澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「軍学共同反対連絡会」の発足とその課題

9月30日、「軍学共同反対連絡会」が結成された。
同連絡会は軍学共同に反対する科学者と市民の情報ネットワークであり、運動体でもある。池内了名古屋大学名誉教授・野田隆三郎岡山大学名誉教授・西山勝夫滋賀医大名誉教授の3氏を共同代表として、発足時の参加者は17団体と122個人。法律家団体である日民協も名を連ねている。現時点での参加団体は以下のとおり。

 軍学共同反対アピール署名の会
 大学の軍事研究に反対する会
 「戦争と医」の倫理の検証を進める会
 日本科学者会議(全国)
 地学団体研究会
 平和と民主主義のための研究団体連絡会議
 日本民主法律家協会
 民主教育研究所
 日本私立大学教職員組合連合
 東京地区大学教職員組合協議会(都大教)
 武器輸出反対ネットワーク(NAJAT)
 日本平和委員会
 日本科学者会議平和問題研究委員会
 日本科学者会議埼玉支部 新潟大学職員組合
 大学問題を考える市民と新潟大学教職員有志の会
 京滋私大教連
 九条科学者の会かながわ
 大学での軍事研究に反対する市民緊急行動(略称 軍学共同反対市民の会)

なお、事務局長・事務局として赤井純治・香山リカ、小寺隆幸、多羅尾光徳の諸氏。

当面の取り組みの焦点が、日本学術会議への働きかけ。同会議に設けられた「安全保障と学術特別委員会」の動向を注視し、問題点を広く世に訴えるとともに、市民の声を学術会議に届ける取り組みを行うことが確認された。そしてもう一つが、紐付き防衛研究委託(安全保障技術研究推進制度)の是正である。

結成当日(9月30日午後)の記者会見での共同代表らの発言に、現在の問題点がよく表れている。
「デュアルユースが大きな問題だと盛んに言われるが、安全保障のためならいいのではという意見が出ている」
「学術会議会長が『個別的自衛権の範囲内なら許せるのではないか』と発言したことに衝撃を受けている」
「防衛と攻撃の線引きは不可能。多くの戦争は自衛のためにおこなれた。自衛のための戦争は口実に過ぎない」
「自衛を強化すると、必ず攻撃も強化する。エスカレーションの論理の行き着く先が核兵器」
「軍用と民用は区別がつかない。軍がお金を出すのは軍事用に使うという目的があるから。政府は核兵器の使用も憲法に違反しないと発言している。」
「ノーベルは無煙火薬は究極だからこれで戦争は行われなくなると考えたが使われた」
「軍学共同になる大きな理由の一つに財政的貧困がある。教育研究予算が少ない。これを根本的に改善しないと解決できない。」

法的な課題としては、何よりも憲法が柱とする平和主義との関わりがある。そして、憲法23条「学問の自由・大学の自治」と26条「教育を受ける権利」を、この問題にどう具体化するかを検討しなければならない。さらに、日民協の会合で、次のような指摘があった。
 「大学や学術機関が防衛研究に関われば、特定秘密保護法の網が被せられることになる。研究が秘密の壁で隔てられるだけでなく、大学が権力の監視に取り込まれることになる」。なるほどそのとおりだ。

これまで、学術会議は学術研究の軍事利用を戒める厳格な態度を貫いてきた。ところが、前会長広渡清吾氏とは対照的な大西隆現会長になってからは様相が変わった。政権や防衛省の意向を汲もうというのだ。日本の科学・学術の研究のあり方を大きく軍事技術容認の方向に舵が切られかねない。

その学術会議は、1950年4月の総会採択の「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)」では、「再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに、科学者としての節操を守るためにも、戦争を目的とする科学の研究には、今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する」と言っている。
また、 学術会議は、さらに67年の総会でも「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を出している。「われわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。」

以上の理念が、長く日本の科学者の倫理と節操のスタンダードとされ、これに則って大学や公的研究機関の研究者は軍事研究とは一線を画してきた。当然のことながら、日本国憲法の平和主義と琴瑟相和するもの。ところが、いま、この科学者のスタンダードに揺るぎが生じている。言うまでもなく、平和憲法への攻撃と軌を一にするものである。

大西隆は、学術会議に「安全保障と学術に関する検討委員会」を設け、軍事研究を認めない従来の姿勢の見直しを検討している。もちろん、背後に政権や防衛省の強い意向があってのことである。

政権は、軍事技術の研究進展の成果によって防衛力を強化したい。あわよくば、防衛力だけでなく攻撃力までも。軍事研究とその応用は、経済活性化の手段としても期待されるところ。憲法9条大嫌いのアベ政権である。この要求に大西隆らが呼応しているのだ。

とはいうものの、露骨な軍事研究容認は抵抗が強い。そこで持ち出されているのが、「デュアルユース」という概念。民生用にも軍事用にも利用することができる技術の研究ならよいだろうという口実。なに、「薄皮一枚の民生用途を被せた軍事技術の研究」にほかならない。
 
問題は深刻な研究費不足であるという。政権や防衛省が紐をつけた軍事研究には、予算がつく。昨年(2015年)に始まったこと。アベ政権の平和崩しは、ここでもかくも露骨なのだ。

安全保障技術研究推進制度とは、1件3000万円(程度)の研究費を付けて募集する。毎年10件を採用するという。その成果は、防衛省が「我が国の防衛」「災害派遣」「国際平和協力活動」に活用するが、それだけではなく「民生用の活用も期待する」とされている。

防衛省自身が次のとおり述べている。
「これまで防衛省では、民生技術を積極的に活用し、安全保障に係る研究開発の効率化を図ってきたところですが、昨今の科学技術の進展を踏まえ、より一層革新的な技術に対する取組みを強化すべく、広く外部の研究者の方からの技術提案を募り、優れた提案に対して研究を委託する制度を立ち上げます。」
「本制度の研究内容は、基礎研究を想定しています。得られた成果については、防衛省が行う研究開発フェーズで活用することに加え、デュアルユースとして、委託先を通じて民生分野で活用されることを期待しています。」(防衛省ホームページ)

さらに大きな問題は、大西が「1950年、67年の声明の時代とは環境条件が異なって専守防衛が国是となっているのだから、自衛のための軍事研究は許容されるべき」と発言していることだ。

「デュアルユース」とは、技術研究を「民生用」と「軍事用」に分類し、「軍事用研究」も「民生」に役立つ範囲でなら許容されるというもの。ところが、「軍事用研究」の中に「専守防衛技術」というカテゴリを作ると、「専守防衛のための軍事技術は国是として許容されるのだから、民生に役立つかどうかを検討するまでもない」となる。結局は限りなく、許容される軍事技術の研究分野を広げることになる。

防衛用と攻撃用の軍事技術の境界は見定めがたい。状況次第で、どこまでもエスカレートすることになるだろう。近隣諸国へも、挑発的なメッセージを送ることになりかねない。一国の「防衛」力の増強は、「抑止力」を発揮するとは限らない。近隣諸国への疑心と武力増強のスパイラルをもたらすことになるのだ。

