
☆ 天皇・首相の靖国公式参拝は違憲
☆ 県費からの玉串料支出は違憲
いずれも、目的効果基準に拠りつつ、これを厳格に適用しての違憲判断。
☆ 上告却下 特別抗告却下
第2 政教分離問題の本質をどうとらえたか
1 信教の自由の制度的保障規定⇒基本的人権(精神的自由権)に関わる問題
2 天皇を再び神にしてはならないとする規定⇒国民主権原理に関わる問題
3 軍国神社靖国と政権との癒着を禁じる規定⇒恒久平和主義に関わる問題
4  政教分離の「教」とは、「国家神道の残滓」であり、
「天皇の神聖性」鼓吹であり、国民精神を戦争に動員した「軍事的擬似宗教」  である。
5 政教分離は、憲法の根幹に関わる大原則。
自衛隊の海外派兵や自民党改憲論にからんで、
ますますその重要性を高めている。
第3 自民党改憲草案第20条との関わり
1項 信教の自由は、保障する。
国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを
強制されない。
3項 国及び地方自治体その他の公共団体は、
特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。
ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、
この限りでない。
☆自民党のホンネは、「社会的儀礼」又は「習俗的行為」として、
国や自治体の神道的行事を認めさせようというところにある。
自民党の憲法なし崩し策動に、一歩の譲歩もあってはならない。
第4 天皇退位と明治150年
否定されたはずの、天皇の権力や権威が、今旧に復そうとしている。
※天皇の生前退位表明は、明らかに越権。
※明治150年のイデオロギー攻勢
※自民党改憲草案前文冒頭
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
※草案第1条 「天皇は、日本国の元首であり…」
※草案第4条(元号について)
「元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。
解説(Q&A) 4条に元号の規定を設けました。この規定については、自民党内でも特に異論がありませんでしたが、現在の「元号法」の規定をほぼそのまま採用したものであり、一世一元の制を明定したものです。

「日の丸・君が代」、元号、祝日、勲章・褒賞は、今の世に払拭しきれない神権天皇制の残滓である。天皇の権威にひれ伏す臣民根性を払拭して、主権者意識を確立しよう。
(2018年2月11日)

沖縄戦悲劇の根源は、「天皇制への動物的忠誠心」にあった。

天皇の生前退位表明以来、皇室報道が過剰だ。天皇の代替わりをめぐる議論がかまびすしい。最近思うことは、「反天皇制」という視座を据えると、新たにいろんなことが見えてくるということ。

「反天皇制」における「天皇制」とは二重の意味が込められている。ひとつは旧体制における神権天皇制である。神聖にして侵すべからずとされた万世一系の皇統の末裔にして現人神なる天皇という、荒唐無稽な神話に支えられた天皇制。「反天皇制」とは、そのばかばかしさを、ばかばかしいと素直に言うことだ。神秘性も権威も、権威を土台とする統治権の総覧者としての天皇の地位も認めないということ。

もう一つの「天皇制」の意味合いは、象徴として現代に生き残った「天皇制」。この意味の「反天皇制」とは象徴天皇の権威の否定、あるいは「象徴天皇制」の存在感を極小化しようという精神の自立性を指す。反権威主義であり、アンチ・ナショナリズムであり、多数派支配への懐疑でもある。

「反天皇制市民1700」誌の最新号に、知花昌一さんが、「沖縄にとっての『奉安殿』」という記事を寄せている。天皇制という負の遺産の象徴としての「ご真影と教育勅語」についての貴重な断想。戦前を回顧するだけでなく、アベ政権がもたらした9条改憲の危うさにまで触れている。

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沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。

評論家の大宅荘一氏が1959年に沖縄戦の調査に来て、多くの悲惨な犠牲の原因は天皇及び天皇制に「あまりにも動物的なまでの忠誠を尽くしたこと、家畜化され盲従した結果だ」と動物的忠誠心という造語を創った。その動物的忠誠心を植え付けた装置が教育勅語と天皇・皇后の写真=「御真影」と忠魂碑である。

沖縄では、琉球処分の8年後1887年には他県に先駆けて「御真影」が下賜されている。「他県に先駆けた」ことは、明治政府としては沖縄が天皇に関心がない「化外の民」「まつろわぬ民」であることで、皇民化を急いだのだろう。

教育勅語と「御真影」の多くは校長室に奉安庫を創り納められているようであるが、火事などで焼失すると校長の責任が厳しく問われ、懲戒免職にされた例などがある。奉安殿は下賜された教育勅語と「御真影」を納める建物で、関係者がが大金を集め、当時としては高価で豪華な鉄筋コンクリート造りのものが多かったようである。
戦時中、「御真影」は米軍に蹂躙されないように名護市オオシッタイに集められ山奥の洞窟に秘匿され、戦後焼却されたといわれている。

今、沖縄には四つの奉安殿が残っている。その一つが1935~6年に沖縄市美里尋常小学校跡に建立された写真のものである。数発の弾丸の跡が残っている。
日本本土では戦後GHQが1945年に発令した「神道指令」によって全国の奉安殿や忠魂碑はほぼ解体された。沖縄でも1946年に群島政府知事により解体通達が出され、民政府(軍政府)の指示によって破壊されたが、指示など行きとどかなかった宮古、八重山、本部町に残ったのだろう。沖縄市美里に残っているのは米軍のキャンプ・へーグ基地にあり、物入れに使われていて奉安殿の存在がわからなかったのだろうと言われている。現在では沖縄市の文化財に指定され、修復がなされ、「負の遺産」として平和学習などに活用されている。

何時の時代も権力者・為政者は民衆を畜生にしたいもので、そのためには教育と暴力装置=軍隊を意のままに操るものである。安倍政権もすでに教育基本法を改悪し、自衛隊=軍事を強化し、集団的自衛権行使できる体制をととのえている。それに加え9条改悪を明言している。

最後に、知花さんは、こう訴えている。
「危ない時代が来ています。それに抗するのは、民衆自ら考え、学習することです。そして闘うことです。」
(2018年2月8日)

「明治150年」と靖国と、そしてアベ。

一昨日(1月22日)、第196通常国会での首相の施政方針演説の冒頭は、次の言葉だった。
「150年前、明治という時代が始まったその瞬間を、山川健次郎は、政府軍と戦う白虎隊の一員として、迎えました。」

やれやれ。1868年の明治元年から数えて今年が「明治150年」。で、それがどうした? 明治で年を勘定することに、いったい何の意味があるというのだ?

アベシンゾ-ら右翼ご一統にとって、「取り戻すべき日本」とは大日本帝国憲法下の「明治の御代」なのであろう。明治維新の150年前こそは、誇るべき帝国が始まる記念すべき年なのだ。ふやけた民主主義の戦後70年とは、較べるもおろかということなのだ。

明治への改元は1868年10月23日(新暦)だが、その年の1月1日(旧暦)に遡って適用されることとされた。その明治元年は戊辰戦争で始まる。鳥羽伏見の戦いの開戦は、旧暦で1月3日のことだ。要するに。明治元年は内戦の年だ。この年、およそ1万人の戦死者が出ている。

同月6日徳川慶喜は、軍を残して大坂城を脱して12日に江戸城に入る。就任以来初めての江戸城入りであったそうだ。将が兵を捨てて、こっそりと逃げ帰ったのだ。かくて、徳川の世の終わりは誰の目にも明らかになったが、薩長軍は「玉」を手にして錦旗を掲げ、賊軍の血を求めて闘い続けた。その最大の戦闘が会津戦争だった。戊辰戦争の最中に、江戸城内で招魂祭が執り行われている。官軍の死者の霊だけをだけを招いて讃え鎮める儀式。これが靖国の源流になる。

