澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

四國五郎ー「反戦平和」を貫いた広島の画家

峠三吉のガリ版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1925~2014)。(丸木美術館「四國五郎展」2016年の案内リーフから)

その四國五郎が次のような文章を書いている。

「原爆詩集が刷りあがったとき、峠さんはうれしそうであった。第一工房というガリ版印刷所は、千田町三丁目の電鉄前ににあったのだが、刷りあがったホヤホヤを私の勤め先の市役所へ持ってきてくれたのである。
 市庁舎の改築で玄関あたりもすっかり様がわりしたのでついでに書いておくが、庁舎前の石畳に、やはりみかげ石で縁どった芝生に金木犀やかいづかが植えてあった。九月の陽ざしをさえぎって、けっこう木かげをつくっていたので二人はそこに腰をおろした。
 「ほら、できあがったよ、いいのができたありがとう」
 謄写インキの香りもま新しいその原爆詩集は、ザラ紙にセピアで刷られたものであるが、きれいな文字が小さく並んでおり、いま眺めても、手造り詩集といった感じで、なかなか味のあるものである。
 後にこの詩集が河出書房の日本現代詩大系に収録されたときも、ちょうど峠さんの家に居あわせたのだが、そのときよりもガリ版の原爆詩集ができたときの方が、ほんとうに嬉しそうであった。自分の詩集が誕生したというだけの嬉しさだけでなく、詩による原爆の告発が陽の目をみることのよろこびも込められているよろこびであり、それは「われらの詩の会」のみんなのよろこびでもあった。」

その人柄をよく表した美しい文章だと思う。
また、同じ文章に、原爆詩集の制作過程の一コマがこう綴られている。

 「被爆の状況を語りあいながら私が毛筆で和紙に絵を描き、峠さんはそれを眺めながら、イラストにつけ加える説明とも詩ともっかぬ文句を考え、イラストはグレイで刷られた。そのときのそのような共同作業が、その後の辻詩作製のパターンのはじまりであった。」

四國五郎についてはウィキペディアに以下の記事がある。よくできた紹介と感心するしかない。やや長文になるが引用させていただく。

「原爆詩人の峠三吉が死没するまで常に共に活動しており、「ちちをかえせ」で著名な『原爆詩集』(1951年出版オリジナル版)の表紙装丁、中の挿画も全て四國の作品。この詩集は官憲の弾圧を恐れた東京の出版社が全て出版を拒否したため、詩人・壺井繁治の勧めもあり、広島で急遽ガリ版刷りで500部出版したもので、原爆文学作品として記念碑的存在。現在では一部の博物館でしかオリジナル版の実物は目にする事はできない。広島市平和公園内の峠三吉の「ちちをかえせ」の慰霊詩碑のデザインも彼によるもの。また、広島市内には大田洋子の文学碑もあるがこれも四國のデザインによるもの

約3年間シベリアに抑留され、公の全ての記録はソ連により剥奪されたが、四國は生死を彷徨う体験をしながらも、自分で豆のようなノートを作り、それに克明に記録を取り靴の中に入れて密かに日本に持ち帰った。帰国後すぐに記録を絵と共に1,000ページ近い絵日記として復元し、シベリア抑留の貴重な生の記録となっている。また、自らの飯盒にシベリアの仲間達の名前を60名近く彫りこみ、その上からペンキを塗り文字を隠し日本に持ち帰った。シベリアから記録を持ち帰ることはスパイ罪と見なされ、厳しく制限されたが、四國は持ち帰ることに成功している。シベリア抑留者の中で、四國のように、豆のような日記や名前の彫りこまれた飯盒を日本に持ち帰った例は、他にないと言われている。

また、1950年の朝鮮戦争前から、峠が入院するまで約3年間、『辻詩』(つじし)と題して、絵は四國、詩は峠が担当し、一枚モノの手書きのポスターのような表現物を100種類近く手書きで作成。市内のあちこちにゲリラ的に掲出した。GHQが厳しい言論統制を敷く中、当時としては逮捕覚悟の反戦活動だった(貴重な歴史資料だが、現物はほとんど残っていない)。

戦争によって、意味もなく最も被害を受けるのは、何の罪もない母や子供たち、との考えから、平和の象徴として「母子像」をテーマに、誰にでも分かりやすく平和の尊さを訴える、多くの作品を油絵や水彩で残した。」

丸木美術館の「四國五郎展」には、「豆日記」も「辻詩」(8葉)も、「母子像」も展示されていた。そして、絵本「おこりじぞう」の原画も、戦後の広島の風景も。
企画展の案内リーフには、ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)のメッセージが記されていた。

「原爆の図丸木美術館」に常設されている丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」と一緒に四國五郎の作品が展示されるのは、なんともすばらしい機会である。
 この三人の作品は、単に1945年8月に日本に投下された原爆の恐ろしさを思い起こさせるだけではない。戦争と平和がいかに絡み合っているかということを作品を観る者の心にうったえてくるし、創造性豊かな三人の作品から私が個人的に受ける忘れがたい印象は、美と創造性と平和、さらには人間の命の大切さの深淵な確認ということである。
((略))
 三人の作品は、核戦争というものがいったいどんなものなのかを世界中の人々に思い起こさせる上で、特別な力強さを持っている。
 私の祖国である米国でも、また日本でも、軍国主義が再び台頭しつつある今、四國五郎と丸木夫妻の芸術作品は、今まで以上に緊迫性をもって私たち一人一人に語りかけてくる
。」

私は原爆詩集が発行されたころ、広島市内の小学生だった。今は様変わりしている太田川や相生橋の記憶もある。原爆ドームの瓦礫で遊んだ記憶もある。四國五郎の描く当時の広島の風景には、格別に心惹かれるものがある。

広島の画家として「反戦平和」の生涯を貫いた四國五郎の作品群である。願わくは、貴重な歴史の宝として、もっともっと多くの人に知られ評価されんことを。
(2016年9月21日)

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