(2022年1月27日)
内外のニュースに接していると、人類は急速に退化しているのでないかと疑問を持たざるを得ない。日本だけでなく、あの国もこの国もなんと情けないことか。どこかに未来への希望はないものか。コスタリカや北欧・バルト3国などを思い描いていたところ、突如として新生チリが希望の星として現れた。しばらく、チリから目を離せない。
先月の19日、チリ大統領選の決選投票で、左派のガブリエル・ボリッチが極右の対立候補ホセ・アントニオ・カストを破って当選した。本年3月11日に、35歳の新大統領が誕生し、その政権が発足する。ボリッチは元チリ大学の学生運動のリーダーだった人物。その基本政策は、新自由主義との決別、格差是正、地方分権、福祉、ジェンダー平等、先住民の権利擁護など。年金や健康保険改革を進め、労働時間を週45時間から40時間に減らし、環境への投資を増やすなどと具体的な公約を掲げているという。
今月21日、ボリッチ新政権の閣僚24人が発表された。30代が7人、40代が4人と若く、女性が14人、過半数を占める。「フェミニズムの政府」を作るという公約の実行だという。
24人の閣僚の内訳は、左派連合から12人、中道左派連合から5人、無所属が7人と色分けされている。ボリッチ自身の所属する政党は左派連合に属する社会収束党。この政党から5人が入閣する。左派連合にはチリ共産党も加わっており、3人が入閣。その中の一人、カミラ・バジェホが内閣官房長官に就任する。33歳の女性で、閣僚名簿の発表式には、幼い一人娘の手を引いて登壇している。権威主義やら、エリート臭やらスノビズムとは無縁。学園祭のノリと雰囲気ではないか。日本では天皇の認証が必要と言えば、そのバカバカしさに嗤われそう。新しいものが生まれる予感がする。
もう半世紀も前のことだが、チリのサルバドル・アジェンデ政権が、世界の「民主主義革命」の旗手だった。自由な選挙を通じて、真に貧困や格差を克服する社会を実現できるのではないか。その希望は、突如野蛮な軍事クーデターで覆された。クーデターの首謀者は憎むべきピノチェット、その背後にアメリカがいた。アジェンデは、クーデター軍からの銃撃を受けつつも、最後まで国民に向けたラジオ演説を続けて命を落とした。1973年9月11日のことである。
中道左派連合からボリッチ政権に入閣し、国防相に就任するのがマヤ・フェルナンデス。この人が、かのサルバドル・アジェンデ大統領の孫に当たる人で、下院議員議長を務めた経験もあるという。
ボリッチ次期大統領は「今日、民主主義の新たな道が始まる、私たち政府の使命は非常に明確で、国民の正義と尊厳が守られるように変化と変革を促進することだ」とコメントした。選挙戦では、富裕層や鉱山会社への増税で社会保障の充実を図る考えを示している。
アジェンデを殺害したピノチェットは、自ら政権を握ると、シカゴ学派のエコノミストにしたがって、新自由主義経済政策を採用した。その結果としてのチリ社会の貧困格差である。新政権は、これとの決別を明言している。新自由主義から福祉国家へ転換の壮大な実験が始まる。その成果に期待したい。
ひるがえって、我が国の野党間の連携の課題に思いをいたざるを得ない。チリでは、共産党を含む左派連合12人、中道左派連合5人、無所属7人から成る「連合政権」の樹立が可能なのだ。対右派統一戦線的大統領選挙の協力が可能で、その大統領選を通じての信頼関係の形成が、連立内閣を作った。芳野友子のごとき、反共主義者の妨害はなかったようだ。
チリの新政権に学ぶべきは多々あると思う。敬意をもって見つめ続けようと思う。
(2022年1月25日)
1月20日であったという山田さんの逝去を知ったのは、日本国民救援会からの「訃報」のメール。都本部、文京支部へと転送されての今日のこと。1928年1月のお生まれだから、94歳での大往生ということになる。「日本国民救援会中央本部事務局長、副会長、会長を歴任し、長年にわたって救援運動にご尽力いただいた山田善二郎さんが永眠されました」「50年以上にわたり、国民救援会の専従者・役員として運動をけん引されました」「葬儀については、現時点で不明です」とある。
国民救援会の「訃報」は、山田さんについて、「戦後間もないころに陸軍情報機関(CIC)や、特殊諜報機関(通称キャノン機関)、横須賀のアメリカ海軍基地などで日本人の従業員として勤務し、キャノン機関に拉致・監禁された作家・鹿地亘の救出に関与され、これを機に国民救援会の専従となりました」と紹介している。
戦後史の一ページに特異な位置を占める、キャノン機関による反戦作家・鹿地亘の拉致監禁事件。その救出劇の立役者が山田善二郎さんだった。そして、山田さんは、私が弁護士となったきっかけを作った方でもある。以前にもこのブログに書いたことがあるが、あらためて書き留めておきたい。1963年の晩春か初夏の出来事。ほぼ60年も以前の、昔話である。
私は東大教養学部の1年生で、学部キャンバス内の駒場寮に起居していた。その「北寮3階・中国研究会」に割り当てられていた居室の記憶が今なお鮮やかである。私は仕送りのない典型的な苦学生で、確か一か月90円だつた寮費の生活をありがたいと思っていた。その部屋のペンキの匂いまで覚えている。
ある夜、その寮室の扉を叩いて集会参加を呼びかける者があった。「これから寮内の集会室で白鳥事件の報告会があるから関心のある者は集まれ」ということだった。白鳥事件とは、札幌の公安担当警察官・白鳥一雄警部が、路上で射殺された事件である。事件が起こったのは1952年の厳冬。当時武闘方針をとっていた共産党の仕業として、札幌の党幹部が逮捕され有罪となった。これが実は冤罪であるとして、再審請求の支援活動が市民運動として盛り上がりを見せていた。
そのころ、私は毎晩家庭教師のアルバイトをしており、帰寮は常に遅かった。集会の始まりは深夜といってよい時刻だったと思う。なんとなく参加した、薄暗い電灯の下での少人数の深夜の集会。その報告者の中に、若手弁護士としての安達十郎さんと、まだ30代だった国民救援会の専従・山田善二郎さんがいた。もちろん私は両者とも初対面。自由法曹団も、国民救援会についても殆ど知らなかった。
