皇太子は、今もなお、「いとけなき 吾子の笑まひに」いやされているだろうか。
最近、散歩コース新開拓の意欲はない。昨日も今日も、不忍池をゆっくりとまわった。はや春の萌し。風はなく、雲一つない青空。幼い子どもたちが、はしゃぎながら駆け回っている。外国人観光客のいくつもの言語が耳に心地よい。
梅が咲き始めた。福寿草も咲いている。マンサクも満開。雪割草が美しい。水鳥も草木ものんびりとしている。平和な風景。
走っている人がいる。達者にバラライカを爪弾く人がいる。句作に没頭している人がいる。そして、野鳥の会が水鳥の説明をしている。
あれがアオサギです。ちょっと見えにくいですが、鶴くらいの大きさ。ここでは、ダイサギ・チュウサギ・コサギも見ることができますよ。
アオサギ。きれいですね。最近は、増えているんですか。減っているんですか。
実は、郊外の鷺山が開発でつぶされたのですが、結構都心で増えているようなんです。昔は、鳥は食糧としてねらわれましたが、今の時代、野鳥を食べようという人もいませんからね。平和が何より。
ホントにそのとおりですね。安倍改憲に反対して、平和憲法を守らなくては。
そうです。そうです。
噴水広場には、なにかのイベントで人が集まっている。鬼に扮した人が、風船芸をやっていた。器用に、金棒や鬼の面やらを風船でつくっている。そういえば、今日は節分。子どもたちか、「鬼は外」とやっていた。
本日は盛大に、「アベは外」とまいりたい。「安倍辞めろ」「アベ退陣」「アベ出てけ」。安倍がいなくなれば、当面「福は内」「国は平和」なのだ。
ところで、五條神社境内の掲示板に、月替わりで、「生命の言葉」が掲げられている。「神社は心のふるさと 未来に受け継ごう 「美(うるわ)しい国ぶり」」とある。神社が「美しい国ぶり」などという言葉をいつころから使い出したのだろうか。
この毎月の「生命の言葉」は、東京都神社庁が作成して配布し、傘下の各神社が掲示しているもの。 今月の「言葉」は、皇太子(徳仁)の歌。
皇太子 徳仁親王殿下
いとけなき 吾子の笑まひに
いやされつ 子らの安けき
世をねがふなり
13年前、2006年の歌会始に、「笑み」の題で詠んだ歌とのこと。
文意明瞭となるよう、二行に書き分ければ、
いとけなき 吾子の笑まひに いやされつ
子らの安けき 世をねがふなり
1行目の「吾子」は自分の実の子で、二行目の「子ら」は子ども一般を指すのだろう。「自分の子どもの愛らしい微笑みに親として心癒されながら、自分の子だけでなく日本中の子らが、あるいは世界中の子らが、安心して暮らせる平和な世の中であって欲しい」という至極分かり易く、真っ当な内容。「世をねがふなり」は、少しエラそうな感じもするが、全体として好ましい印象を受ける。「吾子」が幼児であったこの頃には、この家族にとっての心落ちつく環境があったのだろう。
その皇太子(徳仁)は、もうすぐ天皇に就位する。そのことを意識して、東京都神社庁は今月の「言葉」に、この人の歌を取りあげたのだろう。さて、改めて思うのだ。この人、天皇となること、あるいは天皇にならざるを得ないことを、本心ではどのように思っているのだろうか。
私の尊敬する友人が、ごく最近、ある団体の通信にこんな文章を寄稿している。
私たちの憲法が、天皇を「国の象徴」「国民統合の象徴」で、「皇位は世襲」などと定めているために、私たち国民は、天皇をはじめ皇室の人たちの人権を、無茶苦茶に無視して、この70年を過ごしてきた…。…およそ、人間を「象徴」にしてしまうような憲法は、「象徴」にさせられた人間の基本的人権を蹂躙せずにはすまない。
皇太子は、13年前には「吾子の笑まひに いやされつ」と詠んだ。しかし、今そのような余裕ある心境ではなさそうだ。敬語を使いながらも意地の悪い、そして遠慮のない報道によれば、妻も、子も、そして自分自身も、押し潰されんばかりの重圧の下にあるという。しかし、今のところ、その境遇から逃れる術はない。非人間的な制度のために。
(2019年2月3日)