澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

大嘗祭への公費支出は憲法上の大きな問題です。聞く耳をもっていただきたい。

11月30日は私の誕生日でした。この日に放映される記者会見の録画撮りが11月22日に行われました。その際には、やや舌足らずと思われるところなどありましたので、これを補って少し整理して、改めて大嘗祭に関する私の考えを明確にしておきたいと思います。

陛下の退位に伴う代替わり行事には、いわゆる天皇の国事行為として行われるものと、皇室行事として行われるものがあります。この両者はまったく性格の違うものですから、きちんと分けて考えていただかねばなりません。

天皇が国事行為として行う儀式は、内閣の助言と承認にもとづいて行うことになっていますが、事実上国家が主催するもので、天皇も皇族も儀式進行担当者の指示にしたがう以外にはなく、陛下も私も、その式の在り方に何かを言うことができるかというと、なかなかそういうものではないんですね。

一方、皇室の行事として行われるものについてはどうか。これは国家の行事ではありません。飽くまでも、皇室の私的行事ですから、本来は私ども皇族の宰領にお任せいただいてよろしいかと思うのです。これについては、私の考えというものもあってもよいし、それを述べることも許されるだろうと思います。

少し具体的に申しあげます。即位の礼。これは国事行為として行われるわけです。即位の礼に付随する一連の行事も国事行為です。その行事の在り方について特に意見があるわけでもありませんし、意見を述べる必要もありません。また、ことさらに意見を述べるべきでもないとおもわれます。

問題は大嘗祭についてです。これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味宗教色が強いものになります。これについては、本来であれば、国の行事ではなく、皇室の私的行事としてお任せ願いたい。それが許されないとしても、少なくも、私どもの考えというものがあってもよいし、それを述べる必要もあるのではないかと思うのです。

大嘗祭は、極めて宗教色の強い行事です。これを皇室の私的行事として、皇室の家計に当たる内廷費でまかなえば憲法上の政教分離原則に抵触することはありません。しかし、国家の行事とし、国費である宮廷費を支出するとなれば、当然に政教分離原則に抵触する恐れが出てきます。それは政府も天皇も、もちろん皇族も、憲法に従うべき立場にある以上、望ましいことではありません。陛下も、私ども皇族も、篤く日本国憲法を尊重し擁護したいと願う立場であることは今さら言うまでもないことです。

私は、平成の大嘗祭の時にも、これを国家の行事とすべきではないし、国費で賄うべきではないという立場でありましたが、そのころはうんと若かったので、明確な発言はできませんでした。

その私も今年で53歳、来年には皇位継承順位第1位の皇嗣という地位に就くことになっています。皇族の一員として一言述べなければならないと思うのです。来年に予定される大嘗祭についても、私の意見は変わりません。宗教色の強い大嘗祭を国家の行事とすべきではないし、国費で賄うべきでもないと言わざるを得ません。

しかし、結局、今回も平成の大嘗祭を踏襲することになったわけです。もうそれは決まってしまったわけで、今さら私の意見を言っても、事態を変えることはできないことになっています。しかし、私としては、やはりこのすっきりしない感じというものを今でも引き摺ったまま持っています。

大嘗祭を国家の行事とし国費を投じる理屈の整理の仕方としては、天皇の一代で一度きりの大切な儀式ということから、国もそれについての関心をもたざるを得ないし、公的性格が強い、ゆえに国費で賄うとされています。平成の時の整理はそのようになされました。

今回もそういう考え方を踏襲しているわけですけれども、国家に宗教行事との関わりを禁じた憲法の政教分離原則について思いをいたすとき、私はやはり大嘗祭に国費を投じる理屈は立たないと思うのです。飽くまで、内廷会計で行うべきだと思っています。この考えは、30年前も今も変わりません。

もちろん、私は大嘗祭自体は絶対にすべきものだと思います。大嘗祭を挙行するとなれば費用が掛かりますけれども、私は内廷費の許す範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすればよい、と考えています。22億円5000万円もの費用を掛けた大がかりな儀式をする必要はない。おそらく、国民の多くもそのように考えているものと思います。国民の多くが納得するように、質素な大嘗祭が望ましいと皇族の一人として意見を述べます。そもそも大嘗祭は皇室の行事なのですから、そういう皇室側の意見を基本とした在り方が本来の姿であろうと思います。

そのことは、私から宮内庁長官などにはたびたび言っているんですね。しかし、長官は話を聞く耳を持たなかった。そのことは私にとって非常に残念なことだったと思っています。

 

「聞く耳を持たなかった」と言われると、ちょっとつらいところがあります。そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ないとしか言いようがない。

でもね、前例踏襲の妥当性は十分にご説明してきたはずなんですよ。皇室は国民に受け入れられて初めて成り立つわけで、「国民の反発を招かぬよう、経済的負担をより少なくしたい」とのお考えは分からないでもない。しかし、政府はそう考えてはいないわけです。日本国の象徴である天皇の代替わりの行事となれば、それなりの規模と費用が必要なのです。前回を踏襲して同規模の儀式を想定して、約22億5千万円が必要だとしていますが、人件費や資材の高騰で費用が増す可能性もあります。これは、ご不満でも受け容れていただくしかない。

また、前回1990年の大嘗祭では、国から皇室の公的活動に支出される公費「宮廷費」が支出されたことに対して、「政教分離に反する」という批判は当時から根強くありましたよ。そりゃあ、大嘗祭に宗教的性格があることは常識に属することでしょう。しかし、憲法の政教分離原則について、政府は従来から厳格な分離の立場を採っていません。どこまでも緩やかな分離で差し支えないとの立場ですから、「大嘗祭が極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」以上は、宮廷費を支出して差し支えないという考えです。これも、ご不満でも受け容れていただくしかありませんね。

天皇陛下からは、即位関係の諸儀式などは皇太子さまとよく相談して進めるよう伝えられていますが、その点は十分にご理解を頂いています。こちらに落ち度はないはずです。

それにね、皇族だからってなんでも口にして良いわけはないと思いますよ。私は、よく聞こえる耳をもっていますよ。でも、なんでもご言い分のとおりになるわけではない。お立場をよく弁えていただきたいところですね。既に決まったことに、記者会見の場であのような形で不満をおっしゃるのは穏当ではないと申し上げざるを得ません。

(2018年12月2日)

**************************************************************************

ウソとごまかしの『安倍政治』総検証!