具体的な会合の内容までは記憶にない。格別にその場で劇的な出来事があったわけではない。しかし、そこで初めて、弁護士が受任事件について情熱を込めて語るのを聞いた。私はその集会をきっかけに、山田さんを介して国民救援会と近しくなった。札幌での白鳥事件の現地調査に参加し、駒場での松川守る会の活動にも参加し、さらには山田さんに誘われて鹿地亘事件対策協議会の事務局を担当した。そこで何人かの弁護士にも出会って、やがて弁護士を志すことにになる。
山田さんの人生の転機となった、「鹿地亘、拉致監禁と救出事件」については、下記のURLをぜひご覧いただきたい。手に汗握る、実話なのだから。
https://www.chunichi.co.jp/article/feature/anohito/list/CK2019122702000240.html
生涯を決めた「決断」に至るまで
─山田善二郎著「決断」を読む─
弁護士 上 田 誠 吉
https://www.jlaf.jp/old/tsushin/2000/995.html
また、事件の全容が、鹿地・山田両名出席の1952年12月10日衆院法務委員会議事録で読むことができる。こちらも、どうぞ。
https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101505206X01019521210
多くの人との出会いの積み重ねで、自分が今の自分としてある。安達十郎弁護士と山田善二郎さんには、大いに感謝しなければならない。なお、駒場寮の存在にも感謝したいが、いま駒場のキャンパスに寮はなくなっている。寂しい限りと言わざるを得ない。
さて、占領期には、下山・三鷹・松川を始めとする数々の政治的謀略事件があった。占領軍の仕業と言われながらも、真犯人が突き止められてはいない。その中で、鹿地事件は、米軍の謀略組織の仕業だということが確認された稀有の事件である。占領末期、キャノン機関といわれる「GHQ直属の秘密工作機関」が、著名な日本人作家鹿地亘を拉致して1年余も監禁を続け、独立後の国会審議で事態が明るみに出たことから解放した。その命がけの解放劇の立役者が、山田善二郎さんだった。
偶然にも監禁された鹿地に接触した山田さんの決死の救助行動がなければ、鹿地は行方不明のまま消されていただろう。すべては闇に葬られたはずなのだ。
当然のことながら、これは米占領軍に限った非道ではない。「民主主義の国・米国でさえもこんな汚れたことをした」と考えなければならない。戦争・軍隊にはこのような陰の組織や行動が付きものなのだ。
戦争のそれぞれの面の実相を語る「貴重な生き証人」だった山田善二郎さんの紹介記事を引用しておきたい。「法と民主主義」2003年7月号【380号】の「とっておきの一枚」から。
善なる者の軌跡 ?惻隠の心あふるるばかり
国民救援会会長:山田善二郎さん
訪ね人 佐藤むつみ(弁護士)
一九五一年一二月二日
「内山様 信念を守って死にます。
時計は一時を 鹿地
看守の方に ご迷惑をお詫びします」
「なんて書いてあるのか読んでくれと」と、二世の光田軍曹から渡された紙片の文字を、わたしはゆっくりと声を上げて読んだ。一字一句、噛みしめるように詠みあげながら、わたしは、言いようのない何かに激しく心をつき動かされた。その人の姓と思われる「鹿地」の読みは、相撲取りの鹿島灘や、終戦をそこで迎えた鈴鹿海軍航空隊から、ごく自然に「カジ」と読んだ。人びとの寝静まった深夜、誰一人みとる者もいない寒々とした部屋に監禁されたその人物は、「鹿地」という名を残して自殺をはかったのだった。「余計なことをしてくれたものだ」とでも考えているのだろうか、光田は、無造作にその紙切れをポケットにねじ込んだ。「ここにいてくれ」無表情なまま言い捨てて、わたしだけを残して、自殺未遂に終わったその人の汚れた衣類などをまとめて外に出て、裏庭でガソリンを振りかけて燃やしてしまった。焼けかすが黒く残っていた。その人は、二〇畳ほどの畳をはがしてリノリウムをはった部屋の中にポツンと置かれた軍用ベットの上で気を失って横たわっていた。部屋の中央のシャンデリア風の電灯は、その人が首を吊った時にもぎ取れ、床に転がっていた。薄暗く、ひんやりとした部屋。意識を失ったその人の口から流れてくる汚物を拭きとり、洗面所で洗い流したわたしの手は、突き刺されるように冷たく痛かった。建物の周辺を取り囲むように植えられていた、十数本のヒマラヤ杉の茂った葉のあいだから、かすかに差し込んでくる日の光に手を当ててこすりながら、光田のもどるのを待っていた。
(決断ー謀略・鹿地事件とわたし)
山田善二郎さん23才コック、占領軍総司令部参謀の諜報機関キャノン機関に拉致された反戦作家鹿地亘四八才、場所は米軍に接収された川崎市新丸子の東京銀行川崎グラブ。私は山田善二郎さんが50年を経て書いたこの本を途中で置くことが出来なかった。冒頭の一章から息を呑むような場面が続く。迫りくる諜報機関の黒い手、善二郎青年のとまどいと正義感、突き動かす思いと関わる人びと。時代の匂いと「間一髪の歴史のほほえみ」が見事に描き出されている。善二郎さんの原点はここにある。そして彼の書き手としての力量、事実を見る目の確かさはどこで作られたのだろうか。
善二郎さんの父親は陸軍省の下級公務員だった。住まいは杉並区の天沼、七人子供を薄給で育てるのは容易でなく山田家はいつも貧乏だった。尋常小学校を卒業したら兄のように高等小学校にいき一家の働き手になるつもりだった。小学校で江藤价泰さんと同級生だったと言う。「僕はぼんくらだったけど江藤さんは秀才で」担任の先生は善二郎少年に東京市立第一中学の夜間部、九段中への進学を勧めた。入学試験に合格、昼間は給仕として働きながら学校に通っていた。九段中学は靖国神社の隣にあった。軍国少年は日本の戦況に一喜一憂「1943年5月戦局が傾き始めると、押さえがたい憂国の念にかられたものだった」。ついに七つボタンに憧れ、親に内緒で海軍の予科練を志願する。最年少15才合格、中学4年一学期であった。1年で予科練を卒業、飛行練習生として鈴鹿海軍航空隊に移転。練習飛行の燃料も無くなりアメリカ空軍の空爆も激しくなって、「飛行場では、練習機に爆弾を積んだ特攻隊を見送るようになっていた」。1945年8月、農村の神社に疎開して防空壕を掘っていたとき天皇の「詔勅」を聞く。「ラジオのガーガーピーピーの雑音の中に天皇の甲高い声が混じっていたが、なにをしゃべっているのかさっぱりわからなかった」