150年前のこの年。まことに血なまぐさい動乱の時代であって、右往左往した人々は、美しくもなければ気高くもない。感動すべきなにものもなく、権謀術数渦巻く時代に、勝敗だけが明瞭だった。西南雄藩が幼帝を我がものに天下を壟断し、徳川家と奥羽越列藩は賊軍として逼塞を余儀なくされた。

この150年前の政治的対立の図式を今に留めているのが、靖国神社である。官軍の戦死者だけを祀る宗教的軍事施設として1869年に東京招魂社として建立され、1879年に靖国神社と改称した。あくまで官軍の施設であったから、その宗教思想は徹底した死者の差別である。自軍の戦死者の魂のみを、天皇への忠誠ゆえに尊い神として祀る。一方、敵軍たる賊側の死者を祀ることは決してない。

佛教には怨親平等という思想があり、永く日本の民衆に浸透していたとされる。日本の民衆は、蒙古軍の戦死者も篤く弔った。戦国の戦場でも、敵味方の区別なく戦死者は等しく葬られた。「死ねばみんな罪科のない仏」。これが日本の民衆の心情となり、そのように行動することが美風とされた。ところが、天皇の軍隊はちがった。官軍のみを手厚く神として祀り、賊軍の死者には埋葬さえ自由にさせなかったとされる。

会津戦争では、会津藩士側の死者は3000人に近いとされる。新政府軍は、その遺体の埋葬を許さなかったということが定説となっている。降伏から半年後の1869年2月に阿弥陀寺(同市七日町)に改葬されるまで遺体は野晒しだったとされ、それが新政府軍だった旧長州藩と感情的な溝をつくる要因の一つにもなっていた。

よく引かれるのは、太平洋戦争の終戦後に書かれた『会津史談会誌第33号』の『明治戊辰戦役殉難之霊奉祀ノ由来』である。新政府軍の命令によって遺体の埋葬が禁じられたという記述がある。この情報を元にした歴史小説などには「会津藩士の遺体埋葬を禁止し、腐乱するまで放置した」という記述が多く見られるという。

足を踏んだ方は忘れても、踏まれた方はその痛みを忘れがたい。アベは、長州人として会津の痛みが分かるまい。会津の側は、決して忘れない。「不可逆的な解決」などはあり得ないのだ。

もっともごく最近になって、会津側の戦死者567人については、藩の降伏から10日ほど後に埋葬され始めたとする史料が福島県会津若松市で見つかったと報じられている。「3000人が半年も野に晒されていた」という定説は、その限度であらためられなければならないようだが、史実の如何よりは、会津人を筆頭とする東北人の藩閥政治に対する反感の存在が問題なのだ。

アベ施政方針演説は、白虎隊の生き残りである山川健次郎に触れているが、山川も会津戦争戦没者遺体の埋葬が許されなかったと思い込んでいたはず。薩長閥政府への怨念やるかたないものをもっていたはずなのだ。

その会津の戦没者を賊軍として、官軍の英霊と差別する「軍事的宗教施設」が靖国神社である。戦前そのトップである宮司は歴代軍人がその地位を占めてきた。戦後、靖国神社が宗教法人に改組されて以来11代目の宮司に、なんと150年前の賊軍の将の末裔が就任した。

これが徳川康久(69)、その曾祖父が徳川慶喜だという。官軍神社のトップに賊軍の将の末裔。150年の長き間に、「官」と「賊」との恩讐は乗り越えられたか…。と思ったのは、束の間の幻。共同通信が、次の記事を配信している。

「靖国神社の徳川康久宮司が退任する意向を関係者に伝えていたことが23日、分かった。」という。ニュースソースは、「同神社関係者が明らかにした。」とのみされ、宮司自らのリークではない。また、「定年前の退任は異例。徳川氏は「一身上の都合」と周囲に説明している」というから、靖国神社に穏やかならざる雰囲気を感じさせる報道。なお、定年は75歳とのこと。あと6年を残しての「異例の退任」なのだ。

宮司退任の原因が、2年前のこれも共同通信のインタビュー記事にある模様。
この点は、「徳川幕府15代将軍慶喜を曽祖父に持つ徳川氏が共同通信のインタビューで示した明治維新に関する歴史認識について、同神社元総務部長が「会津藩士や西郷隆盛ら『賊軍』の合祀の動きを誘発した」と徳川氏を批判、波紋が広がっている。」と報じられていた。

宮司は共同通信インタビューで戊辰戦争に関してこう語ったという。
「幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗(みはた)を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった」

この発言を受け、16年10月、亀井静香元金融担当相らが宮司に面会して、「西郷隆盛や会津白虎隊などの“賊軍”を合祀してほしい」を徳川氏に申し入れ、これが大ごとになった。亀井のこの行動に賛同したのは、石原慎太郎や中曽根康弘、石破茂など90人超だったという。

亀井によると、宮司は、「直ちにそういたします、とは言えません」との回答だったという。この対応について靖国神社元総務部長が「(明確に否定せず)合祀に含みを持たせた」などと反発した。

要するに、「靖国とは天皇の神社であり、官軍の神社なのだ。官と賊との区別を曖昧にすることは許されないのに、宮司たる者がなんたる発言」というわけだ。150年前創建当時の原理主義者と、150年目の復古主義者との角逐といってよかろう。そして、どうやら原理主義者、つまりは官軍派が賊軍の将の末裔に対する勝利を収めた如くなのだ。

明治は内戦で明けた。その内戦の確執は150年経ってもおさまっていない。靖国が内戦の死者の合祀施設から対外戦争の死者の合祀施設に基本性格を変えたとき、日本は天皇の権威と権力を最大限利用した軍国主義国家になっていた。明治150年とはそんな歴史である。こんなものを持ち上げてはならない。戦後の民主主義の歴史をこそ大切にしよう。日本国憲法制定以後70年余の国民主権の時代の積み重ねを誇りにしよう。
(2018年1月24日)

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」

一昨日(1月8日)の毎日新聞朝刊一面トップが、「山梨の国有地 日本航空学園に格安売却 評価の8分の1 財務省」という大見出しの記事。森友事件とよく似てはいるが、安倍政権との関係や、特定の政治家の介入は記事になっていない。格別に重要な記事とは思わなかった。印象は、「毎日のスクープだから扱いが大きいのだろう」「政権側からすれば、森友への国有地売却が特異な事例ではない、と言い訳に使うのだろうな」という程度。

毎日の視点も、政治との関わりではなかった。財務省(理財局)による国有地管理の杜撰さを問題にする内容だった。

「山梨県内の国有地を地元の学校法人が約50年無断で使い続け、管理する財務省関東財務局が把握しながら放置した末、2016年5月に評価額の8分の1で売却していたことが明らかになった。国は学校法人「森友学園」への国有地売却問題を機に国有財産の処分の適正化に着手したが、ずさんな管理と不透明な取引の実態が改めて浮かんだ」「日本航空学園に売られた土地は評価額の8分の1にまで割り引かれ、値引き幅は森友学園にも匹敵する。同省の幅広い裁量権を背景に、国民共有の財産が第三者のチェックを受けることなく、価格の妥当性を担保されないまま売り払われている実態が明らかになった」

ところが、その日(1月8日)の内に、リテラが追っかけ記事をアップした。これで、問題の風景がガラリと変わった。いつもながらのリテラの嗅覚の鋭さと筆の速さには脱帽するしかない。
http://lite-ra.com/2018/01/post-3725_2.html
リテラの記事のタイトルは、「何から何まで森友そっくり! 国有地疑惑の『日本航空学園』極右教育と安倍政権との関係」というもの。