12月3日(月)18時~20時(開場17時30分)

衆議院第1議員会館 地下1階「大会議室」

最寄り駅は、丸ノ内線・「国会議事堂前」、または有楽町線・「永田町駅」です。
(集会にはどなたでもご参加いただけます。議員会館ロビーで、担当の者が入館証を配布していますので、お受け取りのうえ入館下さい。)

大嘗祭は、飽くまで天皇の私的行事に徹しなればならない。

本日は「勤労感謝の日」。昔から、この祝日の趣旨も意義もさっぱりわからない。

勤労とはいったい何だ。賃労働のことか、搾取のない異世界の労働か。感謝とは何だ。誰が誰の勤労にどのように感謝せよというのか。失業者は感謝されないのか。働かずしてたらふく喰っている者が、汗水たらして働いている者に感謝する日という趣旨なら分からないでもないが、それならばどうして5月1日ではなく、11月23日なんだ。

祝日法には、「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」と記されている。この記載、なんとも出来がよくなく、座りが悪い。「国民たがいに感謝しあう」は、一般人の感覚として気持ちが悪いフレーズではなかろうか。

戦前の典型的な宮中祭祀であった新嘗祭の日を、天皇主権が否定された戦後においても国民に記憶させようという見え透いた企て。無理を通した涙ぐましい努力の結果。出来は悪くても、新嘗祭の日を祝日にし、そのたびに多くの国民に新嘗祭を思い出させ、語らせることには成功している。

本日も天皇の家族はしきたりに従った新嘗祭を行っている。それは、純粋にその家族限りの宗教行事であって、国家とも国民ともまったく無関係なものとしてである。それが憲法の政教分離が要求するところなのだ。

来年(2019年)、天皇が交代する。来年の新嘗祭はなく、代わって大嘗祭が行われる。大嘗祭は、天皇の代替わりのあと、在位中に一度だけ行われる宗教的秘儀とされる。秘儀なのだから、何がどう行われるかは実はよく分からず、よく分からないから諸説紛々としている。いずれにせよ、五穀豊穣や生殖による繁栄を祈る宗教儀式であり、天皇としての霊力がこの儀式で承継されるという。

天皇という国家公務員職の交代に伴うセレモニーが許されないはずはない。しかし、宗教色をもつことは固く禁じられている。ところが、憲法を無視して大嘗祭を国家行事としてやりたいという勢力が確実に存在する。国民主権の徹底を嫌い天皇主権に郷愁をもつ保守勢力、憲法改正の突破口として厳格な政教分離条項に穴を開けようという政治家たち。

農業社会に成立した呪術的な未開宗教は、必然的に五穀豊穣を祈ることになる。新嘗祭とはそのような由来の宮中祭祀であっただろう。未開宗教が祈りの対象としたもう一つの重要課題は、生殖による繁栄である。この二つの課題は、避けて通れない。大嘗祭は何らかの形でこの両者にコミットするのだろう。

純粋に天皇家族限りの私的な宗教行事である限り、どんな行事を行おうと、他からとやかくいう筋合いはない。しかし、これにいささかでも公的な色彩が付されれば、とやかく言わずにはおられない。主たる問題は、けっして原始宗教の名残を後生大事に墨守しようとすることの滑稽さにあるのではない。

かつて神であり、それゆえ主権者とされたのが天皇である。国民主権、民主主義の最大の敵対物であり、いまだに民主主義政治に危険な存在と認識しなければならない。

かつて天皇とは、政治権力者のこの上なく便利で調法な支配の道具であった。政治的権能は失った今も、社会的権威としては生き延び、確実に影響力を有している。天皇の権威と、民主主義の成熟度とは反比例する。天皇を権威付ける方策に手を貸してはならない。

来年行われるはずの大嘗祭を公的行事としてはならず、これに公金を投入してはならない。
(2018年11月23日)

**************************************************************************

ウソとごまかしの『安倍政治』総検証!
アピール運動の署名集約集会

12月3日(月)18時~20時(17時30分開場)

衆議院第1議員会館 地下1階「大会議室」

衆議院第1議員会館は丸ノ内線・国会議事堂、有楽町線・永田町駅
(どなたでもご参加いただけます。
議員会館ロビーで入館証をお受け取り下さい。)

民意を無視して9条改憲を強引に進めようとしている「安倍政治」。その「安倍政治」において、公文書・公的情報の隠蔽・改竄・廃棄・捏造が横行し、権力のウソとごまかしが国民主権や議会制民主主義を脅かそうとしています。
私たちは、森友・加計学園に典型的にみられる権力の私物化、「働き方改革」のウソ、外交交渉の内容の捏造等々、ウソとごまかしによる「ポスト真実」の政治を許せず、アピールを発表して賛同の署名を呼びかけました。
下記のとおり、賛同署名集約の集会を開催いたします。この日、署名簿を安倍晋三氏に届けるとともに、この集会にさまざまな分野からの発言を得て、「安倍政治のウソのごまかしを総検証」いたします。そして、どうすれば、安倍政治に終止符を打つことができるか考えてみたいと思います。どうぞご参加ください。

  司会 澤藤統一郎(弁護士)
  挨拶 浜田桂子(絵本作家) 

 「安倍政治」と「ポスト真実」
   小森陽一(東京大学大学院教授)

 「働き方改革」一括法と「ポスト真実」
    上西充子(法政大学キャリアデザイン学部教授)

 「公文書管理」と「ポスト真実」
    右崎正博(獨協大学名誉教授)

 日米FTA(自由貿易協定)と「ポスト真実」
    古賀茂明(元経済産業省官僚)

**************************************************************************

 

「あたらしい憲法のはなし 『天皇陛下』」を読む

周知のとおり、日本国憲法は、1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られている「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。

「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」の15章からなるもの。《再軍備》《逆コース》が災いして、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなった。そういわれている。

ときに礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今見直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのかよく分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。以下に、第5章『天皇陛下』の全文とその批判を掲記しておきたい。

五 天皇陛下
 こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。

 えっ? 「こんどの戰爭で、天皇陛下は、国民の皆様にたいへんごくろうをかけてしまいました」のお間違いではありませんか。天皇(裕仁)もその家族も苦労なんかしていませんよ。国民は、天皇が始めた戦争で、文字通り辛酸を嘗めたのです。「苦労しました」なんてものじゃない。徴兵され、あるいは徴用され、上官からのビンタを受け、戦地で死の恐怖に曝され、ジャングルの中で飢えに苦しみ、空襲で焼け出され、実に310万人もの死者を出したのです。天皇(裕仁)とその家族は、戦地へ行くことも死の恐怖に怯えることもなく、なによりも飢えていないじゃないですか。

 なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戰爭になったからです。

 「なぜならば」って、「なぜ、天皇が、こんどの戰爭でたいへんごくろうをなされたのか」という理由ですよね。そんなこと、わざわざ教科書に書くことじゃないでしょう。でも、「天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかった」だけは、多分正しい。たとえば、東条英樹に組閣を命じたのは、國民ぜんたいではなく、天皇(裕仁)自身だったのですからね。

 そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。

「二度とこのようなことのないように」って、日本語の正確な読み方では、「二度と天皇陛下が、たいへんごくろうをなさるようなことのないように」ってこと。そんなことのために、憲法をこしらえたの? そんなふうに憲法をこしらえるために苦心したというの? ヘンなの。でも、「天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。」は、そのとおり。ここだけ、天皇に「陛下」が付いていませんね。これは偶然?

憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。

 こんな説明で分かるはずはありません。「天皇は『日本の國をあらわされるお方』」って言うんですか。それって何のことだか分かりません。ほんとうは、この文章を書いた人もさっぱり分かっていないんですね。天皇自身だって、なんだか分からない。だから、「はっきり知らなければなりません。」といわれても、「なんだか分かりません」としか言いようがない。分かったふりをする必要はありませんよね。
それぞれの学校にバッジがあり校旗があって、バッジを付けていたり校旗を掲揚していれば、どこの学校の生徒かがわかります。象徴の説明としてはよく分かりますね。でも、天皇って本当にバッジみたいなもんですか。校旗みたいなもんですか。アメリカにも、フランスにも、中国にも韓国にも、天皇はいません。なぜ戦後の日本に天皇がまだいるのか、本当に必要なのか、ここには何も書いてありません。書けないんですよね。なんだか得体が知れないけれど、否定しがたくともかく存在するもの。語るときには、敬語を使わなければならないもの。それが天皇ですね。天皇ってなんだ、と説明しなければならないので、憲法に書いてあるとおり、「象徴」と書き込んでみただけ。でも、本当にはなんの説明にもなっていない。そんなものですよね。

 また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。

この辺が、文部省の本音でしょうか。「一つにまとまっている」のが良いことだと考えているんですね。戦時中、日本の国民は「一億火の玉」となり、「一つにまとまって」侵略戦争に邁進しました。その「火の玉」の中心にいたのが天皇ですが、その反省はないのでしょうか。日本の国民を、もう一度天皇中心の「一億火の玉」にしたいのでしょうか。どうしてまた、あらためて日本國民ぜんたいがこんなにも危険な天皇を中心にまとまらなければならないというのでしょうか。

 このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。

 おや、そうでしょうか。天皇制をなくそうという意見もあったはずです。多くの国民が天皇の名による戦争で苦しみ、10万もの人が、治安維持法によって天皇の警察に逮捕されひどい目に遭わされたのですから。けっして、「日本國民ぜんたい」の考えであったはずはないとおもいますが。

 天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。

 これって、教科書の文章ですよね。とてもヘン。二つの文を結ぶ順接の接続詞「ですから」が理解不能です。前の文は「天皇は神でない」ということで、後の文は「天皇にごくろうのないようにしなければなりません」ということ。なぜ、「天皇は神でない」ということを理由ないし根拠として、「ですから、私たちは、天皇を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」と言えるのでしょうか。論理として成立し得ません。「これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。」と言われたって、金輪際分かるはずがない。

非論理的で出来の悪い文章。当時の文部省のお役人は、こんな程度だったのでしょうかね。もしかしたら、結論が先に決まっていたのかも知れません。「ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」とまとめる必要があったのでしょうね。また、もしかしたら「ですから」って付けたのは、わざと子どもたちへの突っ込みどころをこしらえたのかも知れません。わざわざヘンな文章をこしらえて、子供たちに天皇の存在に対する疑問を醸成するよう深謀遠慮があったのかも。これも文部官僚による面従腹背の伝統だと思えば、当時の文部省のお役人の優秀さがよく分かります。

**************************************************************************
 「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」からの訴えです。
「会」は、麻生財務大臣の辞任を求める<署名運動>と<財務省前アピール行動+デモ>を呼びかけています。

財務省前アピール行動+デモ
11月11日(日)
13時~ 財務省前アピール行動
14時  デモ出発

■<署名>と<財務省前アピール行動+デモ>の資料一式をまとめたサイト■
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1111-5336-1.html
ぜひ、これをメールやツイッタ-で拡散してください。

■できるだけメッセージを添えてネット署名を■
上記の「まとめサイト」の右サイド・バーの最上段に、
1.署名用紙のダウンロード http://bit.ly/2ygbmHe
2.ネット署名の入力フォーム http://bit.ly/2IFNx0A
3.ネット署名のメッセージ公開 http://bit.ly/2Rpf6Pm
が貼り付けられています。

ぜひとも、ご協力をよろしくお願いします。もちろん、メッセージを割愛して、ネット署名だけでも結構です。
なお、署名の文面は以下のとおりです。
**************************************************************************

財務大臣 麻生太郎 様

無責任きわまりない麻生太郎氏の財務大臣留任に抗議し、即刻辞任を求めます

森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会

10月2日に発足した第4次安倍改造内閣で麻生太郎氏が財務大臣に留任しました。しかし、第3次安倍内閣当時、財務省では、佐川宣寿氏が理財局当時の国会での数々の虚偽答弁、公文書改ざんへの関与の責任をとって国税庁長官の辞任に追い込まれました。また、福田淳一氏は女性記者への破廉恥なセクハラ発言を告発され、事務次官の辞職に追い込まれました。いずれも麻生氏が任命権者の人事でした。
しかし、麻生氏は厳しい世論の批判にも居直りを続け、事態を放置しました。それどころか、森友学園への国有地の破格の安値売却について、録音データなど動かぬ証拠を突きつけられても、なお、「処分は適正になされた」「私は報道より部下を信じる」と強弁し続けました。
福田次官のセクハラ行為については、辞任が認められた後も「はめられたという意見もある」などと暴言を吐きました。
なによりも、第3次安倍内閣当時、財務省では公文書の隠蔽、決裁文書の改ざんという前代未聞の悪質きわまりない国民への背信行為が発覚しましたが、それでも麻生氏は、会見の場で記者を見下す不真面目で下品下劣としか言いようがない答弁を繰り返しました。
こうした経歴の麻生氏が私たちの税金を預かり、税金の使い道を采配する財務省のトップに居座ることに、私たちと大多数の国民は、もはや我慢の限界を超えています。
麻生氏を留任させた安倍首相の任命責任が問われるのはきわめて当然のことですが、任命権者の意向以前に私たちは、麻生氏自身が自らの意思で進退を判断されるべきだと考え、次のことを申し入れます。

申し入れ

麻生太郎氏は財務省をめぐる数々の背任、国.に対する背信の責任をとって直ちに財務大臣を辞任すること

私は上記の申し入れに賛同し、以下のとおり、署名します。

(2018年11月8日)

アベ君、ダメじゃないか。しっかりと反省し、きちんと勉強しなくっちゃ。

アベ君、キミは昨日(11月4日)明治神宮に参拝したそうじゃないか。しかも、公用車で乗り付けて、「内閣総理大臣 安倍晋三」と肩書き記帳し、本殿ではしっかりと二礼二拍手一礼の神道形式の礼拝を行った。これは、やってはいけないことだ。キミが守らなければならない日本国憲法というルールの違反だ。

キミの大好きな教育勅語。キミとその仲間は、「全部が間違っているのではない。普遍性を持つ部分もある」などと言っている。自分に都合良さそうな部分のつまみ食いはもちろんいけないが、その教育勅語をキミは読んだことがあるのかね。

そのなかに、「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」とある。いったいキミは、いささかなりとも「學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ」したことがあるか。ウソとごまかしで高名となったキミが、「德器ヲ成就シ」ていないことは公知の事実だ。「進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ」も、ゴリゴリの私益第一主義のキミのこと、キミの信奉する勅語に照らして恥ずかしくはないか。

それはともかく、問題は「常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」の部分だ。いうまでもなく「國憲」とは憲法のことだが、勅語の時代には大日本帝国憲法で、普遍性を持つというなら今は日本国憲法を指すと考えねばならない。この違いをキミはよく理解しているだろうか。先日の11・3憲法集会で、体育大学の学生に憲法を教えている研究者が、「首相は憲法を理解していない。私の生徒なら明らかに落第」とスピーチし、満場がさもありなんと肯いていた。嘆かわしいが、国民はそのようにキミを理解しているのだ。

大日本帝国憲法は、「朕」が「臣民」に与えた法規範だ。だから、勅語では上から目線の「朕」が「臣民」に「憲法と法律を守りなさい」とエラそうに言っている。しかし、日本国憲法はまったく構造を異にする。主権者国民が権力の委託先に遵守を命じた制限規範なのだ。すべてお任せしますから、ご自由に権力の行使をしてくださいと、全面委任があったのではない。権力の行使はこの限りでせよ、とシバリが掛けられている。そこのところを一番大切なものとして、キミは肝に銘じなければならない。