頭の中は軍国主義のまま善二郎青年は生きるために進駐軍の仕事を始める。「エンプロイ ミイ アズ ウエーター」初めて米兵と交わした言葉である。その後キャノン機関のボス ジャック・Y・キャノンに会うのである。「まじめに働けば、良い職場を探してやる」とのキャノンの甘い言葉に乗る善二郎青年。キャノンの家族のコックとなった。なかなか器用な善二郎青年パーティ料理まで作ったという。誠実で働き者、優秀な彼をキャノンは重宝したに違いない。1950年6月朝鮮戦争が勃発、しばらくしてキャノンがピストルで撃たれて重傷を負う。1951年キャノンは帰国。善二郎青年は米軍諜報機関の日本人従業員として働き続けた。山田家では、長男は戦争から帰らず、長女は子どもを産んだ直後に結核で死亡、脳腫瘍で重複障害になったその子を引き取っていた。家計は妹弟達を含め善二郎青年の双肩に掛かっていた。両親に給料袋を差し出すと母は「ありがとう。ありがとう。」と拝むように受け取って仏壇に供えたと言う。
自分も消されるかもしれない恐怖、一家の糧を失う不安の中で善二郎青年は鹿地の手紙を密かに届け続ける。届け先は内山完造。1952年6月善二郎青年はアメリカの秘密機関から脱出する。元キャノン機関のエイジェントとして活動した松本政喜は「山田を消してくれ」と光田軍曹からピストルを渡されていた。12月6日、猪俣浩二代議士の自宅で乾坤一擲の記者会見、翌七日鹿地は明治神宮外苑絵画館近くで解放される。生き証人善二郎青年は時の人となり、命は落とさずにすんだ。
この時から善二郎青年は国民救援会を知り、活動をともにするようになる。そこで活動している人々の一途な姿に魅了された。特に難波英夫は善二郎青年の師となる。50年間善ちゃんは「スティック ツウ ユアー ブッシュ“食らいついたら離れるな”」の精神で救援会を支えてきた。支援する人と同じ地平で「おっかさんの気持ちで接することが大切だ」難波さんの口癖である。おっかさんは我が子を絶対的に信じ無私の精神で支える。その存在自体を愛おしむ。善ちゃんは何人のひとの母となったのだろうか。
「小さくやせ細った平沢貞道が、拘置所の面会室の金網の向こうから、仏様を拝むように両手を合わせてこちらに向かい、『ありがとうございます』と深々と頭を下げて礼を述べた。…1987年八王子医療刑務所で95才の生涯を閉じる。」無実の死刑囚の再審事件は力及ばないときはその死を招く。無実が晴れないうちに命つきる多くの人を善ちゃんは無念の思いで送った。
75才になる善ちゃんはいつも強く人に優しい。この素朴な暖かさは救援会の筋金入りである。
山田善二郎
1928年新潟県三条市に生まれる
1946年キヤノン機関勤務
1992年日本国民救援会会長に選出
2022年1月20日 逝去
(2022年1月18日)
昨日(1月17日)、第208通常国会が始まった。会期は6月15日まで。参院選が控えていることから、会期の延長はなかろうとされている。
冒頭、岸田首相による施政方針の説明。12000字の原稿朗読が行われた。羅列主義、メリハリに欠ける、具体性がない、などと総じて評判はよくない。が、無難、安倍・菅に較べれば格段にマシ、などという評価もある。
私の関心は、以下の3点。「新しい資本主義の実現」「敵基地攻撃能力」「憲法改正」、いずれもしっかり書き込まれている。
まずは、「新しい資本主義の実現」
経済の現状認識は、政治の責任者が見てもこういうことだ。
「市場に依存し過ぎたことで、公平な分配が行われず生じた、格差や貧困の拡大。市場や競争の効率性を重視し過ぎたことによる、中長期的投資の不足、そして持続可能性の喪失。行き過ぎた集中によって生じた、都市と地方の格差。自然に負荷をかけ過ぎたことによって深刻化した、気候変動問題。分厚い中間層の衰退がもたらした、健全な民主主義の危機。……市場に任せれば全てがうまくいくという、新自由主義的な考え方が生んだ、さまざまな弊害を乗り越え、持続可能な経済社会の実現に向けた、歴史的スケールでの「経済社会変革」の動きが始まっています」
この現状にどう切り込みどう改善して、格差や貧困から健全な民主主義の危機に至る弊害をどう克服するのか。という課題を語る段になると何とも情けない。具体策がない、次のような弁明でしかないのだ。
私は、成長と分配の好循環による「新しい資本主義」によって、この世界の動きを主導していきます。官と民が全体像を共有し、協働することで、国民一人一人が豊かで、生き生きと暮らせる社会を作っていきます。日本ならばできる、日本だからできる。共に、この「経済社会変革」に挑戦していこうではありませんか。
成長戦略では「デジタル」「気候変動」「経済安全保障」「科学技術・イノベーション」などの社会課題の解決を図るとともに、これまで、日本の弱みとされてきた分野に、官民の投資を集め、成長のエンジンへと転換していきます。分配や格差の問題にも正面から向き合い、次の成長につなげます。こうして、成長と分配の両面から経済を動かし、好循環を生み出すことで、持続可能な経済を作り上げます。
分かるかな。分かるはずはない。言ってる岸田本人にも分かっているはずはないのだから。「分配や格差の問題にも正面から向き合い」って、いったいどう向き合うというのだ。「次の成長につなげます」って、具体的にどうつなげるべきかが問われているのだ。何の具体策もないのか。不公正税制の手を着けると言っていたはずなのに、いったいどうした。直接税の累進性強化や、消費減税はやらないのか。相変わらず、株式売買や配当の優遇税制は温存か。大した「聞く力」じゃないか。格差を是正して、分厚い中間層を創出するというのは、本気の発言か。
「おおむね1年をかけて、新たな国家安全保障戦略、防衛大綱、中期防衛力整備計画を策定します。これらのプロセスを通じ、いわゆる「敵基地攻撃能力」を含め、あらゆる選択肢を排除せず現実的に検討します。先月成立した補正予算と来年度予算を含め、スピード感を持って防衛力を抜本的に強化します。海上保安庁と自衛隊の連携を含め、海上保安体制を強化するとともに、島しょ防衛力向上などを進め、南西諸島への備えを強化します」「日米同盟の抑止力を維持しながら、沖縄の皆さんの心に寄り添い、基地負担軽減に引き続き取り組みます。普天間飛行場の一日も早い全面返還を目指し、辺野古への移設工事を進めます」