小見出しに、「愛国心と国家防衛教育を謳う日本航空学園の極右ぶり」「日本航空学園と政治家の関係、安倍首相の盟友が理事、文科政務官が校長」など。これはただごとではない。

リテラの記事の一部を引用させていただく。
「じつはこの日本航空学園と森友学園にはもうひとつ共通点がある。それは、日本航空学園の理事長・梅沢重雄氏がゴリゴリの極右であるという点だ。たとえば、梅沢理事長は「日本文化チャンネル桜」の設立発起人に名を連ね、『日本航空学園アワー』なる番組が放送されていた。
さらに、『南京虐殺はなかった』などと主張する歴史修正本が国際的に問題となった元谷外志雄・アパグループ代表が塾長・最高顧問を務める『勝兵塾』にも、元文科大臣の馳浩議員や元航空幕僚長の田母神俊雄氏らとともに参加。…梅沢理事長はそこで『憲法についてのくだらない議論よりも教育勅語を教えることが必要』『我が国の伝統文化を教えれば10年後にはスムーズに憲法改正ができる』『国体をしっかり守りさえすれば憲法なんてどうでもいい』と話したという。」
「また、日本航空学園では、毎日の朝礼時には『君が代』とともに日の丸を掲揚、17時になると国旗降下をおこなうといい、梅沢理事長は〈この国旗掲揚と国旗降下のときは、学校中、教師も生徒も直立不動の姿勢で国旗に敬礼します。教師が会議中であっても、生徒がクラブ活動中であっても、そのときはいったん中断し、国旗に敬意を表するのです〉と胸を張っている。」「問題の国有地は、日本航空高等学校のキャンパス内だ。」「初代の義三氏による『航空教育を通して愛国の精神を培う』という建学の精神を、3代目の重雄理事長も継承しているというわけだ。」

もっとも、リテラも、米田建三・元内閣府副大臣や赤池誠章議員ら政治家の名前を挙げてはいるが、その廉価払い下げの具体的手口や、安倍政権との関わりを具体的に示し得てはいない。その記事の締め方は、「日本最大の極右団体のイベントにメッセージを寄せ、改憲をぶち上げるという前代未聞の総理大臣。その影響によって、安倍首相と同じ極右思想を掲げる団体は手厚い待遇が受けられる──。これはこの国が全体主義に近づいている証拠なのだろう。昭恵夫人の関与が決定的となっている森友問題と同じように、この日本航空学園への不当な取引にかんしても、背後関係の究明が待たれる。」となっているに過ぎない。

まさしく、背後関係に切り込むジャーナリズムの成果を今後に期待したいが、それにしても、この「学校」の異様さはただごとでない。

ゴリゴリの極右だという理事長・梅沢重雄が、日本航空学園のホームページにやたらに右翼思想を露わにしている。これが、たいへんな代物。安倍晋三の「云々(でんでん)」並みのレベルで、文章の修飾の技術に欠けるから、分かり易い点ではこの上ない。

「教育の淵源」という記事が、最もまとまっているもののようだが、かなり字数が多いので敬遠し、ブログとして31回にわたって連載された「教育勅語」解説を紹介したい。

ゴリゴリ極右・梅沢重雄が教育勅語を論じる基本姿勢は、以下の文章によくあらわれている。100年前の官製道徳を、今の世に語ることが恥だという感覚を欠如しているのだ。

「『教育勅語』は、今では時代遅れの教えであるなどという人がありますが、決してそうではなく、『教育勅語』で明治天皇がさとされた国民の本分は、昔も、今も、そして将来も変らず、永久に受けついて行かなければならない美しい道徳であり、国民の義務である、と仰せられているのであります。」

天皇の臣民などというと、時代遅れのように考える人があるかも知れませんが、日本の国体(くにがら)は万世一系の天皇をいただいていますから、天皇と国家とは一体でありますので、国民が天皇に忠実であることは、国家に対しても忠実な国民であるということです。だから立派な国民となるためには、皇室にも忠実でなければなりません。『教育勅語』は、忠孝の道からはじまって、国民の踏み行わねばならない本分を、いろいろとおさとしになったものでありますから、その教えを実行することが、立派な国民になることであります」

「前にも述べましたが、西洋や中国の歴史は、国民の皇帝に対する「反逆」の連続でありますが、日本の歴史は、このように天皇と、国民とが常に手をつなぎ合ってきた『君民一体』の伝統にかがやいています。戦前の『大日本帝国憲法』では、我が国は『万世一系の天皇が統治する』と定められていましたし、戦後の『日本国憲法』においても、『天皇は国民統合の象徴である』とされているのですから、わたくしたちは永久に天皇を中心とした、立派な国体を護持しなければなりません。

「『我カ臣民』というのは、『わが国民』と同じことで、天皇を中心とした日本の国体においては、君(天皇)と、臣(国民)とが一体であります。『克ク忠ニ』という『克ク』は『能ク』と同じ意味です。また『忠』というのは、天皇と国民が一体である美しい国がらにおいて、国民が天皇につくす道を『忠』というのですが、天皇は国民をわが子としてかわいがられ、また国民は天皇をわが親として尊敬するのですから『我カ臣民克ク忠ニ』というのは、『わが国民は立派に忠義をつくしてくれた』という、明治天皇の慈愛に満ちたお言葉であります。」

「外国の歴史を見ますと、皇帝は国民を苦しめ、国民は皇帝に反逆するという争いの連続でありますが、日本においては、天皇は日本民族の本家本元であり、国民はその分家という、切っても切れない深い血のつながりの中に、うるわしい天皇中心の日本の歴史と伝統があるのであります。

昔から日本国民は、ひとたび天皇の御命令が発せられると、みんなが一つ心になって仲良くとけ合ったり、力を合わせて団結したりして、日本の国を守ってきました。例えば、蒙古が中国を攻め取り、朝鮮半島の高麗国の軍隊をしたがえ、十数万の大軍をもって九州の博多湾に二度まで押し寄せましたが、その時の亀山上皇は、伊勢神宮にお参りになって、『身をもって困難に替えさせ給え』と天照大神の霊前にお祈りになり、また、国民もあらゆる困難に耐えて、敵軍を完全に追い払ってしまったことなどは、そのよい一例といえましょう。」

国民が常に、天皇のもとに一つ心になり、忠孝の道を、わが国の美風として守り、育ててきたのは、他の国々では見られない、日本の美点であることを、お述べになったのであります。
 そして、わたくしたち国民は、『万世一系』の天皇を、国の中心と仰いできたのでありまして、外国の歴史で見るように、国民が血を流して、力ずくで、皇帝の座を奪い取るようなみにくい争いは、二千六百年の長い日本の歴史において、今日までいちどもありません。これはほんとうに、世界に誇ることのできる、日本の美風であります。」

「国民は国に対しては、忠実に義務を守り、また親に対しては、孝行をつくし、国民全体が心を合わせて、美しい日本の伝統を、いつまでも受け継いで行くように心がけねばならないということを、国民に教え守らせるようにすることが、教育の根本でなければならない、と明治天皇はおさとしになっているのです。
ちかごろは、日本国民としての本文を守らず、国に対する責任もわきまえず、子としての親への孝養をつくさず、また、国民同士が互いに争いあっているのは、戦後の教育の根本方針が、間違っているからです。