つまり、キミは大日本帝国憲法下の教育勅語では臣民として、日本国憲法下では権力を付託されたものとして、いずれにしても「常に國憲を重んじ」なければならない立場なのだ。

キミは、日本国憲法99条によって「日本国憲法を尊重し擁護する義務」を負っている。一瞬たりとも、このことを忘れてはならない。キミの本心が、「日本国憲法大嫌い。人権尊重も民主主義も平和主義も、可能な限り軽視したい」「嫌いな憲法を、私好みに変えたい」というものだとはみんなが知っている。しかし、ことはキミの好き嫌いの問題ではない。キミが首相という地位にある限りは、面従腹背でも、憲法を遵守しなければならないのだ。

その憲法に、政教分離を命じた20条と89条がある。キミのために、条文を引いて、分かり易く解説しておこう。

第20条(信教の自由・政教分離)
1項 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2項 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条(公の財産の支出・利用の制限)
公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため…に、これを支出し、又はその利用に供してはならない

ここには、人権としての信教の自由(信仰の自由・宗教活動の自由・宗教的強制を受けない自由)と、その人権を保障するための制度として、政教分離原則が規定されている。政教分離は、首相であるキミに、神社参拝などしてはならない、と命じている。そこを弁えなければ、いつまでも憲法は落第点だ。

これまで、首相や天皇の公式参拝の可否は、靖国神社について論じられてきた。政治的、外交的、歴史的理由からのことだ。しかし、日本国憲法の政教分離の本旨は、神権天皇制の復活を許さないことを目的とするもの。戦前の天皇制は、天皇崇拝の宗教的な情念を臣民に注入することで、国民的規模のマインドコントロールに大きな成果を上げた。その反省が、「政」(政治権力)と「教」(天皇を神とする宗教)との分離を命じる憲法20条である。比喩的にいえば、人間宣言において生身の人間となった天皇を、再び神に戻さぬための、歯止めである。

だから、靖国だけではない、神社神道の本宗である伊勢神宮参拝もしてはならない。明治天皇(睦仁)を神として祀る明治神宮参拝など、もってのほか。キミは、参拝後、記者団に「明治150年にあたり参拝した。日本国の平和と繁栄、安寧、皇室の弥栄をお祈りした」と述べた、と報じられている。これは個人的イデオロギー吐露と言って済ませられる問題ではない。「天皇を神として祀る神社に参拝して、皇室の弥栄をお祈りする」などは、憲法違反も甚だしい。

政教分離には厳格な判例がある。岩手靖国違憲訴訟控訴審(仙台高裁)判決は、「首相や天皇が、その公的資格において靖国神社を参拝するのは国家が他の宗教団体に比して靖国神社を特別視しているとの認識を国民に与える」ことをメルクマールとして違憲であると述べている。

また、愛媛玉串料訴訟の最高裁大法廷判決は、いわゆる目的効果論に拠りつつ、愛媛県が護国神社に合計9万円の公金を支出して奉納したことは、「一般人がこれを社会的儀礼にすぎないものと評価しているとは考え難く、その奉納者においてもこれが宗教的意義を有するものであるという意識を持たざるを得ず、これにより県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができないのであり、これが、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており右宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ないなど判示の事情の下においては、憲法20条3項、89条に違反する。」と明快に述べている。

キミの理解のために解説すれば、こんなことだ。
明治天皇(睦仁)とその配偶者(美子)の崇敬者において、この両名が死後神になったと信じてこれを祀る信仰の自由は憲法が保障するところ。この二柱を祭神として神社を創り運営することも、宗教法人明治神宮を組織して布教活動を行い宗教行事を行うことも、さらには国民が個人してこの宗教施設に参拝することも、いずれも憲法が大切な人権として保障している。しかし、信仰も宗教活動も、私的なものでなくてはならない。いささかなりとも、公権力が関わってはならないのだ。

「首相の神宮参拝は、国が明治神宮との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない。これが、一般人に対して、国が明治神宮を特別に支援しており明治神宮が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、明治天皇夫妻を神とする宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ないので、憲法20条3項に違反する」

キミが明治神宮に納めた玉串料は私費からということだが、「玉串料を私費から支出さえすれば、違憲を免れる」というのでは、憲法の授業での単位は取れない。メルクマールは、「一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており右宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすもの」であるか否かなのだから。しかも、キミの場合、その私費の出所も、もとをたどれば税金であることを弁えねばならない。
(2018年11月5日)

「10・23通達」発出のこの日に、「明治150年記念式典」

1868年10月23日、150年前の今日。「明治改元の詔」なるものが出たのだという。「それがどうした?」「だからなんだ?」「改元が目出度いか?」と言いたいところだが、政府は8月10日の閣議で、政府主催の記念式典を行うことを決定。本日(10月23日)永田町の憲政記念館で「明治150年式典」が開催された。安倍政権は、明治150年を祝賀しようという。ならば、われわれは「天皇専制と戦争の近代史」を思い起こす日にしようではないか。

2003年10月23日、15年前の今日。都内公立学校の全教職員に、学校儀式における「日の丸・君が代」への起立・斉唱をを強制する「10・23通達」が発出された。当時の都知事は石原慎太郎。以来、不起立・不斉唱での懲戒処分件数は、延べ483件に上っている。都内の公立校に、思想・良心の自由はない。教育現場は荒廃している。今日は、学校現場における思想・良心の自由獲得の重大さを思い起こすべき日でもある。

100年前の今日、制度が変わったわけではない。法が制定されたのでもない。先代天皇(孝明)の死亡の日ですらない。それまでの慶應が、幾つかの候補(一説に7案)の内から、明治と決められたというだけの日。しかも、当時は旧暦で(慶応4年)9月8日だった。そして、改元の効果は、その年の旧暦1月1日に遡るとされた。10月23日に、いったい何の意味があるのか分からない。

問題は、何ゆえ明治150年が記念に値するのか。国費を投じて式典まで行う必要があるのか、ということ。

この点、8月時点で菅義偉官房長官は、明治以降のわが国の歩みを振り返り、未来を切り開く契機としたい」と述べたにとどまる。「明治以降のわが国の歩みを振り返り」「未来を切り開く契機」との関係がさっぱり分からない。

「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、天皇を国民統合の中心と戴いて国威を発揚してまいりました輝かしい時代であったと申せましょう。この我が国固有の歴史に誇りをもって、国の未来を切り開く契機にいたしたい」なのだろうか。

あるいは、「明治以降のわが国の歩みを振り返りますと、その前半は天皇制官僚と軍国主義者との横暴が猖獗を極めた専制と戦争の時代でありました。また、その後半は、専制や戦争あるいは差別を克服しようとして道半ばの時代と言わねばなりません。総じて、150年を徹底して反省することをもって、これからのくにの未来を切り開く契機にしなければなりません」ということなのだろうか。

同様のことは、「明治100年」の際にも問われた。このとき(1868年10月23日)にも政府主催の記念式典が開催された。会場は北の丸公園の日本武道館、天皇・皇后(先代)も出席してのこと。今回の式典は盛り上がりに欠ける。天皇(明仁)の出席もなかった。