戦争法反対運動では、非武装平和(ないしは、非軍事平和)派と、専守防衛(個別的自衛権容認)派とが共闘して、限定的集団的自衛権容認派と闘った。いま、現前に見えてきたものは、専守防衛(個別的自衛権容認)是認を口実とする軍事技術研究容認である。

飽くまで、日本国憲法は、非武装平和(ないしは、非軍事平和)を原則としていることを確認しなければならない。
(2016年10月15日) 

「起立・斉唱」と「起立・拍手」

久々に澄みきった青空が心地よい秋の日曜日に、爽やかならぬワタクシ・アベの登場でお目汚しをお許しください。ワタクシの今国会冒頭の所信表明演説が「北朝鮮現象」と評判が悪いのですが、釈明させていただきたいのです。

問題の個所は、ワタクシが意識して声を張り上げた次のくだりです。
「我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます。現場では、夜を徹して、そして、今この瞬間も、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が、任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全うする。その彼らに対し、今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。」

わたしは、「今この場所から、自衛隊員らに、心からの敬意を表そうではありませんか。」と演説したに過ぎず、けっしてワタクシから我が党の議員にスタンディングオベーションを求めたものではありません。もっとも、事前に最前列の我が党の若手議員諸君には内々「起立・拍手」の指示をしていたのは報道されたとおりですが、けっして全議員に指示もお願いもしていたわけではありません。前列が立てば、順次附和雷同が連鎖するだろうと、計算づくのことだったからです。

君が代の「起立・斉唱」だって同じことでしょう。誰かが起立することは、周りの人に同じ行動を促す圧力になる。着席したままでは国家に意識的な反発をもっていると見なされかねない。順次起立の附和雷同現象が生じるものなのです。みんなが起立して一人不起立は、これはもう非国民。処分の対象としても大きな世論の非難はおきないのです。それとおんなじ雪崩現象を計算し期待したということです。

できれば、公明や維新あたりには同調圧力が及ぶことを期待したのですが、そこまでは実現しなかった。その点ややものたりず残念ではありますが、さすが我が党の議員。ほぼすべての諸君の領土・領海・領空を守る兵隊さんたちへの鳴り止まぬ「起立・拍手」。これこそが戦後レジームを脱却した戦前回帰への大きな第一歩。そして、ようやくにして我が党の議員だけでも国防国家という価値観を共有する北朝鮮の域に近づいてくれたかと、感慨一入というところでございます。

このとき、ワタクシの念頭にあったのは、あの「兵隊さんよありがたう」の歌詞とメロデイでした。念のため、歌詞を掲載しておきましょう。

 肩を並べて兄さんと  
 今日も学校へ行けるのは
 兵隊さんのおかげです 
 お国のために     
 お国のために戦った  
 兵隊さんのおかげです 

 夕べ楽しい御飯どき  
 家内そろって語るのも 
 兵隊さんのおかげです 
 お国のために     
 お国のために傷ついた 
 兵隊さんのおかげです 

 淋しいけれど母様と  
 今日もまどかに眠るのも
 兵隊さんのおかげです 
 お国のために     
 お国のために戦死した 
 兵隊さんのおかげです 

 明日から支那の友達と
 仲良く暮してゆけるのも
 兵隊さんのおかげです
 お国のために
 お国のために尽くされた
 兵隊さんのおかげです
 兵隊さんよありがとう
 兵隊さんよありがとう

ワタクシがいう「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」とは、この歌の「兵隊さん」にほかならないのです。

この歌は、日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年10月、大阪朝日、東京朝日による「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集の佳作一席に選ばれたのがこの歌だそうです。ちなみに、一等に選ばれたのは「父よあなたは強かった」だとか(ウィキペディア)。当時は、朝日新聞も国家や政府・軍部に全面協力の立派なことをしていたわけです。

国民生活に奉仕する人びとはたくさんいることでしょう。障がい者や老人の介護に専念している多くの人にではなく、危険な消火活動に当たっている消防士にでもなく、「兵隊さん」には特別に感謝しなくてはいけないのです。平和を守るためには、国際間の格差や不平等や貧困をなくし医療や教育の普及をする活動が不可欠と言えば言えることでしょう。でも、そういう取り組みに地道に努力している人たちに感謝することはないのです。飽くまでも感謝の先は「兵隊さん」でなくてはならないのです。

国の平和と安全を守るためには、武力を手段とする道と、武力によらない道とがあります。日本国憲法を素直に読めば、「武力による平和」「武力による安全保障」という道を明示的に放棄し、武力によらない平和、武力によらない安全保障という道を選択しています。ワタクシ・アベはこの憲法を天敵としています。この憲法を壊して、戦前同様に富国強兵をスローガンとする国防国家を作りたい。そのためには、何よりも、国民の中に根強くある「戦争は悪だ」という惰弱な厭戦意識や戦争アレルギーを払拭して、まずは「兵隊さんよありがとう」精神を涵養しなければならないのです。

ワタクシが言及した「任務の現場」の中には、もちろんのこと辺野古や髙江もはいります。ここでは、国家的大局観を見失って、地方的な利益に固執する一部の人びとの激しい抵抗を排除するために、「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」が体を張ってがんばっています。

まさしく、我が国の領土・領海・領空を守るための、辺野古大新基地であり、髙江ヘリパッドの建設ではありませんか。それを「沖縄地上戦の悲惨な体験から絶対に基地は作らせない」と妨害するのは、非国民ともいうべき不逞の輩以外の何者でもありません。そんなオジイやオバアの抵抗を排除するために、今日、今も、「兵隊さんたち」が極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、ごぼう抜きの任務を全うしているのです。
 
その沖縄の彼ら「兵隊さん」に対し、今この国会のこの場所から、自民党議員諸君だけでも一丸となって、心からの敬意を表そうではありませんか、と申しあげたのです。

えっ? 弁明になっていない? なぜそう言われるのか理由が理解できない。反日の非国民諸君には、ワタクシ・アベの言葉が通じないということなのでしょう。
(2016年10月2日)

文京母親大会講演「戦争はごめん! いのち輝く平和な社会を」ー憲法公布・女性参政権70年

女性こそ母親こそ、最も戦争を憎み平和を望む者。アジア太平洋戦争では230万人の兵士が死んだ。230万回も母の涙が流れた。また、この兵士たちによって殺された近隣諸国の犠牲者は2000万人と見積もられている。この国々の母の涙は、はかり知れない。
「誰の子どもも殺させない」「誰の子どもも戦場に送ってはならない」そして、「世界中のすべての母親に悲しい思いをさせてはならない」。

日本国憲法は、筆舌に尽しがたい戦争の惨禍のすえに、この惨禍をけっして繰り返してはならないとする決意として生まれた。母の涙から、生まれた憲法と言っても間違っていない。

1945年12月に衆議院議員選挙法が改正され女性参政権が実現した。そして、歴史的な総選挙が行われたのが46年4月10日。初めて女性が投票所に足をはこび、39人の女性議員が誕生した。

