澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委よ、裁判官よ、教員の良心の叫びを聞け。

3月15日の東京地裁527号法廷で、東京「君が代」裁判第4次訴訟の第15回口頭弁論。この日の法廷で弁論は終結し、判決言い渡しは9月15日午後1時10分と指定された。この日、一審最後の法廷で、二人の原告が結審にあたっての思いの丈を、裁判官に語った。

今月15日の当ブロクで、渡辺厚子さんの陳述はご紹介した。
http://article9.jp/wordpress/?p=8281
本日は、もうひとりの原告である現役教員の意見陳述をご紹介する。

その陳述内容は、教師として徹頭徹尾生徒の立場を慮ったものである。教員の良心において生徒の思想信条の自由を擁護しなければならないという真摯さに貫かれたもの。私たちの社会は、このような良心的で良質の教員を受容し得ない狭量なものに変質してしまっているのだろうか。国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の可否は、社会の寛容の程度である。表現を変えれば、社会の柔らかさ、生き易さのバロメータではないか。

そのような目で、この陳述書をお読みいただきたい。そして、そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決を注視していただきたい。
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  東京「君が代」裁判四次訴訟  最終意見陳述  2017.3.15

原告のKSです。第1回口頭弁論でも意見陳述しました。今回は現職の都立高校の教員として、原告らを代表して、10.23通達による生徒の被害について陳述します。

10.23通達のターゲットが生徒であるということがはっきりわかる出来事が今年ありました。都立高校では卒業式の3週間前までに卒業式の実施要項や式の進行表を都教委に提出しなければなりません。2008年から多くの学校で、進行表に「不起立の生徒がいたら司会が起立を促す」という文言が入れられるようになったのですが、これまではその文言がなくても都教委は受け取っていました。しかし今年から、進行表に生徒の不起立に対する対応が書かれていないと「司会は、生徒の不起立者多数の場合『ご起立ください』という」との文言を入れるよう、都教委から強い指導を受けるようになったのです。これは生徒への強制以外の何物でもありません。

10.23通達以前は、開式前に「内心の自由の説明」がありました。「内心の自由の説明を聞いて、安心して座ることができた」と喜んでいる生徒もいました。しかし、10.23通達以降は、内心の自由の説明をすることはできなくなりました。さらに都教委は2006年に「3.13通達」を出し、「適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう」通達しました。この通達は、教員が生徒に内心の自由の説明をすることを禁じたものです。

2005年の卒業式の前に、こんなことを作文に書いた生徒がいました。「間違っていることを『間違っている』と言えずに、従わざるを得ない先生たちは、どれだけ辛いだろうと思う。しかも間違っていると思うことを指導しなければならないのは、とても苦しいことだと思う。自分が通っている学校で、そんな風に間違ったことが行われ、そしてそれによって辛い思いをしている先生がいることが、私はとても悲しい。」
10.23通達発出当時、多くの生徒が教員に出された命令を「間違っている」と感じ、様々な形でその意思を表明しました。教員が苦しんでいる姿に接して、生徒たちも辛い思いをしていたのです。

「『君が代』を聞くと苦しくなる」と私に訴えてきた生徒がいました。彼は在日韓国人で、差別されているという思いを強く持っていました。私は彼の担任でもなく、特に私になついていたわけでもないのに、どうしてそんなことを私に訴えてきたのかわかりませんが、その気持ちには重いものがあると感じました。職員会議で、校長に「内心の自由の説明をしてほしい」と頼んだ時、この生徒のことも話しました。校長は「辛い思いをする生徒も実際にいるでしょう。けれど我慢してもらうしかないですね。」と答えました。生徒の入学や卒業を祝う喜ばしいはずの式で、その主人公の生徒が、どうして、何のために、苦しまなければならないのでしょうか。かけがえのない存在である一人一人の生徒を大切にし、一人一人の心の痛みに寄り添い、切り捨てないことが教育、特に公教育では重要です。毎年卒業式・入学式のたびに内心の自由を踏みにじられる生徒が確実にいるということを私たちは忘れてはならないと思います。