「『国憲』というのは『国の根本の定め』の意味ですから『憲法』のことであるともいえます。また「国法」というのは、いろいろな「法律や規則」などのことです。
憲法は、国のあり方の根本の原則だけを定めたものでありまして、くわしい規則は、それぞれの法律や規則によって定められております。だからこの一句の意味は『国民は平時においてはもとより国のおきてを尊重し、法律の定めにしたがわなければならない』と、お示しになっているのです。
現在の憲法では、国民の個人の権利が非常に尊重されておりますが、しかし自分の権利を通すために、社会公共の福祉に反してはいけない、とも定められています。つまり他人に迷惑をかけても、自分の権利だけを押し通すのはいけないことなのでありまして、そういう無法者は、日本国民の恥さらしといわなければなりません。

「一旦緩急アレハ  義勇公ニ奉シ
「一旦」は「ある日」とか「ひとたび」とかいう意味。「緩急」は「重大事変」のことです。だから「一旦緩急アレハ」というのは、前文の「常ニ」という言葉、すなわち「平時」における心得に対し、「もしもひとたび戦争などの非常時になったならば」という意味です。「義勇」というのは「正義と勇気」のこと。「公ニ奉シ」とは「お国のため、社会のために、国民としての義務をつくす」ということです。国民がお国を守ることは当然のことですから、決して「軍国主義」ではありません。
大東亜戦争までは、国民には兵役の義務が憲法で定められていましたから、戦争の時には軍人は勇敢に戦いましたし、また軍人でなくても、国民はみな一致団結して、国のために国民の義務を果たしてまいりました。」
「 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
「天壌無窮」という言葉は、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を「日向の国」におくだしになった時の神勅において、「宝祚の栄えまさんこと天壌と共に窮りなかるべし」と、おおせられたことをいうのであります。
日本は大東亜戦争に失敗して、みじめな目にあいましたが、「万世のために太平を開け」という天皇のお言葉にしたがって、一億国民が努力したために、今日では世界の人々がおどろくほどに立派な経済大国となったのであります。
これからも、われわれ国民は、力を合わせて日本を立派な国にしようではありませんか。」

「『教育勅語』は、戦前・戦後の教育のあり方の変遷のなかで誤解を受けてきました。でも、あらためて現在の私たちの生き方に照らし合わせてみると、人間の生き方の根本に関わる答えが、そこに見えてきます」

で、この「学校」の校訓5か条の最後は次のとおりである。
『敬神崇祖以て伝統を承継し祖国を興隆すべし』

これはもはや教育でも学校でもない。正確には「カルト集団」と呼ぶべきだろう。あるいは、「天皇崇拝精神鍛錬場」だ。いかにも、安倍晋三の気に入りそうな場ではないか。森友同様、このような極右集団に国有地が極めて廉価に払い下げられているというのは、単なる偶然にしては奇っ怪千万。リテラ同様、背後関係の究明を待ちたい。
(2018年1月10日)

上野公園に見る「維新政府の不寛容」

日曜日の散歩コースは、いつも上野に。変わり映えせず芸のない話だが、季節季節に趣は大いに異なる。本日(1月7日)、風は冷たいが透きとおるような好天。見るものすべてが光っているような景色。

本郷通りを横切り、赤門から東大キャパンスにはいって鉄門から出る。岩崎邸の石積みを右に見ながら無縁坂を下って不忍池に。このところ池の畔に居着いているカワセミに見とれて、弁天堂から五條神社・上野大仏を経て噴水広場が終点。本日ここは、シャンシャン(香香)祭りの大にぎわい。

踵を返して王仁博士の碑に立ちより、2本のジュウガツザクラの満開を愛でる。その先が彰義隊を顕彰する「戦死之墓」と「上野戦争碑」。そして西郷隆盛像。150年前に闘った敗者と勝者が並んでいる。

意識的に「明治150年」を強調する風潮のなかで、彰義隊碑には特に事件後150年を意識させるものはなにもない。西郷隆盛像の近くには、NHK大河ドラマ「西郷どん」のポスターがあった。まあ、その程度。

ネットを検索すると、いろんなことが書き込まれている。「漢文石碑を読み歩く」というシーズの中に、「上野戦争碑記」として、その成り立ちが詳細に記されている。
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/ueno_sensou.html

以下その抜粋。
「明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した彰義隊と明治政府軍との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる阿部弘蔵(弘臧とも)が、上野戦争の経緯を記したもの。上野公園から見て東京国立博物館の裏手、寛永寺の境内に建っています。
  山崎有信『彰義隊戦史』(1904年)によると、阿部弘蔵は、上野戦争のときには数え年で20歳。いかにも当時の若い侍らしく、和漢の古典を学んだ上に西洋流の兵術も身に付けた、優秀な人材だったようです。わずか20歳なのに彰義隊の命名を任されたということは、文章の才でも一目置かれていたのでしょう。
 碑文の末尾にもあるように、弘蔵がこの文章を書いたのは、1874(明治7)年のこと。しかし、すぐに石碑を建てることはできませんでした。政府の許可が下りなかったのです。後に弘蔵の娘婿、松岡操がまとめた『寛永寺建碑始末』(1912年)では、その理由を「文字ニ不穏ナル点アリトイフヲ以テナリ」と推測しています。
  それから40年近く経った1911(明治44)年、こんどは松岡操たちが中心となって請願し、冒頭と末尾の240字ほどを削るなど文章にも手を加えて、ようやく石碑の建設にこぎ着けることができました。」

碑文の全体は余りに長い。しかし、最も関心を寄せるべきは、「削られた冒頭と末尾の240字ほど」である。その読み下し文と、現代語訳とを引用しておく。

【削除された冒頭部分】
明治の中興、百度、維(これ)新たなり。仁は海内遍く、沢枯骨に及ぶ。凡そ国事に死して功烈顕著なる者は、数百年の久しきを経と雖いえども、皆、封爵を追贈し、之を祀典に列す。又、嘗て譴(とがめ)を朝廷に得る者と雖も、過ちを悔い志を改むれば、則ち才を量りて登用し、復(また)旧罪を問わず。

 明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、その恩恵は亡くなった人々にまで施された。国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても、すべて爵位を追贈して、英霊を祀った。また、以前、朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用して、以後は一切、昔の罪を問題にはしていない。

而(しかる)に独り彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそう)を許されず。孤魂超然として依憑(いひょう)する所無し。嗟呼(ああ)、彼、豈(あに)叛臣賊子に甘んずる者ならんや。亦また各々忠を其の事(つかう)る所に尽くすのみ。世、或いは察せず、徒(ただ)成敗を視みて以て之を議するは、篤論(とくろん)に非あらざるなり。

 ところが、彰義隊に従って戦争で亡くなった者だけは、あのときに新政府軍に抵抗したという理由で、現在になっても簡単な葬儀さえ許されていない。見捨てられた魂はさまよって、きちんと成仏できないでいる。ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい、経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。

【削除された末尾部分】
余も亦た幸いに残喘(ざんぜん)を保ち、以て今日に至る。而(しか)れども彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る、悲しいかな。頃者(ちかごろ)、其の親しく睹(み)る所を追録し、之を石に勒(きざ)み、以て其の霊を慰む。亦た唯だ寃(えん)を天下後世に雪(すす)がんと欲するのみ。

 私もまた、幸いなことに生きながらえることができ、現在に至っている。しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこのたび、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。

「唯だ寃を天下後世に雪がんと欲するのみ」に関わる文章は、天皇制政府の許容するところとはならなかった。「死しての後はみな仏。敵も味方もありはせぬ」という日本古来の常識(むしろ、良識)は維新政府の採るところではなかった。官軍と賊軍とは、死して後も未来永劫に峻別され、賊軍が「雪冤」を述べることは許されないのだ。それこそが、150年を経て今なお変わらぬ靖国の思想である。