この総選挙のあとに、第90帝国議会が開かれて制憲議会となった。この議会の審議で形の上では憲法改正、実質的には新憲法制定となった。

新憲法は、揺るがぬ平和を構築するために、前文では平和的生存権を唱い、9条1項で戦争を放棄しただけでなく、同2項で戦力の不保持を宣言した。国際協調によって平和を維持するという歴史的な選択が採択され、武力均衡による平和や抑止論は考慮されなかった。自衛のための武力の保持も行使も否定されている。

しかも、その日本国憲法は、前文から本文のすべてが、一切戦争を想定することなく、戦争を起こさぬように、平和を維持するように作られている。個人の尊厳、国民主権、国民の政治参加、表現の自由・知る権利、政教分離、違憲審査権、教育の自由、教育を受ける権利、地方自治…、全て平和を支え平和に通ずる。まさしく日本国憲法は平和憲法なのだ。

憲法9条2項の発案者とされている幣原喜重郎は、議会の答弁において「文明と戦争とは両立しない。文明が戦争を廃棄しなければ、戦争が文明を廃棄してしまう」と9条の意義を述べている。

また、吉田茂は、「戦争抛棄に関する憲法草案の条項に於きまして、国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります。」
 
平和憲法を支える女性の役割は大きい。かつて「家」制度が、「国家」主義を支えていた。男性中心の修身斉家治国平天下の思想と心理は、国家の差別構造になぞらえられた「家」に支えられていた。天皇→国家→家→個人の価値序列は、徹底して個人が軽んじられる社会。戦前、戸主でない女性は民事上の無能力者であり、参政権を持たなかった。期待されたのは、銃後を守る女性像であり、精強な兵士を生み育てる役割を担う女性像であった。

戦後、憲法24条は、女性を解放し、男性との対等性を回復した。家制度は崩壊し。女性参政権は平和をもたらした(はず)である。

ところが、今平和・女性の権利が危うい。憲法それ自体も危うくなっている。
自民党改憲草案(2012年4月)の思想は、国防国家・国家主義と人権抑圧・立憲主義の否定である。民族の文化・歴史・伝統が強調されているが、その内実は天皇を中心とした「國體」以外になにもない。これが、安倍政権の「戦後レジームからの脱却」の正体にほかならない。

自民党草案24条は「家族の尊重と相互扶助の義務付け」を謳う。これは家制度の復活を目指すものといわざるを得ない。

安倍政権の壊憲政策は、それでも足りずに明文改憲路線を明確にしている。憲法は、単に理想を書き連ねた文書ではない。個人の尊厳・自由・平等、そして何よりも平和を実現するためのこの上ない有効なツールである。けっして、これを手放してはならない。

女性の力は世界の半分を支えている。平和を支える母親の力は半分よりもはるかに強いはず。是非とも、憲法を我が子の如くお考えいただきたい。平和と個人の尊厳を擁護するために、憲法改正には絶対反対という立場を貫いていただきたい。
(2016年10月1日)

「しのばず通信」に見る、それぞれの「私の戦争」「私の8月15日」。

「根津・千駄木憲法問題学習会」の機関紙「しのばず通信(9月8日号)」が届いた。毎月、切手のない封筒に入れての戸別配達。わが事務所の郵便受けにぽとり。

A4・1枚両面印刷の手作りだが、通算129号。毎月1回の例会を欠かさず、10年以上の継続となっている。その息の長い活動に頭が下がる。ここに集まるような人々が、憲法を支えているのだ。

月刊だから、9月号は「〔特集〕私の8月15日」となって、3人の寄稿が掲載されている。敗戦時、中学2年の男性、女学校1年の女性、そして当時13歳の女性。それぞれの「私の8月15日」が興味深い。1億通りの8月15日があったことをあらためて想起させられる。

「当時中学2年の男性」とは、少年事件問題の家裁調査官として著書も多数ある浅川道雄さん。「私の戦争体験」を次のように綴っておられる。

「私が生まれた昭和6年に「満州事変」が始まり小4の冬「大東亜戦争に突入ということで、私が物心付いた時に戦争は日常のことになっていました。戦争末期に体験した東京大空襲」は「死の瀬戸際」を感じるほどの強烈な体験でした。
 1945年5月25日に目黒の自宅を焼かれ、寄留先の八王子でも、8月1日にまた焼かれ、命からがら目黒に戻り、疎開先に留守番を兼ねて仮住居しているとき、敗戦を迎えました。
 中学2年の私は、5月の空襲でも、八王子の後も、生きている限り「小国民の義務」として三鷹の軍需工場へ通い続けました。「米軍が上陸してきたら、皇居と首都を守って玉砕するのだ」と配属将校に言われ、自分の心にも、そう言い聞かせていました。「どうしたら立派に死ねるか」が私の最大の関心事でした。そんな思いをけっして子どもたちに味合わせたくないと、固く思います。」

「当時女学校1年の女性」は、「戦争はいや! 私たちは戦争の語り部に!」と題して、「やがて戦争が終わったことを知ると、今夜から明るい電燈の下で暮らせ、空襲の恐ろしさもないのだという安心感に満たされた。」「でも、あれから71年経った現在、…民主々義の自由の風も、人びとが気付かぬうちに、じわじわと戦争前の時代のような匂いがしてきた」と警告している。

そして、「当時13歳の女性」の「私の8月15日」が、貴重な体験を次のように語っている。
「3月10日の東京大空襲で母はじめ5人の兄弟を失った私。更に土浦空襲でも予科練生だった兄を失って父と2人だけになってしまった私。
 あの日は父の部下だった方の所、千葉へ買い出しに行くとの事で父と一緒に列車に乗った。途中、天皇陛下の重大放送があるという事で全員、列車から降ろされて線路に並ばされた。正午、一段高い所に置かれたラジオにみんな頭を下げて陛下の玉音放送なるものを聴いた。が、ただガアガアと云っているだけで、何も聞き取れなかった。空が真っ青に澄んでいて暑い日だった。
 その日、父の部下だった方の家に2、3人の村人がやって来て日本は戦争に負けたのだと云った。そしてこれからはアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。だからみんな山に逃げなければいけないと云った。私は父が殺されて又一人になったらどうしよう。そして大人でも子どもでもないチビの私はどうなってしまうのかとたいへんな不安におののいた、私13歳の日本敗戦日でした。」

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8月15日の感想は一色ではない。おそらくは、「戦争が終わって、今夜から明るい電燈の下で暮らせる。空襲の恐ろしさもなくなった」という安堵感で終戦を迎えた人が多数であったろう。しかし、「日本は戦争に負けた。これからアメリカ軍がやってきて、女性はみんな陵辱され、男共と子どもはみんな殺される。」と敗戦の悲劇を恐怖した少なからぬ人もいた。これは、根も葉もない流言飛語の類だったのだろうか。

ずいぶん以前のことになったが、沖縄の戦跡をめぐったことがある。いくつもの、「ガマの悲劇」を聞かされた。現地で見て、想像していたよりもガマが広く大きいのに驚いた。数十人単位の避難民がそれぞれのガマで運命をともにしたという。

