澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

襟を正すよう岩手県に求める

冬晴れの空に映える冠雪の岩手山。今日一日は、美しき山のある幸せの地に。

新幹線の車窓から岩手山を望むと、いつも啄木の歌を思い出す。
  汽車の窓はるかに北にふるさとの山見え来れば襟を正すも

タクシーの運転手さんが、誇らしげに言う。
「私らいつも見ていますが、見飽きるということがありません」「特にこの開運橋からの岩手山がみごとでしょう」「この橋で岩手山を見ると運が開けるって、受験生がやって来るんですよ」

本日は「浜の一揆」事件の対岩手県(水産振興課)交渉。その日程に合わせて、吉田さんから岩手県(県立中央病院)に対する医療過誤訴訟の提訴日とした。

盛岡地裁正門の前に地元テレビのカメラがならんだ。分かり易い事案の内容について幹事社を通じての事前のブリーフィングの効果もあったろうが、何よりも原告吉田さんが、自分の名前も顔も出して取材に応じるという勇気が大きな反響を呼んだのだと思う。

この吉田さんの事件はOさんの紹介。Oさんも、県立病院で奥さんを医療過誤事件で亡くされた方。羊水塞栓症での死亡とされ、県は発症の予測も結果回避も不可能として争った。一審盛岡地裁は羊水塞栓症の罹患を否定しての認容判決だったが、控訴審の仙台高裁判決は羊水塞栓症の罹患を肯定しながら医師の発症責任を認めた。羊水塞栓症の発症責任を認めた認容判例は空前である。もしかすると絶後かも知れない。

その困難な訴訟の最中に、Oさんが述懐したことがある。「私は、この裁判に負けたら地元に住み続けることはできません」というのである。県を相手に訴訟を起こすとは、そのくらいたいへんなことなのだ。よほど思いつめ、よほどの覚悟での提訴だということが痛いほどよくわかった。幸いに、一審、二審とも勝訴判決を得て、Oさんは昔のまま地元での暮らしを続けている。

ことほどさように、県を相手に裁判を起こすなどとは勇気のいること。吉田さんは本件事故当時20歳。その吉田さんが、胸を張って、名前を出して、カメラの前で県立中央病院の医原性医療事故の不当と、医療事故に関しての病院の対応の酷さを訴えた。

私が配布したレジメの概要は以下のとおりである。
※本日、盛岡市在住の吉田さんから県立中央病院の医療過誤にもとづく損害賠償請求訴訟を盛岡地裁に提訴した。請求金額は270万円だが、後遺障害未定のため、症状固定後に請求拡張の予定。

※本件は医療過誤事件としては小さな事件である。しかし、誰にでも起こりうる医療事故であり、医療機関側の対応の不誠実さは、患者の権利の問題として到底看過しえない。
☆「過失1」 典型的な医原性医療過誤。医療による過失傷害事件である。
研修医2名が大腿動脈穿刺による採血に失敗。採血は4回試行されていずれも失敗。患者の懇請で看護師に交替して5回目にようやく成功。患者は未熟な研修医の実験台にされた。その直後から下肢の痛み、しびれ、麻痺が生じて緊急入院。大腿神経の損傷があったものと推察される。2か月後に寛解し退院して現在リハビリ継続中。退院5か月後の現在なお松葉杖歩行。
☆「過失2」病院は自ら起こした事故に謝罪せず、不誠実極まる対応。
被告病院副院長は原告に対して、「研修医の彼らは何も悪くありません、普通の青年です」「吉田さんの体に問題があって、このようなことになりました」「吉田さんの態度に問題があったからこうなったんじゃない? 自業自得だよね」と言っている。
この不誠実対応自体が、損害賠償の根拠になる。

※原告は、本件医療事故によって、店員としての職を失い現在無職無収入。
被告病院は、暫定的な収入仮払い要求を拒絶。提訴やむなきに至った。

記者会見は1時間余に及んだ。記者から、吉田さんに、「名前も、顔も隠さずに、訴えたいというお気持ちになられたという動機を」との質問が何度か繰り返される。それに対する吉田さんの答えをまとめると以下のとおり。

「私には陰に隠れなければならない恥ずかしいことは何ひとつありません」「中央病院の名を挙げて自分の憤りを発言するのですから、自分の方も隠れず名前を出した方がよいと思いました」「私が勇気を出して名前を出して訴えることで、多くの人を元気づけ、医療事故で泣き寝入りをすることがなくなるよう願っています」

匿名の発言は無責任で卑劣、心ある人の耳に届くはずもない。吉田さんの姿勢はその対極。メディアに名前を出し、カメラに向かっての堂々の発言であってこその迫力である。吉田さんを映すテレビの幹事社名が「めんこいテレビ」。人を軽んじプライドを傷つける理不尽に対して、素直な怒りの発露を支えることが私の努めだ。

午後は浜の一揆の幹部の面々と一緒に、岩手県(漁業調整課長)との交渉。零細漁民からの「サケ漁の許可」を求める申請書類の補正をめぐって、形式的な打ち合わせがメインのアポではあったが、当然それだけでは終わらない。「なぜ、県は三陸の漁民に三陸のサケを獲らせないんだ」というテーマをめぐっての発言になる。漁民の声は切実でもあり、厳しくもある。

「今のままでは後継者が育たない。岩手の漁業は衰退の一途だ」「漁民の声に耳を傾けないで岩手の漁業を衰退させているのは行政じゃないか」「こんな苦しいときだから、復興のためにサケを獲ることを認めてもらわねばならない」「どうして、サケ漁を浜のボスの巨大な定置網だけ許可して、俺たち漁民には禁止するんだ」「県が漁業界の意見を聞いて判断するというのは納得できない」「県政がボス支配に追随しているというだけではないか」「漁民にサケを獲らせない理由として、浜のボスたちの利益を守ること以外にどんな理屈が立つのか」「どうして、漁民のための県政にならないで、ボスのための県政になってしまっているんだ」「私たちだって、岩手の漁業界の中にいる。どうして県は漁連の幹部の言うことだけを聞いて漁民の声を聞かないのか」「歴代の水産行政の幹部が漁連に天下りしているではないか。あなた方はどうなんだ」「海区調整委員会が県政のチェックにならないことは、メンバーを見れば明らかでないか」…。

漁民の生活を軽んじ、浜のボスと一体となった県行政の理不尽に対して、怒りの発露を法的な手段として支えることが私の努めだ。

岩手県立病院にも、岩手県の水産行政にも、岩手山を見て襟を正していただきたいと思う。夕暮れの岩手山も見応え十分だった。
(2015年1月21日)

赤旗記事に見る東西トンデモ首長との闘い

本日は赤旗記事の紹介。同紙には、他紙にないニュースも解説も調査記事もあることを認めざるを得ない。そのような記事の二つを転載する。

まずは、本日(1月20日)の赤旗6面「おはよう ニュース問答」欄に「東京『君が代』3次訴訟で一部勝訴したね」という記事がある。子(のぼる)が発問し、父(晴男)が答える問答形式での解説。実に要領よく、事件と判決内容の解説がされている。私が書くと、どうしても事情をよく知らない読者にはわかりにくい文章になってしまう。この赤旗解説記事は、読者にわかってもらおうとの配慮が行き届いている。執筆記者に敬意を表したい。なお、文中にある二つの小見出し「賠償請求は棄却」「都教委は謝罪」は省略した。

のぼる 東京地裁が、東京「君が代」3次訴訟で、都立学校の教職員26人、31件の停職・減給処分を取り消したっていうけど、お父さん、どういう裁判なの?
晴男 卒業式や入学式などで「君が代」斉唱時に起立せず、各校長の職務命令に従わなかったとして、東京都教育委員会から戒告や減給、停職処分をうけた都立学校の教職員50人が処分取り消しと精神的苦痛に対する損害賠償を求めた裁判だよ。

のぼる 「一部勝訴」ってあるけど、どういうことかな?
晴男 戒告処分25件については取り消しを認めず、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国家賠償法上の過失はないとして賠償請求も棄却したんだ。

のぼる 処分取り消しを求める裁判は、いつから始まっているの?
晴男 2004年に懲戒処分を受けた173人が、処分取り消しを求めて2007年2月に提訴したのが始まりだよ。

のぼる 職務命令や懲戒処分が「思想及び良心の自由」「信教の自由」など憲法に違反するか、懲戒処分が都教委の裁量権逸脱らん用になるかが争点となったわけだね。
晴男 都教委が2003年秋、「教職員は指定された席で国旗に向かって起立し、国歌を斉唱」「式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営」など細部まで規定した実施指針通りの式を強制し、従わない教職員を処分するという通達をだした。「10・23通達」といわれている。その違憲性も争点になった。

のぼる 判決では、違憲の主張は認めなかったけど、『減給以上の処分では、事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要』とし、減給・停職は違法としているね。
晴男 3年前の東京「君が代」裁判1次訴訟の最高裁判決の内容を維持したもので、3次訴訟原告団・弁護団は「『国旗・国歌強制システム』を断罪し、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価」としているね。

のぼる 違法な懲戒処分をした都教委は謝罪し、反省すべきだね。子どもたちのために自由かったつで自主的な教育を取り戻すたたかいに注目していきたいな。」

もう一つの記事は、4面の「橋下市長は憲法違反 『思想調査』裁判結審 原告が陳述 大阪地裁」という記事。

大阪版では扱いが大きいのかも知れないが東京版では小さい。この訴訟、その後どうなったかと気になっていたが、昨日(1月19日)結審し、3月30日が判決言い渡しだという。他紙の報道にない、私には貴重な情報。

