澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

私が出会った弁護士(その6) ― 岡林辰雄

岡林辰雄こそは、伝説の弁護士である。
なによりも彼は社会進歩を目指す闘士であった。戦前は思想犯として3度逮捕されている。弁護士資格剥奪の難にも遭っている。また、彼は闘士であるだけでなく理論家でもあった。あの弾圧厳しい時代に資本論の対訳註解書を上梓しているし、クルプスカヤの「レーニンの思ひ出」という訳書もある。

戦後は、松川・三鷹・菅生をはじめとする謀略冤罪事件の多くに関与し、最前線で「裁判闘争」を闘った。「大衆的裁判闘争」や「主戦場は法廷の外に」などの主唱者であり、実践者としても知られている。当然に、優れたオルガナイザーでもあった。そして、いくつもの成果を挙げている。岡林こそ、これ以上はない「伝説の弁護士」。

なによりも松川事件弁護団のリーダーとしての活動で知られ、14年にわたる大裁判・大運動の立役者となった。映画「松川事件」(監督・山本薩夫、脚本・新藤兼人)の法廷場面で常に弁護団の先頭にいる岡林役を宇野重吉が演じている。

私が弁護士になった頃、既に岡林は伝説の人であり、雲の上の人であった。その伝説の人に、ばったりと出会ったことがある。私が岩手弁護士会の会員だった1980年ころのある日、盛岡地裁庁舎内にあった岩手弁護士会の控え室でのこと。私は、少なからず驚き興奮した。何しろ、雲の上の伝説の弁護士に、偶然出くわしたのだから。「あれっ? 岡林先生ではありませんか。いったい何用あってここへ?」

彼は一人ではなく、竹澤哲夫弁護士との同道だった。親しかった竹澤さんから説明を受けた。「小繋事件をご存知でしょう。あの民事事件は幾つかあり、今でも終わっていない事件があるんですよ。いまだに、私と岡林先生とで事件を続けている」

15分くらいだったろうか。私は、学生時代に松川事件支援の活動を通じて弁護士を志し、自由法曹団員となっているという話をし、彼は、私の質問に応じて、戦前勾留されていた当時のことを話してくれた。「ともかく身体と思考力をなまらせてはいけないと思って運動を怠らなかった。四股を踏むのが一番よかった。負けるものかという気概が湧いてくる」と聞いた憶えがある。

かつて、まだ弁護士を志す前の学生時代に大きな集会で演説する彼を見上げたことがある。盛岡で言葉を交わした伝説の弁護士は、往時の精悍さを欠いているように見えた。その後間もなく、病牀に伏せったと知らされ、長い闘病生活を経て1990年3月の訃報を聞くこととなった。伝説の弁護士と言葉を交わしたのは、この一度だけである。

先日、地元「国民救援会・文京支部」が映画「松川事件」の上演会を催した。改めて、70年前の松川事件の経過とこれに取り組んだ伝説の弁護士を思い起こした。あのような弁護士になりたいと思った時期があったことも。

今、私の手許に日弁連人権擁護委員会から「再審通信」118号が届いている。15もの再審請求事件の現状が各弁護団から報告されているが、そのパンフの表紙に、「題字:故竹澤哲夫会員(東京)」と記されている。あのときご一緒だった竹澤哲夫さんも、2012年に鬼籍に入られたのだ。

なお、岡林は「われも黄金の釘一つ打つ 一弁護士の生涯」(大月書店)という自伝を残している。このタイトルは、与謝野晶子の歌「劫初より作りいとなむ殿堂に われも黄金の釘一つ打つ」から採られている。

歌人である晶子がイメージした殿堂と、共産党幹部でもあった岡林が作りあげようとした殿堂とは大きく異なるものであったろう。しかし、人類の壮大な営みに、「我も黄金の釘一つを打ち得た」という両人の矜持には脱帽せざるを得ない。岡林辰雄は、自伝の表題の選定でも、伝説の弁護士となった。
(2019年10月27日・連続更新2400日)

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