「明治150年」とは維新賛美であり、すなわち天皇制賛美でもある。天皇への忠誠は国民道徳の基本として刷り込まれ叩き込まれた。その反面、賊軍の死者は天皇への反逆ゆえに、死してなお鞭打たれ続けられねばならないのだ。「彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそうー粗末な葬儀)を許されず」「彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る」と、と嘆かざるを得ないのだ。

なお、1月5日毎日新聞「論点」が、「『明治150年』を考える」だった。
「今年は1868年の明治改元から150年。政府は『明治の精神に学び、日本の強みを再認識する』と記念行事を計画中だ。呼応するように保守層の一部から『明治の日』制定を求める動きも浮上している。近代日本の出発点となったとされる明治維新だが、維新称揚を『復古主義』と警戒する声も…。」というのがリード。そのリードのとおり、論者3人の見解がいずれも明快である。中でも、「寛容性のない国になった」と表題する、作家・原田伊織氏の論が傾聴に値する。その一部を抜粋しておきたい。

「長州出身の元老たちによる明治の『長州藩閥』政治は大正以降も今に至るまで『長州型』政治として日本の政治風土の中で続いている。特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。幕末に長州藩は孝明天皇や幼い明治天皇を担いで攘夷、倒幕の御旗として利用したが、明治以降はまさに『天皇原理主義』となり、国家を破滅に導いた。それ以前の日本には天皇を神聖化した『原理主義』などは存在しなかった。

もう一点は富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった財界とが癒着する社会を生み出したことだ。これが私が言う『長州型』政治である。明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのはただの偶然と思いたいが、戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜け切れなかった。

最大の問題は歴史の『検証』がほとんど行われなかったことだ。『明治維新至上主義者』である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、『それだけは違いますよ』と言いたい。どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬られ去ったか。その「過ち」の検証も反省もなく日本は2度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく業界との癒着がニュースになる。」

「明治150年」という今年、司馬遼太郎的史観を克服して、明治維新と天皇制維新政府に、批判の視点を持たねばならない。安倍晋三の「長州型」政治と対決しなければならない。維新政府の寛容性の欠如は「恩賜上野公園」の中にもよく見えるのだ。
(2018年1月7日)

植村隆バッシング反撃訴訟支援の今日的な意義

本日(1月6日)は、世田谷・成城ホールでの植村東京訴訟支援企画・「2018新春トークコンサート『忖度を笑う 自由を奏でる』(主催:植村訴訟東京支援チーム)に出かけた。招待券は1枚で、妻の席は当日券でのつもりだったが、400席が文字どおりの満席。暮れにはチケット完売で、電話予約も断わり、「当日券はありません」という事前のアナウンスもされていたそうだ。事情を知らず一時は入場を諦めたが、スタッフの厚意で何とか入れてもらった。

実感として思う。従軍慰安婦問題への世の関心は依然高いのだ。いや歴史修正主義者であるアベの政権のもと、従軍慰安婦問題は戦争の加害責任問題として忘れてはならないという市民の意識が高まっているのではないか。戦争の記憶継承の問題としても、民族差別問題としても、また報道の自由の問題としても、従軍慰安婦問題は今日的な課題として重要性を増している。

考えてもみよ。安倍晋三を筆頭とする右派勢力は、なにゆえにかくも従軍慰安婦問題にこだわるのか。その存在を隠そうとするのか、報道を押さえ込もうとするのか。メディアでも、教育でも、かくも必死に従軍慰安婦問題を封印しようとしているのか。

まずは、過ぐる大戦における皇軍を美化しなければならないからである。神なる天皇が唱導した戦争は聖戦である。大東亜解放の崇高な目的の戦争に、従軍慰安婦の存在はあってはならない恥部なのだ。大義のために決然と起った皇軍は、軍律正しく、人倫を弁えた存在でなくてはならない。だから、南京大虐殺も、万人抗も、捕虜虐待も、人体実験も、生物兵器の使用も、毒ガス戦も、すべては存在しなかったはずのもので、これがあったとするのは非国民や反日勢力の謀略だということになる。女性の人格を否定しさる従軍慰安婦も同様、その存在は当時の国民にとっての常識だったに拘わらず、あってはならないものだから、強引にないことにされようとしているのだ。

このことは、明らかに憲法改正の動きと連動している。9条改憲によって再び戦争のできる国をつくろうとするとき、その戦争のイメージが恥ずべき汚れたものであっては困るのだ。国土と国民と日本の文化を守るための戦争とは、雄々しく、勇ましく、凜々しいものでなければならない。多くの国民が、戦争といえば従軍慰安婦を連想するごとき事態では、戦争準備にも、改憲にも差し支えが生じるのだ。

本日の企画は、トークとコンサート。トークが、政治風刺コントで知られるパフォーマー松元ヒロさんで、これが「忖度を笑う」。そして、ピアニスト崔善愛さんが「自由を奏で」、最後に植村さん本人がマイクを握った。「私は捏造記者ではない」と、経過を説明し、訴訟の意義と進行を熱く語って支援を訴えた。熱気にあふれた集会となり、聴衆の満足度は高かったものと思う。

宣伝文句は、「慰安婦問題でバッシングされている元朝日新聞記者、植村隆さんを支援しようと、風刺コントで知られる松元ヒロと、鍵盤で命を語るピアニスト・崔善愛(チェソンエ)がコラボします。『自粛』や『忖度』がまかりとおる日本の空気を笑い飛ばし、抵抗のピアノに耳を傾けましょう。」というものだが、看板に偽りなしというところ。

ところで、植村隆バッシングに反撃の訴訟は、東京(地裁)訴訟と札幌(地裁)訴訟とがある。東京訴訟の被告は西岡力東京基督教大学教授と株式会社文藝春秋(週刊文春の発行元)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回、第11回口頭弁論が、1月31日(水)午後3時30分に予定されている。

札幌訴訟は、櫻井よしこ、新潮社(週刊新潮)、ワック(月刊Will)、ダイヤモンド社(週刊ダイヤモンド)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回第10回口頭弁論期日が、2月16日(金)午前10時に予定されている。

植村「捏造記者説」の震源が西岡力。その余の櫻井よしこと各右翼メディアが付和雷同組。両訴訟とも、間もなく立証段階にはいる。

植村従軍慰安婦報道問題は、報道の自由の問題であり、朝日新聞問題でもある。朝日の従軍慰安婦報道が右派総連合から徹底してバッシングを受け、担当記者が攻撃の矢面に立たされた。日本の平和勢力、メディアの自由を守ろうという勢力が、総力をあげて植村隆と朝日を守らねばならなかった。しかし、残念ながら、西岡・櫻井・文春などが植村攻撃に狂奔したとき、その自覚が足りなかったように思う。

いま、従軍慰安婦問題は新たな局面に差しかかっている。2015年12月28日の「日韓合意」の破綻が明らかとなり、「最終的不可逆的」な解決などは本質的に不可能なことが明らかとなっている。被害の深刻さに蓋をするのではなく、被害の実態を真摯に見つめ直すこと。世代を超えて、その記憶を継承し続けることの大切さが再確認されつつある。このときに際して、植村バッシング反撃訴訟にも、新たな意味づけがなされてしかるべきである。

本日の集会の最後に司会者が、会場に呼びかけた。
「皆さん、『ぜひとも植村訴訟をご支援ください』とは言いません。ぜひ、ご一緒に闘ってください」
まったく、そのとおりではないか。
(2018年1月6日)

