澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「無意識の植民地主義」と、「無邪気で無自覚な植民者」と。

学生時代の級友・小村滋君(元朝日記者)が精力的に発刊しているネット個人紙「アジぶら通信」。もっぱら沖縄問題をテーマに、その筆致が暖かい。個人的に多忙とのことでしばらく途絶えていたが、「アジぶら通信?」として復刊し、その2号(1月24日発信)が届いた。

A4・4ページ建。「沖縄の基地『無意識の植民地主義』(平野次郎・記)」が、紙面のほとんどを埋めている。『無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人』という書物の紹介と、その著者野村浩也講演の報告である。

私は知らなかったが、沖縄の基地を日本本土へ引き取ろうという市民運動の契機となったのが、2005年に御茶の水書房から発刊された『無意識の植民地主義―日本人の米軍基地と沖縄人』(野村浩也著)だという。久しく絶版となっていたが、2019年8月に松籟社から増補改訂版が復刊され、12月15日に神戸市内で復刊を記念して著者の講演会が開催された。詳しく、その講演内容が紹介されている。

『無意識の植民地主義』というタイトルは刺激的だが頷ける。沖縄を除く本土の日本人を、二重の意味で否定的に論難している。ひとつは「沖縄に基地を押し付けて自らはその負担から逃れている植民地主義者」と規定しての批判であり、さらに「沖縄にのみ基地負担を押し付けているという意識すらない」という無自覚への批判でもある。

著者野村浩也は1964年沖縄生まれで、現在は広島修道大学文学部教授(社会学)。講演会は兵庫の「基地を引き取る行動」のメンバーらの主催だという。アジぶら記者の見解として、「なぜいまこの著書の復刊が待たれたのか。沖縄人だけでなく在日韓国・朝鮮人などへのヘイトスピーチの横行を止められないのは、日本人の『無意識の植民地主義』がいまも続いているからではないのか」とある。

たまたま、広瀬玲子著の「帝国に生きた少女たち:京城第一公立高等女学校生の植民地経験」(大月書店・2019年8月刊)に目を通しているところだった。この著作が、よく似た問題意識から書かれた労作となっている。

この書についての出版社の惹句は、「内なる植民地主義、その根深さと、克服過程を見つめる」「植民者二世の少女たちの目に植民地はどのように映っていたのか。敗戦~引揚げ後を生きるなかで、内面化した植民地主義をどのように自覚し、克服していくのか。 ー アンケート・インタビュー・同窓会誌などの生の声から読み解く。」というもの。

その書評として、アマゾンのカスタマーレビュー欄に、「植民地朝鮮に暮らした女学生たちは、無邪気で無自覚な「植民者」であった」(2019年10月27日)が掲載されている。筆者は「つくしん坊」とだけあるが、その書評の一部を引用させていただく。

京城第一公立高等女学校は、1908年に居留民によって設立された。開校式には伊藤博文も列席し、格式あるトップクラスの女学校として順調に発展し、最盛期には1000人以上の生徒が在学した。

京城第一公立高等女学校に通う女生徒たちは、日本人居留民の中でも中流以上の恵まれた家庭に育っていた。女学校では日本と同様の皇民化教育が行われ、日本人女生徒たちは、朝鮮が日本の植民地であること、朝鮮人たちが様々な点で差別されていたことに無自覚であった。

敗戦後、家族とともに女生徒たちは一斉に日本に引き揚げた。そこで待っていたのは荒廃した国土、失われた生活基盤の立て直し、引き揚げ民に対する差別だった。家族とともに厳しい生活が始まった。この過程で、多くの女生徒たちが朝鮮での生活と意識を自省し始めた。

総じて、植民地朝鮮に暮らした女学生たちは、無邪気で無自覚な「植民者」であり、自らが朝鮮人に対して過酷な差別を強いていた「植民者」であったことは、戦後初めて自覚した。そのような自覚者の「内なる植民地主義」克服事例が参考に値する。

「戦前における、朝鮮に対する無邪気で無自覚な植民者」と、「現在の沖縄に対する無意識の植民地主義」と。無自覚・無意識の人びとのネガティブな客観的役割の指摘は重要である。

もっとも、私は「本土が沖縄の基地を引き取るべき」とする見解にも、そのような運動にも与しない。基地撤去の方向での運動をこそ追及すべきだとする立場を固執して小村君の不興をかっている。

(2020年1月28日・連続更新2493日)

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