うなじ垂れ失意に深く沈む子にことばもなくて熱き茶いるる
(2022年1月2日)
本日は、母のことを語りたい。そして、母方の祖父のことも。
母・澤藤光子(旧姓赤羽、戸籍名ミツ子)は、1915年7月2日の生まれで1998年1月11日に没している。父にやや遅れて生まれ、父と結婚して4人の子を育て、父を看取って間もなく生を終えたことになる。
生前歌作をしていたはずだが、散逸してのことか遺された歌は意外に少ない。その中に次の歌があることを知った。いつの作品か、誰のことを詠ったのかは定かでない。
うなじ垂れ失意に深く沈む子にことばもなくて熱き茶いるる
この「失意に沈む子」は、私かも知れない。私は、1962年3月に東大を受験して不合格となった。合格の自信はあり、自分に挫折あろうことなど考えてもいなかっただけに、確かに失意は深かった。このとき地球が自分を中心に回っているのではないことを知った。
不合格の報を受けたときの記憶は定かでないが、母は私の「失意」を見ていたはず。この歌はいかにも母らしいと思う。今にして、母が4人の子に、ことあるごとに「ことばもなくて熱き茶いるる」を繰り返していただろうと思い当たる。
またもしかしたら、この「失意に沈む子」は、次弟の明かも知れない。明は、1966年3月に京大を受験して不合格となっている。私よりも繊細な弟の方が、この歌の情景にふさわしいかも知れない。
幸い、私も明も不合格の翌年には合格している。また、末弟の盛光は69年に京大に合格しているが、3人の子の合格を喜ぶ歌は残されていない。「深く失意に沈む子」に寄り添う歌が母にはふさわしいように思える。
ところで、「大正生れの歌」には、女性版がある。
☆大正生れのわたし達 すべて戦争(いくさ)の青春で
恋も自由もないままに 銃後の守りまかされた
終戦迎えたその時は たのみの伴侶は帰らずに
淋しかったわ ねぇあなた☆大正生れのわたし達 再建日本の女房役
姑に仕え子育てと ただがむしゃらに三十年
泣きも笑いも出つくして やっと振り向きゃ白い髪
それでもやらなきゃ ねぇあなた☆大正生れのわたし達 可愛い孫のお守り役
いまでは嫁も強くなり それでも引かれぬことがある
休んじゃおれない ねぇあなた
しっかりやりましょ ねぇあなた
必ずしも母のイメージとは重ならないが、夫を戦争にとられ、戦後の混乱と貧しさの中での子育てに苦労したのは、この歌のとおりだ。私は幼いころ、母から「戦争は嫌だ」「あんな思いは二度としたくない」と繰り返し聞かされた。
そして、父が軍隊生活を懐かしんで話すのによい顔をしなかった。子どもたちが、どうしてみんな戦争に反対しなかったの? と聞くと、「反対できるような世の中ではなかった」「しょうがなかったんだよ」と悲しそうに呟いていた。
父が遺した歌に、
妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける
農家より米もらうとて箪笥開け妻は晴着の幾枚を出す
などがある。母は、戦時中も戦後も苦労させられたわけだ。
母光子の父、つまり私の母方の祖父は赤羽幹と言った。盛岡に根付いた人だったが、晩年、光子を訪ねて大阪府下の富田林に来て1週間ほどを過ごしたことがある。そのとき私は中学生だったが、初めて明治生まれの人と忌憚なく話し込むという経験をした。祖父と孫との会話である。一人前に扱われたこともあり、私にとっても楽しいものだった。祖父も楽しそうによく話を聞いてくれた。
きっかけは忘れたが、天皇が話題となって雰囲気が変わった。私は、遠慮することなく、しゃべった。子どもの頃、私は口が達者だった。
私は天皇(裕仁)のことを「あの猫背のオッサン」と呼んだ。「あのオッサンが日本のみんなを騙して戦争を始めた」「騙された日本人が、戦争に巻き込まれてたくさん死んだ」「原爆落とされて死んだ可哀想な人もいっぱいいる」「それなのに、あのオッサンは自分だけ生き延びたずるいヤツだ」「どうしてまた今、エラそうな顔をしていられるのか」としゃべった。
すると、思いがけないことが起こった。黙って聞いていた祖父の目に涙が溜まっているのだ。そして、圧し殺すような声で「今の日本人が生きておられるのは天皇陛下のお蔭だ」「天皇陛下がいなければ、敗戦のとき日本人は皆殺しだった」と言った。私には、印象的な衝撃的な体験だった。それ以上言い募ることはせず黙った。
母はその顛末を知っていたはずだが、何も言わなかった。その後1年を経ずして、祖父の訃報が母に届いた。私は、あのときの居心地の悪さを抱えたまま今日に至っている。