澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

石破茂の天皇教信仰告白

自民党総裁選とは、政権与党のトップ人事というだけでなく、事実上の次期首相予備選挙である。コップの中の争いとして無関心でいることはできない。そこで何が争われているのか、とりわけ憲法問題がどのように論じられているのかに、耳を傾けざるを得ない。

三選を目指すアベに対抗して、石破茂が立候補を表明し、両候補の一騎打ちとなるだろうとの報道である。願わくは、両候補に、自民党支持者だけにではなく、国民にとって傾聴に対する論戦を期待したいところだが、無いものねだりだろうか。

論戦の内容は、【政治姿勢】(ないしは政治手法)と【政策】の両面において行われることになる。この事態である。国民から「嘘つき」「人柄が信頼できない」「国政私物化」「行政を歪めた」「隠蔽・改ざん体質」「忖度政治横行」…デンデンと、ミゾユウの政治不信を肥大化させてきたアベ政治の政治姿勢が問われざるを得ない。

だから、石破第一声のキャッチフレーズが、「正直、公正、石破茂」である。「国民と正面から向き合い、公正で正直、そして丁寧な、信頼される政治が必要なのだと信じます」ともいう。もちろん、「嘘つき、隠蔽、アベ政治」を意識しての批判である。「アベ政治は、国民と正面から向き合おうとはせず、オトモダチ優遇の国政私物化に堕しており、不公正で欺瞞と隠蔽に満ち、ごまかしと取り繕いによって、いまや国民からの信頼を失っている」との含意にほかならない。まことにそのとおりではないか。

政策での対決よりは、アベ一強の驕慢、国政私物化の政治姿勢批判が前面に出ている。自民党という不可思議な柔軟体は、これまで国民の信頼を失いそうになると、その批判勢力がトップの座を襲って国民からの信頼を繋いできた。

自民党が再生して永らえるためには、おそらくは石破の当選が望ましいのだろう。それが自民党の自浄能力を示すことになろうが、大方の予想はそれは非現実的だという。つまりは、自民党に自浄能力などないことを証明する総裁選となるということなのだ。

ところで、石破茂とは何者か。憲法にしても、国防問題にしても、タカ派のイメージが強すぎるが、さらに遡って彼の政治家としての感性の基盤はどこにあるのだろうか。「石破茂オフィシャルサイト」にアクセスして驚いた。天皇陛下の ご生前ご譲位についてと題する石破の天皇観・皇室観がよく表れている文章。戦前の保守政治家と変わるところはない。この点は、アベと石破、右の位置を競い合って、兄たりがたく弟たりがたし。丙・丁つけがたい。かなり長い文章だが、彼の感性を表す冒頭だけを抜粋引用しておきたい。

平成29年1月31日 衆議院議員 石破 茂

亡父・石破二朗は生前、先帝陛下のこどを「石破二朗個人として誇り得るこれだけの方はいない」と語っていた。昭和11年10月17日、北海道において実施された大演習に山形県地方警視として消防団を引率して参加した際、霙降る中、長時間微動だにされず演習をご覧になっておられた先帝陛下のお姿に深い感銘を受けてからのことという。
 私自身亡父から「天皇陛下を敬え」と言われたことは一度もなかったが、幼少の頃から「旗日(国民の祝日)に朝一番に玄関に国旗を掲げるのは子供の仕事」と躾けられ、自然に天皇陛下ならびに皇室に崇敬の念を抱くようになっていたように思う。
 昭和61年7月に衆議院に議席を頂いてからその気持ちはさらに強くなった。昭和天皇崩御を告げる竹下総理の勤話を、地元での新年会出席のため夜行列車を降り立った倉吉駅のホームに流れる構内放送で聞き、東京へ取って返す列車の中で号外を読みながら涙が止まらなかった。

 平成21年6月、全国植樹祭にご臨席のため福井県を訪問された陛下は、前夜のレセプションにもお出ましになった。植樹に功労のあった福井県の林業関係者やボーイスカウトなど諸団体の人々が陛下にご挨拶すべく、御前に長い列を作ったのだが、陛下はそのー人一人に、丁寧にお言葉をおかけになっておられた。農林水産大臣として陪席していた私は侍従を通じて、どうかお椅子をお使いくださるよう申し上げたのだが、陛下は微笑されたまま、最後の一人まで、予定の刻限を超えてもお心を込めてご対応になられた。私は自分の浅はかさを心から恥じたことであった。

 「日本国の象徴」であるだけなら富士山や桜の花のように存在そのものに意義もあろう。しかし今上陛下は「日本国民統合の象徴」たりうるために、積極的・能動的に、地域、年齢、思想信条などあらゆる相違を問われることなく、すべての日本国民に等しく対応され、そしてすべての国に等しく対応されるという、普通の者には決して為しえない、想像を絶する責務を自らに課され、おことば(正式名は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)の中でそれを「幸せなことでした」とまで仰せになられた。ひたすら恐懼し、自らの思いが足りなかったことをただ悔いる他はない。

 この(生前退位)問題は、先人たちが生命に代えても護ろうどしてきた日本国の国体そのものに関わることであるいつの間にか国民は、天皇陛下のご存在を当たり前のものとして考えるようになってしまったのではあるまいか。平和がそうであるように、大切なもの、貴重なものは不断の努力なくして維持できるものではない。その大切さを忘れ、護る努力を怠った時、消えてなくなってしまうものであることと、残された時間は長くはないことに我々は深い怖れと強い危機感を持たねばならない。

これには驚ろかざるを得ない。人類が普遍的なものと確認したグローバルな到達点とあまりにもかけ離れた認識。「日本国の国体そのもの」が平和と同格の大切なもの貴重なものというのだ。およそ、理性や知性ある人間の言葉ではない。主権者としての自覚をもつ国民の声でもない。天皇制が、いかなる意図で作られ、いかなる役割を果たし、いまその残滓がどのような政治的機能を有しているかについての歴史的な考察を抜きにした、ひたすらの天皇礼賛。偏頗とか平衡感覚を欠いたなどというレベルではない。憲法のコアの理念に理解なく、大日本帝国憲法時代と変わらない天皇教の信仰にどっぷり浸かった精神構造を吐露している。オウム信徒並みの、教祖への信仰告白と評するほかはない。

欺瞞に満ちたアベ政治の対抗馬が、天皇教の信者なのだ。推して知るべし、自民党に未来はなかろう。
(2018年8月12日)

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