10.23通達は教職員に起立斉唱を命じるものですが、教職員が全員起立することは、生徒への圧力になります。先日、ある保護者が「子どもの入学式に参列し、国歌斉唱の時座ったが、周りは教員も含めてみんな立っていた。先生の中の一人でも座っている人がいたら、これからの学校生活にどれだけ希望が持てただろう」と話しているのを聞きました。内心の自由の説明もなく、会場にいる人全員が起立する中で立たないでいるのはとても難しいことです。それでもどうしても立てずに座っている生徒に対して司会が「ご起立ください」と言ったとしたら、その生徒は自分自身の思想信条の自由を守れなくなってしまうのではないでしょうか。起立するにしても座っているにしても、とても苦しい思いをするに違いありません。卒業式の進行表の問題は、生徒への強制がエスカレートしていること、10.23通達の目的が、教員に強制することを通して、生徒に強制することだということを示しているのです。

都立高校の生徒は自分たちの卒業式をとても大切にしています。10.23通達前は生徒たちは卒業式対策委員会を組織して、自分達の卒業式をどのように行うのか話し合って決めていました。卒業生と保護者が向かい合って座る「フロア形式」の式が行われたり、思い出のビデオを上映したり、5、6人の生徒が次々に自分たちの思いを語ったりと、生徒は自分たちの一生に一度の高校の卒業式を思い出深いものにしたいと一生懸命に考えて企画していました。けれど、10.23通達後は、こうした自由で創造的な卒業式は実施できなくなりました。画一的な卒業式しか許されなくなり、生徒が自分たちで決められることといったら、式歌を何にするかぐらいになったのです。

数年前に、式の最後にクラス代表の生徒たちで卒業式を感動的なものにするための企画を実施したいと生徒が言い出したことがありました。生徒の願いを叶えたいと思った担任は何度も何度も校長に交渉しましたが、校長は「厳粛な式にはふさわしくない」の一点張りで、生徒の願いをかなえることはできませんでした。一体卒業式は誰のためのものなのでしょう。10.23通達によって、画一的な式が押し付けられ、卒業式は卒業生のためのものではなくなったのです。

私は2007年卒業式の代表生徒の言葉が忘れられません。彼は「何かを大切に思う気持ち、愛する気持ちは自然にわき上がってくるものです。誰かにこれを大切にしなさい愛しなさいと強制されても心から大切にしたり愛したりすることはできません。」と語りました。愛する気持ちや敬意は自然にわき上がってくるもので、他から押しつけられるものではありません。

昨年アメリカではNFLのコリン・キャパニック選手が「人種差別がまかり通る国に敬意は払えない」として、試合前の国歌斉唱時に起立を拒否して話題になりました。オバマ大統領は、キャパニック選手は憲法で保障する意見表明の自由を行使しただけだと擁護し、「脇でただ座って何も気にかけないでいるよりも、若い人がもっと民主的手続きに則り議論に参加した方がいい」と述べました。

何かに対する敬意は強制すべきものではありません。敬意を表明したいと思えば表明すればいいし、敬意を表明できないと思えば表明しなくていい、それが許されるのが民主的な国家だと思います。有無を言わせず強制することよりも、生徒が自分の頭で考え、議論し、自分で判断すること、様々な考え方があることを知ること、異なる意見を認め合い尊重することを学ぶことの方が、教育の場では必要なのです。

国旗国歌に対する敬意は、生徒に対して強制できないのはもちろんですが、教員に対しても強制することは間違っています。都立高校の教員は公務員であり全体の奉仕者だから、上司の命令には従わなければならないと、再発防止研修では講義されましたが、私は全体の奉仕者だからこそ、間違った命令には従ってはいけないと考えています。教員には生徒の内心の自由を守る義務があるのです。また私は、生徒が主人公だったかつての都立高校の卒業式を取り戻すことも、教員の責務だと感じています。

10.23通達は、教育の自由や生徒の権利を守ろうとする教員を学校現場から排除するためのものです。物言わぬ教員を作るため、思考停止した教員を作るためのものです。物言わぬ教員、思考停止した教員は、物言わぬ生徒、思考停止した生徒を作り出します。10.23通達のターゲットは生徒なのです。10.23通達は、自分の頭で考えない、権力の言うなりになる生徒を作るためのものなのです。

裁判所におかれましては、どうか、10.23通達が生徒を苦しめていること、10.23通達を撤回することが日本のより良い未来につながっていることをご理解ください。そして、公正な判断をお願いします。
(2017年3月23日)

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