澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

アベ政治はコロナより猛し

コロナ禍・アベ禍のさなかにも季節はめぐる。昨日(3月14日)、東京に開花宣言である。「暖冬で観測史上最速、満開は23日見込み」と報じられている。
「銭湯で上野の花の噂かな」をキーワードに検索したところ、幾つかの私の過去のブログが出てきた。まずはその抜粋。

本日の東京の天気は上々。桜も咲いた。
  銭湯で上野の花の噂かな
  佃育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川
花がほころべば、自ずと顔もほころぶ。春はよろしい。
https://article9.jp/wordpress/?p=2358(2014年3月29日)

 花の名所は数あるが、花見の名所は上野を措いてない。ここが花見の本場、花見のメッカだ。花見とは、花を見に行くことではない。ようやく訪れた春の、浮き浮きしたこの気分の共有を確認する集いなのだ。
 花は植物で、花見は社会現象である。花は美しく、花見は猥雑である。人がいなくても花は花だが、大勢の人がいなくては花見は成立しない。老も若きも、男も女も、赤子も犬も、猫も杓子も参加しての花見だ。歩くあり、しゃがむあり、座り込むあり、寝込むもあり。杖をつく人も、車椅子の人も。人、人、人。寄せては返す人の波だ。
 絶え間なく歩く人と、シートに座を占めた人々。それぞれが、しゃべり、写真を撮り、弁当を開き、酒を飲んでいる。歌もあり、踊りもある。屋台の前のごった返し、席取りのいざこざ、満員のトイレの列への割り込みを非難する声も、カタクリの蕾を踏んじゃダメだという注意も、皆なくてはならない花見文化の構成要素。
 年に1度のこの雑踏の雰囲気が、我々の民族的アイデンティテイ。とはいえ、この上野の人混みの中に飛び交ういくつもの外国語。そしていろんな肌の色の人々。ああ、花見文化の浸透力の強さよ。
  銭湯で 上野の花の 噂かな (子規)
https://article9.jp/wordpress/?p=10136(2018年 3月 26日)

これまでの上野の春は、上述のとおりだ。ところが、今年の上野はたいへんな様変わりなのだ。やはり子規の句に、「寐て聞けば上野は花のさわぎ哉」とある。上野の花は子規の時代さながらに例年のとおりなのだが、花のさわぎがない。いや、そもそも人混みがない。飛び交ういくつもの外国語も、いろんな肌の色の人々もない。

つい先日まで、上野公園の雑踏はインバウンドの人びとで溢れ、ときたまに聞こえる日本語は実に懐かしい響きだった。啄木ありせば、昨年までなら「やまと言葉なつかし 上野の森の人ごみに そを耳にせり」と詠んだところだが、今年聞こえるのは日本語ばかり。その人びとも、濃厚接触するほどの人混みを作らない。しかも公園は、宴会はだめ、酒はだめ、座り込むもだめという。

子規が句を詠んだ時分、根岸の銭湯での噂話はこんなものだったろうか。

お山の花は、もう五分咲きかい。気もそぞろだね。
ご隠居。はやいとこ出かけないと、散ってしまいますぜ。
上野戦争の時にはおどろいたが、穏やかに花見のできるご時世はありがたい。
これだけは文明開化とは無縁でね、昔どおりでなくっちゃ。
薩摩や長州の連中がいばっているのがシャクな世の中だが、あのとき焼けた桜も立派になったものだ。
ご隠居は、花の下で一句ひねろうてんでしょ。こちとらは、仲間と酒盛りの楽しみ。
ああ、明日花の下でお目にかかろうじゃないか。

最近は、ずいぶんと様変わり。

えっ。3月14日に開花宣言だって?
それがご隠居、地球温暖化のせいでね。どんどん開花がはやくなっているんですよ。
震災や戦災の時には、上野の山は焼け出された人びとの逃げ場になってな。穏やかに花見のできる平和はありがたいね。
ところが、今年は穏やかじゃない。グローバリゼーションがあだとなって、あっという間のコロナの流行り。花見はしたいが、コロナが恐い。
コロナより恐いのがアベ政治じゃ。苛政は虎よりも猛しというではないか。火事場泥棒みたいに、特措法の改正までやりおって。国民の不幸で生き延びているのが、アベ政権。シャクな世の中よ。
結局、ご隠居は花の下での句会もできない。こちらは、仲間との酒盛りの楽しみもだめ。

来年こそはコロナもアベもない、穏やかな春を迎えたいものじゃのう。

(2020年3月15日)

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