ガマの外から、米軍が日本語で投降を呼びかける。ガマの中の避難民に抵抗の術はなく逃走も不可能。投降するか確実な死か。極限の選択が迫られた。

あるガマでの現地平和運動活動家からの説明が印象的だった。
「このガマには二つのグループが避難していましたが、一つのグループは投降して全員が助かり、もう一つのグループは投降を拒否して自決か砲撃でほぼ全員が死亡しました。
 投降を受諾したグループのリーダーは、元はアメリカに出稼ぎ経験のある高齢男性でした。彼の気持の中でのアメリカは、「敵ではあっても、デモクラシーの国」であって、「鬼畜米英」という観念はなかったのです。みんなを説得して投降し、命を救ったのです。
 一方、投降を拒否したグループのリーダーは従軍看護婦の経歴を持つ女性でした。中国戦線での体験から、投降した中国人捕虜が皇軍によっていかに残虐に扱かわれていたかを知る立場にいた方です。この方は、みんなを説得して投降を拒否したのだと言いつたえられています。
二つのグループはガマの中で行動をともにしていましたが、最後の決断で分かれ、運命も分かれたのです。」

あのガマの闇が、歴史の闇に重なる思いだった。重苦しく合掌するのみ。
(2016年9月13日)

国家に子の命を奪われ、靖国に子の魂を奪われー「九段の母」の二重の悲劇

8月31日の当ブログで紹介した、2008(平成20)年8月靖國神社社頭掲示の立山英夫「遺書」には後日談がある。

陸軍歩兵見習士官立山英夫は、日中戦争開始直後の1937年8月、初陣での斥候任務の途中で戦死した。その血まみれの軍服のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモには、天皇陛下も万歳も、「大君の辺にこそ死なめ」もなく、ひたすら「母恋し」の心情に溢れた歌が書き込まれ、そのあとに「お母さん お母さん お母さん…」と24回書き付けてあった。撃たれてから書いたのではなく、書き付けたものをポケットに忍ばせていたのだ。我が子の戦死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

死んだ兵の上官は、大江一二三(後に大佐)。この「遺書」に心を揺さぶられた大江は、立山の葬儀に弔電を送る。この弔電が、「ヤスクニノミヤニミタマハシヅマルモヲリヲリカヘレハハノユメヂニ(靖国の宮にみ霊は鎮まるも をりをりかへれ 母の夢路に)」という歌になっていた。これに、当時の著名作曲家である信時潔が曲をつけて国民歌謡となり、全国で歌われた。

この歌の意味は、当時の国民にはよく分かったのだろうが、今では解説なくしては理解しえない。
野暮は承知で解釈してみれば、
「故人の魂は神となって靖国の宮に鎮座してはいるが、ときどきは恋しい母のもとに帰って、その夢にあらわれたまえ」
というところであろうか。

靖国の祭神となった子の魂は母の許にはない。国家が魂を独占し管理しているのだ、母の夢路に「をりをり帰れ」と言うのが精一杯なのだ。

わたしはこの話を、大江一二三の長男である大江志乃夫さんから聞いた。岩手靖国訴訟で、大江さんに学者証人として盛岡地裁の法廷に立っていただいた1983年夏のこと。このことは、法廷に提出された陳述書をもとに上梓された大江志乃夫『靖国神社』岩波新書(1984年3月)の終章にまとめられている。抜粋して引用しておきたい。

 この歌は、太平洋戦争中の日本放送協会(NHK)国民歌謡のひとつである。国民歌謡は1936(昭和11)年6月から放送がはじめられ、翌年10月からさらに国民唱歌の放送がはじめられた。
 現在でも多くの人に親しまれている島崎藤村の詩「椰子の実」が大中寅二作曲で国民歌謡として電波にのったのは、国民歌謡開始の年のことである。太平洋戦争の記憶とわかちがたく結びついている「海行かば」は、万葉集にある大伴家持の歌に信時潔が作曲したもので、国民唱歌第一号であった。これらのシリーズには、戦時中の作品では、北原白秋の詩に井上武士が作曲した「落葉松」、吉田テフ子作詞・佐々木すぐる作曲「お山の杉の子」、戦後の作品には、土屋花情作詞・八洲秀章作曲「さくら貝の歌」、横井弘作詞・八洲秀章作曲「あざみの歌」などがある。
 「靖国の」は信時潔の作曲である。作詞は大江一二三となっている。大江一二三つまり私の亡父である。私の父は陸軍の職業軍人であった。1937年日中戦争がはじまった当時、九州の第六師団に属しており、戦争が開始された直後の7月27日に動員が下命され、ただちに出動した。おなじ部隊に若い見習士官立山英夫がいた。出征わずか三週間後の8月20日、将校斥候として偵察に出た初陣で戦死した。母親思いの立山の血まみれの軍服のポケットには彼の母親の写真があり、裏に「お母さんお母さんお母さん……」と二四回もくりかえし書かれていた。
 立山の遺骨が郷里に帰り、葬儀がおこなわれたとき、私の父は転勤して宮崎県の都城市にいた。父の打った弔電の文面が冒頭に紹介した短歌である。電報の配達局の消印は「12・11・17」の日付となっている。…
 作曲家の信時潔は1963年11月に文化功労者となった。そのときのNHK「朝の訪問」の番組で「今まででいちばん印象に残る作曲は?」と質問したインタビューアーにたいして-彼は当然「海行かば」という答を予期していたようであるが、-信時は「大江さんという軍人さんの歌ですが」と言い、自分でピアノに向かって「靖国の」を歌ったという。

 父が歌にこめた思いもおなじであろうが、私がいだいた素朴な疑問は、一身を天皇に捧げた戦死者の魂だけでもなぜ遺族のもとにかえしてやれないものか、なぜ死者の魂までも天皇の国家が独占しなければならないのか、ということであった。
 あれほど母親思いの青年の魂だけでも「をりをり」ではなく、永遠に母親の許に帰ることをなぜ国家は認めようとしないのであろうか。父の友人でもあったある歌人はこの歌を「全国民の唱和に供した悲歌」と評したが、そのとおりであると思う。父のこの歌の存在が私に靖国神社への関心を呼び起こした。

「をりをりかへれ」としか言わせない靖国神社の存在とはいったい何なのか、国家は戦死者の魂を靖国神社の「神」として独占することによって、その「神」たちへの信仰をつうじて何を実現してきたのか、あるいは実現することを期待したのか。

「戦死者の魂を国家が独占する」ことについては、敗戦まで靖国神社の宮司であった鈴木孝雄(陸軍大将)がこう言っている。(「偕行社記事 特別号」)

「人霊をそこへお招きする。此の時は人の霊であります。いったんそこで合祀の奉告祭を行います。そうして正殿にお祀りになると、そこで始めて神霊になるのであります。…遺族の方は、其のことを考えませんと何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「遺族の心理状態を考えますというと、どうも自分の一族が神になっている。…一方に親しみという方の点が加わるものですから、なんとなく神様の前の拝礼あたりも敬神というような点に欠けていることがまま見られるのであります。…それは確かに、自分の一族の方が神になっておられるんだという頭があるからだと思います。そうではなく、一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないかと思います。」