「橋下徹大阪市長による市職員への憲法違反の「思想調査アンケート」(市職員への労使関係アンケート調査)で「精神的苦痛をうけた」として、職員59人が市に損害賠償を求めた裁判が19日、大阪地裁で結審しました。判決は3月30日。
 同アンケートは2012年2月、橋下市長の業務命令として全職員に実施。労働組合への参加や、街頭演説を含む特定の政治家を応援する活動への参加、それらを誘った人の名前まで回答を求めるものです。
 結審では原告団長の永谷孝代さんが最終陳述し、多くの原告が、回答しなければ懲戒免職を含む重大な処分もあり得ると思い、その上で、憲法を守るべき自治体労働者が憲法違反でも回答すべきかと葛藤し、悩み苦しんだと強調。アンケート実施後、多くの職員が心を閉ざし物が言えない職場になったとし、「業務命令と処分で職員を牛耳り、民主主義や働きがいを奪っていったアンケートが憲法違反であることを公正に認めていただきたい」と訴えました。
 同アンケートをめぐっては昨年6月、中央労働委員会が不当労働行為と認定する命令を出しました。橋下市長が同7月、中労委命令の取り消しを求める提訴議案を市議会に提出しましたが、野党4会派などが否決。中労委命令が確定しています。」

東京における教育現場での「10・23通達」との闘いと、大阪市の「思想調査アンケート」との闘いが同根・同質のものであることがよくわかる。いずれも、民主主義の原理をわきまえない横暴なトンデモ首長が問題を引き起こした。

いつの世にも、果敢に闘わずして民主主義の確立も人権の擁護もあり得ないのだ。
(2015年1月20日)

アベノミクスへの期待の切れ目が、安倍内閣の命の切れ目

最新の世論調査結果を報じた、本日(1月19日)「毎日」朝刊2面の見出しは、大きな衝撃である。
「アベノミクス地方に浸透 6%」「格差拡大 70%」というもの。

アベノミクスこそは、安倍政権の唯一の看板である。「看板」は、不正確なのかも知れない。「撒き餌」「誘蛾灯」「漁り火」というべきであろうか。いずれにせよ、これが有権者に対する唯一のアピール・ポイントである。

安倍内閣はアベノミクス以外に、アピールポイントをもたない。憲法改悪志向、立憲主義に反する集団的自衛権行使容認、強引な特定秘密保護法の制定、民意無視の原発再稼働、近隣諸国のみならずアメリカをも失望させた靖国神社参拝、福祉の切り捨て、労働法制の改悪、庶民大増税と財界への優遇税制、教科書問題に象徴される後ろ向き教育、TPP、NHK人事、格差の拡大、貧困の蔓延‥‥。安倍政権の不人気政策は、枚挙に暇がない。

それでも、安倍内閣がここまでもってきたのは、ひとえにアベノミクスの「成果」なのだ。ところが、世論調査が、アベノミクスに見切りをつけ始めたとなれば、安倍内閣の末路が見えてきたというもの。

記事の概要は以下のとおりである。
「毎日新聞の17、18日の世論調査で、安倍政権の経済政策「アベノミクス」の効果が地方に十分「浸透している」との回答は6%にとどまり、「浸透していない」が86%に上った。内閣不支持層では96%が「浸透していない」と答え、支持層でも79%が「浸透していない」とみている。」

「安倍晋三首相は5日の年頭記者会見で「全国津々浦々、一人でも多くアベノミクスの果実を味わっていただきたい」と強調した。アベノミクスの地方への波及が課題であることは政権も認めており、統一地方選を控え、地方の不満にどう応えていくかが問われる。」

「これに関連して、日本社会の格差は広がっていると感じるかとの問いには70%が「感じる」と答え、「感じない」は23%だった。」

同調査では、「戦後70年の談話の内容」「集団的自衛権の行使の是非」「川内原発再稼働の可否」「改憲への賛否」等々の具体的な質問項目において、何一つ安倍内閣の方針は国民に支持されていない。明らかに安倍反対の声のほうが大きいのだ。

唯一、アベノミクスだけが、安倍内閣に対する国民の期待をつないできた。「今は、我慢をしても、だんだんよくなるのではないか」「ほかの道は見えていない以上、この道で仕方がない」とのつなぎ方だった。それが、「地方に浸透6%」「格差拡大70%」とは、そろそろ「我慢をしたところでちっともよくならないのではないか」「ほかの道に早めに切り替えた方かよいのではないか」と変わりつつあるのではないか。ようやくにして、アベマジックの呪文が解けつつあるように見える。

毎日だけではない。朝日の世論調査も同様の結果となっている。
「朝日新聞社は17、18日、全国世論調査(電話)を行った。安倍晋三首相の経済政策が、地方の景気回復に「つながる」と答えた人は25%にとどまり、「つながらない」は53%にのぼった。首相は今年の年頭の記者会見で「全国津々浦々、アベノミクスの果実を味わっていただきたい」と述べたが、有権者の期待感は高まっていないことが浮き彫りになった」

テレビ朝日の調査結果は、次のとおり。
「あなたは、安倍総理が進めている経済政策によって、景気回復を実際に感じていますか、感じていませんか?
感じている14% 感じていない77% わからない答えない9%」

読売の調査結果も同様である。
「安倍内閣の経済政策については、「評価する」43%、「評価しない」46%が拮抗きっこうした。安倍内閣が景気の回復を実現できるかどうかについては、「実現できる」は38%で、「そうは思わない」の47%を下回った。また、景気の回復を「実感している」は14%で、「実感していない」は81%に達している。アベノミクスの成果を実感している人は少ないようだ」

いったい、どうしてこれで安倍自民は暮れの総選挙に勝てたのだろうか。明らかに、その答は、小選挙区制のマジックにある。50%の投票率で、自民党はようやくその半分の得票を得た。絶対得票率4分の1で290議席の絶対多数がとれたのは、ひとえに小選挙区制のおかげなのだ。虚構の絶対多数。上げ底の議席数である。

しかし、どの調査でも、安倍内閣の支持率はまだ高い。これはどうしてなのだろうか。おそらくは、ライバル不在の状況の反映なのだろう。
自民党支持率は長期低落の過程を経て2009年総選挙で大敗北に至った。民意は自民を離れて民主党に移行し、劇的な民主党政権誕生を実現させた。民意は民主党に夢と希望を託した。しかしわずか3年で夢はしぼんだ。いったんは民主党政権を誕生させた民意が、今必ずしも自民に復帰したわけではない。しかし、民主党を支持して手ひどく裏切られた思いが、「安倍政権を積極支持はしないが、民主や第三極よりはマシではないか」となってあらわれているのではないだろうか。ライバル不在故の消極的支持の継続であろう。

しかし、それもアベノミクスこそが安倍内閣の命の綱。アホノミクスの正体見たりと、民意がアベノミクスを見限れば、それまでのこと。世論調査の結果は、民意がアベマジックの呪文を解いて覚醒しつつあることを示しているように思える。呪文が解け、覚醒した目で見つめれば、「アベノミクス」は「アホノミクス」に過ぎないのだ。
(2015年1月19日)

政治資金規制法のザルの穴を塞ごう

1月14日、解党して既にない「みんなの党」の元代表・渡辺喜美が不起訴処分となった。昨年(2014年)6月2日付で、同人には学者ら16人が告発状を提出している。私も24人の告発人代理人のひとりだ。

14日午後3時半過ぎ、代理人代表の阪口徳雄弁護士に東京地検特捜部の担当検事から、電話で下記の通知があった。
①本日告発を受理し、本日不起訴処分にした。
②不起訴理由は「嫌疑不十分」。
不起訴理由の具体的内容について説明はされなかったとのことだ。

報道では「渡辺喜美元代表が化粧品通販大手会長から計8億円を借り入れた問題で、東京地検特捜部は14日、渡辺氏を不起訴処分(嫌疑不十分)とした。渡辺氏は借り入れを政治資金収支報告書に記載しなかったなどとして政治資金規正法違反などの疑いで告発されていたが、特捜部は『法律違反を犯したといえる証拠がなかった』と説明した」という。

また同日、自分の選挙区の祭りで「ウチワ」を配ったとして告発されていた松島前みどり前法務大臣も「嫌疑不十分で不起訴」となった。

公職選挙法は、政治家が選挙区内の人に「金銭や財産上の価値のある物品」の寄付を禁止している。問題のウチワは財産上の価値のある物品にあたり、これを選挙区内の人に配布したことまでは確認されたが、「配布の主体は松島本人ではなく、松島が代表を務める自民党の支部だとしたうえで、罰則の条件である選挙に関係した寄付とまでは認められないとして嫌疑不十分で不起訴とした」と報じられている。

どちらの事件も、「嫌疑不十分」だが、疑惑を徹底追求した結果とは到底考えがたい。これだけ世間を騒がせた問題について検察が甘いのではないか。東京地検特捜部の存在感が薄い。

さっそく次のような句が詠まれることになる。
   みそぎ終えうちわ片手に観劇へ(稲留洋征・16日「毎日」万能川柳)

さて、渡辺喜美告発に対する不起訴処分には、告発人らが検察審査会への審査申し立てを検討することになる。その成り行きは別として、今回の経緯から政治資金規正法の大きな抜け穴が明らかとなり、意識的にこの抜け穴を利用した者たちの汚さが明らかとなってきた。まずは世論による指弾が必要であり、次いで法改正による抜け穴塞ぎが必要なことを訴えたい。