ところで、本日の赤旗第2面。下記の記事が掲載されている。明治150年記念式典・出席せず」「小池氏・趣旨に同意できない」という見出し。

 小池晃書記局長は22日の記者会見で、23日に開かれる政府主催の「明治150年記念式典」について問われ、「明治150年の前半は侵略と植民地支配の負の歴史です。それと戦後を一緒にして150年をまるごと肯定する立場に、わが党は立たない」として、式典に参加しないと表明しました。
 小池氏は、「閣僚の『教育勅語』容認発言のように戦前を美化したり、9条改憲によって『戦争をする国』に向かおうという安倍首相の意向が背景にある」と強調し、「式典の趣旨そのものに同意できない」と述べました。

 産経が、これを記事にしている。「共産、明治150年式典欠席へ」「前半は負の歴史」という見出し。

 共産党の小池晃書記局長は22日の記者会見で、東京・憲政記念館で23日開かれる明治改元150年記念式典に同党として欠席すると表明した。「150年の前半は、侵略戦争と植民地支配に向かった負の歴史がある。明治以降を丸ごと祝い、肯定するような行事に参加できない」と語った。
 関係者によると、会場には国会議員向けの席が用意される予定。小池氏は式典について「教育勅語の礼賛や、憲法9条改定により戦争する国造りを進めようという安倍晋三首相の強い意思が働いている」と指摘した。

 この「改元150年記念式典出席拒否」には全面的に賛同の意を表したい。「儀礼的なものに過ぎないから」「国会議員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なことだから」「他の野党との連携上、やむを得ない」などといわずに、きっぱりと出席を拒否したことを評価したい。

明日(10月24日)が臨時国会の開会式。望むべくは、玉座の天皇が議場の国民代表を見下して「開会の辞」を述べるという、国民主権に屈辱的な、あの儀式への参加もきっぱりと拒否してもらいたいところ。

東京新聞(こちら特報部・2018年10月17日)は、150年祝う政府式典 反対集会23日に同日開催 『明治礼賛』に異議あり」を特集している。下記のとおり、立派な姿勢だ。

 「明治150年」を記念する政府の式典が23日、東京都内で開かれる。近代国家の礎を築いた栄光の時代をたたえる趣旨だが、同じ日、アジア侵略につながった負の歴史を批判する団体も反対集会を開く。平等を説きながら差別をなくせなかった時代を礼賛するとして、沖縄の人々やアイヌ民族も複雑な思いを抱く。改憲に前のめりの安倍政権で迎える節目は、どんな意味を持つのか。

 10月21日、「10・23通達」抗議の集会が開催されている。明治150年、その前半は暗黒の時代だった。後半も人権や民主主義にとってけっして明るいばかりの時代ではないことを「10・23通達」による「日の丸・君が代」強制の実態が教えている。常に、権力に対する抗議が必要なのだ。

日の丸・君が代の強制を合理化してはならない。「儀礼的なものに過ぎないから」「教員だからやむを得ない」「大所高所に立つことが大切で、目をつぶれる些細なこと」「世論状況でやむを得ない」などといわずに、きっぱりと「日の丸・君が代」強制に抗議の声を上げていただきたい。
**************************************************************************
下記は、本日付赤旗の「主張」。明治150年・近代日本の歩み検証する視点」というタイトル。さすがに赤旗、この論説は、行き届いた正論である。赤旗とは無縁な人のために、全文を紹介しておきたい。

 「上からは明治だなどというけれど 治明〈おさまるめい〉と下からは読む」―徳川幕府が倒れて明治新政府ができたとき、東京と改称された江戸の民衆はこんな狂歌をよんだと伝えられています。

 150年前の1868年、旧幕府側と薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍との間で戊辰戦争が始まり、新政府は「五箇条の誓文」を公布し、江戸城が無血開城されました。そして、年号が慶応から明治に改元されました。

特異な一面的礼賛の姿勢

 きょう政府は都内で「明治150年記念式典」を開催します。1868年10月23日に明治改元があったことを記念し「明治以降の我が国の歩みを振り返り、これからの未来を切り開く契機とする」(菅義偉官房長官)との触れ込みです。安倍晋三政権は2年前から「明治150年」キャンペーンを展開してきました。

 首相自身、今年の年頭所感で「明治日本の新たな国創りは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」「近代化を一気に推し進める。その原動力となったのは、一人ひとりの日本人」と強調しました。きわめて一面的な「明治」礼賛です。戦前と戦後の違いを無視した時代錯誤の危険な歴史観がにじんでいます。
明治維新によって身分制が改められるなど、政治変革の激動のもとで急速な近代化が進んだのは事実です。しかし、明治政府がおこなったのは「富国強兵」「殖産興業」の名のもとに、資本主義化を推進し、労働者や農民から搾取と収奪をすすめることでした。

 それと並行して、欧米列強に対抗するために徴兵令(1873年)を公布し、台湾出兵(74年)や江華島事件(75年)などアジアへの侵略の歩みを進めました。また、蝦夷地(えぞち)を「開拓」してアイヌ民族を差別し、琉球処分を強行して沖縄を一方的に支配下に組み込みました。国民の政治参加を求めた自由民権運動は抑え込まれました。

 明治政府がうちたてたのは、大日本帝国憲法(1889年)のもとで、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治でした。そのうえ教育勅語(90年)を制定し、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし」―つまり“国家危急の時は天皇のために命をささげよ”と国民に強要しました。

 戦前の日本共産党幹部で1934年に獄死した野呂栄太郎は、著書『日本資本主義発達史』(30年刊行)で、明治維新を「資本家と資本家的地主とを支配者たる地位につかしむるための強力的社会変革」と指摘し、それによって生まれた政治権力を「絶対的専制政治」と明快に特徴づけています。

 明治政府は、日清・日露戦争を経て台湾や朝鮮半島を植民地化しました。昭和に入り1931年から中国への侵略戦争を開始、45年の敗戦までにアジア2000万人以上、日本国民310万人以上の犠牲をもたらしたのです。

根本に侵略戦争の肯定が

「明治150年」キャンペーンは、安倍政権が「日本会議」など過去の侵略戦争を肯定・美化し、歴史を偽造する勢力によって構成され、支えられていることと深く結びついています。過去の戦争の反省に根ざした日本国憲法の精神にたち、近代日本の歩みを検証することが強く求められています。

(2018年10月23日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

靖国神社宮司「不敬発言」が意味するもの

第4次安倍改造内閣をどう呼ぶか。「靖国派内閣」でピッタリではないか。何しろ、「神道政治連盟」の議連には19人全員に加盟歴があり、「日本会議」の議連には15人もが加盟しているからだ。

これを「神政連内閣」とも、「日本会議政権」とも言わず、「靖国派内閣」というのにはそれなりの理由がある。靖国神社こそが、先の大戦を「自存自衛の聖戦」とする歴史修正主義の本宗(仏教用語をつかえば「総本山」)だからだ。靖国神社が、戦死者の慰霊を独占する地位にあると主張して、今なお多くの戦没者遺族との精神的紐帯を保っているからでもある。

靖国神社とは何であるか。歴史的には、天皇制が生み出した軍事的宗教施設であり、宗教的軍事施設でもある。天皇のために死ぬことを美徳とし、戦死者を神として顕彰する装置であって、戦没者顕彰を通じて天皇が唱導する戦争を美化し次に続く戦死者を作る施設でもあった。つまり、軍国神社であり天皇神社なのだ。