これが靖国を通じて、国家が戦死者の魂を独占し管理するということなのだ。大江一二三は「せめて、をりをりは母の許に」と言ったが、靖国の宮司はこれをも、「何時までも自分の息子という考えがあっては不可ない。自分の息子じゃない、神様だというような考えをもって戴かなければならぬのです」「一旦此処に祀られた以上は、これは国の神様であるという点に、もう一層の気をつけて貰ったらいいんじゃないか」と叱責の対象にしかねない。

 「九段の母」とは、子の命を国家に取られ、さらにはその魂までも国家に取られた「二重の悲劇」の母なのだ。
(2016年9月4日)

靖國の二面性ー「上からのA面」と「下からのB面」

8月も今日でおわる。戦争と平和を語るべき月の最後には、やはり靖國を語りたい。

靖國神社には、月毎の「社頭掲示」というものがある。「多くの方々に、祖国のために斃れられた英霊のみこころに触れていただきたいと、英霊の遺書や書簡を毎月、社頭に掲示しています。社頭にこれまで掲示した遺書や書簡は、『英霊の言乃葉』に纏めて刊行、頒布していますので、是非ご覧下さい」とのこと。

今月(2016年8月)の社頭掲示は、以下のとおりの「英霊の遺言状」。
遺言状 陸軍大尉 岡研磨命
(戦死による2階級特進での「大尉」。生前は少尉であったことになる。「命」は、祭神であることの敬称で「(の)みこと」と読む。なお、霊爾簿には、祭神の氏名の外、戦没年月日・出身地・軍における階級・勲等・金鵄勲章の等級が記される)
昭和十九年九月二十一日 西部ニューギニア方面にて戦死
福井県福井市手寄上町出身 四十七歳

 人生草露の如し。
 今栄ゆる御代に会ひ、醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし。
 母上に対し孝養足らず。遺族の幸福を願ひつつもその及ばざりしは余の不徳なり。深くこれを謝す。
 人生の行路平坦ならず。
 一同力を合はせ御国の為勇往邁進せよ。
 吾、御身等の身辺にありて必ず守護せん
。(原文のまま)

見方によっては、紋切り型の典型というべきだが、死後に、遺族だけでなく軍にも郷里の人びとにも読まれることを意識しての遺言である。到底率直な心情をつづることはできない。末尾3行は、既に護国の神としての言葉となっている。これ以外には、書きようがなかったのだろう。

「栄ゆる御代」「醜の御楯」「本懐」「御国の為」「勇往邁進」などの常套語句の羅列の中に、「人生草露の如し」「母上に対し孝養足らず」「遺族の幸福を願ひつつ」と無念さを読み取ることもできよう。

これとは対極のものをご紹介したい。2008(平成20)年8月の靖國神社社頭掲示である。

  遺 書
 陸軍歩兵中尉 立山英夫命
 昭和十二年八月二十二日
 歩兵第四七聯隊
 支那河北省辛荘附近にて戦死
 熊本県菊池郡隈府町出身

  若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は
  出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
  己生あるその中は 子の身に代わらんこと思い
  己死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ
  あゝ有難き母の恩 子は如何にして酬ゆべき
  あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
  母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む
  母死に給うそのきはに 泣きて念ずる声あらば
  生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
  母息絶ゆるそのきはに 泣きて念ずる声あらば
  生きませるとき慰めの 言葉交わして微笑めよ
  母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば
  生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ

 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん
 お母さん お母さん お母さん

これは、「覚悟の遺書」ではない。母にも他人にも読まれることを想定して書いたものではない。斥候として偵察に出た初陣で戦死した若い見習い士官のポケットから出てきた母の写真の裏に書き付けられたメモである。

メモ前半の長歌は、当時よく知られていた「感恩の歌」の一部をとって、独自の創作を付け加えたもの。そして、24回繰り返された「お母さん、お母さん、お母さん……」。母を思う子の心情が溢れて胸を打つ。ここには、「大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」というタテマエや虚飾が一切ない。

私は、このメモを読むたびに、不覚の涙を禁じ得ない。我が子の死の報せを聞かされた母の嘆きはいかばかりのものであったろう。

靖國神社には二面性がある。その一面は、上から見た、国家が拵え上げ国民に押しつけた側面。戦没将兵を顕彰することで、戦争を美化し国民を鼓舞して、君のため国のための戦争に国民精神を総動員する装置としての側面。飽くまでこちらがA面である。

だがそれだけではない。国家によって拵え上げられた擬似的「宗教」装置ではあっても、夥しい戦没者の遺族にとっては、故人の死を意味づけ、これを偲ぶ場となっている。確実に民衆が下から支える側面がある。こちらがB面。B面あればこそのA面という関係ができあがっている。

「醜の御楯となる本懐これに過ぐる事なし」とは、A面を代表する遺言状。「お母さん、お母さん…」のメモは、B面に徹した遺品。A面だけではなく、B面も靖國にとっては、なくてはならない存在なのだ。

私は、B面に涙する。同時に、この涙する心情をA面に利用させてはならないとの痛切の思いを新たにする。A面は宗教的に構成されているのだから、政教分離とはA面の国家利用を絶対に許さないとする法原則と理解してよい。

戦争の犠牲者は自国民だけではない、軍人軍属だけでもない。戦没者の追悼のあり方は、祭神として靖國の社頭に祀ることだけではない。「お母さん…」と書き付けて亡くなった子と母の痛切な心情を、国家や靖國に囲い込ませてはならない。

戦死者を顕彰したり戦争を美化するのではなく、再びの戦争犠牲者を絶対につくらないと決意すること。いかなる理由による、いかなる戦争も拒否すること。国際協調と平和主義を貫徹する誓約をすること。これこそが本当に戦死者を悼み、戦死者と遺族の心情を慰めることになるのだ。
(2016年8月31日)

新宗連のいう「絶対非戦」と憲法9条

戦争と平和を語るべき8月が、もうすぐ終わろうとしている。

新日本宗教団体連合会(新宗連)の機関紙である「新宗教新聞」(月刊紙・8月26日号)が届いた。さすがに8月号。紙面は「平和」「非戦」で埋め尽くされている。トップの見出しが、「世界平和、絶対非戦の誓い新た」というもの。新宗連青年部が主催する「第51回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8・14式典)」を通じて、「世界平和と絶対非戦への誓いを新たにした」と報じられている。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われた同式典では、「平和へのメッセージ」が発表され、参列者全員で「平和の祈り」を捧げ、戦争犠牲者への慰霊と世界平和の実現への誓いを新たにした、という。

「絶対非戦」を標榜する8・14式典の戦没者慰霊は、靖國での英霊顕彰とは異質のものである。

靖國神社は、「国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社」(靖國神社の由緒)と自らを規定する。ここに祀られるものは、戦争の犠牲者ではない。戦没者ですらない。「国家のために尊い命を捧げられた」とされる軍人軍属に限られる。もちろん、交戦相手国の戦死者・戦争被害者は、「国家のために尊い命を捧げられた人々」ではありえない。ここにいう「国家」とは、大日本帝国ないしは天皇の国のことなのだ。

