いま、教育現場はどうなっているのか。久保敬校長の「提言」に真摯に耳を傾けよう。
(2021年8月27日)
8月23日の当ブログで、維新の松井一郎を、傲慢で愚かな市長と批判した。が、どうも言葉が足りない。もっと、ことの本質に立ち入って論じなければならない。
問題は、大阪市教委が市立木川南小の久保敬校長を文書訓告としたことで世間の耳目を集めることとなった。この文書訓告の根拠とされたのが、同校長が大阪市長松井一郎に宛てた本年5月17日付の「大阪市教育行政への提言」である。これは単に、松井一郎の「思いつき」「気まぐれ」によるオンライン授業を巡る現場の混乱を告発すだけのものではない。「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」という副題のとおりの、堂々たる教育論なのだ。いや、堂々たるというよりは、現場から発せられた、悲鳴にも似た切実な教育論というべきだろう。しかも、教育に対する熱い情熱が胸を打つ。
当時、朝日デジタルがその全文を掲載した。あらためてこれを末尾に転載させていただく。まずは、名指しされた松井一郎は、真摯にこれに答えなければならない。大阪市の教委も、その事務局も、市議会もこの「提言」を素材に、公教育の現状とあるべき方向を真剣に議論しなければならない。
市教育委員会は久保敬校長を招聘して議論を尽くすべきだし、市議会各派は久保敬校長から教育現場の現状と教育行政の問題点について意見を聴くべき場をつくるべきだ。聞く耳もたず、文書訓告とはどういうことだ。松井に至っては「文句を言う校長は辞めろ」と言わんばかり。世の中、おかしいのだ。
「提言」が提起した問題は、大阪市に特有のものではない。府下の学校も、全国の学校も共通の問題を抱えているはずだ。久保敬校長の危機意識が共有されなければならない。議論が巻き起こらねばならない。
虚心に提言を読んでみよう。この提言は、大阪市教育行政の現状を根底から批判している。表題が、「豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために」である。大阪の学校現場には、「豊かな学校文化」が失われているのだ。「学び合う学校」にもなっていない。
「提言」は、学校の現状について、「学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している」、ずばりそう表現している。子どもたちは商品となって、テストの点によって品質管理されている。やがて商品は買い手によってテストの点を品質の基準として選別される。そのため、子ども同士は、日々の「点数競争」に晒されている。
教職員は、商品工場の品質管理担当者となっている。子どもの成長にかかわるべき教育の本質に根ざした働きができず、何のためかわからないような仕事に追われ疲弊し、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。というのだ。
その結果、子どもの幸せはどうなっているのか。
「虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。」「グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが『がんばった人間』として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。」
ここで語られているのは、社会が求める型に合わせて人を作ろうという教育への疑問である。そのための、点取り競争の教育が、子どもを不幸にしているというのだ。こういう叫びが、教育現場の校長から発せられていることを重く受けとめねばならない。そして、「提言」の最後はこう結ばれている。
「根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。」
これが、直接には、市長・松井一郎に宛てた「提言」となっている。残念ながら、松井は、この提言を咀嚼する意欲も能力もない。教育とは何であるか、子どもの成長とはどういうことであるか。本来学校は、社会は、どうあるべきか、社会と個人の関係は…。そして、教育行政は何をなすべきで、何をしてはならないのか。これらのことを考えたこともないようだ。
松井は、この提言に関する感想を、「校長なのに現場が分かってない」「社会人として外に出たことはあるんか」などと述べたという。まったく、何にも分かってはいないのだ。分かろうともしていない。実は、教育には何の関心もなく、考えているのは、自分の地方政治家としての評判のことだけ。虚しい願望かもしれないが、せめて現場の声に耳を傾け、現場を尊重し、現場とともに考え悩む市長であって欲しい。
あらためて嘆かざるを得ない。こんな人物を市長にしていることが、大阪の悲劇であり、市民の不幸なのだ。教育を変える運動は、市長を換える課題と結びつかざるを得ない。
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大阪市長 松井一郎様
大阪市教育行政への提言
豊かな学校文化を取り戻し、学び合う学校にするために
子どもたちが豊かな未来を幸せに生きていくために、公教育はどうあるべきか真剣に考える時が来ている。