戦後、神道指令と新憲法によって政教分離を余儀なくされた宗教法人靖国神社は、軍との関係も国との関係も切断された。しかし、軍国主義と天皇崇敬の思想はまったく変えていない。あの戦争を聖戦とする姿勢は、神社境内に位置する軍事博物館「遊就館」の展示を一見すれば明白である。そして、その出自が天皇神社である以上、天皇崇敬の思想は変えようがない。軍国主義を聖戦思想が支え、聖戦思想は天皇崇敬から導かれる。

だから、靖国神社の神職といえば、定めし天皇崇敬の念が篤い者ばかりであろうと考えるのが常識で、私もそう思い込んでいた。が、常識とは、往々にして根拠に欠ける虚妄であることが少なくない。常識の誤りに遭遇して衝撃を受けることが、間々ある。靖国神社宮司の「不敬発言」は、まさしくそのような衝撃のニュースである。ネトウヨ文化人や評論家諸氏が、ご都合主義の天皇(制)利用者であることには驚かない。しかし、靖国神社の神職、なかんずくそのトップである宮司の天皇批判発言には、少なからぬ驚きを禁じえない。

が、よくよく考えてみれば、近代天皇制とは、藩閥や財閥・右翼・戦争推進勢力の操り人形として創設された。彼らにとって利用できる限りでの天皇制や天皇の神聖性であり崇敬なのだ。けっして心底から天皇を敬しているわけではない。神聖なものと多くの者から信じられている虚妄こそが大切なのだ。言わば、靖国神社の宮司をはじめとする天皇制利用者が、天皇を崇敬しているフリをしているだけのものなのだ。そのことをよく分かるかたちで表わしたのが、このたびの宮司「不敬発言」なのだ。

さて、昨日(10月10日)のこと。靖国神社社務所は報道機関宛てに下記の通知を発した。

 平成30年10月10日

報道関係各位

靖國神社社務所

靖國神社宮司退任について

今般、当神社小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩いたしました。
この件に関し、宮司が直接、宮内庁へ伺い陳謝するとともに、宮司退任の意向をお伝えしました。尚、後任宮司につきましては10月26日の総代会にて正式決定した後、改めてお知らせいたします。

以上

靖國神社宮司といえば、かつては陸海軍大将が務めた。戦後は、元皇族や元華族が務め、今年の2月までは徳川家の末裔(徳川康久)がその任にあったが、「賊軍合祀」発言で職を退いた。代わって3月1日就任の小堀邦夫は、伊勢神宮禰宜からの転身。手堅い人事のはずが、靖国神社創建150年を直前に、この失態は痛手だ。痛手は、靖国神社だけではなく、靖国派や靖国派内閣にも、代替わりの天皇制にも及ぶことになろう。

「当神社小堀宮司による会議での極めて不穏当な言葉遣い」とは、本年6月20日に靖国神社の社務所会議室で行なわれた「第1回教学研究委員会定例会議」での席のことだという。第12代靖国神社宮司の小堀邦夫が、靖国神社創建150年に向けて「教学研究委員会」を組織。その第1回の会議に、小堀宮司以下権宮司など幹部神職10人が参加して行われた。

その会議の110分に及ぶ録音が漏洩した。週刊ポストがこれを入手したとして、詳細な報道をした。もちろん、ニュースソースは秘匿されているが、この会議出席者10人の幹部神職の一人の内部通報なのであろう。問題とされている具体的な宮司発言の内容は以下のようなものである。

「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。違う? そういうことを真剣に議論し、結論をもち、発表をすることが重要やと言ってるの。はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」
「あと半年すればわかるよ。もし、御在位中に一度も親拝なさらなかったら、今の皇太子さんが新帝に就かれて参拝されるか? 新しく皇后になる彼女は神社神道大嫌いだよ。来るか?」

なるほど、天皇を神聖なものとし、天皇崇拝を建前としている者の言葉遣いではない。「極めて不穏当な言葉遣いの録音内容が漏洩いたしました」は、そのとおりなのだろう。そして、「(天皇が)どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう? 遺骨はあっても。」というのが、「不敬発言」内容の本領である。靖国参拝を拒絶する天皇に対する不快感の表明である。戦没者霊魂の独占を主張する靖国神社教義の根幹を天皇が意識的に妨害しているという焦慮なのだ。

また、神社本庁では、田中恆清総長の辞意表明やその撤回の背景に不動産不正取引など数々の疑惑があるとの報道もなされている。

リテラは、「有名神社の相次ぐ離脱・後継問題、富岡八幡宮殺人事件、そして、本サイトでも追及してきた「神社本庁・不動産不正取引疑惑」などで、いま、大きく揺れている神社界。全国約8万社を包括する宗教法人・神社本庁の上層部に、その責任が問われている。」と記事にしている。

「靖国」も「神社神道」も大きく揺れて、その権威を失墜している。もちろん、「靖国派内閣」も「神政連」も、元気が出ようはずはない。この事態、落ち目のアベ政権には小さくない手傷だが、日本国憲法改正阻止勢力には望外の敵失。オウンゴールと言うほどのことではないのだが。
(2018年10月11日)

49年前は「司法反動阻止」、今や「安倍改憲阻止」。

10月3日気の置けない友人弁護士10名余と函館に宿泊して旧交を温めた。49年前に司法修習同期をともにした同窓会である。「司法反動阻止」や「阪口君罷免撤回」の運動をともにした親しい仲間だけの集まり。

思いがけなくも、集合は立派な会議室だった。宴会の前にまずは「会議」のスケジュール。その議題は二つ。一つは、「森友事件告発」問題。そして、「安倍改憲阻止」の課題。

なぜ、森友事件関連の諸告発がいずれも起訴に至らなかったのか。どうしたら、検察審査会で起訴相当の決議を得ることができるか。有益な情報交換と議論が交わされた。

そして、「安倍改憲」の情勢をどう見るか。阻止の展望がもてるか。その阻止のために、われわれは何ができるか、何をなすべきか。大幅に時間を超過して宴会の開始が遅れた。

それぞれの近況報告が各自各様で面白い。求道者のごとく(ペイしない)仕事に没頭している者もいれば、仕事は妻と子に任せて主夫業専念者もいる。が、初心を忘れている者はない。今の共通の関心は、徹底してアベを叩くこと。アベを叩くことで改憲の危機を乗り越えなければならないということ。深夜まで久しぶりに青くさい議論が続いた。

宿は、湯の川温泉の立派な旅館だったが、ギョッとするものを見せられた。イヤでも見ざるを得ない場所に誇らしげに飾られた黄綬褒章の額装である。珍しいものでもなかろうが、私には初めて見る物。しげしげと眺めた。

この宿の経営者であろう者が、天皇から「褒められたシルシ」として与えられたリボンと賞状。「農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する者」に対して授与されるという「黄綬褒賞」。

芥川の「侏儒の言葉」の一節が思い起こされる。「わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
私にも実際不思議である。なぜこの旅館主は、酒にも酔わずに、こんなオモチャをありがたがって受け取り、飾って人にまで見せることができるのであろう?  接客業者のあまりに無神経なオモテナシ。

褒賞授与状の主語は、「日本国天皇」であった。さすがに、今どき「朕」とは言わないのだ。
「日本国天皇は、某が××として、よく職務に精励したことについて黄綬褒章を授与する」という上から目線の、まことに素っ気ない文章。せめて、「あなたが永年職務に精励され多くの人に尽くされたことに敬意を表し、国民を代表してこの章を授与します」くらいのことが言えないのだろうか。もっとも、こんな物をもらってありがたがる者の支えあっての「象徴天皇制」なのだ。