渡辺告発状は、DHC吉田嘉明会長から2010年と12年とに交付を受けた計8億円の金員について、これを政治資金収支報告書か選挙運動資金収支報告書のどちらかには記載すべきであったのに、どちらにもこれを記載していなかったことを告発事由とするものである。前者であれば政治資金規正法違反、後者であれば公職選挙法違反である。

関係条文だけを掲記しておこう。

※政治資金規正法関係
☆借入政治資金の会計帳簿不記載
第9条(会計帳簿の備付け及び記載)
1項 政治団体の会計責任者は、会計帳簿を備え、これに当該政治団体に係る次に掲げる事項を記載しなければならない。
一号 すべての収入及びこれに関する次に掲げる事項
 チ 借入金については、その借入先、当該借入先ごとの金額及び借入年月日
(違反には24条1項1号により 3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金)
☆借入政治資金の報告書不記載
第12条(報告書の提出)
1項 政治団体の会計責任者は、毎年十二月三十一日現在で、当該政治団体に係るその年における収入、支出その他の事項で次に掲げるものを記載した報告書を、その日の翌日から三月以内に、都道府県の選挙管理委員会又は総務大臣に提出しなければならない。
一号 すべての収入について、その総額及び総務省令で定める項目別の金額並びに次に掲げる事項
 リ 借入金については、その借入先、当該借入先ごとの金額及び借入年月日
(違反には25条1項2号により 5年以下の禁錮又は100万円以下の罰金)

※公職選挙法関係
☆選挙運動に関する収入及び支出の会計帳簿の備付及び記載
第185条 出納責任者は、会計帳簿を備え、左の各号に掲げる事項を記載しなければならない。
一 選挙運動に関するすべての寄附及びその他の収入(公職の候補者のために公職の候補者又は出納責任者と意思を通じてなされた寄附を含む。)
二 前号の寄附をした者の氏名、住所及び職業並びに寄附の金額(金銭以外の財産上の利益については時価に見積つた金額。以下同じ。)及び年月日
(違反には246条1項2号により 3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金)
☆選挙運動に関する収入及び支出の報告書の提出
第189条 出納責任者は、公職の候補者の選挙運動に関しなされた寄附及びその他の収入並びに支出について、第185条第1項各号に掲げる事項を記載した報告書を、前条第1項の領収書その他の支出を証すべき書面の写しを添付して、当該選挙に関する事務を管理する選挙管理委員会に提出しなければならない。
(違反には246条1項5の2号により 3年以下の禁錮又は50万円以下の罰金)

渡辺喜美側は8億円について「個人的借り入れで、収支報告書への記載義務はない」と弁明していた。「個人的借り入れ」とは、「私生活上の支出に充てるための金員の借り入れであって政治活動や選挙活動とは無関係のもの」という趣旨であろう。

いかに巨額の金額でも、「個人的な借入」と弁明が通るのであれば、恐るべき事態が惹起する。すべての政治資金の動きを暗闇に隠すことが可能となるではないか。会計帳簿不記載も、収支報告も不要ということになってしまう。それでよいのか。

今回の8億円授受の経過は、スポンサーと政治家との間の内紛によって、偶然に表面化した。それなければ闇のカネとして、吉田と渡辺の持ちつ持たれつの関係は継続していたことになる。

「特捜部は規正法に違反すると認定できるだけの証拠はないと判断した」と報道されている。たまたま、資金交付者が手記を発表して、巨額の資金交付とその経緯がこれだけ明確になった本件で、「嫌疑不十分」「証拠がない」ということであれば、およそ「貸金の形態をとった政治資金の調達については、告発あっても立件不可能」と宣告したに等しい。

あらためて、政治資金規正法の目的と理念を読み直してみよう。
第一条(目的)この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。
第二条(基本理念)
1項 この法律は、政治資金が民主政治の健全な発達を希求して拠出される国民の浄財であることにかんがみ、その収支の状況を明らかにすることを旨とし、これに対する判断は国民にゆだね、いやしくも政治資金の拠出に関する国民の自発的意思を抑制することのないように、適切に運用されなければならない。
2項 政治団体は、その責任を自覚し、その政治資金の収受に当たつては、いやしくも国民の疑惑を招くことのないように、この法律に基づいて公明正大に行わなければならない。

公職選挙法の目的規定は次のとおりである。
第1条(目的)この法律は、日本国憲法の精神に則り、議会の議員及び長を公選する選挙制度を確立し、その選挙が選挙人の自由に表明せる意思によつて公明且つ適正に行われることを確保し、もつて民主政治の健全な発達を期することを目的とする。

この理念に照らして、8億円授受が法の趣旨を脱法するものであることは明らかである。これでも検察が立件できないというのであれば、脱法を防止する法改正が喫緊の課題となっている。

朝日の1月16日社説が、同じ思いを述べている。抜粋したい。
「(東京地検特捜は)8億円は渡辺氏の個人的な借金だった可能性が否定できず、政治資金規正法に基づき収支報告書に記載しなかった刑事責任を問うのは困難、と判断した。
 貸し手の化粧品大手ディーエイチシー(DHC)会長が明かした密接な関係や借金の額は常識からかけ離れている。それでも、カネが政治団体としてでなく、あくまでも個人としての借り入れの範囲とみなされれば、処罰は難しいという現行法の限界を今回の処分は示している。
 リクルート事件などの政治腐敗への反省から、90年代以降、政治団体の収支や政治家の資産を公開する流れが進んだ。その理念は、政治資金をたえず国民のチェックや批判にさらさせるところにあった。
 政治家個人への寄付も原則禁止されている。だが、個人の借金には規制の穴がある。政治家には資産を報告する義務があり、借入金の記載欄もある。だが、だれから借りたか、利息、担保などの借り入れ条件を明らかにする必要はない。
 借金があるのに記載しなかったとしても罰則がない。のちに虚偽記載が表面化しても、訂正すれば、それですんでしまう。それでも通常の借り入れなら、所有する不動産などが抵当に入り、カネの動きはある程度、把握される。しかし、スポンサーが担保を求めず貸し付けたら、チェックの目は届かず、カネの移動は闇にとどまる。
 政治団体の収支だけでなく、資産報告書の政治家個人の貸し借りやその目的も外からチェックできる仕組みを作らなければ、政治資金をガラスばりにする理念は果たせそうにない。
 たとえ支援者からの申し出だとしても、政治家がひとの目に触れない形で多額の借り入れをすることは、便宜供与のリスクと背中合わせの行為である。抜け道をふさぐ手立てを国会で真剣に議論するときだ。」

まったくそのとおりだ。今回の「8億円事件」は政治資金規正法の美しい理念に、大きな黒い穴があることを見せつけた。この穴をくぐり抜けようという策動を再び許さないために、早急に法改正が必要との声を上げよう。
(2015年1月18日)

「日の丸・君が代」強制拒絶の憲法論

いかなるもの、いかなることについても、好悪や意味づけは人それぞれに自由である。貴重なものとして価値を認めるか否か、神聖なものとして尊ぶか否か、敬意を表すべきものとして畏れいるか否か、その判断や選択は完全に個人の自由の問題であって、これを何人からも強制される筋合いはない。スカル・アンド・クロスボーンズの海賊旗が好きでも嫌いでもよい。ワグナーがお気に入りでもよし、あれだけは勘弁してくれと言ってもよい。まったく同様に、日の丸のデザインも、君が代の歌詞やメロディも、大好きであってもかまわないし、虫酸が走るくらいに大嫌いであってもけっこうなのだ。

ところが、自分の好悪や価値観を他人に押しつけようというお節介な圧力が、やっかいな問題を引き起こす。「日の丸・君が代は、すべての日本国民が敬愛すべきもの」とするお節介族こそが問題の元凶なのだ。

このお節介族は、二種類に分かれる。確信犯派と付和雷同派とである。

この社会において、国家的秩序の構築に利益を見だしている体制派にとっては、「日の丸・君が代」は国民統合の機能をもつ重要なシンボルである。天皇や元号とセットになって、国家や国民の一体感を形成し、アイデンティティー形成のための重要な小道具としての役割が期待されている。その考えからは、すべての国民に「日の丸・君が代」を尊重すべきものと刷り込んでおかなくてはならないことになる。自民党改憲草案などには、その方向が色濃く出ている。

もう一つは、付和雷同派である。この人たちにさしたる「考え」があるわけではない。しかし、「感性」のレベルでのナショナリズムを前提とした国旗国歌への愛着があり、マナーとしての「日の丸・君が代」尊重姿勢をもっている。この人たちには、「良識ある国民は『国旗国歌=日の丸・君が代』に敬意を表すべきだ」という観念が刷り込まれている。これがやっかいなのだ。

確信犯派は一握りに過ぎない。それが、付和雷同派をリードしている。その結果、この世の多数派には、「日の丸・君が代」は日本という国のシンボルとして敬意を表されてしかるべきだ、という抜きがたい先入観念がある。マインドコントロール後遺症である。これが社会的同調圧力を形成している。

この多数派の社会的同調圧力が基礎にあって、これに乗っかるかたちで国旗国歌法というものが成立した。1999年小渕内閣が野中官房長官主導で国旗国歌法案を国会提案したとき、私は共産党が組織を上げて徹底抗戦するかと思ったが、それはなかった。社共が反対し、民主党が完全に半々に割れて半分は反対したが、粛々と審議は進行し法案は成立した。「一般国民に国旗国歌が強制されることはない」と、審議の過程では首相も文相も繰り返したが、教育現場に「日の丸・君が代」が浸透してくるだろうとは誰もが予想し、予想は当たった。