彼が朗読した原稿12000文字のうちの7文字が「敵基地攻撃能力」。目立たぬように、しかししっかりと書き込まれている。これは、たいへんなことだ。しかも、あれだけ反対の世論渦巻く、辺野古の基地建設も、「沖縄の皆さんの心に寄り添い、辺野古への移設工事を進めます」と言ってのける。大した神経だ。
そして、「憲法改正」
「先の臨時国会において、憲法審査会が開かれ、国会の場で、憲法改正に向けた議論が行われたことを、歓迎します。
憲法の在り方は、国民の皆さんがお決めになるものですが、憲法改正に関する国民的議論を喚起していくには、われわれ国会議員が、国会の内外で、議論を積み重ね、発信していくことが必要です。本国会においても、積極的な議論が行われることを心から期待します。」
おかしいじゃないか。「憲法の在り方は、国民の皆さんがお決めになる」ものであれば、国民の意見をよく聞くがよいではないか。政権や議会が主導して、「憲法改正に関する国民的議論を喚起」すべき理由はまったくあり得ない。
今議論すべきは、コロナ対策だろう。コロナに疲弊した生活や生業の支援だろう。福祉であり、教育であり、そして経済の回復のあり方ではないか。憲法改正などは、究極の不要不急課題ではないか。本国会においての積極的な議論の必要はまったくない。
(2022年1月6日)
憲法20条は、厳格な政教分離を定める。高く堅固な分離の壁で隔てられる「政」と「教」とは、「政治権力=国家」と「宗教」である。この宗教とは、宗派を問わない宗教一般ではあるが、日本国憲法制定の過程に鑑みれば、明らかに「国家神道=天皇教」がその中核にある。
その「国家神道=天皇教」は、敗戦を機に制度の上では姿を消したが、信教の自由の保障を得て、国家とは切り離された私的な存在としては生き残っている。しかし、《国家と天皇と神道》との結びつきを《日本古来の伝統》と考える、右翼・守旧派は「国家神道=天皇教」を公的な存在として復活させたいのだ。
「国家神道=天皇教」を代表する二大施設が、伊勢神宮と靖国神社である。軍国神社靖国への公式参拝には戦争被害国を中心に批判の目が厳しい。ところが天皇教の本宗である伊勢神宮には、比較的批判の声が小さい。いつの間にか、首相がここで年頭の記者会見をすることが定着してきた。それを許したメディアも、世論も反省しなければならない。それだけではない。野党の党首までが、年頭の伊勢詣でとは、情けないにもほどがある。
以下は、政教分離にもっとも鋭敏な宗教者からの抗議声明である。
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党の代表者による伊勢神宮参拝と記者会見に抗議します
内閣総理大臣 岸田文雄様
立憲民主党代表 泉健太様
国民民主党代表 玉木雄一郎様
マスコミ関係各社 御中
2022年1月4日、岸田首相は伊勢神宮を参拝し、記者会見を開きました。TBSやMBSなどによりますと、総理周辺は「伊勢参拝は公務としての行事であり、地元に帰るのとはわけが違う」と述べたことが報道されています。
最高裁は1997年、公費で玉串料を払った愛媛県に対し、「県が特定の宗教団体を特別に支援している印象を一般の人に与える」と指摘し、政教分離違反にあたるとの判決を出しています。今回、首相が公務であると自覚しつつ伊勢神宮を参拝したことは、憲法20条3項の政教分離原則を蹂躙する許しがたい行為です。さらに、こうした政府の暴走をチェックすべき野党の代表までが、無批判に後を追う姿勢に強く抗議いたします。
私たちはまた、記者会見において、そのことを指摘しなかったマスコミ各社に対しても、失望と憤りを禁じ得ません。
かつて1933年、伊勢神宮参拝旅行への参加を拒否した一児童に対して、政界、教育界、宗教界、マスコミを巻き込んだ全国的な排撃運動(いわゆる美濃ミッション事件)が展開され、私たちの教会の先達である日本基督教会大垣教会の浅倉重雄牧師も「祖先・国忠志を祭る神社に低頭して敬意をはらうのはキリスト教信仰に何ら差し支えない。愛する美濃ミッションの方々が国体と神社を正しく認識し、問題を繰り返さぬよう祈る」との見解を美濃大正新聞に発表しました。官民がこぞって伊勢神宮参拝を国民行事として支持し、マスコミの煽動によってマイノリティーを排除しようとした歴史に加担した罪責を覚える時、私たちは今回の与野党の代表者による伊勢神宮参拝とマスコミによる記者会見を看過することができません。
1965年の佐藤栄作首相以来、連綿と続いている総理大臣による伊勢神宮参拝によって、この国は少しはマシになったのでしょうか。かえって政治も経済も教育も医療も宗教も、すべからく低迷しているのではないでしょうか。いやしくも一国の首相や公党の代表たるあなたがたが、与野党ともに神頼みの政治を行おうとしている体たらくは、国内外の他民族に新たな恐怖を植え付けるとともに、唯々諾々と情報を垂れ流すマスコミ各社ともども、失笑を買うほかないでしょう。
かつて全国民に神社参拝を強要した狂気は、アジア全体にすさまじい戦争の惨禍をもたらしましたが、あのような過ちを二度と繰り返さないためにも、公人による伊勢神宮参拝と記者会見は、これを最後にして欲しいと願います。
2022年1月4日 日本キリスト教会大会靖国委員会委員長 小塩海平
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この声明で取りあげられている美濃ミッション(大垣のキリスト教会)事件について、略述しておきたい。狂信的な天皇教信徒と化した民衆による、少数者の精神的自由圧殺の典型的な一事例である。
1929年以後、美濃ミッション教会員の子弟が、その宗教的信念から神社参拝、招魂祭例への参加、さらには伊勢神宮参拝を拒否した。この事件は新聞で大々的に報道されて、大きな問題となった。日本基督教会も味方してはくれなかった。
メディアや政治家に煽動された大垣市地元民は「美濃ミッション排撃の歌:守れ国体、葬れ邪教」を作って美濃ミッションを迫害したという。(ウィキペディアから引用)
我が国体の尊厳を 害なう彼らミッションの
排撃目ざす 我らこそ 使命に生きる国民ぞ
血潮漲る憂国の 麋城(びじょう)の健児の力もて
倒せミッション倭異奴(ワイド)輩 正々堂々最後まで
