澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

級友との沖縄の旅・4日目ー沖縄と天皇

本日(5月11日)は、沖縄の旅最終日の4日目。糸満から那覇に戻って夕刻には羽田着の予定。4日目の予定記事となる。

今日の沖縄の状況は、戦争の惨禍とアメリカの極東軍事戦略がもたらしたものだが、その結節点に天皇(裕仁)の存在がある。そして、本土がそのような沖縄を放置し、その犠牲の上に安逸をむさぼる構造がある。ちょうど、過疎地に原発のリスクを押しつけ、その便益は中央が受益している如くに、である。

信じがたいことだが、日本国憲法の適用範囲から沖縄を切り離して米軍の統治に委ねようというアイデアは、憲法施行によって一切の権能を剥奪されたはずの天皇(裕仁)の発案だった。彼の超憲法的行動としての「沖縄メッセージ」が、沖縄をアメリカに差し出したのだ。

GHQの政治顧問シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた1947年9月22日付公文が残されている。

沖縄県公文書館のインターネットによる資料紹介では、以下のとおりである。

“天皇メッセージ”

(シーボルト書翰の)内容は概ね以下の通りです。
 (1)(天皇は)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。
 (2)上記(1)の占領は、日本の主権を残したままで長期租借によるべき。
 (3)上記(1)の手続は、米国と日本の二国間条約によるべき。
メモ(シーボルト書翰)によると、天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し、共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。1979年にこの文書が発見されると、象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては、日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や、長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり、その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。

沖縄県には遠慮があるようだが、「沖縄メッセージ」の核心は、「共産主義の脅威とそれに連動する国内勢力が事変を起こす危険に備え、アメリカが沖縄・琉球列島の軍事占領を続けることを希望する。それも、25年や50年、あるいはもっと長期にわたって祖借するという形がよいのではないか」というものである。

昭和天皇(裕仁)には、憲法施行の前後を通じて自分の地位に決定的な変更があったという自覚が足りなかったようだ。1948年3月には、芦田首相に「共産党に対しては何とか手を打つことが必要と思うが」と述べてもいる。

「沖縄メッセージ」の負い目からであろう。昭和天皇(裕仁)は、戦後各地を訪問したが沖縄だけには足を運ばなかった。運べなかったというべきだろう。

「沖縄についての天皇の短歌」「天皇に対する沖縄の短歌」について、内野光子さんから、いくつかを教えてもらった。

 「思はざる病となりぬ沖縄をたずねて果たさんつとめありしを」

これは、死期に近い1987年の天皇(裕仁)の歌。気にはしていたのだ。やましいとは思っていたのだろう。しかし、彼がいう「沖縄をたずねて果たさんつとめ」とは何なのだろうか。謝罪を考えていたとすれば、立派なものだが原爆投下による惨禍についても「やむを得ないことと」と言ってのけた彼のこと。沖縄の民衆に手を振ることしか脳裏になかったのではなかろうか。

父に代わって、現天皇(明仁)は妻を伴って、皇太子時代に5回、天皇となってから6回、計11回の沖縄訪問をして、その都度歌を詠み、琉歌までものしている。多くは沖縄戦の鎮魂の歌であり、それ以外は沖縄の自然や固有の風物・文化にかかわるもの。主題は限定され、現在も続く実質的な異民族支配や基地にあえぐ現実の沖縄が詠まれることはない。

一方、天皇に対する在沖の歌人たちは、次のような厳しい歌を詠んでいる。

 日本人(きみ)たちの祈りは要らない君たちは沖縄(ここ)へは来るな日本(そこ)で祈りなさい(中里幸伸)

 戦争の責めただされず裕仁の長き昭和もついに終わりぬ(神里義弘)

 おのが視野のアジア昏れゆき南海に没せし父よ撃て天皇を(新城貞夫)

根底に、沖縄の人びとのこの激しい憤りと悲しみがあってのこと。かつては天皇の国に支配され、天皇への忠誠故に鉄の嵐の悲惨に遭遇し、そして天皇によって米国に売り渡され、事実上異民族支配が今も続く沖縄。

傍観者としてではなく、沖縄の人びとのこの怒りを真摯に受け止めねばならないと思う。
(2018年5月11日)

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