澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

内閣法制局はねじ伏せた。裁判所が相手だこれからは。

3月11日の各紙に溢れた被災関連記事の中で、もっとも心に響いたのが朝日川柳欄の次の一句。
  泣くなとは無理をいうなよ千の風 (神奈川県 石井彰)
どんな説明も蛇足とする鎮魂の歌。心に刻んでおきたい。

3・11関連ではないが、並んだもう一句が目にとまった。
  野党より司法が相手これからは (東京都 田中通祐)
こちらの句は、大いに説明を要する。議論の出発点にもなる。

この句をつぶやいているのは、与党というよりは政権である。アベがこうつぶやいているだろうという思い做しの句。その内容の大意は二通りに読むことができよう。

一つは、弱小野党の力量不足で国会には向かうところ敵なし。ところが、意外にも司法が政権の思惑実行の壁になっている。今後は野党ではなく、司法を政敵と意識して政治を構想しなければならないという諧謔。

もう一つは、政権の意思を貫徹するために司法が邪魔になっている。司法を政権のいうことに従順な機関につくり変えてゆかねばならない、という恐るべきたくらみ。

まずは前者。
「平家物語」には、権勢を誇った白河法皇の「わが心にかなわぬもの」が挙げられている。「賀茂川の水、双六の賽、山法師」の「三不如意」。アベにしてみれば、さながら司法が目の上の「山法師」というところなのだ。邪魔でしょうがないが、これだけは「賀茂川の水、双六の賽」と同様に、手を付けられない。だから、憲法の枠内での適法な政策をしようと考えるのなら、結構なことだが…。

アベの意に適わない司法の働きの具体例として、3月9日の大津地裁仮処分決定が挙げられる。稼働中の関西電力高浜原発原子炉が、29人の住民の申立を裁判所が認めたために運転停止を余儀なくされた。野党の力及ばず、国会では原発再稼働を阻止できないが、裁判所が稼働を停止する力量を持っているということを見せつけられた。

沖縄の辺野古新基地建設もそうだ。国家権力が、民意に支えられた沖縄県政を無視して強行した海水面埋立工事の続行ができなくなっている。福岡高裁那覇支部を舞台の訴訟で、3月4日政府は敗訴必至となって屈辱の和解に応じ、工事続行の停止を約束せざるを得ない事態となっている。

原発再稼働と米軍基地の建設、いずれも本来は最重要の政治課題である。政治のレベルではアベの暴走をストップできず、かろうじて司法が政権にブレーキをかけているのだ。川柳子は、これを皮肉な図として嘆いていると読める。

もう一つの解釈。
狷介なアベ政権が、司法を相手にこれを骨抜きにしようと画策していないはずはない。そういう川柳子の危惧が読み取れる。

アベは、憲法改正を悲願とする人物である。明文改憲ができなければ、憲法の理念を蹂躙することに躊躇する人物ではない。「司法権の独立」「裁判官の独立」は日本国憲法の理念実現を担保するための重要な大原則である。しかし、憲法を邪魔と考えるアベ政権が、憲法に従った裁判を忌み嫌い、司法を膝下におきたいと狙っていると考えざるをえない。

集団的自衛権行使容認の解釈改憲のためには、内閣法制局見解が邪魔として、異例の長官人事を強行までした安倍内閣である。「裁判所だけは意のままにならぬ」と嘆いているだけではなく、最高裁や下級裁判所の裁判官人事を通じての、司法の独立に挑戦することを警戒しなければならない。

1960年代の終わりから70年代の初頭に、「司法の嵐」が吹き荒れた。自民党政権の意を受けた最高裁内部の司法官僚(石田和外がその頭目だった)の裁判官人事を通じての裁判内容統制が行われた。具体的には、裁判官の思想差別による採用拒否・再任拒否、そして嫌がらせ配転等々である。当時、このことが国民的な憲法運動、民主主義運動の課題となった。

諸悪の根源は、アベ政権の非立憲主義にある。「アベ政治を許さない」は、あらゆる分野で必要なのだ。
(2016年3月12日)

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