いざ起て勇士時は今 我市四萬の健児らよ
邪教の牙城を葬りて 正義の御旗輝かせ
(上記の「麋城(びじょう)」とは大垣城の異名、「倭異奴(ワイド)」は、この教会の宣教師ワイドナーのことである。)
この排撃に遭遇して宣教師ワイドナーは健康を害して帰国の途次病没したという。また、複数の幹部が治安維持法違反で検挙されている。メディアと官憲と地域社会全体が、少数者を弾圧する典型例であった。もっとも、信徒については戦時中も信仰を守り妥協せず、官製の日本基督教団に加わることがなかったとされている。
このような官民一体になっての宗教弾圧事件は全国に無数に起きた。このような事件の根源は天皇を神とする信仰の全国民への強制にあった。敗戦時に廃棄すべきであった天皇が生き残ったため、この天皇を再び神にしてはならないとする歯止めの装置が必要となった。信教の自由保障を掲げるだけでなく、日本国憲法は歯止めの装置としての政教分離規定を創設した。政治に関わる者すべてが、これを遵守しなければならない。
年頭からの伊勢神宮参拝に違和感をもたないような、政党や政治家では、困るのだ。日本国憲法の理念を尊重していただきたい。
(2022年1月3日)
2022年の年開けは、少しも目出度くない。寒さが厳しいだけではない。思いがけなくも憲法をめぐる状況についての厳しさも痛感せざるを得ない。
邪悪な改憲勢力の首魁(実は単なる無能)の安倍晋三をようやく政権の座から、引きずり下ろし、「これでしばらくは憲法の安泰期」と思っていたら、何としたことだ。ハトかに見えた岸田が、俄然タカの様相である。
岸田は、総理大臣としての年頭所感でこう語った。「自由民主党結党以来の党是である、憲法改正も、本年の大きなテーマです。国会での論戦を深めるとともに、国民的な議論を喚起していきます」と。言わずもがなのことを、わざわざと。
これが岸田の本心であるか否かを穿鑿するのは意味のないこと。自民党内の力学が、「改憲の好機到来」と認識して動き出しているのだ。「好機」をもたらしたのは、総選挙における反共野党勢力の跳梁である。とりわけ、維新の罪が深い。そして、《「安倍改憲」には反対だったが、「安倍抜き改憲」なら議論を始めてもよいのでは》というグループも、である。
そのような情勢のさなかに、「コロナ禍と緊急条項」というテーマが浮上しつつある。12月31日の時事配信記事が「改憲勢力に勢い 緊急事態条項で進展目指す―立民苦慮、狭まる包囲網」という刺激的なもの。その中で、緊急事態条項に触れて、こう報じている。
自民党は1月召集の通常国会で、国会議員任期の特例延長など緊急事態条項の創設を軸に改憲議論を進展させたい考えだ。新型コロナウイルス禍を踏まえて、世論の理解が得られやすいと判断しているためだ。
10月の衆院選で、憲法改正に前向きな日本維新の会と国民民主党が議席を増やしたことも追い風とみている。「改憲ありきの議論」と一線を画す立憲民主党が対応に苦慮する場面が増えそうだ。
緊急事態条項は、大地震などの大規模災害時に国会議員の任期を特例で延長することや、国会承認がなくても政府の政令を認める内容。公明党は「緊急事態で国会機能をいかに維持していくかという論点からの論議が必要だ」(北側一雄中央幹事会長)と、議員任期の延長に理解を示す。
国民民主党幹部は「議員任期の延長特例は地方議会では既に認められている」と指摘。日本維新の会も前向きで、野党側からも一定の賛成が見通せる状況だ。
以下は、この件に関する、私の地元文京での学習会のお知らせ。
改憲NO!文京アクション
新春学習会
憲法第9条と緊急事態条項、
改悪するとどうなる?
参加無料
日時 2022年1月7日(金)18 :30?
場所 文京区民センター2A(文京区本郷4丁目15-14)
最寄り駅:東京メトロ丸ノ内線後楽園駅
講師 澤藤 大河 弁護士(東大卒2016年弁護士登録)
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「憲法改悪を許さない全国署名」にご協力願います。
岸田政権は、2021年10月の総選挙で、改憲発議に必要な3分の2の議席を手に入れました。中国や朝鮮を念頭に「敵基地攻撃能力の保有」を国会で表明し、そのため現在6兆円の防衛費2倍(GDP比2%)を主張しています。米国はじめ欧米諸国と軍事同盟を強化し「戦争する国」づくりを進め、アジアの緊張を高めています。改憲派は、参議院選挙をにらみながら9条に自衛隊を書き込むことと、緊急事態条項の創設を狙っています。
私たちは、自民党の改憲発議を許すことなく、憲法9条をはじめとし、今の日本国憲法で国民のいのちと暮らしを守る政治を求めていきます。
改憲NO!文京アクション事務局
文京区小石川2?21?8 (文京区労協新事務所)
電話 03-3815-1558 FAX 03-3813-6006
(2022年1月2日)
本日は、母のことを語りたい。そして、母方の祖父のことも。
母・澤藤光子(旧姓赤羽、戸籍名ミツ子)は、1915年7月2日の生まれで1998年1月11日に没している。父にやや遅れて生まれ、父と結婚して4人の子を育て、父を看取って間もなく生を終えたことになる。
生前歌作をしていたはずだが、散逸してのことか遺された歌は意外に少ない。その中に次の歌があることを知った。いつの作品か、誰のことを詠ったのかは定かでない。
うなじ垂れ失意に深く沈む子にことばもなくて熱き茶いるる
この「失意に沈む子」は、私かも知れない。私は、1962年3月に東大を受験して不合格となった。合格の自信はあり、自分に挫折あろうことなど考えてもいなかっただけに、確かに失意は深かった。このとき地球が自分を中心に回っているのではないことを知った。
不合格の報を受けたときの記憶は定かでないが、母は私の「失意」を見ていたはず。この歌はいかにも母らしいと思う。今にして、母が4人の子に、ことあるごとに「ことばもなくて熱き茶いるる」を繰り返していただろうと思い当たる。
またもしかしたら、この「失意に沈む子」は、次弟の明かも知れない。明は、1966年3月に京大を受験して不合格となっている。私よりも繊細な弟の方が、この歌の情景にふさわしいかも知れない。