御名すなわち明仁の署名はなく、国璽が押捺されていた。そして、内閣総理大臣安倍晋三と内閣府勲章局長の副書。

もらう人によっては有り難いのだろうが、こんな物を見せつけられて、私は不愉快。この宿には二度と来るまいと決意を固めた。

もう一泊、少人数で白老の虎杖が浜へ。こちらは、天皇も皇族も無関係。素晴らしい好天と、入り日と星空。そして、翌朝の水平線からの日の出。こちらのホテルは、大いにまた来ようという気になった。
(2018年10月7日)

柴山昌彦くん、愚かなキミには文科大臣は務まらない。

第4次安倍内閣への呼称が定まらない。
「もり・かけ反省拒否宣言内閣」「論功行賞内閣」「旧友復活内閣」「旧悪再生内閣」「在庫一掃内閣」「閉店セール内閣」「全員右投げ右打ち野球内閣」「右側エンジン全開内閣」「無適材不適所内閣」「レームダック内閣」…。いずれも一面の真実を衝いて甲乙付けがたい。

呼称は定まらないが、世評の低さは定まった。「信頼挽回内閣」にも、「人気回復内閣」にもなり得ない。提灯持ちメデイアのご祝儀記事も力がない。なにせ安倍商店が国民の前に並べた商品は、まことに魅力に乏しいのだ。早くも欠陥商品が見つかってもいる。

文科大臣就任の柴山昌彦なる人物。アベの候補者公募に応募したのが政治家稼業の始まりという、アベチルドレンの典型だという。宮本岳志から、「また愚かな人が文部科学大臣になった。教育勅語を研究もせずに教育勅語を語るな!」と、みごとな叱責を受けて、これはその評価が定まった。

ほかならぬ文部科学大臣である。「愚かな人」が就くべきポストではない。「愚かな人」とは、日本国憲法の理念を知らぬ人、弁えぬ人のこと。アベ晋三も柴山昌彦もこの範疇。日本国憲法下の教育行政担当官である以上は教育基本法をこそ熱く語るべきであって、大日本帝国憲法とともにあった教育勅語を肯定的に語ってはならない。ましてや、文部科学大臣が、教育勅語を研究もせずに「教育勅語を使える」などと言ってならないのは理の当然。

「普遍性を持っている部分」を取り出すとすれば、ヒトラーの演説からも、スターリンからも、ネロからも、東条英樹からも、アルカポネや石川五右衛門からだって、「道徳的教訓」を得ることができる。それをなぜ、ことごとしく教育勅語を持ち出すのか。意図は見え々えではないか。

柴山は大臣就任記者会見でどう語ったか。この大臣の「愚かな人」ぶりを引き出した質問は、朝日や共同通信や東京新聞ではなく、NHKの記者によるものである。

NHK:大臣はご自身のTwitterで今年の8月17日に、「私は戦後教育や憲法のあり方がバランスを欠いていたと感じています。」とツイートされていますが、戦後教育や憲法や在り方がどのようにバランスを欠いていたと感じていらっしゃるんでしょうか。

柴山:はい。その私のツイートの趣旨は、やはり教育というのは当然のことながら私たちの権利とともに、義務や規律ということについても教えていかなければいけないと、これは当然のことだと思っております。ただ、戦前、その義務とか規律が過度に強調されたことへの、これもまた大きな反動として、個人の自由とか、あるいは権利ということに重きを置いた教育、あるいは個人の自由を非常に最大の核とする日本国憲法が制定をされたということだと思っております。
 そういう中で、憲法についてはわれわれ憲法尊重擁護義務がある公務員ですから、ちょっとここではその在り方について言及をすることは避けたいというふうに思うんですけれども、少なくとも教育においては権利や義務、あるいは規律ということを、しっかりバランスを良く教えていく、こういったことがこれから求められるのではないかと、そういう趣旨でツイートしました。

NHK:関連してなんですけども、教育勅語について、過去の文科大臣は中身は至極まっとうなことが書かれているといった発言をされているわけですけども、大臣も同様のお考えなんでしょうか。

柴山:はい。教育勅語については、それが現代風に解釈をされたり、あるいはアレンジをした形で、今の例えば道徳等に使うことができる分野というのが、私は十分にあるという意味では、普遍性を持っている部分が見て取れるんではないかというふうに思います。

NHK:それはどの辺が十分今も使えるというふうに考えてらっしゃるんでしょうか。

柴山:やはり同胞を大切にするですとか、あるいは国際的な協調を重んじるですとか、そういった基本的な記載内容について、これを現代的にアレンジをして教えていこうということも検討する動きがあるというふうにも聞いておりますけれども、そういったことは検討に値するのかなというふうにも考えております。

このNHK記者の質問は立派なものだ。表面的な回答に満足せず、的確な質問を重ねて、この大臣の重要な内面をえぐり出した。「愚かな人」ぶりをさらけ出させたと言ってもよい。

柴山の教育勅語を語る姿勢における本質的な問題点は措くとして、「愚かな人が、教育勅語を研究もせずに教育勅語を語っている」ことだけに触れておきたい。

柴山が、普遍性ゆえに今の道徳(教育)にも使うことができるという、教育勅語の個所として挙げたのは、「同胞を大切にする」と「国際的な協調を重んじる」の2個所である。

おそらく、柴山は教育勅語を読みこんだことがない。勅語成立の背景事情もそれがどのように使われてきたかに関心をもったこともなかろう。ただ、アベが右翼である以上は、自分も右翼的でなければならないと思い込んでいるに違いない。右翼的であるための証しとして、教育勅語を肯定的に語らねばならないと考えたのだろう。そう考えざるを得ない。

まず、「同胞を大切にする」なんて、教育勅語には出てこない。そもそも、「同胞」という言葉がない。柴山がこうしゃべった根拠の可能性は二つ。

一つは、「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」の「兄弟」を同胞と間違えて記憶していたものと考えられる。いうまでもなく、「同胞」とは、訓読みすれば「はらから」、兄弟姉妹のこと。柴山が、うろ覚えで、「教育勅語には同胞(兄弟)を大切にせよ」という文句があったと間違えていたとしても無学の者にはありがちなことで、「文科大臣たる者が」という肩書を外せば、恥ずかしいというほどのことではない。「ミゾユウ」や「でんでん」「せご」などとは明らかに次元が異なる少々の間違い。

しかし、「兄弟ニ友」を、「同胞ニ友」と読み替えたところで、「兄弟仲良くせよ」でしかなく、「現在なお道徳等に使うことができる普遍性をもった徳目」として抜き出して論じるほどのものではない。

もう一つの可能性は、柴山の頭がナショナリズムに凝り固まっていて、「同胞」を「原義から転じて同じ国民や民族を指す」語彙として使っていること。「教育勅語には民族主義礼賛の言葉がどこかにあっただろう」「同胞すなわち日本民族を、お互い大切にしなさい」という徳目があったに違いない。愚かにも、そのように考えたのではないか。いずれにせよ、いい加減で不正確も甚だしい。戦前なら、「不忠」「不敬」と指弾されたところ。