かくして、社会的同調圧力は法律上の根拠を得て、行政通達や職務命令と懲戒処分を通じて教員への権力的強制の手段を獲得した。公教育を通じて、全国民への「日の丸・君が代敬愛刷り込み」の道が拓かれたことになる。国民の自由の幅が切り縮められたのだ。

その先頭に立ったのが、右翼石原慎太郎都政下の東京都教委であった。10・23通達と附属の「卒業式等の実施指針」を出した。これにもとづく起立・斉唱・ピアノ伴奏の職務命令と、その違反を根拠とする懲戒処分の濫発とで、公立校の教員に対する「国旗国歌への敬意表明の強制」が実行されて10年となった。

「日の丸・君が代」への好悪と、「日の丸・君が代」強制の是非に関する見解とは、まったく別の問題である。「日の丸・君が代」好悪の感情分布如何はさしたる大事ではない。教育の場に「日の丸・君が代」の強制は相応しくないという意見が圧倒的多数であったことが重要である。東京の教員の総意が10・23通達には反対だったと言って間違いではない。

当時東京新聞が都民にアンケート調査をしている。学校での「日の丸・君が代」強制には反対という意見は実に都民の7割に近い数字だった。しかし、石原都政とその提灯持ちとなった都教委のメンバーは、異様な情熱を傾けて、「日の丸・君が代」強制を実行し徹底した。

それでも、「自分が自分であるためには、日の丸・君が代の強制にはどうしても服することができない」という人たちがいる。また、「自分が選択した教師という職責を真摯に果たすためには、どうしても日の丸・君が代強制に屈することはできない」とする人々もいる。
 
不服従を貫いて懲戒処分を受けた教員は、これまで延べ463名に上っている。実は、不服従を貫いた人はこれよりも遙かに多い。また、このような学校の状況に絶望して職を辞した人も少なくない。この人たちは、真面目に思想や良心、あるいは信仰ということを考えた人、教育者としての使命を真摯に考え抜いた人々である。教育委員会だけを見ると日本の教育には絶望せざるを得ない。しかし、処分された教員を見ていると、日本の教育にも希望が見えてくる。

「日の丸・君が代」強制拒否の理由は実に多岐に及ぶ。本来は類型化に馴染まないのであろうが、敢えて典型的なものを挙げれば次のようなものと言えようか。

まずは、日の丸・君が代ではなく、国家のシンボルとしての国旗国歌に着目して、国家シンボルへの敬意の表明の強制があってはならない、との見解は多くの人に見られる。国旗が日の丸ではなく、国歌が君が代でなくなっても、起立も斉唱も強制されてはならないとの考えである。国家が個人を凌駕する地位をもってはならないとする、個人主義思想の表れである。

そして、「日の丸・君が代」の歴史性を問題にする人はもっと多い。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく旧天皇制日本のシンボルとして、旧体制の理念と余りに深く結びついた。天皇主権、国民の軽視、軍国主義、排外主義、侵略主義、非知性、差別と監視の社会、思想弾圧、宗教弾圧。「日の丸・君が代」は、まぎれもなく「日本国憲法へのアンチテーゼ」と余りに緊密に結びついている。

日本の現代史は、敗戦と日本国憲法の制定によって断絶し、新たな原理の社会が再生したはずなのだ。ところが、この社会は旧悪を引きずっている。天皇制の残滓や元号の使用、そして「日の丸・君が代」である。自民党改憲草案のごとき先祖返りがたくらまれたり、政権にある人物が「戦後レジームを払拭して」「日本を取り戻す」などと叫んでいる現実がある。国も社会も本当には、生まれ変わってはいないのではないか。多くの日本人が自分の意識のなかで旧天皇制社会の名残としての「日の丸・君が代」を払拭し清算し切れていないのだ。主権を天皇から奪い取ったはずの国民が、抵抗感なく「天皇の御代の栄えいつまでも」と口を揃えて唱って怪しまれない、生ぬるい空気に満たされた社会なのだ。

戦前の日本は奇妙な宗教国家であった。明治維新を推進した政治家のプランニングによって、意識的に天皇の宗教的権威が再構成され誇張された。この天皇教は全国津々浦々の小学校を布教所として臣民をマインドコントロールし、恐るべき軍国主義的宗教国家を誕生させた。「日の丸・君が代」は、その宗教国家の生成過程で作られた宗教的シンボルでもある。日の丸とは、天皇の祖先神である日の神・アマテラスの象形、君が代とは、現人神である天皇の御代の永続を寿ぐ頌歌である。信仰を持つ者の視点からは、自らの信仰と相容れない強い宗教的シンボルである。無神論者からも到底受け入れられる余地はない。

問題は、以上のごとき思想・良心・信仰上の理由が、公務員である教員に対する「日の丸・君が代」への起立斉唱命令を拒否する理由となりうるかである。

この理は3局面において考えられる。
公権力行使の矢印を頭に浮かべていただきたい。その根元が教育委員会から発して、その先端が教員に到達する矢印を。この矢印は、職務命令と懲戒処分のセットで出来ている。もっとも、職務命令は形式的には校長が発するものだが、実質的には教委が通達に基づいて校長に強制している。この「日の丸君が代の起立・斉唱・伴奏強制」を矢印でイメージしていただけたら、その矢印の先端が鋭く教員の思想・良心に突き刺さっていることがおわかりいただけるだろう。

第一の局面はその「矢印の先」、人権が具体的に侵害されている局面である。誰もが想定する局面で、誰にも分かり易い。「日の丸・君が代」強制拒否訴訟では、最初から現在に至るまで、主要な論争局面である。

教委と教員とは、上級と下級の公務員関係にある。一般論としては、上級が下級に職務命令を発し、それに従わなければ懲戒処分を発することが可能である。それなくして、効率的な公務員秩序の形成と運用はあり得ない。しかし、矢印の先にある公務員とは実は生身の人間である。公務員という属性をもった人権主体なのであって、公務員という属性に向けられた公権力の行使が、不可避的に人権を侵害する場合には、公権力の行使が違法となり得る。具体的には公務員としての属性に対する「日の丸・君が代」強制が、人権主体である当該公務員の思想・良心・信仰の自由を侵害することになる。このような場合には、人権侵害から当該公務員を防御するために当該の公権力の行使の効果は抑制されなればならない。あるいは、公務員として上級の指示に従う義務が免除されなければならない。

これがこの局面での私たちの主張の概要だが、最高裁は結論としてこれをどうしても認めない。「日の丸・君が代」強制の公権力行使は、当該教員の思想良心の自由に対する「間接的な制約にはなる」ことまでは認めた。しかし「間接的な制約にしか過ぎない」から、厳格な違憲審査基準の適用は必要がない。「公権力の行使に一応の合理性・必要性があれば強制を認めてよい」と大きくハードルを下げて、違憲・違法の主張を斥けている。もちろん、反論が積みかさねられ、論争は継続している。

第二の局面は「矢印の根元」、そもそもそのような公権力を発することができるのだろうか、という問題設定である。

第一の局面では、個別的なそれぞれの公務員の具体的な思想・良心・信仰の内容が問題となり、これと抵触する限りにおいて公権力が制約されることになるが、第二の局面では、公権力の行使それ自体が無効にならないかという問題設定なのだから、誰に対する関係でも、その公務員の思想や良心の如何にかかわらず、違法あるいは無効となる。

第二の局面における「公権力の発動そのものが違憲・違法」だという根拠は、まさしく国旗国歌という国家シンボルを、国民の上に置くところにある。本来、国民の意思によって、便宜こしらえられている立場にあるに過ぎない国家が、国民に対して「我に敬意を表明せよ」と強制することを認めるのは、立憲主義の大原則からは倒錯であり背理であるということなのだ。

また、第二の局面の重要な柱として、教育行政は教育の内容に原則として介入してはならないとする近代憲法の大原則に依拠した主張が積み重ねられてもいる。

しかし、これに対して、まだ最高裁はなんとも答がない。

そして、今、第三の局面の議論を始めている。矢印の先にある人権侵害を問題とするのではなく、また、矢印の根元で発令を認めないとするものでもない。謂わば矢印の全体を考察の対象とし、総合的な全体像を考慮することによる違憲の根拠を構成しようという発想。

たとえば、「教員の職責」論を取り入れようという提案が検討されている。教員の職責は、主観的に決まるものではない。子どもの教育を受ける権利に奉仕するための職責として客観的に内容が決まるものであろう。その職責の中には、無批判に「日の丸・君が代」への敬意表明を肯定することに疑問を呈するべきことも含まれているはずではないか。

関連して、専門職としての教員の矜持の侵害という側面の強調すべきではないかという研究者の提言もある。

またたとえば、思想統制あるいは管理体制強化という「教育委員会の真の目的」をあぶり出す議論なども憲法論に取り込むべきではないか。

最高裁は、「判例変更」には抵抗感が強い。しかし、局面を変え、視点を変え、まだ判断していないことについての新たな問題提起としてであれば、最高裁も耳を傾けやすいのではないか。あらゆる方法を考えてみたい。
(2015年1月17日)

「日の丸・君が代」訴訟はまだまだ続く

本日(1月16日)は、東京「君が代」裁判・3次訴訟(東京地裁民事11部)の判決期日。原告50名が、56件の懲戒処分(戒告25件、減給29件、停職2件)の取り消しと、慰謝料の支払いを求めた訴訟。