幸い、私も明も不合格の翌年には合格している。また、末弟の盛光は69年に京大に合格しているが、3人の子の合格を喜ぶ歌は残されていない。「深く失意に沈む子」に寄り添う歌が母にはふさわしいように思える。
ところで、「大正生れの歌」には、女性版がある。
☆大正生れのわたし達 すべて戦争(いくさ)の青春で
恋も自由もないままに 銃後の守りまかされた
終戦迎えたその時は たのみの伴侶は帰らずに
淋しかったわ ねぇあなた
☆大正生れのわたし達 再建日本の女房役
姑に仕え子育てと ただがむしゃらに三十年
泣きも笑いも出つくして やっと振り向きゃ白い髪
それでもやらなきゃ ねぇあなた
☆大正生れのわたし達 可愛い孫のお守り役
いまでは嫁も強くなり それでも引かれぬことがある
休んじゃおれない ねぇあなた
しっかりやりましょ ねぇあなた
必ずしも母のイメージとは重ならないが、夫を戦争にとられ、戦後の混乱と貧しさの中での子育てに苦労したのは、この歌のとおりだ。私は幼いころ、母から「戦争は嫌だ」「あんな思いは二度としたくない」と繰り返し聞かされた。
そして、父が軍隊生活を懐かしんで話すのによい顔をしなかった。子どもたちが、どうしてみんな戦争に反対しなかったの? と聞くと、「反対できるような世の中ではなかった」「しょうがなかったんだよ」と悲しそうに呟いていた。
父が遺した歌に、
妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける
農家より米もらうとて箪笥開け妻は晴着の幾枚を出す
などがある。母は、戦時中も戦後も苦労させられたわけだ。
母光子の父、つまり私の母方の祖父は赤羽幹と言った。盛岡に根付いた人だったが、晩年、光子を訪ねて大阪府下の富田林に来て1週間ほどを過ごしたことがある。そのとき私は中学生だったが、初めて明治生まれの人と忌憚なく話し込むという経験をした。祖父と孫との会話である。一人前に扱われたこともあり、私にとっても楽しいものだった。祖父も楽しそうによく話を聞いてくれた。
きっかけは忘れたが、天皇が話題となって雰囲気が変わった。私は、遠慮することなく、しゃべった。子どもの頃、私は口が達者だった。
私は天皇(裕仁)のことを「あの猫背のオッサン」と呼んだ。「あのオッサンが日本のみんなを騙して戦争を始めた」「騙された日本人が、戦争に巻き込まれてたくさん死んだ」「原爆落とされて死んだ可哀想な人もいっぱいいる」「それなのに、あのオッサンは自分だけ生き延びたずるいヤツだ」「どうしてまた今、エラそうな顔をしていられるのか」としゃべった。
すると、思いがけないことが起こった。黙って聞いていた祖父の目に涙が溜まっているのだ。そして、圧し殺すような声で「今の日本人が生きておられるのは天皇陛下のお蔭だ」「天皇陛下がいなければ、敗戦のとき日本人は皆殺しだった」と言った。私には、印象的な衝撃的な体験だった。それ以上言い募ることはせず黙った。
母はその顛末を知っていたはずだが、何も言わなかった。その後1年を経ずして、祖父の訃報が母に届いた。私は、あのときの居心地の悪さを抱えたまま今日に至っている。
(2021年12月31日)
2021年が暮れていく。その歳の境目で考える。いったい、世界は進歩しているのだろうか。実は、恐ろしく退歩してしまったのではないだろうか。ロシアはウクライナの国境に10万の軍を集結して一触即発と伝えられている。クーデターを起こしたミャンマー国軍の蛮行は止まるところを知らない。そして香港である。本日も、香港行政当局が民主的新聞社を襲撃し、幹部7人を逮捕したというニュースが流れている。逮捕状は、山梨大学の教員にも出されているという。
【香港・時事】によれば、香港警察の国家安全維持部門は29日、200人以上を動員して「立場新聞」のオフィスを捜索し、当局は関連資産6100万香港ドル(約9億円)を凍結した。同紙は同日、廃刊を発表した。
これ以上はない典型的な、権力による言論弾圧というほかはない。容疑は「扇動的な出版物発行の共謀」と報じられている。警察は、逮捕理由を「2020年7月から今年11月、香港政府や司法への憎しみを引き起こす文章を発表した」と説明したという。
同紙が、政府の転覆を企てたというわけではなく、虚偽の報道をしたというわけでもない。「香港政府や司法への批判」は、中国共産党にとっては「憎しみを引き起こす文章の発表」として許容し得ないのだ。これが「中国的民主」である。さすが習近平、焚書坑儒の故事に倣ったのだ。我が身を秦の始皇帝になぞらえてのこと。
あらためて思う。「人はパンのみにて生くるものに非ず」という箴言を。
中国共産党は「小康社会を実現したその成果を見よ」「人民は自由も民主も望んでいない。その望むところはパンであり、経済的な利益への均霑である。中国共産党は十分にこれに応えた」と胸を張っているのだ。
しかし、これは14億の民を家畜かペットと勘違いしているのではないか。人にはそれぞれの尊厳があり、精神生活が不可欠である。人が人である以上、自分で選択した情報を得ることも、その情報に基づいて意見を述べることも、そして支配されているだけでなく能動的に政治参加することも基本的な欲求なのだ。おそらくは習政権、かならずこのことを思い知ることになるだろう。それがいつであるか、具体的に指摘できないことが歯がゆい。
国内はどうだろうか。安倍壊憲政治の後遺症は余りに大きい。モリ・カケ・サクラ・クロカワイ、そして学術会議である。何一つ本当何が起こったのか明らかになっていない。尻尾は切って、トカゲのアタマは何の責任もとろうとしない。このようなときに、「野党は批判ばかり」という安倍応援団のバッシング。国民は民主主義社会の主権者としての未成熟を露呈した。新しい年も、おそらくは変わり映えしない状況が続くことになるのだろう。元気の出ない、さして目出度くもない正月になりそうだ。
このブログは、今年も毎日欠かさず365日書き続けた。出来のよいのばかりではないが、とにもかくにも2013年4月1日以来の連続更新は本日で3197回となった。明日から、足かけ10年目に入ることになる。引き続きのご愛読をどうぞよろしく。
そしてみなさま、よいお歳をお迎えください。加えて、人権にも民主主義にも、平和にも、よい歳でありますように。
(2021年12月27日)