靖國神社は、皇軍軍人の御霊を「慰める」だけではない。「国家に命をささげた、事績を永く後世に伝える」つまり、英霊として顕彰するのだ。靖國には、戦争を悪として忌避する思想はない。君のため国のために闘うこと、闘って命を落とすというのは、崇高な称えるべき事蹟なのだ。

靖國には、客観的に戦争を見つめる視点は欠落している。創建の由来からも、軍国神社としての歩みからも当然のことなのだ。ひたすらに「忠死」を顕彰する盲目的な評価があるだけである。だから、日清日露は皇国の御稜威を輝かせた褒むべき戦争であり、植民地支配や日支戦争は五族協和のための戦争で、大東亜戦争は自存自衛のやむを得ざる正義の戦争であった、ことになる。靖國史観が歴史修正主義の代名詞となっているわけだ。皇軍がなくなり、旧陸海軍の管轄から脱して一宗教法人となって久しい現在においてなお旧態依然なのだ。

これに対して、新宗連の「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」論には、戦争肯定の思想がはいりこむ余地がない。主催者挨拶の中では、40年余にわたる「アジア青年平和使節団」の活動が紹介されている。現地での、日本軍によるアジアの人びと、連合軍捕虜の犠牲者への慰霊供養が語られている。すべての戦没者を悼み、霊を慰め供養をするが、けっして闘ったことを褒め称えることはない。戦争は「すべての命を尊ぶ」という教えに反する悲しいことで、いかなる理由をつけようとも、絶対に繰り返してはならないという姿勢が貫かれている。

靖國とは現実に戦争の精神的側面を支えてきた軍事的宗教施設であって、平和を祈るにふさわしい場ではない。新宗連が「すべての命を尊ぶ」「絶対非戦」という立場から、意識的に靖國とは異なる戦没者慰霊の行事を行っていることに敬意を表したい。

新宗教新聞の同号には、新宗連が8月8日付で内閣総理大臣安倍晋三宛に、「靖國神社『公式参拝』に関する意見書」を提出したとの記事があり、その意見書全文が掲載されている。

やや長いものだが、靖國神社への「公式参拝」自重を求める部分よりは、伊勢志摩サミットの際の、伊勢神宮参拝を問題にしている点が目を惹く。当該部分を抜粋して紹介する。
「総理は、本年5月26日、伊勢志摩サミットに出席した先進七ヵ国首脳を伊勢神宮にご案内されました。政府は、これを伊勢神宮への「訪問」であり、「参拝」ではない、と説明されました。しかし、伊勢神宮が正式参拝としている「御垣内参拝」を主要国首脳とともになされた総理の行動は、純然たる宗教行為であります。これを「訪問」とすることは、伊勢神宮の宗教性を踏みにじるものと、深く憂慮いたします。同時にそれは、「政府がどのような行為が宗教活動に該当するのかを価値判断する」ことを意味し、わが国の「政教分離」原則は、重大な危機を迎えるものといわざるを得ません。
 戦前から戦中にかけて、わが国では、多くの宗教団体が過酷な宗教弾圧を被りました。そのきっかけは、近代国家において「政教分離」原則がないがしろにされたことに始まったことを、私たち宗教者は忘れてはおりません。」
まったくそのとおりで、全面的に賛意を表したい。

また、同紙は、同じ8月8日、新宗連が自民党総裁安倍晋三宛に、憲法改正草案についての意見書(二)を提出したことを伝えている。 

この点についての新宗連の意見書は、先に2015年6月26日付で、自民党宛に提出されている。本格的で体系的な内容となっており、下記5点の問題を指摘して、「強く要望いたします」「削除を求めます」「強く反対いたします」などとされている。
一、憲法に国民の義務を記さないこと
二、「個人」を「人」と書き変えないこと
三、「信教の自由」を保障し、「政教分離原則」を堅持すること
四、「公益及び公の秩序」を憲法に盛り込まないこと
五、平和主義を守ること

意見書(二)は、その後の議論を踏まえて、改憲案の中の「緊急事態条項」についての意見となっている。内容は、「緊急事態条項」に関する一般的意見にとどまらない。独自性のポイントは次のとおりだ。
「私たちは、貴党・憲法改正推進本部が公表した九十九条『緊急事態の宣言の意味』三項において、緊急事態の宣言が発せられた場合においても最大限尊重されなければならない基本的人権に関して、十四条、十八条、十九条、二十一条が記されていながら、何故に二十条の「信教の自由」が明記されていないのか、未だに理解に至っておりません。」

緊急事態宣言下での信教の自由(憲法20条)の取り扱いに関わることで、細かいといえばかなり細かい。宗教者であればこその問題提起である。それぞれの分野で、自民党改憲草案を徹底して叩く見本というべきだろう。

また、同紙は、多くの宗教団体の「戦争犠牲者慰霊・平和祈願」の式典を紹介している。「大平和社会実現のための献身誓う」というPL教団の「教祖祭」が大きく扱われている。立証校正会の「平和祈願の日」式典は扱いが小さいが、その中で、庭野日敬開祖の次の言葉の紹介に注目せざるを得ない。

「危険をおかしてまで武装するよりも、むしろ平和のために危険をおかすべきである」

これこそ、憲法9条の精神ではないか。武装することによるリスクもあり、当然に武装しないリスクもある。憲法9条は、武装することによる相互不信頼のスパイラルから戦争に至るリスクを避けて、ありったけの知恵を働かせて平和のために非武装を貫くリスクをとったのだ。

宗教者のいう「絶対非戦」。これは、憲法9条の理念そのものではないか。「近代戦遂行に足りるものとならない限りは実力を持てる」「国家に固有の自衛権行使の範囲であれば戦力とは言わない」などという「解釈」を弄することなく、「自衛隊は違憲」でよいのだ。

私自身は神を信じるものではないが、真面目な宗教家の言には耳を傾けたいと思う。新宗連は政治的に革新の立場でもなければ、思想的に進歩の立場でもない。しかし、真面目に宗教者として生きようとすれば、アベ政権との確執は避けられないのだ。このような人たちとは、しっかりと手を結び合うことができるはずと思う。
(2016年8月30日)

むのたけじ逝くー「おれなんか70より80と、ますます頭良くなってきた」

昨日(8月21日)、むのたけじが亡くなった。享年101。
戦争に加担した自分の責任を厳しく問い、再びの戦争の惨禍を招くことのないよう社会に発信を続けた、憲法の理念を体現するごとき人生。その良心の灯がひとつ消えた。この人の姿に励まされ希望を感じてきた多くの人々に惜しまれつつ。

東京外国語学校スペイン語科を卒業し、報知新聞記者を経て1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となった。若い従軍記者として、つぶさに戦争の実相を見つめたのだ。そして、1945年8月15日敗戦の日に、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日を退社したという。戦後は、故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊、一貫して反戦の立場から言論活動を続けた。

今年(2016年)5月3日、東京有明防災公園での「憲法集会」に車椅子で参加している。そのときの元気なスピーチが、名演説として記憶に新しい。これが公の場での最後の姿となったという。朝日による当日の演説要旨は以下の通り。これがむのたけじの遺言となった。