いつものことながら、判決言い渡しの前は緊張する。広い103号法廷が水を打ったように静かになって、裁判長の主文朗読に耳を傾ける。

「原告らの請求をいずれも棄却する」なら全面敗訴だが、そうではない。朗読は、「東京都教育委員会が別紙『懲戒処分等一覧表』の…」と始まった。少なくとも全面敗訴ではない。処分が取消される原告の氏名が次々と読み上げられる。指折り人数を数えるが、26人の名前で止まった。そして「…の各原告に対してした各懲戒処分をいずれも取り消す」という。結局、50人の原告のうちの26人について31件の減給・停職処分が判決で取消された。

しかし、ここまで。その余の戒告処分者の取り消しはなかった。減給・停職の処分を取り消された原告についても、国家賠償としての慰謝料請求は棄却された。これまでの最高裁判例の枠内での判決。ということは、憲法論については進展がないということだ。

法廷の緊張は解けた。裁判官3名はそそくさと退廷する。満員の傍聴席から、ため息やらつぶやきやらが聞こえてくる。「最高裁判決へのヒラメか」「裁判官はどこを見てるんだ」「裁判所がしっかりしないから、都教委がつけあがる」…。

とは言え、獲得したものもけっして小さくはない。前進の期待があっただけに落胆が前面に出た本日の判決だが、都教委は処分を違法として取り消されたことの重大性を知るべきである。しかも、26人についての31件の処分取り消しである。
行政が、司法から「違法に人権を侵害した」と糾弾を受けているのだ。まずは真摯に謝罪しなければならない。そして、責任をあきらかにせよ、さらにしっかりと再発防止策を策定せよ。その第一歩が、控訴の放棄でなくてはならない。

やがて判決正本と謄本が届いて、弁護団が分担して解読を始める。「素晴らしい判決だ…」「ここが使える…」などという声は出て来ない。弁護団見解まとめ役の植竹和弘弁護士は、「最高裁判決の枠組みから一歩の前進もない判決」「控訴理由書が書きやすい判決」との総括的評価。

で、原告団・弁護団連名の声明は、次のようなものとなった。やや悲観的、否定的なトーンが見て取れるだろう。

「都教委は、2003年10月23日通達及びこれに基づく職務命令により、卒業式等における国旗掲揚・国歌起立斉唱を教職員に義務付け、命令に従えない教職員に対し、1回目は戒告、2、3回目は原則減給、4回目以降は原則停職と、回を重ねるごとに累積加重する懲戒処分を繰り返し、さらに「思想・良心・信仰」が不起立・不斉唱の動機であることを表明している者に対しても反省を迫り実質的に思想転向を迫る「服務事故再発防止研修」を強要するなどの「国旗・国歌の起立斉唱の強制」システムを実施してきた。

2012年1月16日、最高裁判所第一小法廷は、これらの処分のうち、「戒告」にとどまる限りは懲戒権の逸脱・濫用とはいえないものの、「戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,本件事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とし、原則として社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用しており違法であるとした。本判決は、この最高裁判決の内容を維持したものである。本判決が、原告ら教職員の受けた減給以上の懲戒処分を違法としたことは最高裁に引き続き、「国旗・国歌強制システム」を断罪したものであって、都教委の暴走に歯止めをかける判断として評価される。

しかしながら、2006年度の規則改訂により、2007年度以降に戒告処分を受けた本訴原告らは、2006年以前に減給処分を受けた場合以上の金銭的な損害を受けているのであり、その実質的な検討をしないまま、形式的に2012年最高裁判決に従った判断を下したことは真に遺憾である。

更に、本判決は、10・23通達・職務命令・懲戒処分が、憲法19条、20条、13条、23条、26条に各違反し、教育基本法16条(不当な支配の禁止)にも該当して違憲違法であるという原告ら教職員の主張については、従前の判決を踏襲してこれを認めなかった。また、原告らの予備的主張(国家シンボルの強制自体の違憲性)には何ら言及しないまま合憲と結論づけている。さらに、原告らの精神的苦痛には一切触れることなく、都教委に国賠法上の過失はないとして、国家賠償請求も棄却した。これらの点は事案の本質を見誤るものであり、きわめて遺憾というほかはない。」

少し、噛み砕いて説明しておきたい。
10・23通達とこれにもとづく職務命令・懲戒処分によって、教職員に、国旗・国歌への起立・斉唱およびピアノ伴奏を強制することについては、これまで、「予防訴訟」、「君が代」裁判、同2次訴訟という大型集団訴訟において争われ、最高裁は一応の判断を示している。「懲戒処分の違憲性は否定しつつも、戒告を超えてより重い減給以上の処分を選択することについては,事案の性質等を踏まえた慎重な考慮が必要となる」とした。原則として「減給」及び「停職」処分は重きに失して社会通念上著しく妥当を欠き、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものとし、原則違法として取り消してきた。

本件の審理もこの点に集中し、「戒告を超える処分についてこれを正当化する特別の事情があるか」が攻撃防御の焦点となった。結果的には、すべてそのような特別の事情はないとされて、31件の減給・停職事案全部が取り消された、その成果は強調されてしかるべきである。

3次訴訟で最も注目されたのは、戒告処分を受けた原告の懲戒権逸脱濫用の違法がないかということである。実は、規則の変更によって、1次・2次訴訟の減給処分者よりも、3次訴訟の戒告処分者の方が経済的不利益が大きいという逆転が生じていたのだ。

最高裁は、1次・2次訴訟の減給処分者の経済的不利益に着目して「重きに失する」とし、それゆえ「減給は処分権の逸脱または濫用に当る」と判断したのだ。ならば、それ以上の経済的不利益を科されている3次訴訟の戒告処分者についても処分権の逸脱または濫用と判断されるべきが当然ではないか。

これについて、本日の判決は次のように言っている。
「確かに,本件規則改訂の結果,本件規則改訂後においては,戒告処分により,昇給及び勤勉手当について,本件規則改訂前に減給処分を受けた場合よりも大きな不利益を受けていることが認められる。

しかしながら,これらの昇給及び勤勉手当の不利益は,戒告処分自体による不利益ではなく昇給及び勤勉手当について定めた規則上の取扱いによるものであり,当該事情が,戒告処分の選択に係る都教委の裁量権の逸脱・濫用を基礎付けるものとはいえないことは,本件規則改訂前と同様であり,これに反する原告らの前記主張は採用することができない。」

なんという冷たい形式論であろうか。権利濫用論とは、可能な限りのあらゆることを考慮要素とした実質的な総合判断でなければならない。規範的に除外すべき考慮要素がありうるとしても、被処分者に不利益となる経済的事情を除外してよいはずはない。これでは教委のお手盛りで、いかようにも戒告処分の不利益を過酷化できることになるではないか。

また、期待されていたのが、国家賠償請求の認容である。処分取消の違法よりは国家賠償の違法のハードルは高いとされている。それでも、停職処分取消とともに慰謝料の支払いが命じられた前例がある。2件の停職処分取り消しとともに、55万円の慰謝料請求の認容があってしかるべきだった。

これを否定して、判決は次のように言っている。
「原告らは,違法な本件各処分を受けたことにより精神的苦痛を披ったとして,これに対する国家賠償法1条1項に基づく慰謝料の支払を求めている。しかしながら,本件各処分のうち,戒告処分については,前述のとおりこれを違法であると認めることはできない。また,減給処分以上の本件各処分については,…それらについての処分量定に係る評価・判断に問題のあることを確実に認識したのは本件各処分のされた後であると考えられること等からすれば,減給処分以上の本件各処分を行った時点において,都教委がこれらの本件各処分を選択したことについて,職務上尽くすべき注意義務を怠ったものと評価することは相当ではなく,この点について都教委に国家賠償法上の過失があったとは認められない。」

この判断も納得しがたい。国賠法1条1項は、「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる」と定めている。
賠償の責任が生じるためには、「違法性」と「故意又は過失」が必要とされているところ、判決は「過失がない」(もちろん故意もない)と言って切って捨てたわけだ。

過失とは、注意義務違反ということである。都教委には管轄下にある教員に対して、各教員がそれぞれの思想や良心・信仰を貫徹することができるように環境を整え、各教員に「自分の思想や良心あるいは信念や信仰を貫徹すること」と「職務命令違反としての処分の不利益を免れること」との二律背反に陥って葛藤することのないよう十分な配慮をすべき注意義務があるのに、これを怠った。と言えばよいだけのことなのだ。「最高裁判決を知ったあとでなければ過失がない」などと言うことはあり得ない。「最高裁判決で違法を知ったあとでの減給以上の処分」があれば、過失ではなく故意が成立するというべきであろう。

憲法論のレベルではまったく見るべきもののない判決となった。この点、最高裁の呪縛下の下級審裁判官は、管理者に縛られて自由や裁量を剥奪されている教員の悲哀に思いをいたして判決を書くことができなかったのだろうか。

「日の丸・君が代」訴訟は、まだまだ続く。4次訴訟も係属中であるし、5次訴訟も予定されている。都教委の違憲違法な教育支配の続く限り、闘いも訴訟も続いていくことになる。
(2015年1月16日)

「DHCスラップ訴訟」第1号判決は被告完勝 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第34弾

本日(1月15日)午後1時10分、東京地裁611号法廷で、民事第30部(本多知成裁判長)が「DHCスラップ訴訟」での第1号判決を言い渡した。この事件の被告は、横浜弁護士会所属弁護士の折本和司さん。私同様の弁護士ブロガーで、私同様に8億円を政治家に注ぎこんだ吉田嘉明を批判して、2000万円の損害賠償請求を受けた。