明けましておめでとうございます。

万事多難を思わせる新たなこの年だが、正月は正月。穏やかに歳があらたまった。本日、東京は晴れて風がない。

年明けには、幾つかの歌を思い出す。
まずは、啄木である。「悲しき玩具」からの数首。

 年明けてゆるめる心!
 うっとりと
 来し方をすべて忘れしごとし。

 昨日まで朝から晩まで張りつめし
 あのこころもち
 忘れじと思へど。

 戸の面には羽子突く音す。
 笑う声す。
 去年の正月にかへれるごとし。

 何となく、
 今年はよい事あるごとし。
 元日の朝、晴れて風無し。
 
 腹の底より欠伸もよほし
 ながながと欠伸してみぬ、
 今年の元日。

 いつの年も、
 似たよな歌を二つ三つ
 年賀の文に書いてよこす友。

啄木とて秀歌ばかりをものしていたわけではない。つぶやきがそのまま歌になったこの数首、われわれ凡夫と変わりない心情がよく分かるではないか。

 

次いで、大伴家持。万葉集選者の特権で、4500首の最後に置いた著名な自選歌。

 新しき年の初めの初春の 今日降る雪のいやしけ吉事
 (あらたしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしけよごと)
 「新しい 年の初めの 初春の 今日降る雪の様に 積もれよ良い事」(日本古典文学全集)

こんな現代語訳は蛇足。けれんみのない堂々たる祝祭歌と思っていたが、万葉仮名の読み方としては不自然なところがあり、文化先進国の朝鮮語で読み解くと意味が変わるのだという。大伴は、武家の筋目である。この歌、「表向きは祝言、裏向き新羅征討に備える準備の檄」。いくさの準備の歌と読むべきなのだそうだ。

以下は、「韓国の作家、李寧煕氏の提案した、『もう一つの万葉集』について考えるブログ」による解読の紹介。
http://manyousyu.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-431f.html

新年乃始乃波都波流能家布敷流由伎能伊夜之家餘其騰

新(サラ)   新羅(しらぎ)
年(ドゥジ)  咎(とが)め
乃始乃(ネシネ) お出しになられる
波都(バト)  防禦(ぼうぎょ)
波流能(バルヌン) 正す
家布敷流(ヤ、ポブル) 矢、降り浴びせる
由伎能(ユキヌン) 靫(ゆき)は・武具は
伊夜之家(イヤジケ) 続けて作れ
餘其騰(ヨグドゥ) 夜鍋(よなべ)して

【大意】
新羅征討の旨
お出しなられる。
防備を固め
矢、降り浴びせよう。
靫(ゆき)など武具は
日に夜を継いで作れよ。(以上)

「新年」が、実は「新羅の咎め」とは…、絶句するばかり。
めでたい正月の歌とは無縁となるが、「アベ9条改憲」もよく似ている。表向きは、「自衛隊を認めるだけ。何も現状を変えませんよ」と言いつつ、実は裏向きで「9条2項を事実上抹殺しよう」との魂胆。実に含蓄と教訓に富んでいるではないか。

なお、戦時中『第二の国歌』とまでいわれた軍歌「海行かば」はやはり家持の歌に、信時潔が曲を付けたもの。いま日本政府は、慰安婦問題で韓国政府に「咎め」せんと居丈高である。新年早々の「新羅への咎め」はいただけない。

最後が、小学唱歌「一月一日」。この題名は、(いちげつ いちじつ)と読むのだそうだ。千家尊福(せんげ・たかとみ)作詞、上真行作曲。1893(明治26)年に「小学校祝日大祭歌詞並楽譜」として発表されたもの。私の子どもの頃、戦後だったが学校で教えられた。教えられたようには唱わず、「豆腐のはじめは豆である。尾張名古屋の終点で、まつたけでんぐりがえしておおさわぎ」などと、大声で唱った。誰もが知ってる歌だった。

1番
 年の始めの 例(ためし)とて
 終りなき世の めでたさを
 松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
 祝(いお)う今日(きょう)こそ 楽しけれ

2番 
 初日の光 さし出でて 
 四方(よも)に輝く 今朝の空
 君がみかげに 比(たぐ)えつつ
 仰ぎ見るこそ 尊とけれ

実は、2番については、当初は別の歌詞だったという。
 「初日の光 明(あきら)けく
  治まる御代の 今朝の空
  君がみかげに 比(たぐ)えつつ
  仰ぎ見るこそ 尊とけれ」

元号の「明治」を詠みこんだ歌詞だったが、大正に改元の後、現在の歌詞となったとか。

言うまでもないことだが、「終りなき世」とは、人類や世界がいつまでも続くということではない。「天皇がしろしめすこのありがたい世がいつまでも続くこと」なのだ。だからこの唱歌は、「天皇が統治よ永遠なれ」という、天皇制讃歌なのだ。

2番の歌詞はもっと露骨だ。「君がみかげに 比(たぐ)えつつ」とは、初日の光を、天皇の姿に喩えて、初日も天皇も「仰ぎ見るこそ 尊とけれ」と押しつけているわけだ。大袈裟な神がかりを小学唱歌として上手にまとめている。

この歌を出雲の国造「千家」の当主が作っているのが興味を惹く。出雲は、伊勢と争って敗れ、傍流となった神主の家柄。

天皇制は、民間行事「正月」も天皇制賛美に利用した。その残滓は、いまだに社会の隅々に残っている。元号がその最たるもの。

年のはじめ。正月くらいは穏やかにと願いつつも、やはり今年も天皇賛美や元号使用を批判し続けなければならない。あらためて思う。
(2018年1月1日)

真正保守・村上正邦が教える「元号存続の意味」。

昨日(12月29日)の毎日新聞朝刊「オピニオン」面の「論点」欄が、「現代日本と元号」の大型インタビュー記事を掲載している。インタビューに応じているのは、島薗進、鈴木洋仁、そして村上正邦の3名。

企画の趣旨を述べるリードの冒頭に、「天皇陛下が2019(平成31)年4月30日に退位され、1989年1月8日に始まった『平成』が1万1070日で幕を閉じる。19年5月1日に皇太子さまが新天皇に即位され、新しい元号がスタートする。」との前置きがある。

おそらくは、年を越えた来年(2018年)には、この手の話題が多く取り上げられるのだろう。もうすぐ天皇が生前退位する。それにともなって元号が変わる。あらためて、問題が突きつけられている。元号とはなんだ。天皇制とはなんだ。天皇代替わりとはなんだ。天皇代替わりに際して保守陣営は、なにを目論んでいるのか。政権は。皇室は。そして、人権や民主主義を大切と思う人々はどう対応すべきなのか。ときあたかも、明治150年でもある。

もっとも、この毎日の企画の意図はよく分からない。焦点が定まらないのだ。だから、3人の論者の議論が噛み合っていない。

インタビューの設問は、「平成はどのような時代として私たちの記憶と歴史に刻まれることになるのか。また、21世紀の現代日本に元号という制度が持つ意味は何か」というもの。まったく別の問が並列しておかれている。明らかに、前者が主で後者が従で、「現代日本と元号」とのタイトルとは齟齬がある。しかも、各設問自体が相当のバイアスを持ったものになっている。だから、「現代日本と元号」のタイトルを頭に置いて読み始めると戸惑うことになる。読後感が散漫なものにならざるを得ない。「現代日本と元号」という「論点」に焦点をしぼれば、スリリングな「討論」になったのではないか。