「私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。

 ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。

 国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。」

しかし、憲法9条はけっして安泰ではない。その後の参院選で、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占める危険事態となった。101歳の叛骨のジャーナリストは、壊憲に突き進むアベ政治に、さぞかし心残りだったろう。

朝日の秋田版に掲載された、「むのたけじの伝言板」というシリーズのインタビュー記事がある。92歳から94歳の当時のもののようだ。その一部を抜粋して紹介したい。

─むのさんは「高齢者」「老後」という言葉は使いませんね。
 高齢なんてのは、官僚の年寄りだましのお世辞だよ。老人は老人、年寄りは年寄り。それだけでいい。老後とは何だ。老いはあるけど、老いた後とは何なんだ。よけい者だというのでしょ。高齢も老後も、老人を侮った言葉。「敬老」じゃなく「侮老」だ。

─敬老会に誘われませんか。
 10年位前に3回行ったけど、本当に小馬鹿にしているよ。安っぽい折り詰めに2合瓶1本つけて、幼稚園の子供のダンス見せて、選挙に出る連中が挨拶して、それでおしまいだもの。年々予算削られるから、ごっつおうもない。なんも面白くね。

─でも喜んでいる人もいるでしょ。
 いるでしょね。それはそれでいい。喜んでいない人もいるということを理解してもらわないと。しかも相当の人数いるんじゃないの。もっと心を込めた、年寄りが長く生きていて良かったと思う行事、何かあるんじゃない。

─年金はもらってますか?
 初めから拒否しているから、ないんです。61年に制度ができたとき、「集めた銭を軍備強化に使う恐れがあるから入らない」と。
 そういう立場だけど、「若者3人が高齢者1人を支えている」というような言い方はおかしいよ。本当の社会福祉、社会保障から見れば、我々を支えているのは、個人じゃなく国家なのだから、みんなでみんなを守るの。社会保障とはそういうもの。
今は、年取ったら介護保険だ、施設だ、と老いることが人間のゴミ捨て場みたいじゃないの。それは間違いだ。おれなんか70歳より80歳と、ますます頭良くなってきた。変なことに惑わされない。頼るのは、自分の常識だよ。

─戦後すぐに平和運動は起きたのですか。
 すぐは、食うのに懸命だった。憲法9条なんて当たり前だから放っておいた。それがよくなかった。この戦争は何だったのか。だれが何のために計画したのか。自衛権まで否定していいのか。そういう勉強をやらなければならなかったのだが、開放感が先に立った。
そして60年安保闘争。国会を70万人が取り囲んだ。政党や労働組合が「平和な世の中を」と叫び、古い政権を倒して新しい政権を作ろうとした。が、これが三文の値打もなかった。

─平和運動の始まりとおもっていましたが。
 平和だ、戦争反対だというけど、スローガンだけになった。本気になって命をかけてなかった。平和運動で何が残ったかというと、「良心にしたがって平和運動に参加した」という自己満足だけ。実の詰まった平和運動ではない。

─むのさんは「地域社会が喜びと希望を持って、どんどん働く力が出てくるような平和運動」を提唱しています。どういうものですか。
 戦争は、国の経済、金もうけとつながっている。みんなが、ほどほどのところで満足していけば、戦争はいらない、やらないに変わっていく。平和運動はこれまで、自分の体の外だけでの運動だったの。デモ行進とか抗議文とか。威勢よくみえるけど、戦争を計画している人には痛くもかゆくもない。スローガンではなくて、生活そのものを変えないと。
戦争反対ならば、自分自身も暮らしぶりを変える。夫婦喧嘩しながら平和を学びたくもないでしょ。隣近所と朝の挨拶もしないで平和国家もないものだ。夫婦の関係、親子の関係をどうするか。そういうことから始めればいい。
 非常にまだるっこいように見えるけど、戦争をたくらむ人たちに決して動かされないような、そういう生活態度につながれば、予算を一つも使わずにできるじゃないの、平和な世界というものが。

これも朝日に掲載された、むのの意見。高市総務相の停波発言への批判だが、むのが戦時の経験から、今を見つめて危機感を持って警告を発していることがよく分かる。

「太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。

 その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。

 国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。

 報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。

 報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。

 戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。

 「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。」

心からご冥福をお祈りする。そして、私もその良心の灯を受け継ぐ一人でありたいと思う。
(2016年8月22日)

憲法の理念に真逆の首相をもつ、ねじれた日本の不幸。

下記は、一昨日(8月17日)の赤旗7面(文化欄)に載ったエッセイ。タイトルは、「君をハグしていい?」というもの。筆者西川悟平(1974年生)はニューヨーク在住で、「7本指のピアニスト」として知られている人だという。印象に深い内容にかかわらず、赤旗のデジタル版には掲載なく、ネットでの紹介記事も見あたらない。まずはその全文を紹介したい。

 2年前の1月の寒い日、二ューヨークのマンションで2人組の泥棒にあいました。夜10時ごろ、ノックの音に、ルームメートの友達だと思いドアを開けると、黒人とラテン系の男が入ってきて、注射器を突きつけられました。中には透明な液体が入っていて、なんだか分からないままホールドアップ。1人が僕に注射器を突きつけている間、もう1人がクレジットカードやパソコンなどを盗みだしました。

 初めはすごく怖かったのですが、だんだんと怒りに変わり、その後「何が彼らをこんな行動に駆り立てたんだろう?」と好奇心に変わりました。アメリカの大学で心理学を学んだことがあったんです。
 恐る恐る「しゃべっていいですか?」と聞くと「うるせえ! 黙れ!」。「ごめんなさい! ただ君たちがどんな幼少期を過ごしたのか…なんでこんなことをしなくちゃいけなくなったのか…そう思っただけです!」
 するとラテン系の男が一瞬動きを止めて、「お前にあのクソ痛みが分かるか…俺の親父は俺が子どもの時から俺に性的虐待をしてきた。母さんは、俺が物を盗ってきたら愛してると言ってくれたんだ」。僕は涙が出てきました。「つらかったね…。あるものはなんでも盗っていいから! 君をハグしていい?」。彼は「俺に近づくな! 今センシティブな(感じやすい)気分なんだ!」。注射器を持っていた男は「お前は日本人か? お前らは、人を深く尊敬する文化があるから、俺は好きだ」と言いだしました。
 「日本から届いた緑茶があるけど飲みますか?」と聞くと、2人とも「飲む」と言うのでお茶を沸かし、3人で話しました。ラテン系の男が翌週に誕生日だというので、ハッピーバースデーをピアノで演奏しました。時計は明け方4時を指していました。

 僕自身アメリカではひとりきりで、指に病気を抱えながらピアニストで頑張ってると伝えると、「お前ならきっと1年後には笑って過ごせる日がくるさ」と応援してくれました。僕は「あなたたちは、人間としての素晴らしい価値があるから、お店で働くなり、アルバイトをするなり、何か必ずできる仕事があるはずだ」と伝えました。
2人は、僕のマンションの壊れかけた暖房設備を修理し、盗んだものをすべて返してくれ、「次から相手を確認するまでドアを開けるなよ」とお説教。明るくなりはじめた頃、出て行きました。1人ずつハグをして「お前に会えて良かった」と言って。
僕は翌年そのマンションを引っ越しました。彼らが元気で幸せであることを願っています。