予想のとおり、本日の「DHC対折本」訴訟判決は、請求棄却。しかも、その内容において、あっけないくらいの「原告完敗」「被告完勝」であった。まずは、目出度い初春の贈り物。判決を一読すれば、裁判所の「よくもまあ、こんな事件を提訴したものよ」という言外のつぶやきを行間から読み取ることができよう。「表現の自由陣営」の緒戦の勝利である。スラップを仕掛けた側の大きな思惑外れ。

判決は争点を下記の4点に整理した。この整理に沿った原被告の主張の要約に4頁に近いスペースを割いている。
(1)本件各記述の摘示事実等による社会的評価の低下の有無(争点1)
(2)違法性阻却事由の有無(争点2)
(3)相当因果関係ある損害の有無(争点3)
(4)本件各記述削除又は謝罪広告掲載の要否(争点4)

そして、裁判所による「争点に対する判断」は実質2頁に過ぎない。その骨子は、「本件各記述が原告らの社会的評価を低下させるとの原告らの主張は採用できない」とし、「そうすると、原告らの請求は、その余の争点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これらを棄却する」という、簡潔極まるもの。4つのハードルを越えなきゃならないところ、最初のハードルでつまずいて勝負あったということ。第2ハードル以下を跳ぶ権利なし、とされたわけだ。原告側には、さぞかしニベもない判決と映ったことだろう。

折本弁護団は勝訴に際してのコメントを発表した。要旨は以下のとおりである。

 折本弁護士のブログは、「DHCの吉田会長が、みんなの党代表渡辺喜美氏に8億円を渡した」という、吉田氏自身が公表した事実を摘示した上で、日本における政治と金の問題という極めて公益性の高い問題について、弁護士の視点から疑問を指摘し、問題提起を行ったものにすぎない。
 その記載が名誉毀損にならないものであることは、ブログを読めば一目瞭然であるし、本日の判決も名誉毀損に当たらないことを明確に判断した。
 もしもこの記載に対する反論があるならば、正々堂々と言論をもってすれば済むことであるしそれは週刊誌という媒体を通じて自らの見解を公表した吉田氏にとっては容易いことである。にもかかわらず、吉田氏は、言論をもって反論することを何らしないまま、同氏及び同氏が会長を務める株式会社ディーエイチシーをして、折本弁護士に対していきなり合計2000万円もの慰謝料請求を求める訴訟を提起するという手段に出たものである。これは、自らの意見に批判的な見解を有するものに対して、巨額の慰謝料請求・訴訟提起という手段をもってこれを封じようとするものであると評価せざるを得ず、言論・表現の自由を著しく脅かすものである。
 かかる訴訟が安易に提起されること自体、言論・表現活動に対する萎縮効果を生むのであり、現に、同氏及び同社からブログの削除を求められ、名誉毀損には当たらないと確信しつつも、不本意ながらこれに応じた例も存在する。
 吉田氏及び株式会社ディーエイチシーは、折本弁護士に対する本件訴訟以外にも、渡辺氏に対する8億円の「貸付」について疑問・意見を表明したブログ等について、10件近くの損害賠償請求訴訟を提起している。これらも、自らの意見に沿わない言論に対して、自らの資金力を背景に、訴訟の脅しをもってこれを封じようとする本質において共通のものがあると言わなければならない。
 当弁護団は、吉田氏及び株式会社ディーエイチシーが、本日の判決を真摯に受け止めるとともに、同種訴訟についてもこれを速やかに取り下げ、言論には言論をもって応じるという、言論・表現活動の本来の姿に立ち返ることを求めるものである。

2時半から、記者クラブで折本さんと折本弁護団が記者会見を行った。
小島周一弁護団長から、「原告からは人証の申請もなく、判決言い渡しの法廷には原告代理人の出廷もなかった。訴訟の進行は迅速で、第3回口頭弁論で裁判長から結審の意向が明示され、慌てた被告側が原告本人の陳述書を出させてくれとして、第4回期日を設けて結審した。この訴訟の経過を見ても、本件の提訴の目的が本気で勝訴判決をとることにあったとは思えない。表現行為への萎縮効果を狙っての提訴自体が目的であったと考えざるをえない」
「DHCと吉田氏は本日の判決を真摯に受け止め、同種訴訟についても速やかに取り下げるよう求める。」

折本さんご自身は、「弁護士として依頼者の事件を見ているのとは違って、自分が当事者本人となって、この不愉快さ、気持の重さを痛感した」「DHC側の狙いが言論の封殺にあることが明らかなのだから、これに負けてはならないと思っている」とコメントした。

引き続いて、山本政明弁護士の司会で澤藤弁護団の記者会見。山本さんの外には、光前幸一弁護団長と神原元弁護士、そして私が出席し発言した。光前弁護士から、澤藤事件も折本事件と基本的に同様で、言論封殺を目的とするスラップ訴訟であることの説明がなされた。そして最後を「これまでの表現の自由に関する最高裁判例の主流は、判決未確定の刑事被告人の罪責を論じる言論について、その保護の限界に関するものとなっている」「本件(澤藤事件)は、純粋に政治的な言論の自由が擁護されるべき事案として判例形成を目指したい」と締めくくった。

私が事件当事者としての心情を述べ、最高2億から最低2000万円の10件のDHCスラップ訴訟の概要を説明した。神原弁護士からは、植村事件との対比でDHCの濫訴を批判する発言があった。

澤藤弁護団の記者会見は初めての経験。これまで、フリーランスの記者の取材はあっても、マスメディアに集団で報告を聞いてもらえる機会はなかった。

私がまず訴えたのは、「今日の折本事件判決が被告の完勝でよかった。もし、ほんの一部でも原告が勝っていたら、言論の自由が瀕死の事態に陥っていると言わなければならないところ。私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも注目していただきたい。

ぜひ、若手の記者諸君に、自分の問題としてお考えいただきたい。自分の記事について、個人として2000万円あるいは6000万円という損害賠償の訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、具体的に把握していただきたい。

スラップ訴訟は、今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。
(2015年1月15日)

明日「DHCスラップ訴訟」第1号判決の言い渡し ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第33弾

明日(1月15日)午後1時10分、東京地裁611号法廷で、民事第30部(合議係)が「DHCスラップ訴訟」での第1号判決を言い渡す。

DHCはサプリメントや化粧品の製造販売を主たる業とする非上場株式会社。吉田嘉明はそのオーナー会長である。昨年の3月末、自ら週刊誌(「週刊新潮」4月3日号)に手記を発表して、みんなの党・渡辺喜美への政治資金8億円拠出の事実とその経過を曝露した。多くのメディアが、渡辺喜美バッシングに走ったが、吉田自身の責任を追及する声もあがった。吉田はそのうちの少なくとも10件の記事を名誉毀損として、東京地裁に謝罪要求や損害賠償請求の訴訟を提起した。それだけでなく、件数はよくわからないが、民事訴訟提起をちらつかせて少なからぬ数のネット記事の抹消請求をして回ってもいる。

東京地裁への10件の提訴は、明らかに自己の行為への批判の言論を嫌忌してこれを封殺しようとするものである。この種の訴訟を「スラップ訴訟」という。民事訴訟の提起は国民としての権利の行使だという反論はあろう。しかし、経済的強者が、訴訟にかかる経費などは度外視して、自分を批判する記事の執筆者に巨額の金銭請求をするのだ。賠償請求額は最も低額なもので2000万円、最高額は2億円である。パリでは言論の自由が銃弾で攻撃された。ここ日本では、スラップ訴訟が銃弾に代わる役割を果たそうとしている。私は2000万円で提訴され、ブログで提訴自体の批判を続けたために、今では6000万円の請求を受けるに至っている。このような面倒な事態を避けるために、批判の筆を抑えようと考えてはならない。多くの人々が、「DHCや吉田に対する批判は避けた方が賢明だ」と考えるようになったら、それこそ彼らの思う壺なのだから。

この10件のスラップのうち、1件は取り下げで終了している。残る9件のうちの第1号判決が明日言い渡しとなる。被告は横浜弁護士会所属の弁護士である。私同様、ブログで「DHC8億円事件」について、吉田の責任に関わる意見を表明して、これを名誉毀損とされたものである。

名誉毀損とされたのは、同弁護士の2014年3月29日付のブログ。「渡辺喜美が受け取った8億円の意味」と標題がつけられているもの。かなり長文だが、要点を抜粋してみる。これで全体を判断することに危険は残るが、十分に大意を掴めるとは思う。

「みんなの党の渡辺喜美が、DHCの会長から、総額8億円を受け取っていたというニュースが流れた。このお金は、3億円と5億円に分かれていて、両方とも選挙の前に渡辺喜美の側の要請に基づいて渡されたという。しかし、渡辺喜美の収支報告書には、このDHCの会長からのお金は載っていないのだ。

徳洲会にしろ、DHCの会長にしろ、そんな多額のお金を政治家に渡すのは、何のためなのか?…ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくい…。

(渡辺)本人は、あくまで、個人的な貸し借りだとするが、これは、そういうことでないと政治資金規正法や公職選挙法との関係でアウトになってしまうわけで、金額からしても、嘘臭いというほかないだろう。だが、DHCの会長側は「選挙のための資金」との認識を示しており、金が渡されたタイミングからしても、「個人的な」「貸し借り」という説明は筋が通らないように見える。