しかし、企画の意図を離れて、それぞれの論者の意見の内容は、それぞれに興味深い。

島薗進教授は、含蓄を傾けて文明論の時代相を語っている。
「いまの時代相は冷戦終結後世界が方向を見失ったところから始まっている。多くの国が内向きのアイデンティティーを強め、他者との対立関係を作りながら自己主張する「自国ファースト」の状態にある。しかし、今の世界で人類の穏当な進歩や共存共栄という理念は完全に死んだわけではない。宗教界や学問の世界は人類が養ってきた良識の発展、多様な価値観の尊重、文明の共存を目指している。それはかすかな希望であり、良識派の「抵抗の時代」とも言える。日本も後ろ向きにならず、共生のためのビジョンを発信してほしい。日本の豊かな文化資源と、戦争の失敗を含む多くの経験を、東アジアの多様性を重んじた真の共存共栄に生かすことが求められる…」という趣旨。元号については、「元号による『縛り』が減っていれば、なお良いだろう」という形で触れられているのみ。

「元号による『縛り』」とは、元号使用が事実上強制され、元号の存在が国民意識に権力的に介入する状態を指しているのだろう。「教育現場の『日の丸・君が代』問題は、国家が求める行為を個人に受け入れさせるという方向で、国民を『縛る』ことになった。」と同旨の文脈で語られているのだから。

次が、鈴木洋仁なる若い研究者の論述。
その結論は、「このまま元号は消えてしまうのか。そうは思わない。いくら意味が薄れてきたとはいえ、1300年以上も続いた制度をあえてやめる必要があるのか。今は元号について思い入れの少ない若者たちも、やがて「平成生まれ」という時代感を意識するようになるだろう。西暦年号との併用という面倒さはあるが、国民が長い歴史の中で一定の時代感覚を共有する目印として使ってきた元号の役目は薄らぐことはあっても、なくなることはないと思う。」という薄味のもの。

研究者の論述として、どうにも曖昧で違和感を禁じえない。

明確に「元号論」を語っているのが、かつて「参議院のドン」と言われた「村上正邦・元労相」(毎日が、そのように肩書を付している)である。久しぶりに見る名前だが、しゃべる内容は相変わらずだ。右の端に位置を固定して、少しもぶれるところがない。オブラートに包まない保守派の天皇論や元号論のホンネを語って、貴重な内容となっている。

その全文は、ぜひとも下記のURLでお読みいただきたい。
https://mainichi.jp/articles/20171229/ddm/004/070/007000c

まずは、村上正邦とは何者であるか。毎日は次のように紹介している。
「1932年生まれ。拓殖大卒。80年参院議員初当選。参院自民党議員会長を務め『参院のドン』と呼ばれた。汚職事件で2001年議員辞職。その後、実刑が確定。現在、『日本の司法を正す会』代表幹事」
この紹介で足りないところを、インタビューでの彼の発言自体が補っている。「安倍さんは『保守』を自任しているようだが違う」と言ってのける『真正保守』の立場。

そのインタビュー記事のタイトルは、「『国柄』守る流れ定着を」というおとなしいものだが、内容からみれば「天皇制復活の重要なステップとして」「明治憲法の復元を目指して」などというべきだろう。

彼はまず、元号法制定以前には、その存続が危機にあったことから話を始める。
「私が元号法制化を求める運動を始めたころは社会党や共産党だけではなく、労働運動も激しく、法制化の動きへの反対論も強かった。昭和49(1974)年、私は参院選に初出馬(落選)したが、日本の国柄を守るためには元号を明確に位置づけなくてはならないと考えていた。旧皇室典範の元号に関する条項は敗戦で占領軍によって削除され、法的根拠を失っていた。元号存続の危機だった。」

元号の存続は「日本の国柄を守る」ことと同義だというわけだ。言うまでもなく、「日本の国柄」とは、天皇制のこと。天皇を中心に据えた日本こそが本来の日本で、天皇を欠いた日本はもはや日本でない、という如くなのだ。その大切な元号が、存続の危機にあったという。元号は、その使用を強制しなければ、消えてゆく脆弱な存在なのだ。

「その年、宗教界を中心に『日本を守る会』(右派団体『日本会議』の源流)が結成され、事務方を引き受けた。ところが自民党の議員の中からも『西暦でいいじゃないか』という声が上がるほど、関心が集まらない。元号について『ガンゴウって何だ?』と真顔で問い返されたこともある。」

自民党の議員でさえも、「西暦でいいじゃないか」だったのだ。元号が消えようと、なくなろうとも、誰も困らない。既に、皇紀が途絶え干支の表記もなくなっているが、なんの不便もない。現実に困る者はいないにもかかわらず、保守派には放置しがたい事態だった。

「そこで、同志と一緒に考えたのは、徹底して左翼の運動手法を踏襲することだった。地方から火を付けて中央を動かす。つまり地方議会で法制化を求める決議を上げさせた。草の根運動が昭和54年の元号法で実った。政界では田中角栄元首相の力添えが大きかった。ロッキード事件の裁判で大変だったのに『日本の国は天皇中心だ』と言って取り組んでくれた。」

結局元号をなくしてはならないというのは、天皇制護持論者だけなのだ。そのことを彼はあけすけに語る。

「元号法の延長線上にあるのが天皇陛下ご即位10年の年、平成11(99)年に成立した国旗・国歌法だ。自民党参院議員会長になるころだったが、政治家として力を尽くした。公明党の協力が得られるかどうかが岐路だった。…同党の冬柴鉄三さんら幹部と赤坂の料理店で腹を割って話すと、日の丸にも君が代にも反対ではない。それで一気に政治日程に上げた。最大の功労者は公明党だ。」
いつものとおりのこと。公明党は、このようにして自民党に恩を売ってきたのだ。

「元号法と国旗・国歌法は、建国記念の日の制定(66年)から始まった明治憲法復元に向けての大きな流れだ。敗戦という国家非常事態での占領憲法を認めるのではなく、明治憲法に立ち返る。その上で憲法を論ずることが日本人の手に憲法を取り戻すことにつながる。」「安倍(晋三首相)さんが言っているような小手先の改正ではだめなんだ。私たちが心血を注いで運動に取り組んだのも、天皇を中心に据えた憲法のためだ。元号法を作った時に「譲位」は想定していない。一世一元制が原則だ。」「靖国神社への参拝も実現させてくださると信じている。英霊は『東条英機万歳』でなく、『天皇陛下万歳』と言って亡くなった。何のための靖国か。」

「建国記念の日」(66年)⇒「元号法」(79年)⇒「国旗・国歌法」(99年)。そして次は、「天皇の靖国参拝実現」が目標だという。そのすべてが、天皇を中心に据えた明治憲法復活のためであり、天皇中心の国柄を顕現するためのものだという。

ひるがえって、日本国憲法を護り活かすとは、何よりもこのような戦前回帰を許さないことだ。自立した主権者国民が天皇の権威にひれ伏してはならない。「建国記念の日」「元号」「国旗・国歌」の強制に反対し、「天皇の靖国参拝」を許さぬことだとよく分かる。

真正保守であり、かつての「参議院のドン」だった村上は、私たちの具体的な運動課題を、正確に教えてくれているのだ。
(2017年12月30日)

子どもたちに天皇制を語る。

私にも小学生のころがあった。小学校2年生から親元を離れて寮生活という境遇だったが、その寮で「毎日小学生新聞」を読んだ。当時、小学生に向けた新聞は、この一紙だけだったはず。私は熱心な読者だった。

いまはもう記事の内容に記憶はないが、頃は戦後民主主義の熱気が横溢していた時代。おそらくは、当時の「毎小」の記事がいまの私の人格形成に影響なかったはずはない。

ところで、いま、毎日だけでなく、朝日も読売も小学生向けの新聞を発行しているという。朝日と毎日は日刊、「読売KODOMO新聞」は週刊(毎週木曜日発行)だとか。紙面の内容は知らないが、小学生への影響は当然に大きいと思う。