柴山が言った「今の道徳(教育)にも使うことができる2番目の徳目」は、「国際的な協調を重んじる」だが、これは当てずっぽう。「愚かな人」が無知をさらけ出したと言うしかない。教育勅語にそんな言葉はない。そもそも、そんな理念を国民に教育しようという発想がなかった。

柴山が「国際的な協調を重んじる」ことを大切な徳目として道徳教育で教えたいというのなら、教育勅語を持ち出すことはできない。どんなにアレンジしたところで、教育勅語から導かれるものは「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収斂する戦争でしかない。

もちろん、国際協調主義は現行憲法の重要な原則である。国際協調主義を教えるのなら、教育勅語の出る幕はない。現行憲法をそのまま教えればよいのだ。たとえば、次の前文。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

あるいは9条。

第9条1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

そもそも、教育基本法には教育の目的と目標が書き込まれている。その意味でも教育勅語なんぞの出る幕はない。1947年教育基本法は、崇高な教育の精神を語っていた。第1次アベ内閣が2006年にこれに傷をつけ、そのときから私はアベを民主主義の敵、人権の敵、平和の敵と確信して揺るがない。もっとも、アベに傷つけられた教育基本法だが、教育勅語に比較すれば、格段に立派な内容となっている。引用しておこう。

(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

(教育の目標)
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

柴山くん、まずは日本国憲法の理念と教育基本法をきちんと学習したまえ。何年か先に、学が成って憲法・教基法の精神を会得するまで、キミには文科大臣は無理だ。務まらない。さらに、「愚かな人」ぶりをさらけ出して恥の上塗りを重ねるよりは、潔く職を辞するが身のためだと思う。キミの身のためであるだけでなく、それが日本国民のためなのだ。お分かりいたたけないだろうか。
(2018年10月6日)

そりゃオカシイ ― 「大嘗祭は宗教行事だが重要な儀式だから公費支出を認める」って?

来年(2019年)、現天皇(明仁)がその職を辞して、長男(徳仁)がその地位を承継する。次期天皇の就任は2019年5月1日と予定され、その後一連の代替わり儀式が行われる。天皇がかつて宗教的権威を体現する者とされていたため、伝統に基づく代替わり儀式に固執するとなれば、どうしても宗教性を帯びることになり、憲法に抵触することになる。その最たるものが、11月に予定されている大嘗祭にほかならない。

その大嘗祭に関して、一昨日(8月25日)の毎日新聞朝刊に、目立つ大きな記事。「大嘗祭『公費支出避けるべきでは』秋篠宮さまが懸念」の見出しで、以下の内容。他紙に後追いのないことも含めて、これは興味深い。

来年5月に即位する新天皇が五穀豊穣を祈る皇室の行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、秋篠宮さまが「皇室祭祀に公費を支出することは避けるべきではないか」との懸念を宮内庁幹部に伝えられていることが関係者への取材で判明した。大嘗祭は来年11月14日から15日にかけて皇居・東御苑での開催が想定されている。政府は来年度予算案に費用を盛り込む。

 宗教色が強い大嘗祭に公費を支出することには、憲法で定める政教分離原則に反するとの指摘がある。政府は今年3月に決定した皇位継承の儀式に関する基本方針で、「宗教的性格を有することは否定できない」としながらも、「皇位が世襲であることに伴う重要儀式で公的性格がある」と位置付けた。費用は平成の代替わりの際と同様、皇室行事として公費である皇室の宮廷費から支出する。

 平成の大嘗祭では、中心的な行事「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」の祭場建設のための約14億円を含めて費用は総額約22億5000万円に上った。関係者によると、同程度の儀式を行った場合、物価の変動などを考慮すると、費用は大幅に増える可能性がある

通常の皇室祭祀は、天皇、皇后両陛下と皇太子ご一家の私的生活費である内廷費で賄われる。これに対して、皇室の公的活動は宮廷費から支出される。政府は大嘗祭について宮廷費で予算措置を講じる方針だが、秋篠宮さまは宮内庁幹部に対して多額の宮廷費が使われることへの懸念を示したうえで「内廷費で挙行できる規模にできないだろうか」とも話しているという。今年度の内廷費は3億2400万円だった。

 秋篠宮さまは、新天皇が即位すると、皇位継承順位第1位の皇嗣となる。同庁幹部は秋篠宮さまの懸念について、毎日新聞の取材に「承知していない」としている。

 皇室祭祀などに詳しい宗教学者の島薗進・上智大学教授は「皇嗣となる方の素直な意見として歓迎したい。大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れがあり、本来好ましくない。政府は多様な意見を踏まえて、慎重に皇位継承儀式を進めてほしい」と話している。

島薗教授のいうとおりだ。真面目にものを考えようという人で、この意見に反対は考えられない。ただ、話者によってニュアンスの違いは避けられない。私なら、「大嘗祭に公的な費用が使われることは、国の宗教的な活動を禁じる憲法20条に抵触する恐れが強く当然に避けるべきだ。政府は違憲の恐れの指摘を無視して、敢えて公的費用を投じての大嘗祭を強行すべきではない」と言いたいところ。

ところで、大嘗祭は秘儀とされ、その内容には諸説ある。これを政府はどう説明しようとしているか。本年(2018年)4月3日、政府は「大嘗祭の挙行については、『「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について』(平成元年12月21日閣議口頭了解)における整理を踏襲し、今後、宮内庁において、遺漏のないよう準備を進めるものとする。」と閣議口頭了解している。

日本国憲法施行以来天皇代替わりは1回しかない。その際の「「即位の礼」・大嘗祭の挙行等について」1989(平成元年)年12月21日閣議口頭了解における整理とは以下のとおりである。

大嘗祭の意義
大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。

儀式の位置付け及びその費用
大嘗祭は、前記のとおり、収穫儀礼に根ざしたものであり、伝統的皇位継承儀式という性格を持つものであるが、その中核は、天皇が皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式であり、この趣旨・形式等からして、宗教上の儀式としての性格を有すると見られることは否定することができず、また、その態様においても、国がその内容に立ち入ることにはなじまない性格の儀式であるから、大嘗祭を国事行為として行うことは困難であると考える。

次に、大嘗祭を皇室の行事として行う場合、大嘗祭は、前記のとおり、皇位が世襲であることに伴う、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であるから、皇位の世襲制をとる我が国の憲法の下においては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる。その意味において、大嘗祭は、公的性格があり、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当であると考える。

以上の政府説明を要約するとこういうことになる。
(1)大嘗祭の宗教的性格は否定しがたい。
(2)しかし、一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式として公的性格がある。
(3)だから、大嘗祭の費用を宮廷費から支出することが相当だ。

そりゃオカシイ。無理だろう。こんな屁理屈を認めると、際限なく天皇の行為の公的性格が広がる。憲法は、政府がこんな無茶を言い出さないように、国事行為を限定し、政教分離規定を置いたのだ。大嘗祭に宗教的性格が認められる以上は、公的な性格のものとしてはならない。公的性格の範囲をズブズブにして公的支出を認めてはならない。政教分離の実効性がここで問われているのだ。

どうしても大嘗祭をやりたければ、天皇家の私的な行事として、内廷費でやればよいだけのことだ。どこの家庭の行事も同じこと、財布の許す範囲でやりくりすればよい。あきらかに、秋篠宮の言い分の方が真っ当だ。案外、手強い人が皇族の中にもいる。
(2018年8月27日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2018. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.