DHCの会長が渡したとする5億円については、借用証はないという。…収支報告書にも載らない、借用証もない、そんなお金が、本当に「貸し借り」なのだろうか?この点、渡した方、受け取った方の両者が口を揃えて、「貸し借り」だと言っているのだが、安易に鵜呑みにしてはいけないところだ。なぜならば、仮に、政治活動のための寄付ということであれば、資金管理団体を通していないから、渡した側にも微妙な問題が生じることになるからだ。

うがった見方をすれば、当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば、政権与党と連立し、厚生労働省関係のポストを射止めて、薬事法関係の規制緩和をしてもらう、とまあ、その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。

断定的なことはいえないが、実際、大企業の企業献金も含めて、かなりのものが、何らかの見返りを求めてのものであり、そういった見返りを求めての献金は、実質的には「賄賂」だと思うのだ。しかし、これが、刑法上の贈収賄にならないどころか、おおっぴらに横行してしまっているのが、今の日本の実情だ。」

以上のブログの指摘は極めて常識的で真っ当なものではないか。これをしも違法ということになれば、ものが言えない社会の到来といわざるを得ない。

この弁護士ブロガーは、吉田の行為は実質的に違法との認識を示しながらも、現状では法的責任の追求がなかなかに困難な実情を語っている。

実は、ある雑誌の編集部から吉田に対して昨年4月21日付けの文書による問合せがなされている。そのなかに「吉田会長は政治資金に使われると分かりながら資金提供をされましたが、その資金提供が原因で渡辺氏は本人の意思で党代表を辞任しました。資金提供をされた側として道義的責任をどうお考えでしょうか」という質問事項がある。

問われているのは、巨額のカネで政治がうごかされることを防止しようとする政治資金規正法の趣旨僣脱に関する道義的責任である。当然のことながら、一握りの金持ちの資金によっ政治が左右されてはならない。だから政治献金額には明確な上限規制があり歯止めがかけられている。それが、いかに巨額でも貸金なら問題はないと思うのか、道義的責任を感じないのか、という問合せである。渡辺だけに責任をとらせて、自分の道義的責任についてはどう考えるのか、と問われてもいる。

これに対する吉田の回答が次のとおりである。
「政治資金に使われるとわかりながら資金提供したから道義的責任は感じないのかと、あなたはおっしゃっています。献金なら限度額が法で定められておりますが、貸金に関してはそういう類の法規制はまったくありません。」
彼のアタマには、法的責任だけがあって、道義的責任の言葉はなきがごとくである。法をかいくぐりさえすれば、道義などには関心がない、と言っているのだ。

その彼が回答書の最後を、次のように締めくくっている。
「返済されないかも知れない浄財を、ただ国家のためだけを思い、8億円も投げ出す勇気と大義をあなたはお持ちでしょうか」
おや、貸し借りのはずではなかったの? 私の論評はこれ以上は敢えて差し控えよう。諸賢はこの吉田の言をどう読むだろうか。

以上のやり取りは、10件の訴訟のうち取り下げとなった1件の訴訟で、被告側が提出した書証の一部である。

さて、私が把握している限りだが、「DHCスラップ訴訟」10件は以下のとおりである。すべて、原告は吉田嘉明とDHC。そして、代理人弁護士は、今村憲、山田昭、木村祐太の3名である。

(1)提訴日 2014年4月14日 被告 ジャーナリスト
  請求金額 6000万円
  訴えられた記事の媒体はウェブサイト
(2)提訴日 2014年4月16日 被告 経済評論家
  請求金額 2000万円
  訴えられた記事の媒体はインターネット上のツィッター
(3)提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(澤藤)
  請求金額 当初2000万円 後に6000万円に増額
  訴えられた記事の媒体はブログ。
(4)提訴日 2014年4月16日 被告 業界新聞社
  請求金額 当初2000万円 後に1億円に増額
  訴えられた記事の媒体はウェブサイトと業界紙
(5)提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士
 (2015年1月15日一審判決予定)
  請求金額 2000万円 
  訴えられた記事の媒体はブログ
(6) 提訴日 2014年4月25日  被告 出版社
  請求金額 2億円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(7) 提訴日 2014年5月8日  被告 出版社
  (2014年8月18日 訴の取下げ)
  請求金額 6000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(8) 提訴日 2014年6月16日  被告 出版社
  請求金額 2億円
  訴えられた記事の媒体は雑誌
(9) 提訴日 2014年6月16日  被告 ジャーナリスト
  請求金額 2000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
(10) 提訴日 2014年6月16日  被告 ジャーナリスト
  請求金額 4000万円
  訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)

常軌を逸した、恐るべき濫訴と評せざるを得ない。
名誉毀損とされている各記事の内容は大同小異。「見返りへの期待なしに大金を出すことは常識では考えられない」「8億円の政治資金拠出ないし貸付は、厚生労働行政の規制緩和を期待してのことであろう」「政治資金規正法を僣脱するかたちでの金銭授受には問題がある」としたうえ、「DHC・吉田の行為は、金の力で民主主義的政治過程を歪めるもの」との批判を中心としたもの。典型的な政治的言論なのである。

しかも、いずれも原告が自ら公開した週刊誌の手記の記載に基づいて、誰もが考える常識的な推論を述べているに過ぎない。一部に政治的な言論の範疇にない吉田やDHCの素行についての論及も散見されるが、目くじら立てるほどのものではない。

さて、明日の判決。訴訟進行の経過から見て、請求棄却の判決となることは間違いがない。そして、こんな訴訟を提起したDHCと吉田嘉明やこれを補佐した者たちの責任も追及されなければならない。
判決の内容は明日のブログでご報告したい。
(2015年1月14日)

70年の平和をさらに続けようー今年初めての街頭宣伝行動

ここ、本郷三丁目の交差点で、お昼休みのひとときに、今年はじめての訴えをさせていただきます。少しの間、耳をお貸しください。

私たちは、「本郷・湯島九条の会」の会員です。この近所に住んでいる者が、憲法九条を大切にしよう、憲法九条に盛り込まれている平和の理念を守り抜こうと寄り集まって作っている小さな会です。私も近所の本郷五丁目に住んでいる弁護士で、憲法と平和を何よりも大切にしようとしている者のひとりです。

今年は、「戦後70周年」をもって語られる年です。70年前と比較すれば、今年のお正月は平和に明けました。戦争のないお正月。空襲警報は鳴りません。敵機の来襲もなく、特高警察も憲兵もありません。徴兵も徴用も、宮城遙拝の強制もなく、治安維持法や軍機保護法で痛めつけられることもありません。ラジオの臨時ニュースが大本営発表をしているでもありません。

70年前の正月、私たちの国は激しい戦争をしていました。戦争のために、国民生活のすべてが統制され、一人ひとりの自由はありませんでした。空襲は日増しに激しさを増し、3月10日には都内の10万人が焼け死んだ東京大空襲の悲劇が起こります。6月には沖縄の地上戦が陰惨を極め、8月には広島・長崎に原爆が投下されて、15日の敗戦の日を迎えます。その日までに、日本国民310万人が戦争で尊い命を落としました。また、日本軍が近隣諸国に攻め込んだことによる犠牲者は2000万人にのぼるとされています。

戦争は日本の国民に、被害と加害の両面において、このうえない惨禍をもたらしました。どんなことがあっても、再び戦争を繰り返してはならない。これが、生き残った国民の心からの思いでした。どうして戦争が起こったのか、どうして戦争を防ぐことができなかったのか。そして、どうすればこのような悲惨な戦争を繰り返さないようにすることができるのだろうか。

真剣な議論の答の一つは、民主主義の欠如ということだったと思います。戦争で最も悲惨な立場に立つことになる庶民の声が反映されない政治の仕組みこそが問題ではないのか。国民が大切な情報から切り離されて、政治に参加できないうちに一握りの財閥や軍人や政治家たちの思惑に操られて戦争に協力させられてしまった。国民一人ひとりが、自分の運命に責任を持つことができるように、国民自身の手に政治を取り戻さねばならない。それができれば、国民を不幸にする戦争を、国民自身が始めることはないだろう。民主主義の発展こそが、平和の保障だという考えです。

もう一つの答が、憲法9条に盛り込まれた平和主義であったと思います。人類は、身を守るために長く暴力に頼ってきました。でも、次第に暴力を野蛮なものとし、暴力ではなく他と相互に信頼関係を築くことで安全を守ることに切り替えてきたのではありませんか。これが文明の進歩というものではないでしょうか。国家という集団でも同じことです。国の平和を守るためには軍事力が必要だというのが長らくの常識でした。しかし、武力の行使や戦争を違法なものとする考え方が次第に成熟し、国連憲章を経て、日本国憲法にこのことが銘記されることになったのです。

日本国憲法9条第1項は、「戦争を永久に放棄する」としています。そして、同第2項は、「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と、軍隊をもたないことを宣言したのです。戦争はしないと宣言し、軍隊をもたないという謂わば捨て身の覚悟で、日本は平和を獲得しようとしたのです。

放棄されたものは、明らかに侵略戦争だけでなく自衛戦争までを含むものでした。当時政権を担っていた吉田茂や幣原喜重郎などの保守政治家が、「古来すべての戦争が自衛の名のもとに行われてきた。日本国憲法の平和主義は自衛の名による戦争を許さないものである」「文明と戦争とは両立し得ない。文明が戦争を駆逐しなければ、戦争によって文明が駆逐されしまうだろう」と述べています。

ところが、これが冷戦の中で、変化してきます。厳密な自衛のための武力行使や戦争は憲法が禁じているところではない、とする説明が出てきたのです。これが集団的自衛権行使は認められないとした上で、個別的自衛権なら認められるという理屈です。専守防衛に徹する限りにおいて自衛隊は合憲なのだというのです。