幕藩体制に抵抗した農民を「立百姓」と言い、抵抗運動からの脱落者や裏切り者を「寝百姓」と言った。幕藩体制下の一揆は、文字どおり命を賭けた「立百姓」の団結と果敢な行動によって権力からの譲歩を勝ち取ったが、大きな犠牲を伴うのが常であった。「寝百姓」は、自ら危険に曝されることはなく、闘わずして「立百姓」が命を賭けて獲得した成果には均霑した。しかも、恥ずかしげもなく「立百姓」の足を引っ張り後方を撹乱することで、身の安全をはかった事例も多々ある。これは、昔話の世界だけのことではない。今なお、最前線で闘う多くの人々の成果だけを享受して、後方からこれを撃つ人々がいる。…恥ずかしげもなく。
昨日(12月26日)の毎日新聞に、「連合初の会長 芳野友子さん」の記事が掲載されている。1面トップと3面の大型企画記事。「提灯記事の如くで実は辛口」というべきか、「辛口の如くで、所詮は提灯記事」なのか。読む人によって、見解は分かれよう。辛口と思われる部分の一部を抜粋してみる。
連合会長に就任すると、(全労連議長の)小畑さんからコチョウランを贈られた。「ジェンダー平等実現のために頑張りましょう」とのメッセージが添えられていた。
「二つの全国組織のトップに女性が就いたのだから、ジェンダー平等を前に進めるチャンス」との思いを込めていたと小畑さんは明かす。でも、返事はないという。「それぞれが前に進もうということですかね」
女性同士の共闘が動き出さないばかりか「女性トップが変えていく」との期待は、暗転した。
きっかけは、衆院選投開票から一夜明けた11月1日にあった記者会見での発言だった。立憲民主党が議席を減らした結果について問われた芳野さんは「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」と述べた。野党共闘を仲介する「市民連合」まで標的にした、と受け止められた。野党共闘の女性候補を応援した女性たちの間では「ジェンダー平等に取り組む人が、同じ志の仲間を排除するとも取れる発言はいかがなものか」といった失望感が広がった。
選挙期間中に予兆はあった。「立憲民主党と共産党がのぼりを立てて街頭で演説会をするのは受け入れられない」「連合票は(野党共闘で)行き場をなくした」とも述べていた。…報道機関のインタビューでは「民主主義の我々と共産の考え方は真逆」などと述べている。政治スタンスに関連する発言からは「反共」というキーワードが浮かび上がっている。
女性同士の共闘が動き出さないばかりか「女性トップが変えていく」との期待は、暗転した。
きっかけは、衆院選投開票から一夜明けた11月1日にあった記者会見での発言だった。立憲民主党が議席を減らした結果について問われた芳野さんは「連合は、共産党や市民連合とは相いれない」と述べた。野党共闘を仲介する「市民連合」まで標的にした、と受け止められた。野党共闘の女性候補を応援した女性たちの間では「ジェンダー平等に取り組む人が、同じ志の仲間を排除するとも取れる発言はいかがなものか」といった失望感が広がった。
選挙期間中に予兆はあった。「立憲民主党と共産党がのぼりを立てて街頭で演説会をするのは受け入れられない」「連合票は(野党共闘で)行き場をなくした」とも述べていた。連合が公表した芳野さんの遊説は選挙期間中12選挙区。会長に就任したばかりという事情があったにせよ、連日何カ所も掛け持ちした歴代会長と比べると、少ない。
報道機関のインタビューでは「民主主義の我々と共産の考え方は真逆」などと述べている。政治スタンスに関連する発言からは「反共」というキーワードが浮かび上がっている。
共産党に対する拒否感について、芳野さんに尋ねたことがある。その答えとして、出身労組の影響があると明かした。
概要は次の通りだ。就職したJUKIには共産党の影響を受けた組合があった。これに反発した組合員が同盟系の労組を作った。自分の入社時には、同盟系が多数派になっていたが、組合役員になると共産党系の組合と闘った過去を学んだり、相手から議論を仕掛けられたらどう切り返すかというシミュレーションをしたりした――。
このような経験から、共産系の組合が社内で宣伝活動などをしていると「会社に混乱を持ち込むのか」と嫌な気持ちになったという。労組専従の道を歩むとの決断が人生の転機になったのと同時に「共産アレルギー」が生まれ、徐々に膨らんでいったのかもしれない。
変化が見えないこともあってか、連合内には会長選びを巡って「誰も拾わない(会長という)火中の栗を女性に拾わせた」「女性を持ってくることで批判に蓋(ふた)をした」といった言辞がくすぶっている。
最終3行は、私(澤藤)の文章ではない。取材の東海林智記者の記事である。念のために。
(2021年12月22日)
昨日、臨時国会が終わった。なんとも、見せ場のない盛り上がり欠けた国会であった。野党から国会開けという要求は徹底して無視し、与党の都合だけで国会を開いて、補正予算が成立したらもう用はないという身勝手な姿勢。積み残したものを山積のまま、早々の幕引きが得策というわけだ。
国会で議論すべき緊急のテーマは無数にある。とりわけコロナである。コロナの蔓延を防止し、医療体制を充実させながら、国民生活の安全と生業の継続のためには、与野党の知恵を寄せ集めなければならない。抜本的なパンデミック対策も、保健所削減政策の根源にメスを入れ全面的な再編拡充も、そのための原資を調達するための税制の改革も課題であり、沖縄での米軍基地内クラスターにどう対処すべきかについても国民的議論が必要であろうに…。
但しこの国会、注目すべきは究極の不要不急というべき改憲論議についてだけは過剰に踏み込んだことである。多少なりとも憲法審査会が審議に入り、ハト派と思われていた岸田首相のタカ派ぶりの言動が目立った。岸田の改憲への積極姿勢や敵基地攻撃能力論への言及には少し驚ろかされた。これは手品か妖かしか、化かされた思いが強い。いや、これまでが化かされていたのだろうか。
まごうことなきタカであり、その爪を隠そうとしなかった安倍晋三の言動は分かり易かった。右翼もリベラルも、「安倍のいるうちが千載一遇の改憲のチャンス。安倍がその地位を失えば改憲の望みはなくなる」と、この点では見解一致であった。その安倍と安倍後継の失脚で、「改憲のチャンスは潰えた」はずだったのだが、どうやらこれまでは爪を隠していた新種のタカが現れた様子である。