学校は、グローバル経済を支える人材という「商品」を作り出す工場と化している。そこでは、子どもたちは、テストの点によって選別される「競争」に晒(さら)される。そして、教職員は、子どもの成長にかかわる教育の本質に根ざした働きができず、喜びのない何のためかわからないような仕事に追われ、疲弊していく。さらには、やりがいや使命感を奪われ、働くことへの意欲さえ失いつつある。
今、価値の転換を図らなければ、教育の世界に未来はないのではないかとの思いが胸をよぎる。持続可能な学校にするために、本当に大切なことだけを行う必要がある。特別な事業は要らない。学校の規模や状況に応じて均等に予算と人を分配すればよい。特別なことをやめれば、評価のための評価や、効果検証のための報告書やアンケートも必要なくなるはずだ。全国学力・学習状況調査も学力経年調査もその結果を分析した膨大な資料も要らない。それぞれの子どもたちが自ら「学び」に向かうためにどのような支援をすればいいかは、毎日、一緒に学習していればわかる話である。
現在の「運営に関する計画」も、学校協議会も手続き的なことに時間と労力がかかるばかりで、学校教育をよりよくしていくために、大きな効果をもたらすものではない。地域や保護者と共に教育を進めていくもっとよりよい形があるはずだ。目標管理シートによる人事評価制度も、教職員のやる気を喚起し、教育を活性化するものとしては機能していない。
また、コロナ禍により前倒しになったGIGAスクール構想に伴う一人一台端末の配備についても、通信環境の整備等十分に練られることないまま場当たり的な計画で進められており、学校現場では今後の進展に危惧していた。3回目の緊急事態宣言発出に伴って、大阪市長が全小中学校でオンライン授業を行うとしたことを発端に、そのお粗末な状況が露呈したわけだが、その結果、学校現場は混乱を極め、何より保護者や児童生徒に大きな負担がかかっている。結局、子どもの安全・安心も学ぶ権利もどちらも保障されない状況をつくり出していることに、胸をかきむしられる思いである。
つまり、本当に子どもの幸せな成長を願って、子どもの人権を尊重し「最善の利益」を考えた社会ではないことが、コロナ禍になってはっきりと可視化されてきたと言えるのではないだろうか。社会の課題のしわ寄せが、どんどん子どもや学校に襲いかかっている。虐待も不登校もいじめも増えるばかりである。10代の自殺も増えており、コロナ禍の現在、中高生の女子の自殺は急増している。これほどまでに、子どもたちを生き辛(づら)くさせているものは、何であるのか。私たち大人は、そのことに真剣に向き合わなければならない。グローバル化により激変する予測困難な社会を生き抜く力をつけなければならないと言うが、そんな社会自体が間違っているのではないのか。過度な競争を強いて、競争に打ち勝った者だけが「がんばった人間」として評価される、そんな理不尽な社会であっていいのか。誰もが幸せに生きる権利を持っており、社会は自由で公正・公平でなければならないはずだ。
「生き抜く」世の中ではなく、「生き合う」世の中でなくてはならない。そうでなければ、このコロナ禍にも、地球温暖化にも対応することができないにちがいない。世界の人々が連帯して、この地球規模の危機を乗り越えるために必要な力は、学力経年調査の平均点を1点あげることとは無関係である。全市共通目標が、いかに虚(むな)しく、わたしたちの教育への情熱を萎(な)えさせるものか、想像していただきたい。
子どもたちと一緒に学んだり、遊んだりする時間を楽しみたい。子どもたちに直接かかわる仕事がしたいのだ。子どもたちに働きかけた結果は、数値による効果検証などではなく、子どもの反応として、直接肌で感じたいのだ。1点・2点を追い求めるのではなく、子どもたちの5年先、10年先を見据えて、今という時間を共に過ごしたいのだ。テストの点数というエビデンスはそれほど正しいものなのか。
あらゆるものを数値化して評価することで、人と人との信頼や信用をズタズタにし、温かなつながりを奪っただけではないのか。
間違いなく、教職員、学校は疲弊しているし、教育の質は低下している。誰もそんなことを望んではいないはずだ。誰もが一生懸命働き、人の役に立って、幸せな人生を送りたいと願っている。その当たり前の願いを育み、自己実現できるよう支援していくのが学校でなければならない。
「競争」ではなく「協働」の社会でなければ、持続可能な社会にはならない。
コロナ禍の今、本当に子どもたちの安心・安全と学びをどのように保障していくかは、難しい問題である。オンライン学習などICT機器を使った学習も教育の手段としては有効なものであるだろう。しかし、それが子どもの「いのち」(人権)に光が当たっていなければ、結局は子どもたちをさらに追い詰め、苦しめることになるのではないだろうか。今回のオンライン授業に関する現場の混乱は、大人の都合による勝手な判断によるものである。
根本的な教育の在り方、いや政治や社会の在り方を見直し、子どもたちの未来に明るい光を見出したいと切に願うものである。これは、子どもの問題ではなく、まさしく大人の問題であり、政治的権力を持つ立場にある人にはその大きな責任が課せられているのではないだろうか。
令和3(2021)年5月17日
大阪市立木川南小学校 校長 久保 敬