この考え方で60年が過ぎました。ところが、安倍政権は昨年これをも覆して、集団的自衛権行使容認の閣議決定をしてしまいました。これは恐るべき事態。憲法の条文を変えないで、解釈を変えることで憲法の根幹を骨抜きにしてしまおうというのです。

もっとも、閣議決定だけでは自衛隊をうごかすことができません。今年の国会では、安倍内閣は、集団的自衛権を現実に行使できるようにするためのたくさんの法律案を提案し、その多くが対決法案となることでしょう。

戦争を始めるためには、それだけでは足りません。教育とマスコミの掌握は不可欠なものです。煽られた戦争の相手国の一人ひとりと仲良くしていたのでは戦争はできません。我が日本民族が優れて他は劣っているとし、近隣諸国への排外主義を煽るには、教育とメデイアの役割が欠かせないのです。

そのような目で安倍内閣を見直すと、憲法改正、集団的自衛権行使容認、特定秘密保護法の制定、村山談話や河野談話の見直し、武器輸出三原則の撤廃、侵略戦争の否定、靖国神社参拝、教育再生、NHKのお友だち人事、国家安全保障会議の設置、、日米ガイドライン改訂…等々の動きは、明らかに70年前の敗戦時に日本の国民が共通の認識としたところとは大きくへだったものになってきています。

そのほか、安倍政権がやろうとしていることは、原発再稼働であり、原発輸出であり、派遣労働を恒久化する労働法制の大改悪であり、福祉の切り捨てであり、大企業減税と庶民大増税ではありませんか。そして、このような状況で民族差別を公然と口にするヘイトスピーチデモが横行しています。従軍慰安婦報道に比較的熱心だった朝日新聞に対する嵐の如きバッシングが行われています。

庶民の生活にとっても、民主主義の良識に照らしても良いことは何にもなく、危険な事態が進行しています。このようなことを見せつけられた近隣諸国の人々は、日本は本当に先の戦争の反省をしているのだろうか。平和を大切にしようとする意思があるのだろうか。そう疑念を持たざるを得ないのではないでしょうか。安倍政権は、緊張関係を煽っているのではないでしょうか。

皆さん、戦後70年の平和をこれからも続けようではありませんか。安倍政権による危うい政治を正して、戦争ではなく平和をと声を上げていこうではありませんか。
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寒さの中で、声を枯らしたが、「くどい」「長すぎる」「工夫が足りない」「もっと短いフレーズで」と悪評サクサクだった。が、めげてはならない。がんぱらなくちゃ。
(2015年1月13日)

植村提訴記者会見報告ー敵役をかって出た産経に小林節の一喝

1月9日、植村隆元朝日新聞記者が、株式会社文藝春秋と西岡力の2者を被告として、損害賠償等請求の民事訴訟を東京地裁に提起した。係属部は民事第33部。事件番号は平成27年(ワ)第390号となった。

請求の内容は、次の3点。
 (1)ウェブサイト記事の削除
 (2)謝罪広告
 (3)損害賠償
請求する賠償の金額は合計1650万円。請求原因における不法行為の対象は、以下の各記事。

被告文春について
 (1)「週刊文春」2014年2月6日号記事
  「『慰安婦捏造朝日新聞記者』がお嬢様女子大教授に」
 (2) 同8月21日号記事。
  「慰安婦火付け役朝日新聞記者はお嬢様女子大クビで北の大地へ」

被告西岡について
 (1)単行本「増補版 よくわかる慰安婦問題」
 (2)歴史事実委員会ウェブサイトへの投稿
 (3)「正論」2014年10月号掲載論文
 (4)「中央公論」2014年10月号掲載論文
 (5)「週刊文春」2014年2月6日号記事中のコメント

植村隆元記者は、朝日に次の2本の記事を書いた。
 (1)1991年8月11日
  「もと朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」
 (2)1991年12月25日
  「かえらぬ青春 恨の人生」
被告らが23年前の原告執筆記事を「誤報ではなく捏造」と決め付け、原告を「捏造記者」とすることは名誉毀損に当たり、また不必要な転職先を記事にしたことは違法なプライバシーの侵害に当たる。これが訴状請求原因の骨格である。

この提訴は、植村バッシングの問題点をほぼ網羅している。他の「週刊文春的な報道」や「西岡的な記事」に対しては、この訴状請求原因の一部の応用で対応可能である。弁護団事務局長は、記者会見で次のとおり発言している。
「植村さんを捏造といっている主体はたくさんある。われわれは全国から弁護士を募り、170人の弁護士が代理人に名を連ねた。その他の被告となりうる人々についても、弁護団の弁護士が力をつくし、順次訴えていき、植村さんに対する誹謗中傷を完全に打ち消すところまで闘いたい」
その言の実行にさしたる労力は要しない。

当日(1月9日)の提訴後に、原告と弁護団が司法記者クラブで提訴報告の記者会見を行った。この会見に憲法学者小林節が同席している。これが興味深い。

小林節は人も知る改憲派の法学者である。「憲法守って国滅ぶ」(1992年)という著書があるくらいだ。だが、安倍内閣のような危うい政権に憲法をもてあそぶ資格はないとして、強固に「とりあえず改憲反対」を唱えている。けっして「そもそも改憲反対」の立場ではない。その小林は弁護士資格を持っており、反文春、反西岡の立場を明確にして植村弁護団に加わったのだ。

記者会見では、冒頭植村がまとまった発言をし、次いで3人の弁護団員が敷衍しての説明をした。その中に小林の発言もあり、「これは法廷闘争だ」「慰安婦問題の論争をしようということではない」「植村と家族にとっての人権問題であり、大学の自治の問題でもある」「誹謗中傷で、名誉毀損であることを法廷の場できちっと決めて責任をとらせる」「そのことで派生したさまざまな攻撃も消えていくことを期待する」

従軍慰安婦の歴史的な論争は、そのあとの冷静な環境のなかできちっと議論されるべきだ、というのが小林の発言の趣旨だった。

そのあとに質疑応答があり、まず質問に手を上げたのは産経の阿比留記者。あきらかに、産経が書こうとしている予定記事の筋書きに使えそうな言質を取ろうとしての質問。植村の回答に再度の質問をし、さらに3度目の質問に及んだが、司会から遮られ、ジャパンタイムズ記者が替わった。その後阿比留記者は、また質問しようとしたが、司会はフリーの江川を指名した。さらに、阿比留が5度目の質問をして植村が回答している。続いて、TBSの質問があり、新聞労連委員長の発言があって、予定の時間が尽きた。

最後に小林が、「ひとこと」と発言の許可を求めた。そして、産経の阿比留記者に向かって次のように言葉をぶつけた。

「今の論争を聞いて、とても不愉快だ。入り口で相手が敵か味方か決めて、敵と決まると、10の論点があっても、都合の悪い8の論点は聞こえなく見えなくなる。自分にとって都合のいい2つの論点だけをガンガンガンガン、お前どう思ってんだどう思ってんだと。そういう議論の仕方が問題だ。
お互い、不完全な人間が日々走りながら記事書いたり報道したりしてるんじゃないですか。完璧な発言をいつもしてきたと自信あるやつなんていません。お互いそうやって、向こう傷しょいながら、大きな議論をして方向性を出していくんじゃないですか。
聞いていて情けない。10ある論点のうち、たった2つだけ。それも決めつけて、自分達の結論に都合のいいようにだけ、何度も何度も確認しようとする。そういう議論をやめてほしいから、この訴訟に私は参加しているんです」

訴訟は、文春と西岡を被告とするものだが、はからずも産経が被告らと責任を分担していることを露わにした一幕。それにしても小林節(ぶし)の一喝は冴えている。

ところで、産経はiRONNAというインターネット・サイトをもっている。ここに「池上彰が語る朝日と日本のメディア論」という記事が掲載された。池上彰が産経新聞のインタビューに答える形の記事。1月6日のこと。
そのなかに、植村バッシングに触れて、「産経さんだって人のこと言えないでしょ?」という池上の発言が掲載されている。

「この問題に関して言えば、元朝日記者の植村隆さんがひどい個人攻撃を受けてしまった。そこら辺の経緯は私も良く分からないからコメントできないですけど、ただ植村さんが最初は神戸かなんかの大学の先生に決まっていたでしょ。あの時、週刊文春がそれを暴露した。あれはやりすぎだと私は思いましたね。こんなやつをとってもいいのか、この大学への抗議をみんなでやろうと、あたかも煽ったかのように思えますよ。
 これについては週刊文春の責任が大きいと思います。植村さんが誤報したのだとしたら、それを追及されるのは当たり前ですが、だからといってその人の第二の就職先はここだと暴露する必要があるのか。それが結局、個人攻撃になっていったり、娘さんの写真がさらされたりみたいなことになっていっちゃうわけでしょ。ものすごくエスカレートする。逆に言えば、産経さんはこの件に一切関与していないにもかかわらず、なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられてませんか? 産経さんの誰かが書いていましたよね。うちはちゃんと分けているのに、全部ひっくるめて批判するのはおかしいって。そんな風になってしまったのは、これまた不幸なことだと思いますね」

1月9日記者会見は、そのインタビューから3日後のことである。この会見での産経記者の振る舞いによって、「なんとなく植村さんへの個人攻撃から娘さんの写真をさらすことまで、全部ひっくるめて朝日をバッシングしているのが、産経さんであるかのようにみられる…不幸」を重ねてしまったようだ。
(2015年1月12日)

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