岸田が、これまではハトを装ったタカだったのか、今はタカを装わざるを得ないハトなのか、実はよく分からない。が、その本性如何に関わらず、いまの岸田の言動を批判すべきことが重要なのだ。
その臨時国会閉幕の日に、自民党は党本部で、名称を新たにした「憲法改正実現本部」(本部長・古屋圭司)始動の総会を開いた。この席に岸田が出席している。岸田だけでなく、安倍も麻生も茂木も高市も、有象も無象も出席したという。
そこで岸田がなんと語ったか。「国会での議論と国民の理解を車の両輪と考えてしっかりと押し上げてもらいたい」「『憲法改正推進本部』から『憲法改正実現本部』への改組の狙いは、わが党の覚悟を示したもの」「憲法9条への自衛隊明記など党の4項目のたたき台(条文イメージ)は、いずれも国民にとって早急に実現しなければならない内容だ。総力を結集して結果を出したい」
会合では今後の活動方針について協議し、実現本部の中に「憲法改正・国民運動委員会」を設置し、全国遊説や対話集会などの活動を精力的に進めていくことを確認したという。もっと急がねばならないことがたくさんあるだろうに、不要不急の改憲のための全国遊説や対話集会とは恐れ入った次第。
なお、今国会では、維新がはしゃいで臆面もなく右翼的本質を露呈した。また、国民民主が与党に擦り寄ったことも印象に残った。その結果、改憲をめぐる政党レベルでの改憲派対改憲阻止派の対抗関係は、下記のとおりとなった。
《自・公・維・国》対《立・共・社・令》
改憲派に連合が与し、護憲派に市民連合が味方している。こうして、それぞれの陣営が、主権者である国民の支持を集めようと運動することになる。はっきり言えば、改憲派は国民を騙しにかかるのだ。騙されてはならないし、騙しを看過してもならないと思う。
(2021年12月21日)
《非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団》からの「たより 326」が届いた。発行日付が2021.12.17となっている。
総24ページの「たより」を開いて驚いた。メインの記事が11月23日開催の「横須賀基地問題シンポジウム」、その講師が頼和太郎さん(リムピース編集長)だったからである。
頼さんは、12月10日に亡くなられている。その死を報じる朝日の記事を引用させていただく。
頼和太郎さん(らい・わたろう=基地監視団体「リムピース」編集長)10日死去、73歳。米軍の艦船や航空機の動向を調べて発信するリムピースで、中心的な役割を果たしていた。横須賀海上保安部によると、神奈川県三浦市の三崎港で9日午前10時ごろ、頼さんのシーカヤックが転覆。別のカヤックに乗っていた妻(59)が海に飛び込んで抱え、近くの作業船に救助されたが、搬送先で死去した。
「たより」には、元気な頼さんの写真と講演録(要約記事)が掲載されている。そのリードを紹介したい。「たより」の雰囲気をよく醸し出している一文。
11月23日住民投票の会、基地問題シンポジウム。こういう集まりに出るのも2年ぶり。みんな元気そうで何より(ま、元気な人しか来ないもんね)。空白の期間を感じないほど、テキパキと準備して雑談して、すぐに解けこめる空間になるよね、この会は。
今日は司会なんだけどさ、他所もそう?、打ち合わせなんてほとんどない。大まかに時間決めて誰が話すか確認して、1分で打ち合わせが終わる。講演者の時間だけはっきりすれば、後はなんとかなる。そこが力量なんだろうけど。
講演がなんたって頼さんだからね(リムピース編集長頼和太郎さん)。攻めますよ、きっと。イヤな予感もちょっとする。
始まってすぐに、緊急事態発生。まさかの椅子が足りない。50人くらいかと思ってたのに。追加の椅子を出してもまだ足りない。そしてついに70部用意した資料もなくなってしまった。慌てて追加の印刷に行く。
●
頼さんの話はね、詳細なのよ、詳細すぎるのよ。「(難しすぎて)ちょっと何言ってるかわからないんですけど‥・」って思うんだけど、あの記憶力はすごいね。艦船や飛行機の名前、世界中の軍事問題をいつどこで何があったとすらすら出る基地問題第一人者だね。私が認定してあげるわ。(中略)
●
帰るときにね、頼さんからカンパを頂きました。講演お礼の封筒がそのまま戻ってきました。こういうとこも頼さんらしい、ありがとう。
その頼さんが、講演から3週間を経ずして亡くなられた。合掌するのみ。
もうすこし紹介したい。この「たより」発行団体が最近刊行した「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」というパンフの宣伝。こんな上手な宣伝文句は滅多にお目にかかれない。私も、申し込むことにする。
「横須賀鎮守府3人の反戦水兵」のパンフ、読みました?お薦めですよ、難しくないです。「人生、悪いことばかりじやない」って感じです。
反基地運動(平和活動も)やっている人って、気難しくてひねくれ者で、いつも不機嫌なイメージありますよね。実際多いでしょ。たぶん読者全員が「自分以外はちょっと変わってる人達」と思っているでしょう。体制に反対するなんて、清い心だけでやれないし。
1932年、治安維持法で刑務所に服役した、日本海軍の若き水平遠の活動が書かれているんだけど、こういう本はどうしても資料物が多いし、軍事戦略のことは難しくなりがち。でもこのパンフは時代背景の解説、当事者の日記、家族や身近な人達のインタビューと構成が多方面なので、読み物として人の生き様を感じられる「人物記」です。
たとえ戦時の兵士で、辛いこと悔しいこと悲しいことが多い暮らしの中にも、人は楽しさを見つけ、友情愛情を育み、未来への希望を持っている。元気になれる、久しぶりに良い本を読んだな?と思います。
ちなみに、私のお気に入りは「兵士の友」第1号に書かれた、「ぢや兄弟!俺は紙上で兄弟に握手をする!」ってとこ。な?んか小憎いのよね。
横須賀で運動している人はもちろん、全国の「ちょっと変わってる人達」にも読んで欲しい一冊です。
ちょっとだけ清い心が取り戻せますよ。
●横須賀鎮守府、3人の反戦水兵の「生き様」が問いかけるものは…。
A4・100ページ・200円
注文先は、下記(だと思う)。
非核市民宣言運動・ヨコスカ/ヨコスカ平和船団
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