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このエッセイに描かれたできごとは、憲法9条の理念を寓意している。
暴力に遭遇したとき、暴力での対抗が有効か、あるいは丸腰での対応が安全か。少なくともこのケースの場合、丸腰主義と友好的対応が成功している。

いつもそうとは限らないという反論は当然にあり得る。では、このピアニストが護身用の拳銃を所持していたとして、隙を見て犯人に発砲したとすれば…。強盗被害をはるかに超えた悲惨な結末となっていたに違いない。

暴力を振るう相手に対して、「君をハグしていい?」という対応のできる人格は稀有なものだろうが、暴力に暴力で対峙の危険を避けることは常識的な発想といえよう。この「暴力に暴力で対峙する危険を避ける常識的な発想」から半歩踏み出したところに、日本国憲法の平和主義の発想がある。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」というのが日本国憲法の立場である。「決意した」というのだ。非武装平和主義のリスクを引き受けるということだ。非武装の平和も、武力による平和もともにリスクはある。武力による平和を求める方策は、際限のない武力拡大競争と極限化した戦争の惨禍をもたらすという大失敗に至った。しかも、次の本格戦争には核が使われることになる。だから、非武装の平和を決意したのだ。

「決意した」は、安閑としてはいられないという認識を表している。平和のために国民が団結して、知恵を出し合い、多大な努力を重ねなければならないということなのだ。

憲法前文は、非武装平和主義を採用する根拠として、「人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」としている。人間を、諸国民を、胸襟を開いて話し合えば理解しえる「ハグすべき相手」と見る思想である。

この対極にあるのが、「自国は正義」「隣国は悪」という国際観。「隣国は常に自国攻撃の邪悪な意図をもっている」「だから平和のためには可能な限りの軍備が必要」となる。もちろん核武装も厭わない。現実に核武装が困難であれば、核の傘に身を寄せる選択となる。

自国を攻撃する意図をもった邪悪な隣国と対峙している以上、自国の平和のためには可能な限りの強力な武力を。どんなときにも即応できる、いつでも使える武力を。先制してでも武力の行使を辞さない能力と戦意こそが平和の保障、と考える。

だからアベは、オバマの「核兵器先制不使用宣言」には反対なのだ。日本がよるべき「核の傘」(核抑止力)は、「先制しては使わない」などという切れ味の鈍いものであってはならない。常に、日本の隣国に睨みをきかして、恫喝し続けるものでなくてはならないのだ。

アベが、広島で述べた「核兵器なき世界に向け、新たな一歩を踏み出す年に…」なんて言うのは、真っ赤なウソ。アベは憲法9条が大キライ、核抑止力大好きなのだ。アベは、自宅にピストルが欲しい。できれば、機関銃も爆弾も欲しいのだ。強盗が押し入ってきたら、撃ち殺すぞ、爆殺するぞ。そう、脅かすことが安全と平和のために必要というのだ。

あらためて、強盗二人をハグしたピアニストに敬意を表する。あなたこそ、日本国憲法の理念の体現者だ。ひるがえって、アベの何たる愚かさ。

ああ、不幸な日本よ。憲法の理念に真逆の考えの首相をもつ、ねじれた国よ。
(2016年8月19日)

「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」ーこれが9条の神髄ではないか。

昨日(8月15日)の政府主催「全国戦没者追悼式」の最高齢参列者は、フィリピンで夫を亡くした東京都の101歳、中野佳寿さん。この人の言葉が、各紙に紹介されている。「戦争は絶対に駄目」というもの。何と力強い言葉だろう。その通り、「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。

どんなに理屈をつけて戦争を合理化しようとも、101歳の「戦争は絶対に駄目」の強さには敵わない。聖戦、正義の戦争、自存自衛の戦争、東洋平和のための戦争も、「ダメなものはダメ」。防衛環境の変化も存立危機事態も「戦争は絶対に駄目」に抗いえない。

人殺しは駄目。絶対に駄目。ダメなものはダメ。人殺しがダメなことに理屈は要らないのと同じように、戦争は駄目。絶対に駄目、ダメなものはダメなのだ。

この言葉の強さは、戦没者の痛恨と遺族の戦後の労苦への共感から生まれている。戦没兵士だけではない。沖縄地上戦での死者とその遺族、各地の空襲死者とその遺族、広島・長崎での原爆死者と遺族、そして多くの生存被爆者・生存空襲被害者の痛苦・悲痛。国民はそれを知っているから、「戦争は絶対に駄目」に心底共感するのだ。

ところで、憲法は「戦争は絶対に駄目」という思いへの共感が結実したものだ。「戦争は絶対に駄目」と9条1項に書き付け、「絶対に駄目」な戦争を再び起こさないための保障として、戦争の手段をもたないと9条2項で宣言したのだ。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」はそういう意味なのだ。

「戦争は絶対に駄目」の思想は、自衛のための戦争なら許すという例外を認めない。第90帝国議会(制憲国会)で、共産党の野坂参三は、日本国憲法案第9条を指して、「我が国の自衛権を放棄して民族の独立を危うくする危険がある。それ故に我が党は、民族独立の為にこの憲法に反対」との論陣を張った。これに対する吉田茂(当時首相)の答弁を想い起こそう。

「野坂氏は国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私はかくの如きことを認めることが有害であると思うのであります。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発する所以であると思うのであります。野坂氏のご意見の如きは有害無益の議論と私は考えます。」

また、吉田茂は戦争放棄に関する提案理由説明で次のようにも言っている。
これ(戦争放棄)は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります。斯かる思ひ切つた条項は、凡そ従来の各国憲法中稀に類例を見るものでございます。斯くして日本国は永久の平和を念願して、その将来の安全と生存を挙げて平和を愛する世界諸国民の公正と信義に委ねんとするものであります。この高き理想を以て、平和愛好国の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の国の根本法に明示せんとするものであります。

野坂の自衛戦争肯定論に対して、吉田は「自衛のための戦争も交戦権も放棄したものであると言明」したのだ。日本国憲法第9条を、「戦争は絶対に駄目」条項と理解した姿勢である。

ここがぶれると、自衛のための戦争なら許される、となる。自衛のための戦争に必要な武力なら違憲の戦力ではないから持つことを許される。自衛のためなら核武装も違憲とは言えない。自衛のためなら敵の基地を叩く必要も認められる。攻撃こそ最大の防御なのだから自衛のための先制攻撃もあり得る。自衛のためなら海外での戦争もしなければならない。自衛のためなら同盟国の戦争を買ってもよい。そして行く着くところは、昨日(8月15日)明らかになった「核兵器の先制不使用政策は抑止力を弱体化する」というアベ発言にまで行き着くのだ。

あらためて確認しよう。日本国憲法の平和主義とは、頑固でぶれない「戦争は絶対に駄目」「ダメなものはダメ」なのだ。その平和主義の実現はけっして安易なものではない。国民に安閑としていることを許さない。国民は、勇気と知恵とを総動員して、武力によらない平和を実現すべく努力を求められているのだ。
(2016年8月16日)

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