澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

東京南部法律事務所創立50周年記念レセプション

昨夕(10月11日)、東京南部法律事務所創立50周年の記念レセプションが開かれた。大田区産業プラザのコンベンションホールを一杯にした大勢の人々の温かい祝意に包まれたよい会合だった。

私は、同事務所の創立メンバーではないが、弁護士としての職業生活をこの事務所でスタートして6年余を過ごした。先輩弁護士の誰からも手取り足取りの指導を受けた覚えはないが、当時の「南部事務所」風の活動スタイルを身につけたと思う。

不正や横暴には、依頼者と一緒に心底から怒る。そして、誰が相手でも、どんな困難な事態でも、けっして怯まない。あきらめない。それが、私の理解した東京南部の「作風」だった。昨日のレセプションで、その6年を思い出した。

東京南部法律事務所の創立は1968年4月のこと。大田と品川を自らの守備範囲と宣言した「地域事務所」だった。原始メンバーは、小池通雄・市来八郎・向武男・松井繁明の4弁護士と事務局員2人。小池・市来・向の3名は既に鬼籍に入っているが、現在の弁護士数は18名の大所帯とのこと。

私がこの法律事務所に参加したのは、1971年の4月。既に原始メンバーの外に、亀井時子・大川隆司・坂井興一・船尾徹が活躍していた。所員はいずれも若く、草創の活気に満ちていた。なによりも、地域の諸団体や労働組合との結び付きがこの上なく緊密なものとなっていた。私は、修習生のころ幾つかの法律事務所を見学して、この事務所を選択した。ここならやりがいがある、そう思ったのだ。

東京南部法律事務所は自身の歴史をこう説明している。

 当事務所が設立された当時の蒲田周辺の地域は、大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街でした。周りには弁護士事務所など全くなく、霞が関や新橋といった裁判所近くの法律事務所に相談に行く時間もないような大田地域で働く人々の権利と生活、営業を守るお手伝いをするため、そしてこの国の平和や民主主義擁護に少しでも役立てるようにと、設立されました。

 その後、糀谷地域の工場群が移転や倒産によって減少する一方で、羽田空港や都心へのアクセスが良い立地から、巨大な流通拠点が出現するに至りました。さらに近年では、研究所や電子・情報管理といった先端産業が多く立地しています。大田区としても人口が増えており、林立するマンションや高層団地、チェーン店や飲食産業関係が増えています。当事務所が設立されてから40数年。大田区の産業、町並みは様変わりしていることがわかります。

 私たちの取り扱い分野も年ごとに拡大しつつあり、羽田に近い立地による航空労働者の労働事件を始めとした数多くの労働者側労働事件や、患者側医療過誤事件など専門的に取り組む分野もありますが、民事・刑事・家事事件を幅広く取り扱っています。しかし、働く人々の権利と生活、営業を守るという私たちの基本的なスタンスに変わりはありません。

 私が、入所したころ、蒲田の周辺はまさしく「大小の町工場が肩を寄せあいひしめき合っている街」だった。工場に、空港に、タクシー会社に、流通部門に、多くの労働組合が生まれ、労働運動の活動力を誇る地域だった。

私が弁護士を志したのは、消極・積極二つの理由がある。
消極的理由は明確だった。自分に、官僚や企業人としての勤めができるとは思えなかった。さりとて、学問や文芸の分野で独り立ちできる才能はない。そのように自覚した者に、自由業としての弁護士は魅力的な生き方に思えた。
積極的理由の方は漠然としていた。漠然としたものではあったが、資本や権力と闘う生き方を思い描いていた。弁護士なら、資本や権力と闘う働きができるだろうと思えた。資本と対峙する場としては労働事件を、権力と対決する場としては政治弾圧事件が頭にあった。労働者とともに闘い、政治弾圧被害者とともに闘う弁護士というイメージ。当時の東京南部法律事務所はまさしくそのような場であった。

あれから半世紀。昨日のレセプションでお目にかかれた懐かしい人は少なかった。あの頃現場で一緒に闘った労組の幹部の皆さんは、今80代から90代。時代は変わっているのだ。往時茫々である。
(2018年10月12日)

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Published in 金曜日, 10月 12th, 2018, at 21:18, and filed under 弁護士.

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