その「読売KODOMO新聞」。一昨日(12月27日(木))の紙面に、以下の解説記事を掲載した。タイトルは、「天皇陛下の退位日決定」。なんだ、これは。さながら、現代版「修身」ではないか。天皇制を子どもたちに刷り込もうという読売の魂胆。

 天皇陛下(てんのうへいか)の退位(たいい)日が2019年4月30日に決まりました。天皇の退位は1817年の光格(こうかく)天皇以来(いらい)、約(やく)200年ぶりで、現在(げんざい)の法律(ほうりつ)では今回だけの特例(とくれい)です。元号の「平成(へいせい)」も変(か)わる予定で、私(わたし)たちの生活にも影響(えいきょう)がありそうです。

 安倍首相(あべしゅしょう)は今月1日、皇室会議(こうしつかいぎ)へ天皇退位に関係(かんけい)する日程(にってい)を提案(ていあん)しました。皇室会議は安倍首相が議長(ぎちょう)となり、皇族(こうぞく)や衆院(しゅういん)・参院(さんいん)の両議長らが参加(さんか)しました。政府(せいふ)は、この会議で参加者からでた意見を参考にした上で、今月8日、各省庁(かくしょうちょう)の大臣(だいじん)らの集まる閣議(かくぎ)で日程を正式に決めました。

 政府が退位日として4月30日を提案した理由は、政治的(せいじてき)な日程のない静(しず)かな環境(かんきょう)だからです。同じ月には統一地方選(とういつちほうせん)が終わり、大型連休(おおがたれんきゅう)で国会も開かれていません。

 退位翌日(よくじつ)の5月1日には皇太子(こうたいし)さまが新しい天皇に即位(そくい)され、同時に平成という元号も30年3か月で終わります。248番目となる新しい元号は、今後政府が本格的(ほんかくてき)に考えます。

 元号が変わると、国や自治体(じちたい)、企業(きぎょう)のシステムを対応(たいおう)させたり、手帳やカレンダーを変えたりと国民(こくみん)生活への影響は大きいとみられます。このため、元号は来年のうちに明らかにされます。

 政府では、19年5月1日を臨時の祝日(しゅくじつ)か休日とする方向です。新元号への移行(いこう)をスムーズにし、皇太子さまの即位を国民をあげて祝福(しゅくふく)できるからです。祝日にした場合は、法律で前後の平日も休日にできるため、4月27日から5月6日までの10連休(れんきゅう)となる可能性(かのうせい)もあります。

 政府は年明けから、退位の儀式(ぎしき)のあり方などについて議論(ぎろん)を本格化させます。

 昭和天皇は1989年1月に87歳さいでお亡(な)くなりになりました。昭和に代わる元号の平成は、当時の小渕恵三官房長官(おぶちけいぞうかんぼうちょうかん)が書を掲(かかげ)て発表していて、新元号の発表の仕方も注目されます。

「上皇」「上皇后」

 退位の後、陛下は「上皇(じょうこう)陛下」、皇后(こうごう)さまは「上皇后陛下」となられます。陛下は2016年8月、高齢(こうれい)により公務(こうむ)を続(つづ)けるのが難(むずか)しくなると案じた「お言葉」を発表されました。今回の退位は特別(とくべつ)に認(みと)められましたが、今後の皇室のあり方にも影響があるかもしれません。

 長年にわたり、皇后さまとともに公務を務(つと)められた陛下には退位後、ゆっくり過(すご)されてほしいですね。

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この「修身」は、次のように書き換えなければならない。

昔は、世界中どこにも王というものがおりました。力のある人が、そのほかの人々を押さえつけて王になり、王の支配のための王国を作ったのです。王国には王の軍隊がおかれ、その武力を背景に、王は国民から税金を取りたて、国民を戦争に駆り立てました。また、どこの王国でも、王に逆らってはならないという法律が作られました。

しかし、どの王も暴力で国民を支配するだけでなく、何とか国民を自発的に王に従う気持にさせたいものだと考えました。そこで、「王位は神様から授けられた」などという神話をこしらえたり、「王様は、国民を我が子のように慈しんでおられる立派な方」「王様は尊敬すべき人格者」などという作り話を流したり、王に従うことこそが国民として守るべき道であると王国の学校で子どもたちに教えたりしました。さらには、大きな宮殿をつくり、王をほめたたえる音楽や美術を奨励したり、ときには王様の恵み深さを演じてみたり、王が主催するスポーツや見世物のイベントを開いたり、王の支配を守り固める懸命の努力を重ねました。その一つとして、王が死んだり退位して新王が誕生するとき、できる限り重々しく華やかな儀式が行われました。

こんな演出にすっかり欺される愚かな人々もたくさんいました。「うちの国の王様はこんなにも立派」だと、支配されている国民同士が、自分を支配している王を自慢し合うようなこともあったということです。

王が国を支配する制度を王政といいます。時代が進むに連れて、王制は次第に姿を消していきました。「人間は皆平等」なのですから、生まれで特権を持った王が決まることは不合理だとする考え方が世界の常識になりました。王が国民から税を取り上げて贅沢ができることはおかしい。多くの国では、国民がそう考えてきっぱりと王政を捨てました。しかし、遅れた国ではなかなか王政を捨てきれず、いまでも飾りものになった王が生き残っています。

日本はこの点でとても遅れた国のひとつです。日本では、王のことを天皇と言ってきました。天皇の祖先は武力に優れ、他の人々を押さえつけて王となり、7世紀頃に天皇と名乗るようになりました。天皇の支配のために天皇の軍隊がおかれ、支配される側の国民は「臣民」と呼ばれて、天皇に税金を支払い、天皇が命じる戦争に動員されました。

天皇も、暴力で臣民を支配するだけでなく、何とか臣民を自発的に天皇に従う気持にさせたいと考え工夫しました。そこで、「天皇はアマテラスという神様の子孫であって、代々の天皇自身も神様である」というお話しをこしらえました。びっくりするのは、そんな作り話が20世紀前半まで、日本中の学校で、真面目に教えられていたことです。

19世紀後半に、天皇に逆らってはならない、天皇の悪口を言ってもいけない、という法律が作られました。大逆罪や不敬罪と言います。それでも足りないとして、天皇の政府は20世紀前半には治安維持法を作って、天皇制に反対する人々を徹底して弾圧したのです。その反面、「天皇は、臣民を我が子のように慈しんでおられる立派な方」「天皇は尊敬すべき人格者です」などと宣伝し、天皇に従うことこそが臣民として守るべき道であると、全国の学校で教えました。また、学校や神社などでは、天皇を崇拝する儀式が繰り返されました。

なかでも、これまでの天皇が死んで新天皇が誕生するときには、もっとも重大な儀式が行われました。大嘗祭と言います。

いま、天皇の代替わりが迫っています。代替わりによって国民生活に大きな影響はないはずなのですが、代替わりにともなう元号の変更がやっかいです。事実上、国や自治体や銀行などでは、元号の使用が強制されています。そのため、国民生活への影響はけっして小さいものではありません。元号の不便・不合理が明らかというだけではなく、いつも天皇制を忘れないようにさせるものなのです。西暦に一本化することが最も望ましいのに、天皇制を思い出しなさいと元号が維持されているのです。

天皇制も元号使用もいずれはなくなる運命でしょうが、読売新聞のように天皇や元号の交代で大騒ぎすることなく、天皇制の歴史やその影響を冷静に見つめ、よく研究する機会にしたいものですね。
(2017年12月29日)

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